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BLOG校長ブログ

2024.05.28

戦艦「大和」のカラー映像 ①

太平洋戦争(第二次世界大戦)末期の1945(昭和20)年に旧日本海軍の戦艦「大和」が米軍機から攻撃を受ける場面のカラー映像が見つかったというニュースが先日、新聞各紙で報じられました。「大和」のカラー映像が確認されたのは初めてということです。このニュースを読んですぐに、広島県呉市の大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)で見た1枚の写真を思い浮かべました

太平洋戦争の資料の収集保存にあたっている大分県の市民団体「豊の国宇佐市塾」がアメリカの国立公文書館で2013~14年に映像17点を入手、独自に分析したとのこと。米軍機から攻撃を受けて撃沈される「大和」の写真そのもの何点かあり、大和ミュージアムでももちろん展示紹介されています。今回はカラー映像だということが注目されたわけです。

おさらいです。「大和」は1941年に建造された当時世界最大級の戦艦でしたが45年4月7日、特攻作戦で沖縄へ向かう途中、米軍の攻撃を受け、撃沈されました。広島県呉市の呉海軍工廠(こうしょう)で建造されたため、同市の「呉海事歴史科学館」には「大和」関連の資料展示が多く、「大和ミュージアム」と通称されています。というか、こちらの呼び方の方がよく知られいるるでしょう。

「大和ミュージアム」の「常設展示図録 新装改訂版」(2009年初版、2023年第10刷)から引用します。

「大和の生涯」
昭和16(1941)年12月16日に竣工後、「大和」は連合艦隊旗艦として海軍作戦の指揮全般にあたりましたが、すでに主役の座は戦艦から航空機へと移っており、「大和」は支援任務が多くなります。戦争終局時には沖縄特攻作戦に出撃、最期を迎えました」

「沖縄特攻」の説明です

「昭和20(1945)年4月6日、沖縄に向け徳山を出航した「大和」以下の第二艦隊は翌7日、九州南西沖の海上においてアメリカ海軍空母機多数の攻撃を受けました。「大和」は応戦の末、多数の魚雷、爆弾の命中により、14時23分沈没しました」

航空機による「特攻」、敵の戦艦などに航空機で体当たりする攻撃が知られていますが、同様に「船(戦艦)」で敵の船・戦艦に体当たりする作戦がたてられたということです。航空機の特攻で操縦士が生存するのはほぼ不可能なのと同じように、戦艦での特攻についても乗組員の多くが遺書を残して出航しました。

さて、私が思い出したミュージアムの1枚の写真です。「公式ガイドブック」にも掲載されています。

モノクロ写真にこんな説明が書かれていました。

「呉における最後の「大和」の写真(写真は3月28日にアメリカ軍の偵察機が撮影したもの)/アメリカ国立公文書館 所蔵」(ミュージアムでの展示には「翌3月29日に徳山に向け呉を出航」との文言も入っています)

空から撮った写真で呉の街が写り、その沖合に細長い船のような形が見えています。それが「大和」だと写真に赤の破線の丸印が書き加えられています。ここで注意したいのは3月28日という日付と「アメリカ国立公文書館所蔵」というところです。

この写真のすぐ横に「大和」が沖縄に向かった航路や沈没した場所の地図があるのですが、呉を出航したのが3月28日と書かれています。私は何度も見比べてしまいました。そう、呉を出航する時にすでにアメリカ軍の偵察機が「大和」の姿を捉えていたのです。

これより前の3月19日、呉はすでに米軍機による空襲を受けています。アメリカ軍の偵察機もあたり前のように飛んでいたのでしょう。それによって写真を撮られていたわけです。もちろんその写真だけで大和であることがすぐに判明したかどうかはわかりません。ただ、この写真を目にすると、大和をはじめとする艦隊の動きは米軍には筒抜けだったのではないか、パネルの前で考え込みました。

そして今回のカラー映像発見のニュース、少し調べてみました。

「大和」のカラー映像みつかる
毎日新聞電子版(毎日Jp)の記事はこちらから

読売新聞オンラインの記事はこちらから