04-2934-5292

MENU

BLOG校長ブログ

2024.05.29

戦艦「大和」のカラー映像 ②

旧海軍の戦艦「大和」を中心とする艦隊は1945年(昭和20年)、広島県・呉港を出航後いったん山口県・徳山港に入り4月6日、徳山港を出航、沖縄に向かったのですが翌7日には九州南西沖(宮崎県の沖合あたり)で米軍に「発見」され、航空機からの攻撃や魚雷攻撃を受け沈没します。これに先立つ3月28日の呉出航時には米軍偵察機の航空写真で「大和」が捉えられ、さらには徳山港を出たすぐ翌日に攻撃されていることから、大和の動きは米軍によって日々把握されていたと考えざるをえないのです。

『戦艦大和』(平間洋一、講談社選書メチエ、2003年)

少し古い著作ですが他の「大和」関連本でもよく引用されているようです。米軍の資料を丹念に集めて「大和をめぐる米海軍の情報活動」という1章を設け、筆者自身がこの章を「本書の大きな特長」と位置付けています。

「米海軍情報部は無線傍受を駆使して大和の活動を追跡していた。(略)米海軍の大和の知識は、捕虜訊問、戦闘報告、航空写真、無線傍受情報などにより、次第に実物により近いものとなっていった」

ここに航空写真が出てきます。1944年2月4日に南太平洋で米海兵隊の航空機が撮影した写真にはそれまで米軍が把握していた規模を大きく上回る戦艦が写っていたという一例が紹介されています。その写真から戦艦の大きさなどを分析し、そののちに別の資料も加わって米軍が「大和」の実像をつかんでいくようすがつづられています。

ここで留意したいのは、この空撮写真の撮影日時が「大和」が沈められる1年以上も前のことで、さらに米軍が航空機撮影の写真を分析する組織をすでに持っていたという点です。

「米海軍は一九四五年四月四日までには、この艦隊が航空機の護衛を受けて沖縄に向かって出撃することを薄々予想していた。翌五日には特別攻撃隊と呼ばれたこの艦隊が、六日朝には徳山で二万トンの給油を受け、八日未明には沖縄の東方海面に到着することまでわかった」
「こうした正確な情報をもとに、米軍機は四月六日夕方には九州近海で日本艦隊を発見」

この部分の記述については細かな注釈がつけられており、米国立公文書館や米海軍歴史センターなどの記録によるようです。ここでもアメリカの国立公文書館です。今回「大和」沈没時のカラー映像がみつかったのも同じ国立公文書館でした。

このように米軍は「情報」を重視していたわけです。その点、旧日本軍はという話になるのですが、平間さんは「おわりに」で厳しく指摘しています。

「外交暗号や海軍暗号が解読されていたことは知っていたが、クラーク教授の論文を読んで、個艦の通信文までことごとく解読されていたことに驚くとともに、これでは勝てるわけがないと痛感した」
「日本海軍や陸軍では、攻撃を司る職域は重視され、優秀な人材が投入されたが、通信や情報、補給などは軽視され、資源も人材も投入されなかった」

そして軍幹部を養成する海軍大学校での教育を紹介し

「日本軍には、相手の通信を傍受するなどという行為は卑劣であり、神のご加護を受けている正義の軍隊が使うべき手段ではないとして、暗号解読や通信傍受などが軽視された。日本海軍は敵を知らず己を知らずに戦い、暗号解読を含む情報戦で完敗し、八月一五日を迎えたのであった」

同書によります。

「この海上特攻作戦における日本側の損害は、戦艦大和以下、軽巡矢矧・駆逐艦朝霜、浜風、霞、磯風が沈没し、二隻が大中破の被害を受け、戦死者は大和が三〇六三名(司令部を含む)、第二水雷戦隊九八一名、合計四〇四四名に達した。これらに対して米軍側の損害は爆撃機四、雷撃機三、戦闘機三機と、パイロット四名と搭乗員八名を失っただけであった」