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BLOG校長ブログ

2024.05.30

戦艦「大和」のカラー映像 ③

旧日本海軍の戦艦「大和」の沈没はどう伝えられたのか。戦いの作戦を立てるための「情報」という切り口とは別に、広く国民に知らせるという「情報」という点でも日本とアメリカは対照的でした。『戦艦大和』(平間洋一、講談社選書メチエ、2003年)に、「大和」が沈んだ翌日4月8日の大本営海軍報道部の発表文が掲載されています。大本営は陸海軍を統括する軍の最高機関でここの名前で国民に向けて戦況を発表していました。

この発表では「我方の収めたる戦果」として「撃沈、特設航空母艦二隻、戦艦一隻、艦種不詳六隻(以下略)」などとあります。「戦艦「大和」のカラー映像 ②」(5月28日付)で引用したように、米軍の損害は航空機数機のみでした。

そして「我方の損害」は「沈没 戦艦一隻、巡洋艦一隻、駆逐艦三隻。」としています。「特別攻撃隊にして、右戦果以外、その戦果の確認せられざるもの尠(すく)なからず」ともあります。ここにある以上の戦果を得たといわんばかりです。引用していて、あぜんとします。

そして新聞もこの発表をもとに大々的に伝えます。報道の根拠が大本営発表しかないのでやむを得ないわけですが、やはり新聞社で働いていた身としては忸怩たる思いが残ります。4月9日付けの「朝日新聞」の紙面が載っています。大きな見出しで「空母等十五隻撃沈」とあり、その横に「撃破十九隻」、すこし小さく「わが方も」とあり「五艦沈没」となっています。

「敵に痛烈極まる猛攻撃を継続、敵をして応接に暇なきまでに壮絶な突撃を敢行した。その戦果は発表の如く、撃沈一五隻、撃破一九隻に上がり、さらに確認せざる戦果はきわめて多数で(略)この大攻撃により現地軍は敵艦船の轟撃沈を視認し、歓喜雀躍し士気大いに挙がり、猛反撃に転じており(略)」
「戦艦をはじめとするわが水上部隊が、初めて特攻隊として敵戦艦群に斬り込みをかけ、戦艦以下五隻以上が敵と刺し違えて散ったのである。艦艇の数こそ少なけれ、我にとっては惜しむべき尊い損害である」

一方で1945年4月8日付けの米紙「ニューヨークタイムズ」の紙面も掲載されています。「大和」が沈んだ地域を含めた九州から沖縄、台湾にかけての地図入りで「VICTORY IN PACIFIC」の見出し。

「日本海軍最大の戦艦大和(四万五〇〇〇トン)と最新鋭の阿賀型軽巡洋艦、駆逐艦(複数)を、わが海軍航空部隊が撃沈したが、我が方の損害は七機であった。しかし、搭乗員の多くは救難部隊により救出されるであろう」

負けた側と勝った側との発表が異なるということは、それはあるでしょうが、あまりの違いです。「大本営発表」が負けたことや損害はほとんど伝えないことがしばしばだったため、戦後、「大本営発表」という言葉そのものが都合の悪いことは言わない、あるいは意図的に異なった内容で発表するといった行為の代名詞のようにも使われました。とはいえ、やはり愕然とします。

『戦艦大和』(平間洋一)に「秘密保持と呉市民」という一節があります。

「四六センチ砲でアウト・レンジし、少数精鋭の艦隊で対米優位を確保しようと計画された大和の秘密が漏洩し、米国が大和に対抗して四六センチ砲搭載の戦艦を造ると大和の価値は半減する。このため、大和の秘密保持は対米優位にとって不可欠であり、少しでも長く秘密を保持できれば、それだけ優位を保持できる期間が長くなることから、神経質とも思われるほど、あらゆる方策が講じられた」

まずは設計、建造から秘密保持となるわけですが、「戦艦という言葉なども極力避け、関係者の間では「A-一四〇号艦」「第一号艦」などと呼称していた」。物理的な秘匿としてドックの上に上屋を設けてトタン屋根で囲むなどしたようです。ようするに艦全体を覆ってしまったわけですね。

とはいえ、海に出ないわけにはいきません。1940年8月に進水式がありました。『大和ミュージアム公式ガイドブック』によると

「極秘に建造された「大和」の進水式では、軍楽隊の演奏も参加者からの拍手や万歳もなく、建造に関わった限られた人のみが立ち会うひそやかなものでした。この時、呉市内では例外的に早朝から偽装の海軍陸戦隊による市街戦演習がおこなわれて、市民の耳目をそちらにひきつけていました」

ちなみに「大和」と命名されたのは進水式に先立つ1940年7月25日、39年3月に海軍が艦名として「大和」と「信濃」の候補をあげ、昭和天皇が「大和」を選んだとのこと。

アウト・レンジとは

引用の中で「四六センチ砲でアウト・レンジし」とのくだりがありました。ここでいう四六センチ砲は戦艦に搭載する砲弾を発射する主砲のサイズを表しています。この違いによって砲弾が届く距離が変わってきます。四六センチ砲で砲弾が40キロくらい先まで届くそうです。

戦艦と戦艦との戦いで砲弾の撃ちあいになったと想定します。相手の砲弾の届かないところから砲弾を飛ばせれば、自分たちは安全です。当時、米軍の戦艦が装備していたのは四〇センチ砲だったので、その砲弾が届かないところに「大和」がいて、逆に「大和」から米戦艦に砲弾が届けば有利だという考え方がアウト・レンジです。敵の射程外から攻撃するのをアウト・レンジ戦法、などと呼びます。

とはいえ、です。40キロ先まで届くといっても、40キロ先は地平線の向こうです。目標・標的は目視できませんよね。命中したかどうかはわからない、『戦艦大和』では「戦艦の艦載砲による射撃は水平線のかなたの移動する目標に対する間接射撃で、直接砲口を目標に向け狙って引き金を引くということはない」とあり、実際の手順がいろいろと説明されていますが、そもそもこの戦艦同士の砲戦という想定がどうだったのか、ということです。大和を沈めたのは米国の戦艦ではなく、航空機による爆撃であり、潜水艦からの魚雷攻撃でした。