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BLOG校長ブログ

2024.06.11

「英連邦軍」の日本占領 ①

広島県呉市に「大和ミュージアム」(呉市海事歴史科学館)があるのは旧日本海軍の戦艦「大和」が呉で建造されたからです。呉は戦前から旧海軍の基地として栄えた街で、市内や周辺に旧海軍の施設跡などが残っています。大和ミュージアムを訪れた機会にいくつかの施設を見学することができたのですが、戦艦「大和」についての新知識に劣らないくらい勉強になったことが他にもありました。

呉市に旧海軍の拠点である「鎮守府」が1889年(明治22)に置かれ、軍艦造船のための「呉海軍工廠」も設立されて街は発展しました。「大和」はこの海軍工廠で建造されました。鎮守府は太平洋戦争の敗戦によってなくなるのですが、その後、海上自衛隊の「呉地方総監部」として引き継がれ、構内には旧鎮守府の庁舎が残っています。現在も一部は使用されており、日時を限って一般公開もされています。

自衛隊の方が構内を案内してくれるのですが、その中に「日本海軍呉鎮守府電話総合交換所」という斜面を利用した半地下室のような施設がありました。文字通り電話交換所だという記録はあるものの、資料があまり残っていないので詳細は不明とのこと。その説明を聞いて掲示板を見て驚きました。
「戦後は、昭和21年2月以降中国四国地方は英連邦占領軍(British Common wealth Occupation Force(BCOF)が進駐し、呉通信工事局第一電話交換所とBCOF通信隊司令部として使用されていました」

自衛隊の方の案内でもふれられたようにも思えるのですが、とにかく「えっなに、英連邦軍?」とびっくりしました。


この説明版で「BCOF」を知りました。説明文後半にでてきます

太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦で日本は占領されたわけですが、復習です。

『占領と改革 シリーズ日本近現代史⑦』(雨宮昭一、岩波新書、2008年初版、2023年第13刷)

「日本はポツダム宣言にもとづいて、連合国の占領下に置かれることになった。連合国の構成は、いちばん上に極東委員会があり、米、英、中、ソ、豪、蘭、仏、印、カナダ、ニュージーランド、フィリピンの一一ヵ国で構成された。のちにビルマ(現ミャンマー)、パキスタンが加わって一三ヵ国になる」(念のためですが「ソ」は「ソヴィエト連邦=ソ連」、豪はオーストラリア、蘭はオランダ、仏はフランス、印はインドです)

「極東委員会が占領政策を決定し、アメリカ政府を通じて連合国最高司令官に伝達される体制であった」
「この最高司令官の頭脳ともいうべきものが連合国最高司令官総司令部(GHQ)で、その手足とも言うべき第八軍の各軍政部などの地方軍政機構と日本政府を通じて日本国民を管理した」

連合国最高司令官がアメリカのマッカーサーで同時にアメリカ太平洋陸軍総司令官でもありその下に第八軍があったので

「連合国の占領といっても、実質的にはアメリカ政府の政策が日本を支配していた」

1945年9月2日の降伏文書の調印から52年4月28日の講和条約発効まで、日本は連合国に占領されていたわけですが、これをアメリカによる占領と一般的に理解されるのは、こういう組織構成からしてやむを得ないところでしょう。

このブログの「京都も占領されていた」(3月7日付)では、京都にも東京や他都市と同じように占領下に連合国軍が進駐していて、その司令官の宿舎や事務所として使われた建物がいくつも残っているということを、「恥ずかしながら京都で仕事をしていた時には知らなかった」と書きました。改めて確認すると京都に進駐してきたのは米軍でした。当然そうだろうと、この時点では疑いもしなかったし、今思うと、日本のどの都市にも米軍がやってきたと思い込んでいたわけです。

/「BCOF通信隊司令部」として使われていたという施設の外観です
/施設内部です