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BLOG校長ブログ

2024.06.14

「英連邦軍」の日本占領 ③

英占領軍(BCOF)についての唯一ともいえそうなまとまった研究書である千田武志さんの『英連邦軍の日本進駐と展開』(お茶の水書房、1997年)の内容に入っていきます。前回、呉市の「大和ミュージアム」内の呉の歴史を紹介するコーナーの展示で、広島地区も最初は米軍が進駐してきたが後に英連邦軍に変わったという記述があったわけですが、では英連邦軍はなぜ広島県、さらには中国・四国地方だったのかという点です。

米側は最初、英豪側に対して進駐地域として北海道、神戸・大阪と広島を提示したが、北海道はオーストラリア人やインド人に寒すぎるとして英豪側が断った、神戸・大阪については英連邦軍の規模では統治は不可能ということで、「気候温暖で環境のすぐれた広島県とその周辺地区を選択した」とされています。

その後、BCOFの進駐地域が中国・四国地方に拡大されるのですが、その理由についてこう分析しています。
「ソ連と中華民国の占領軍派遣が中止となったこと、復員、除隊が緊急事態となっていたアメリカが急速に占領軍を縮小せざるをえなくなったことなどからBCOFの占領業務地区の拡大へとつながったものと思われる」

一方で「東京への進駐は英連邦関係国すべての希望であったが、とくにイギリスにはそれが切実な問題であった」とも書いていて、占領地域決定にあたって米側・マッカーサーと英連邦軍にはそれぞれの思惑があり、両者の間でかけひき、緊張したやりとりがあったことが想像できます。

こんな証言もあります。

『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』(サー・セシル・バウチャー著、加藤恭子・今井萬亀子訳、社会評論社、2008年)

英連邦軍(空軍)の司令官として進駐、山口県・岩国に滞在した軍人の回顧録です。BCOFがどのような形で進駐するか決まっていない段階で来日し、米軍側との調整にあたります。

「マッカーサーおよび東京の彼の参謀たちとの温かい会談、また英連邦軍が日本へやってきたことへの彼らの歓迎ぶりからみると、われわれにはまずは広島県だけしか任せてもらえなかったのには驚いた」

「(オーストラリア軍総司令官の)ノースコット中将は、わが軍は全占領軍の三分の一にあたるといっても良いくらいだと指摘した。もう少し場所が欲しいというわれわれの要求は、連合国軍にくい込もうと圧力をかけるソヴィエトに対して米国が著しく態度を硬化させているのと相まって、早速結果が現れた。日本の主要部をなす島である本州の南西部全体と、四国という大きな島を割り当てられた」

「ノースコット中将は、日本海軍の呉軍港を英連邦占領軍の主力基地および軍港に使い、彼の司令部をそこに設置すると決定した」

『占領 1945~1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人』(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章・訳、時事通信社、1994年)

少し古い著作ですが、アメリカ外交史、日本占領史の研究者が日本占領のキーパーソンとして8人を選び、その評伝という形で全体として日本占領を描くという形の研究書です。当然、マッカーサーが出てきます。

米国は日本への戦勝が確実になった段階でいち早く日本占領のプランを作成します。そこでは、連合国が協議する組織はできるであろうが「いかなる国際管理委員会においても、アメリカが卓越した影響力を行使することを想定していた。イギリス、中国、ソ連の役割はアメリカがそれらの国のために名目上設定したものにとどまっていた」

「戦争終結後、太平洋地域におけるアメリカの優越性は明らかであったから、日本の総督としてのマッカーサーの権限にとって重要な問題は、連合国による管理ではなく、ワシントンの政策立案者たちがどの程度介入してくるかであった」

奥田泰広さん(愛知県立大学准教授)が「マッカーサーは(中略)日本占領に本来的な権限を持つはずの極東委員会や対日理事会の存在も無視していった」と書いていましたが、マッカーサー個人の考えにとどまらず「無視」は米国の基本的な姿勢だったということですね。

そうなると米国、マッカーサー側がBCOFと協調しながらやっていこうという姿勢があったとは到底思えません。とはいうものの連合国という建前上、日本に進駐したいという英連邦軍をむげに扱うわけにもいきません。そこで、言い方は悪いですが「うるさいから影響の少ないところを担当させておけ」といった感じだったのではないでしょうか。