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BLOG校長ブログ

2024.06.17

「英連邦軍」の日本占領 ④

太平洋戦争後の連合国による日本占領で米国と英連邦軍との間で占領・進駐地域をめぐってそれぞれの思惑があったであろうと研究者は指摘しているわけですが、千田武志さんの『英連邦軍の日本進駐と展開』(お茶の水書房、1997年)にはちょっとこんな気になる記述がありました。

「アメリカが原爆投下にたいする市民感情を考慮して広島・呉地区の占領をさけ、BCOFにゆだねようとしたのではないかという一部の疑問を否定することはできない。ただ、こうした説を裏付ける公式資料は、現在まで発見されていない」

「(英連邦軍側は)首都として重要な東京やかつて経済的な基盤を有していた神戸、大阪ではなく、地方の戦災地であり、とくに問題の多い原爆の地広島に進駐させられたのでは、威信を保つことも戦前からの経済的利益を確保することもできないと考えた」

言い方が適切かどうかわかりませんが、日本の敗戦を受けてどこの国が日本に一番乗りするか、終戦に向けて米軍は沖縄に上陸して占領し、本土に迫っていたわけですから、日本の降伏(8月15日)を受けて米軍トップのマッカーサーがいち早く8月30日には日本にやってきます。マッカーサー率いるアメリカ太平洋陸軍第8軍はまず東日本に進駐、西日本の占領はやや遅れ、呉に先遣隊が到着したのが9月26日、本体の到着が10月7日、中国地方・全域で進駐が完了したのは12月末になりました。

英連邦軍はいくつかの国の軍隊の総称ですからその内部は一枚岩ではなく、千田さんや奥田泰広さん(愛知県立大学准教授)の研究によるとオーストラリアが単独での軍派遣を主張してイギリスと対立する場面もあり、それが日本到着遅れの原因の一つでもあったようです。BCOFの進駐は終戦の年が明けた46年2月から5月にかけてで、同年末現在で総計37021人、イギリス人9806人、インド10853人、オーストラリア11918人、ニュージーランド4444人という、まさに「連邦軍」となりました。

連合国軍である以上、進駐するというBCOFの意向をマッカーサーもまったく無視することはできなかったでしょうし、一方で、列島全域を米軍が押えるとなると軍編成も大がかりになり当然費用もかかります。イギリスが大都市が含まれていないことに不満を持ったということにも触れました。米側が中国・四国地区という「地方」にBCOFを追いやったというあたりが一般的な見方かもしれませんが、米国・マッカーサー側が原爆投下地の広島を避けたのではという「説」には、やはりひっかかりが残ります。

そもそもBCOFが日本占領に加わることにこだわるのはなぜなのか。費用もかかるし、派遣される軍人が喜ぶとは思えませんよね。近代以前の戦争ならば戦勝国が敗戦国を占領して植民地にしてしまうなどということがあったわけですが、日本占領についてはいわゆる「間接統治」、日本の行政機構はそのまま生かし、そこに連合国軍側があれこれ指示をするというスタイルです。

『占領 1945~1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人』(ハワード・B・ショーンバーガー)の「おわりに」にこうまとめられています。

「占領初期の進歩的な民主化政策の背後には、アジアにおけるアメリカの利益を再び脅かすかもしれない日本の軍国主義を永遠に破壊しておこうという決意があった。アジアにおけるアメリカの利益に対する主要な脅威は、かつては日本であると定義されていた」
「ところが一九四七年には、日本から、ソ連と中国での共産主義運動に移っていた。アメリカの政策は、冷戦の中で日本をアメリカの同盟国とすることへ移行した」

日本が二度と道を誤らないように、アメリカやイギリスなどと同じ価値観のもとで民主主義国家に生まれ変わらせるという使命感が占領・進駐の原動力だったというのはあまりにきれいごとのように思えます(もちろんそういう理想を抱いてきた人もいたでしょうが)。もちろん植民地といったストレートな形での経済的恩恵ではなくても、占領・進駐で得られる有形無形の利益への期待はあるでしょうし、特にアメリカは、戦争中は手を結んだものの本来は相容れない社会主義国家である「ソビエト連邦」を十分意識しながらの日本占領だったという分析です。