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BLOG校長ブログ

2024.06.26

「英連邦軍」の施設接収 ② 長官官舎も

広島県呉市の海沿いにある旧日本海軍の鎮守府(現・海上自衛隊呉総監部)から少し山をのぼったところに鎮守府司令長官官舎(入船山記念館)が残されており、関連施設と合わせて内部が公開されています。この旧鎮守府トップの住まいも占領軍に接収され、占領軍司令官の住まいとして使われました。

もともとは2階建ての洋館でのちに地震被害で和洋折衷の平屋に建て替えられたとのこと。「洋風」好みの旧日本海軍がゆえの洋館だったのかどうか、現在の建物を見学しても内部には洋式がしっかりと残っており、占領軍司令官(外国人)にはうってつけの宿舎だったのではと、皮肉の一つも言いたくなりました。

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占領軍の司令官は接収した官舎から司令部に通ったわけですが、当然自動車だったでしょう。日常生活はどんな様子だったのか、呉の市民はどう見ていたのか、なかなかうかがい知ることは出来ません。東京にいたあの司令官はどうだったのでしょうか。

『占領 1945~1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人』(ハワード・B・ショーンバーガー)でマッカーサーはこのように描かれています。

「日本の民主化と本国での自らの政治的信用の確立に成功するためには、国家元首として振舞い、近寄り難い権威をもっているとのイメージを演ずる必要があるとマッカーサーは考えていたふしがある。日本にいた五年以上にわたる期間に、マッカーサーは天皇と一握りの政府高官以外の日本人とは決して口を聞こうとはしなかった」

「厚木飛行場と横浜から東京までの上陸当初の移動を除いて、マッカーサーが見た日本というのは、住居としていたアメリカ大使館と皇居近くの第一生命ビルに置かれた総司令部との間を行き来するリムジンの窓を通してだけであった」

マッカーサーが日本占領のリーダーとして目指したものは何だったのか、やはり考えさせられます。政治的信用の確立が必要だったのは、自分が米国大統領を目指すためです。このマッカーサーの評伝の後半は、その大統領を目指したマッカーサーと米国の政治情勢が詳しく綴られています。