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BLOG校長ブログ

2024.06.21

全く異なった「占領」ーー23日は沖縄慰霊の日

太平洋戦争の終戦後、連合国軍によって日本は占領されたわけですが、連合国軍=米軍でなく英連邦軍(中心はオーストラリア軍)も中国・四国地区に進駐していたということを知り、いろいろ調べて書いてきました。ところが6月23日が近づいてきて、そもそもこの連合国軍による占領とはまったく違った占領があったことを忘れてはならないと思い起こしました。そう沖縄です。

『占領と改革 シリーズ日本近現代史⑦』(雨宮昭一、岩波新書、2008年初版、2023年第13刷)にこんなくだりがありました。

「(1945年9月2日の降伏文書)調印の日(沖縄は六月から米軍政が施かれた)から52年4月28日の講和条約(対日平和条約)発効まで連合国による占領がおこなわれた」

危うく読み落とすところでした。「沖縄は六月から米軍政が施かれた」のです。そしてそれが終わったのも52年4月28日ではなく、72年5月15日でした。

『高等学校 琉球・沖縄史』(沖縄県歴史教育研究会、1998年第3刷)によります。

「米軍は沖縄島に上陸した時点で、沖縄を日本本土から切り離して占領することを決めていた」

そのことを証明する資料として「ニミッツ布告」(米国海軍軍政府布告第1号)を紹介しています。ニミッツは米軍司令官の名前です。つまり戦闘当事者である軍人の名前で布告する、文書で命令するということです。

この布告で、沖縄における日本帝国政府のすべての行政権を停止、つまり米軍が行政権を持つということを宣言し、実行に移していきます。この結果、沖縄は1972年5月15日まで27年間、米軍の占領・統治が続くわけです。52年の講和条約発効、連合国による占領の終了は、沖縄には及ばなかった、本土とはまったく異なった「占領」が沖縄にはあったのです。

このニミッツ布告は従来、45年4月に発したとされてきたそうですが近年の研究では3月末の慶良間諸島への上陸直後との見方が強いとのこと。つまり米軍は沖縄上陸作戦の極めて早い段階から、沖縄は本土から切り離して米軍主導で占領することを決めていたわけです。

旧日本海軍の戦艦「大和」を中心とする連合艦隊が向かったのは、米軍上陸が必至と見られていた時期の沖縄でした。そのはるか手前で撃沈されました。

米軍の沖縄上陸作戦での戦闘は太平洋戦争で唯一の日本国内の地上戦となり、約20万人以上の戦死者を出しました。その半数に近い9万4000人あまりが一般県民や子どもでした。日本軍の組織的戦闘が終結した6月23日が「沖縄慰霊の日」とされています。8月15日の終戦記念日と同様、忘れてはならない日だと思います。


「沖縄県公文書館」の資料より


那覇の日本軍司令部の近くにあった首里高校(旧県立一中)は、米軍の激しい攻撃を受けて廃墟となりました。戦後も軍政下にあったため、復旧が遅れ、崩れかけた校舎の中で授業が行われたそうです(1952年撮影)
沖縄が長く米軍の占領・施政下にあったことをしめす一つでしょう、沖縄では米本土と同様に車両の「右側通行」が続きました。復帰後の1978年(昭和53)7月30日、ようやく交通方法が変わります。『高等学校 琉球・沖縄史』によります。

「7月29日午後10時、全県車両通行止めのサイレンとともに通行区分の切り替えがおこなわれ、7月30日午前6時を期して多くの県民の見守るなか、“人は右車は左”へと交通方法が変更がなされた」

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事前に「交通方法」の変更が伝えられ、変更直前に覆いがはずされ新しい道路標識があらわれました。その「瞬間」を多くの市民が見守ったそうです。下の写真はまさにそんな様子をとらえていますね。

この「交通方法」の変更を今回資料で確認したら、復帰の6年も後でした。復帰と同時か、それは準備が大変だとしても復帰後間もなく行われたものと勝手に思い込んでいました。写真のような交通標識の新設にとどまらず、路線バスのルート・停留所の変更、児童・生徒へのルール徹底など、事故を減らすために入念な準備が必要だったということですね。

写真はいずれも「那覇市歴史博物館デジタルミュージアム」から。以前にもこのブログで使わせていただきましたが、この施設の資料公開の姿勢はすばらしいものがあります。

2023年6月22日にも、このブログで「沖縄「慰霊の日」にあたって」を書きました。