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BLOG校長ブログ

2024.07.01

「地図から消された島」③

広島県竹原市の「大久野島」で旧日本軍が毒ガスを製造していたことを伝えようという「毒ガス資料館」があることは事前に調べて出かけたのですが、その規模などは言ってみないと実感できません。多くの資料が散逸し、あるいは軍によって意図的に廃棄されたなかで、関係者の努力によって集められた資料を見ることができました。

ただ、「活字」にこだわる性格なので、関係する本や資料などが購入できないかと期待はしていたのですが、そういう施設はありませんでした。ところが、英連邦軍(BCOF)の進駐について調べるために取り寄せた『英連邦軍の日本進駐と展開』(千田武志、お茶の水書房、1997年)はさすがにきっちりと、大久野島での英連邦軍の業務について触れていました。

「国際法上、化学兵器や細菌兵器にたいする禁止要請が強まるなかで、日本陸軍は極秘裏に毒ガスの開発をすすめ、昭和三年七月九日、その製造と研究のため、豊田郡忠海町の大久野島に陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所を設立した。忠海兵器製造所は日本で最大の毒ガス兵器工場として、イベリットガス、ルイサイトガス、クシャミガス、催涙ガスなどを製造した」

終戦後、米軍が島に入り調査を開始したもののまもなく撤退、「大量の毒ガスと製造施設の処理はBCOFの手にゆだねられることになった」、BCOFは民間会社の人を動員して実際の作業にあたり、毒物は船に積んで船ごと海に沈め、また工場建物を壊し焼却したようです。

毒ガスは「極秘裏」に製造されたわけですから、島に住んで、あるいは船で通って働く人たちは口止めされ、また、戦争目的ですから働く人たちの安全対策など望むべくもなかったことは容易に想像できます。その実態の一端はこの労作が明らかにしてくれました。

『地図から消された島 大久野島毒ガス工場』(武田英子、ドメス出版、1987年発行、同年第4刷)

児童文学作家の武田さんが埋もれていた資料を掘り起こし、実際に大久野島で働いていた人たちの記録や聞き書きをもとに、大久野島での毒ガス製造を追究しました。旧日本軍によって毒ガス弾、毒ガス兵器が実戦使用されたことをめぐる論争、終戦後の戦争犯罪訴追の中で毒ガス製造の罪は不問にされてしまった経緯などにも触れています。
また、動員された女性らが島で風船爆弾の製造をさせられていたことにも言及しています。

この著作で戦後の毒ガス処理、製造施設の処理についても書かれていますが、BCOFには化学兵器などの専門家がおらず米軍の協力がかなりあったようです。実態はBCOFと米軍の共同作業のように読めます。

終戦後、後遺症に苦しむ人たちの治療にあたった医師らの記録や被害救済を訴える運動の記録などによると島の製造所で働いてい人は最盛期で五千人~六千人と伝えられ、亡くなられた人は千二百人を超えるとのこと。

「調べていくうちに、大久野島がすっぽり消された地図を見つけた。五万分の一の地図の微細な島々のなかに、大久野島だけが白紙を貼ったように消されていて異様であった」
「戦時下の地図編纂は参謀本部が掌握し、要塞地帯や重要地点を消した例は多いと、国土地理院担当者は語っていた」

現在、大久野島が「地図から消された島」と言われるのは、おそらくこの著作によるのでしょう。

驚いたことがありました。

米軍の協力も得てBCOFの工場施設の処分が終了した後の1947年6月13日に大久野島は日本に返還されたのですが、1950年6月に朝鮮戦争が始まり、米軍は大久野島に弾薬庫を置くことにして51年の日米安保条約によって島を接収したというのです。いわば「二度目の占領」といってもいいでしょう。57年、再び島は日本に還され、国民休暇村として一般に開放されるのが63年だったとのこと。島にとっての「戦後」の始まりはずっと後だったと言ってもいいのでしょう。

毒ガスが製造された大久野島のことがどのように語り継がれてきたのか。県内で歴史を教える先生方が1970年に作った本が平和教育の視点から大久野島をとりあげた最初ではないかと武田さんは指摘しています。さらに武田さんは「あとがき」で「竹原市では毒ガス資料館を建設する計画を進めており」「世界ではじめての「毒ガス資料館」の完成が望まれる」とも書いています。それが1986年のことです。
私が広島県内で仕事をしていて大久野島のことを知ったのがこの少し前になるので、資料館建設に向けての動きを伝える記事を読んだのかもしれません。