2023.10.05
福井謙一さん同様に「その人誰?」というケースでは2002年に福井さんと同じ化学賞を受賞した田中耕一さんがあげられるでしょう。たまたまこのノーベル賞が発表される時期の少し前に毎日新聞の同人と会う機会があり、今となっての思い出話として(もう時効?)、田中さん受賞時の大慌て状況が話題になりました。
最近ではノーベル賞候補者が事前にあちこちで予想され、また報道されたりもしますが、このころはまだそんな時代ではありませんでした。受賞者を決める選考委員会は徹底した秘密主義で(これは今でもそうですが)、記者はいろいろな分野の研究者に会って、いわば研究者仲間から「あの人のあの研究はすごいよ」と聞き出します。多くの人から名前があがった研究者がメディア各社の中での「候補者」となり、事前に研究内容や経歴などを調べておくわけです。写真も関係先から入手しておきます。
この事前調査も近年はインターネットなどが使えるようになりましたが、かつては、学術雑誌で論文を探したりといったアナログで作業をしていました。田中さんはそういう候補者リストには入っていなかったわけです。これはどの報道機関もほとんど同じだったと思います。
田中さんは島津製作所の研究職ではありましたがいち会社員、このことも珍しかったのですが、同社は京都市内に本社があるので、もちろん取材陣はそこに殺到します。ところが会社にとっても寝耳に水、準備ができていないので「記者会見は夜8時から」。研究業績などはそこで話を聴くことになるのですが、ご本人の写真さえない状態、さあどうする、ということです。
ここに新聞社の事情があります。本社のある東京や大阪から離れた地域で配られる新聞は、本社印刷工場から新聞販売店まで送る時間がかかるので、記事の締め切り時間がかなり早いのです。その締切時間が頭をよぎっての記者会見時間、その後に原稿執筆と紙面レイアウト作業、「間に合うのか」と、編集局内は次第に険悪な空気に包まれていきます。
その同人はノーベル賞取材陣の責任者の立場、「今でも思い出したくない」と苦笑していました。
福井謙一さんの話に戻りますが、福井さんの受賞で報道陣が福井邸に殺到するのが午後10時過ぎ、田中さんのケースよりもさらに切羽詰まった事態で、自分が当事者だったらと思うと、やはりぞっとします。
まったく個人的なことですが、田中さんのことを改めて調べていたら、なんと自分より年下、受賞時43歳、まだ現役で研究を続けているそうです。山中さんも50歳で受賞しました。功成り名遂げて受賞、という印象の強いノーベル賞のなかで若いうちに受賞するということは、それだけ独創的、画期的な研究ということになりますか。
その好例が生物の教科書でおなじみ、DNAの二重らせん構造の発見で分子生物学を大きく進展させ1962年に生理学・医学賞を受賞したジェームズ・ワトソン(アメリカ)は受賞時34歳、共同研究者のフランシス・クリック(イギリス)が46歳。
余談ですがノーベル賞につながった、2人が1953年「Nature」誌に投稿掲載された論文(タイトルは「Molecular Structure of Nucleic Acids: A Structure for Deoxyribose Nucleic Acid」)はたったの2ページだった、というのはよく知られています。
2023.10.04
福井謙一さんがノーベル化学賞受賞の知らせを聞いた1981年10月19日、妻の友栄さんは著書『ひたすら』(講談社、2007年)で「こちらには事前に何の連絡もない」と明かします。テレビの速報と新聞社からの問い合わせの電話から「騒動」が始まるわけです。友栄さんの勧めで着物に着替えた謙一さんは午後10時過ぎから京都大学に近い自宅で何十人もの記者と対応することになります。昼間なら大学と連絡をとって、大学構内で記者会見、となるのでしょうが、何しろ夜のことです。
「外国では、この十年間程、受賞ライン(またはホットライン)に近いという噂を知らせてくださる方もたくさんいた。数年来、夫は夫なりに十月はなんとなく落ち着けない日々もあったが、月日は音もなく過ぎていった」
と明かしてはいます。
「午後十時半頃には、家中に人が溢れかえり、廊下も人々で殺気立ち、最初は写真を貸してほしいと依頼していた記者も、そのうちわれ先に家探しの状態となり、断りなくアルバムごと持ち出している」
いくらおめでたい話といえども、そこまでやるかと他人事のように批判はできますが・・・
息子さんが駆けつけてきて記者から感想を聞かれたところ
「僕はテロップ(ニュース速報のことでしょうね)を見て、京大の福井謙一というと親父ひとりしかいないかなあと思って、ともかく飛んできたんですよ」
と返事をしたそうです。
授賞式のあったストックホルムではこんな秘話? も。
夫(福井謙一さん)は、午前中ノーベル財団に賞金受領に出かけたが、受領書にサインした後、この時に頂戴した小切手を持ち帰るのを忘れ、財団の方が、あわてて追いかけてくださったらしい。(略)
私も、夫ならさもありなんと、しばらく笑いがとまらない。
福井さんは京都大学を定年でお辞めになった後、同じ京都にある国立大学の京都工芸繊維大学の学長になります。
この時期、国立大学は入学試験制度改革で大揺れ、福井さんは学長として工芸繊維大学のみならず近畿地区の大学のとりまとめ役をせざるを得なくなるのですが、大学入試制度は、およそ学術研究とはかけ離れた利害調整を求められます。記者会見などではいつも難しそうな表情でした。「こんなことやりたくないんだろうな」と勝手に想像してもいました。
学長を退いた後、京都市内に新たに開設された「財団法人基礎化学研究所」の所長に就任、研究所を訪ねてインタビューさせていただきました。ご自身がまさにそうであったように、すぐに新しい技術や製品に結び付くことばかりを追い求めるのではなく、基礎研究が重要ということをくりかえし強調していました。
などと大層なことを書いていますが、まだまだ国内でも数少なかったノーベル賞の研究者に、ぺえぺえの記者が1対1で会ったのですから、とにかく緊張したことが忘れられません。(この時点で自然科学分野で福井さんが4人目、ご存命だったのは江崎玲於奈さんだけ)
「財団法人基礎化学研究所」は現在「京都大学福井謙一記念研究センター」となっています。公式ホームページはこちらから
2023.10.03
今年のノーベル生理学・医学賞の受賞者2名が2日、発表されました。海外の研究者の場合、あまり大きなニュースにはならないことが多いのですが、今回の受賞は新型コロナウイルスのワクチン開発につながった研究で、受賞理由として「世界中で130億回以上接種され、何百万人の命を救った」と讃えられただけに、新聞、テレビは大々的に報じています。
今週は各賞が順番に発表されていきます。ノーベル賞に関する本はそれはたくさんあるわけで、ここでは“変化球”も交えてノーベル賞にまつわる個人的昔話を。
ノーベル賞を受賞した日本人は、アメリカ国籍を取得した人も含めて2022年までで28人。日本人だからというくくりもどうかと思いますが、1981年、日本人6人目、化学賞を初めて受賞したのが福井謙一さん(1918年~ 1998年)です。
受賞時、京都大学工学部の教授でした。ノーベル賞候補としてはほとんどノーマークで、受賞の一報が流れてきて取材陣は騒然、勤務先からして当然京都支局が取材の最前線になるのですが、京都大学の教職員名簿で住所を確認して自宅に向かう、各新聞社とも同様で、福井邸は大混乱になったようです。それこそ取材記者が福井さんに向かって「先生はどんな研究をされているのですか」と一から質問するようなレベルだったわけです。
この福井さん受賞は私が京都支局で勤務する少し前のこと、その経験者が「あの時はさ・・・」と「伝説」のように語っていたのを漏れ聞いていたわけですが、福井夫人の福井友栄(ともえ)さんが授賞が伝えられた日の様子をなまなましく、かつユーモアいっぱいに振り返ったエッセイなどをまとめた著作があります。「伝説」を裏付けています。
発行年をみると、福井さんが亡くなられてから後のことですね、まあそうでしょう。ただ、88年以降に、京都で発行されていた文芸誌に掲載されたエッセイも含まれてはいます。
10月19日の午後10時前、最近の賞の発表時間からするとかなり遅い時間ですが、娘さんとテレビでアクション映画を視ている時に、「京大教授、福井謙一氏ノーベル賞受賞」というニュース速報が流れる。
その時、福井謙一さんは電話でずっと話しこんでいて、その電話の相手は東京の新聞社、受賞の情報を得たものの、「(福井さんの)名前の綴りが違っていたので確かめてきたらしい」。
えーっ、驚きですよね。報道もかなり不確かな情報からスタートしたわけですね。そして、十分な準備がなかったことも間違いないでしょう。
2023.10.02
毎日新聞9月23日付「今週の本棚」(書評欄)で『平治の乱の謎を解く』(桃崎有一郎、文春新書)が取り上げられていました。評者は藻谷浩介さん(日本総合研究所主席研究員)、「ぜひ皆さまもお読みになって、重厚な思惟により先入観を論理的に排していく、現代史学の醍醐味を堪能いただきたい」と“絶賛”していました。このブログでもこの本を紹介しました(9月7日付「この夏の乱読 その①」)。もちろん藻谷さんのすばらしい「評」の足元にも及ばす、こんな読み方をしたわけでもありませんが、やはり一冊の本を同じように共感を持って読んでいる人がいるのは嬉しいものです。
前置きが長くなりました。藻谷さんの毎日新聞でのコラムなどは以前から読んでいて勉強になるのですが、この書評の後に「そうそう買っておいてまだ読んでいなかった」藻谷さんの本を思い出し、遅まきながら読みました。
『世界まちかど地政学 90カ国弾丸旅行記』 (毎日新聞出版、 2018年)という著書もある藻谷さん、海外114 か国を私費で訪問し、平成大合併前には国内約3200の市町村をすべて訪れたそうです。そういった経験に裏打ちされたエコノミストとして地域振興や人口問題を取材研究し、たくさんの提言をしてきて注目されている方ではあります。
『日本の進む道』の全体のトーンとしては超ベストセラー『バカの壁』(新潮新書)の筆者で解剖学者(東京大学名誉教諭)の養老さんに、藻谷さんがアベノミクスや止まらない円安、人口減少と過疎化、移民問題などについて具体的なデータを示しながら、「どう思いますか」「解決できるでしょうか」と突っ込みます。それに対して養老さんの答えは・・・
というのも山林や湖沼を除いた面積で人口を割った「可住地人口密度」で比較すると、中国は1平方キロメートル当たり180人なのに、過疎地の代表とされる島根県はその3倍の600人近くある、都道府県で「可住地人口密度」が一番低いのは北海道で250人くらいなのに、フランスの300人とあまり変わらず、「土地が瘦せているうえに日照も少ないイギリスだと、ロンドンを入れても150人。北海道の方かよほど“密”です」。
藻谷さんは「日本は降水量が多くて土が肥えているために、そもそも他国よりも面積当たりの人口支持力がたかいのです。そのため、田舎でさらに人口が減っても、諸外国よりはまだまだ人の密度が高く市場性も生産力も高い状況にある。それなのにその田舎を捨てて、1平方キロメートルあたり1万人が詰め込まれている東京に集まってきています」と問題提起するのです。
間違いなく起きるといわれる南海トラフ地震、さらには首都圏直下型の大地震、富士山の噴火などの大災害についての危機感がまだまだ足りない、揺れや火災、津波などへの備えの意識は少しずつ高まってきてはいるが、大都市での震災によって引き起こされるライフラインの停止への対応や震災後の復興などはほとんど考えられていない、どころか「考えようとしない」、それはなぜなのか、と二人の議論が進みます。
養老さんの結論には正直、「えっ」と驚く読者も多いかもしれません。私自身も、「わからないでもないが、そこまで言い切ってしまっていいですか」という感想を持ちました。
文脈で読まないと誤解されそうな「断言」にもなりそうなので、あえて書きませんが、養老さんは「非常に狭い日常が現実になっていて、そこに出てこない問題は「おれは知らない」となってしまう。だから私は、「地震待ちだ」と言っているわけです。「俺の食い物がない」という現実に直面しないと、本気で自分で考えようとしませんから」
「僕は小学校2年生で終戦を迎えて、それまでの常識が180度変わりました。僕は組織や国の言うことを信じてはいけないと身に染みてわかっています」などと話しています。
「若い人が自殺するというのはヘンですよ。でも、日本人は、生きていることがどういうことかが、わからなくなってしまったのでしょうね」
「死を避けるということはものすごくわかりやすいけれど、生きるとはどういうことかということは単純に定義できないので、言ってみれば生のほうをどんどん削っても大丈夫みたいな感覚があるのではないか」
藻谷「命を保つことは考えているけれど、人間としての「生」を全うさせることへの配慮がなくなった、ということなのですね」
養老「そう。考え方のうえでそちらが主流になってきています」
2023.09.30
2年生の今から大学進学への意識を高めてもらおうという大学説明会が30日、開かれました。「大学で何をどう学ぶのか」といった生徒の疑問に答えてもらうため、大学から講師をお招きして、生徒はそれぞれ関心のある大学、学部に分かれて話を聴きました。
本校卒業の大学生7名も来校、「座談会」形式で、高校とは異なる大学での学びやキャンパスライフなどについて話してくれました。在校生はみな熱心にメモをとっていました。大いに参考になったようです。
本校ではサッカー部に所属、さらに体育祭実行委員長を務めたことで教員に憧れを持ち、教員免許取得を目指している1年生、同じく教員を目指す女子大2年生も来てくれました。
外国語学部に進み、すでに5か月間タイに留学した経験を持つ2年生、オーストラリア留学予定の観光学部1年生は本校の3年生6月の英語検定で2級を取得、それが大学進学・大学での留学への大きな弾みになったそうです。
このように大学で自分の夢をかなえるために頑張っている先輩の姿を目の当たりにすることが、在校生にとって何よりの刺激になると感じました。わざわざ来校してくれた卒業生に感謝です。
2023.09.29
さて、①の冒頭で書いたように、前田三夫さん、小倉全由さんの対談『高校野球監督論』(双葉社、2023年)には「東京から「大谷翔平」が生まれない理由」といった章があるのですが、その大谷選手、花巻東高のときからお二人は当然、知っています。
もちろん、大谷選手は高校時代からずば抜けた選手だったわけですが、成長過程だった大谷選手をどう使うかは監督にとって難しいところだと声を揃えます。
「(東京では)即戦力として使える投手を起用するケースが多くならざるを得ない。つまり、大谷のような選手を、試合で使いながら育てるだけの土壌が東京にはないんです」(小倉)
「指導者の立場では、判断に迷うところだよね。甲子園に出るには、コントロール、球のキレ、フィールディングと完成度の高い、バランスの取れた投手を起用したくなる」(前田)
何しろ東京は7試合勝ち抜かなくてはならない激戦区、一人の投手ではなかなか大変なのはもちろん、継投策をとるにしても2人目、3人目の投手にも同じタイプを求めがちだそうです。
そのほか、おもわずうなづき、膝を打つコメントをいくつか。
「甲子園にいってからの選手たちの思いは一つ、「優勝する」だった。「優勝できるかもしれない」ではなく、「棚からぼたもち」の発想でもなかった。「狙って優勝を獲りにいく」という気持ちで試合に臨まないと、優勝旗は獲れないものだと、私は強く思った」(前田)
「(甲子園は)選手には必ず目指してほしい場所、指導者を成長させてくれる場所。この二つに尽きるかな。(略)チームは生きものだから、出場する選手が違えば野球も変わる。私自身、毎回新鮮な気持ちで甲子園に行っていた」(前田)
やはりみな「甲子園」に魅入られるのですね。選手たちの強い気持ちが好勝負を生み、ファンを引き付けるということでしょう。
「(昔は練習を3日休んだら、その遅れを取り戻すのに1週間かかるなどと言われたが、科学的な証明はないとして)自分からしてみれば、「練習をやらせたいがための、指導者側の理屈」だけのような気がするんです」(小倉)
「まったく同感だね。監督からそれを聞いた上級生が下級生に言い聞かせて、下級生が上級生になったときに、また下級生に言い聞かせる・・・まさに悪しき慣例になっているけれども、令和になった今は完全に断ち切らないといけない話だよね」(前田)
学校のクラブ活動で休養日を設けることが推奨されるようになってきていますが、その追い風になる合理的な考え方ですね。でも、「いい選手が揃っている強豪校の余裕、うちはまだまだそんな段階ではない」なんていう声が聞こえてきそうではありますが。
「中学時代に野球をやっていて優秀な成績を残したからスカウトして、高校の野球部に入れるんじゃない。運動能力の高い中学生をスカウトして、高校で野球をやらせて潜在的に持っていた素質を開花させる、この方法もありなんですよね」(小倉)
「小学生の段階ではできればひと通りのスポーツを子どもに経験させて、そのうえで野球の能力を伸ばすということをするのが理想なんだけどね」(前田)
このあたりは、野球に限らず、多くの競技の指導者が指摘するところですよね。
ここ、「指導者」をそのまま「教員」に置き換えられるし、当然「大人」にも置き換えられます。学校部活動の指導者のあるべき姿であり、教員が顧問として指導者になる意味やその価値、重要性も語られていると感じました。
2023.09.28
タイトルがそのものズバリ、確か新聞の書籍広告でみて、やはり気にはなり、「なぜ東京の学校が大阪の学校に勝てないのか」とか「東京から「大谷翔平」が生まれない理由」といった章にそそられ、手にとってみました。
監督論といっても技術論や練習方法等を書いているわけではありません。
筆者の前田さんは現在、帝京高校(東京)の名誉監督、帝京高校野球部を率いて甲子園春のセンバツに14回、夏の選手権に12回出場、夏2回、春1回優勝しています。
小倉さんは日大三高(東京)の監督を今年3月に勇退、これまでに関東一高(東京)を率いてセンバツ準優勝、母校の日大三高で2001年夏全国制覇、11年夏に2度目の優勝を果たしています。
このお二人が、高校、大学でのプレイヤーを経て高校野球の指導に関わるようになったいきさつや、それぞれが東京のライバル校としてしのぎをけずった歴史などを語り合います。
また、それぞれが育ててプロ野球などで活躍した選手たちの高校時代を振り返ってもいます。ただ、このごろはあまりプロ野球を見ないのでそのエピソードの面白さは伝えられそうもないので、印象に残ったところを紹介します。
「東(東京の東大会)でも、西でも、たとえシードで2回戦から出場したとしても、東京を勝ち抜いて甲子園に出場するには7連勝しなければならない。7試合すべて勝つためには、大会期間中はずっとチーム力を心身ともに高いレベルで維持しなくてはならないから、かなり難しいことなんです」(前田)
改めて言われると、やはり東京は学校も多く、予選は大激戦区、これがそもそもの原点と言えそうです。最初にあげた大阪との比較、大谷翔平選手の話につながっていきます。
小倉さんも「関東の人間は勝負に対する執念深さに欠けているのに対して、関西は「関東の人間には負けてたまるか」という強い気持ちを持っている。これって関東の人間からするとわからない感覚かもしれませんね」と応えます。
野球とは直接関係はありませんが、東京で生まれ育ち、社会人になってから関西でも少し暮らし、仕事をした経験からすると、なんとも複雑な気持ちで読みました。(関西と書きましたが、細かくいうと京都です。京都=関西とくくると、京都の人はなかなか微妙なわけですが、一般的には京都も関西ですので)
2023.09.26
2023.09.25
本校生徒のカナダでの中期留学のお世話をしていただいている組織のRob Schoenさんが22日、来校され、中川進理事長、北村陽子参与らとともに迎えました。留学中の生徒たちはみな元気に学校に通い、ホストファミリーと週末に小旅行にでけかた様子などを聴き、感謝を伝えました。
留学の生徒たちは8月下旬に出発、12月末までの4か月間、カナダ西部のバンクーバーに近いカムループス、ナナイモの二つの街でホームステイしながら現地の学校に通っています。
外国からの留学生を積極的に受け入れているカナダでは、留学生の希望にそった多様な学習プログラムが用意されており、Rob Schoenさんはそのコーディネートをされています。カナダの留学にはドイツなどさまざまな国から学生が集まっているので、英語を学ぶだけでなく多文化理解、多様性を学ぶ環境にあるなどと、話されていました。
留学はまだ始まったばかりですが、生徒たちが一段と成長して帰国してくれるであろうことが、いよいよ楽しみです。
本校のグローバル教育についてはこちらをどうぞ
2023.09.22
西村朗さんが「N響アワー」の名物コーナー、「今宵もカプリッチョ」で音楽家、芸術家の師弟関係について語っていることを紹介しましたが、ベートーヴェンのように直接会うことのなかった「師」ではなく、まさに大きな影響を受けた「師」として、西村さんのエッセイ集『曲がった家を作るわけ』(春秋社、2013年)に東京音楽大学の助教授時に仕えた伊福部昭教授があげられています。ゴジラの映画音楽で知られていますが日本を代表する作曲家の一人です。
この本は、西村さんが還暦を迎えたことを期にまとめたエッセイ集とのことですが、この伊福部さんをはじめ山本直純さん、岩城宏之さんといった作曲、指揮の先輩たち(いずれも故人です)、N響アワーでは西村さんの前の司会者、池辺晋一郎さんらとの交友、また作品を提供した音楽家たちとの、作品を仕上げるまでの厳しいやりとりなどを振り返っています。
西村さんは毎日新聞社、NHKが主催する日本音楽コンクールで世に知られるようになります。2023年で92回を迎える国内屈指の音楽コンクールで、作曲だけでなく声楽、ピアノ、バイオリンなどの部門で世界で活躍する音楽家を多数輩出しています。ちなみに西村さんは日本音楽コンクールの委員長でもありました。
西村さんは応募しては落とされるという経験を重ねているのですが、締め切り日ぎりぎりに毎日新聞社の大阪本社に作品を持ち込んでうんぬん、といったことだけがやたら記憶に残っていて、西村さんの訃報に接して書棚を探したらこの『西村朗の今宵もカプリッチョ』と『曲がった家を作るわけ』が出てきたのです。そして「曲がった家」の方にコンクール応募のエピソードがありました。
もちろん、私が毎日新聞社に入社する前の話ですし、入社後もコンクールに直接関わったことはありません。西村さんの応対をした方が社員であったかどうかも定かではありませんが、当時の大阪本社のたたずまいを思い起こしながら、楽しく読み返しました。
西村さんは大阪の市街地で音楽とはほとんど縁のない両親のもと、作曲家を目指し、東京芸術大学に進みます。その大学の仲間とのまさに「青春時代」、けっこうはちゃめちゃで、何度も笑わせてもらいました。
もちろん西村さんのずっと後輩が出てくるのではありますが。
日本音楽コンクール(公式ホームページ)についてはこちらから
西村朗さんについての、間違えて②を先にアップしてしまいました。この一つ前の①を改めてアップしています。スクロールしてこの下にあります