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BLOG校長ブログ

2023年の記事

  • 2023.10.19

    足利将軍も15人いた ②

    『足利将軍たちの戦国乱世』で筆者の山田康弘さんは15代続いた足利将軍について、その「しぶとさ」はどこから来るのかといった表現をし、「将軍には権力はなかったが、権威はあったからだ」といった類の説明ですませてしまうのではなく、いわば「メカニズム」のレベルまで掘りさげて解き明かしていく必要がある」とし、足利将軍とは何なのか、その謎の解明が「現在の戦国期将軍研究における目標の一つ」と位置付けています。

    「将軍を存続せしめた最大の要因は、なんといっても各地の大名たちが将軍を支え続けたことである」
    として、管領などとして幕府を支える諸氏・大名たちが栄典(爵位や朝廷の官職)を得るのに将軍の力が必要なことや、戦いを止める、避ける時に将軍の仲介を理由にすると面子が保てることなどをあげます。このあたりは、そんなに新しい見方ではなかったのですが、将軍のもとに諸国の情報が集まり、それを得るメリットがあるという指摘は、なるほどと思いました。地方の諸氏・大名にとって、列島各地の情報はなかなか手にはいらないでしょうから。

    山田さんはさらに戦国時代をどうとらえるかという点から、将軍像そのものを見直します。

    かつては、戦国大名がみな天下を目指して戦争をし続けるように考えられがちでした。今川義元も京都を目指して動き、桶狭間で織田信長とぶつかり敗れた、上杉謙信もいよいよ上洛という時に病に倒れたなどなど、小説やゲームの舞台としてはみなが天下を争うほうが盛り上がるでしょうから、そこから戦国時代像がつくられがちでした。

    しかし最近の研究では戦国大名は実は領国経営に熱心で、つまり自分の領土をきちんと守り、年貢などをきちんと取って安定的に領国を治める、戦争には大変な費用がかかるから、できれば隣国と戦争はしたくないというのが本音だった、という見方が主流です。

    山田さんは
    「「戦国」という名称とは裏腹に、大規模な戦争が日常的に継起することはなく、意外に平和だった」
    という書き方をしています。

    そうなると、各大名が隣国の他の大名と戦争をしないで済むにはどうしたらいいか、もちろんお互いが普段から理解しあえばいいわけで、いわば大名同士の「外交」が必要になってくる。外交をスムーズに行うには関係国以外の第三者がいると、問題が起きた時にも仲介を頼める、足利将軍はそんな第三者的なポジションを期待され、その役割を果たしてきたので生きながらえたのではないか、このように論を進めます。

    そして山田さんは多くの国々が共存する現代の世界になぞらえます。

    「今日の世界には国連をはじめさまざまな国際機関が存在している。こうした国際機関は各国によって国際問題を処理する際に利用され、一定の役割を果たしている」
    と評価してうえで
    「将軍はこうした国際機関の在り方と類似している」
    「将軍もまた<国>ではなく、各大名たちがたがいに外交をしたり戦争をしあったりする<天下>の次元のほうを主たる活動領域にしていた、ということである」

    と結論づけます。

    このように現代社会と比べての説明、けっこう斬新ですよね。そこから、信長、豊臣秀吉の出現で幕府、将軍がいらなくなった理由も説明できるというわけです。なるほど。

  • 2023.10.18

    足利将軍も15人いた ①

    足利氏が代々将軍をつとめた室町幕府は、鎌倉幕府、江戸幕府に比べて歴史小説、時代小説でこれといった作品があげられることが少ないせいもあってか、少し関心が低いようにも思われます。将軍の名前もどうでしょう、鎌倉幕府は最初の頼朝、頼家、実朝の三代のあとのいわゆる摂家将軍、親王将軍の名をあげられる人は多くはないでしょう。江戸幕府はちょっと歴史に興味のある方ならば徳川家の十五代将軍全員の名前をあげられる方もけっこういらっしゃるでしょう。

    では室町幕府の足利将軍はどうか、初代尊氏はこれは別格として、三代義満は北山殿、金閣寺とともに、また八代義政は銀閣寺とともに知られてはいますが、期せずして徳川将軍と同数の十五人全員の名前をあげられるかとなると、ちょっと、というところでしょう。私も自信はありません。(先の「中国史」の話ではありませんが、将軍の名前を覚えることが日本史の学びであるわけではありませんね)

    足利将軍の場合、二代義詮以降全員名前に「義」の字がついていて(義〇=漢字一文字)、いよいよ区別がしにくい、同じ字を用いる名前であることに価値があるとわかっていてもですよね。さらにはこの十五人のうちいわゆる戦国時代期の将軍については、同時期に二人の将軍(候補)が正当性を争ったり、将軍がしょっちゅうもともとの幕府所在地である京都を離れてしまうこともあったりして、将軍交代の流れを理解するのはなかなか大変というのが一般的な受け止め方でしょう。

    『足利将軍たちの戦国乱世 応仁の乱後、七代の奮闘』(山田康弘、中公新書、2023年)

    最初に長々と書いたように、なかなかややこしい室町幕府の足利将軍交代の流れを整理できればと手にとったのですが、その期待を超える充実した一冊でした。お薦めです。

    ここではほぼ定説とされる応仁の乱からを戦国時代として、応仁の乱時の第八代将軍・義政にもふれながら、主にはその後の7人の将軍、九代義尚、十代義稙、十一代義澄、十二代義晴、十三代義輝、十四代義栄、十五代義昭が細川、大内、畠山、三好、六角、赤松など幕府を支える諸氏・大名の力を借りながら、あるいはこれら諸氏が自らの権勢を高めるためにそれぞれ都合のいい将軍をたてようとする、その流れをわかりやすくまとめています。

    諸氏・大名も一族の中で主導権争いをします。この諸氏も名前に共通の漢字を用いていることが多く、そして将軍と諸氏の組み合わせが二転三転するので、なかなかすんなりと入ってこないわけです。詳しすぎても途中でついていけなくなるのが難しいところですが、この著作は新書ということもあってコンパクトながら、ここというところは押さえてあると感じました。将軍の性格的な部分や「人となり」も、際立ったところをうまくまとめています。

    さて、そのように、都落ちしたり、あるいは部下ともいえる諸氏に利用されるような形になりながら、なぜ室町幕府は続いたのか(約230年)、ましてや戦国時代、大名がみな天下を目指して戦いに明け暮れる時代というかつての印象からすると、戦国時代に幕府や将軍が必要なのかという疑問がわいてくるわけです。
    なので、あえて戦国時代に限ることで、将軍が必要とされた意味が浮かび上がってくるというのが筆者のねらいということになります。

    余談ですが

    日本史では「幕府」の名称については「鎌倉」「室町」「江戸」の後に「幕府」がつく言い方が一般的です。教科書もこうですね(徳川幕府という言い方もなくなないか)。将軍がもっぱらいたところ、その将軍のもとでの統治機構(役所)の所在地からの命名ということになりますが、鎌倉、江戸は違和感はないものの、室町という京都のある狭い一地域をとって呼ぶことはどうなのか、これは「時代区分」の鎌倉時代、室町時代、江戸時代も同様に感じます。鎌倉、江戸と並べるなら「京都幕府」じゃない? などと突っ込みたくもなります。いうまでもなく京都には朝廷があるので、こういう言い方は混乱するだけ、とても採用されないでしょうが。

  • 2023.10.17

    中国史を学ぶ おすすめ本②

    『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』の中で筆者の松下憲一さんは、中国の歴史を漢族と北方遊牧民との対立と融合とまとめるのですが、その「対立」を示すものが次々と打ち立てられる「王朝」、これが「覚えさせられる」国の名前になる。しかし松下さんが強調するのはむしろ「融合」です。

    北方から遊牧民たちが現在の中国の中央部(「中原」などとも言います)に入ってきて国をつくる、そこには以前から住んでいる人たちがいるわけで、どうしても本拠地から離れるために少数派となる遊牧民の支配層が住民たちをスムーズに統治するためには、その文化やくらしを頭越しに否定するわけにはいかない、一方で統治される側も北方遊牧民の文化を取り入れていく。その結果、現在につながる中国の生活習慣の中には、実は北方遊牧民由来のものが相当あると紹介されています。

    著書紹介の記事に「北魏を建国した」とあります。著作では「北魏にはじまる均田制は、隋唐をへて日本の班田収授となり、北魏の都洛陽は、隋唐の長安の基本形となり、さらに日本の平城京・平安京にも継承された」とされています。

    仏像の日本への伝来の歴史の中でも北魏の仏像は重要な位置をしめているので、この点でも関心を持って読むことができました。

    余談ではありますが

    私の高校時代の世界史の授業は思い出すと中国史ばかりで、先生はたぶんそちらが専門だったのでしょう、均田制とかやたら詳しく話をしていたように記憶しています。その中で、純粋な漢民族なんてほとんど残っていない、といった趣旨の話がありました。漢民族とはという定義そのものが難しいので、けっこう乱暴な物言いだと今は思いますが、強いインパクトがありました。

    戦争が続き(王朝が次々に代わり)多くの人が亡くなり、そして松下さんが書くように、中国史の半分を占める異民族王朝によって住民どうしが交わり、民族が「融合」していった結果は、「漢民族・・・」という思い出の先生の表現で説明できるようにも思えます。そうだとしたら、半世紀も前の話です、すごい先生でしたね、ただ、記憶は美化されがちなので、なんとも。

    松下さんのこんな刺激的な著作に高校時代出会っていたら、高校の世界史ももっと前向きに学べたのに、などと言い訳したくなってしまいますが、決して世界史を嫌いになったわけではなく、ずっと本は読み続けていますよ。

    例えば、中国の歴史というかアジアの歴史についての個人的なイチ推しは岡本隆司さん。

    『世界史序説』 (ちくま新書、2018年)
    『世界史とつなげて学ぶ 中国全史』(東洋経済新報社、2019年)
    『歴史とはなにか 新しい「世界史」を求めて』(山川出版社、2021年)

    岡本さんは中国史、特に清朝の歴史を専門とされているようですが、タイトルにあるように、狭い地域にとどまらない視野でアジア史を描こうという意欲が感じられます。「歴史とななにか」は鈴木薫さんとの共著。鈴木さんはオスマントルコの歴史の専門家で、本の紹介では、アジアの東西の専門家が文明、世界史を語り合う、とあります。

    経歴をみると岡本さんは京都大学で東洋史学を学んでいます。そっか、貝塚茂樹、宮崎市定らアジア史、中国史で名を残す研究者を生んだ京都大学の東洋史研究を受け継いでいるのかしら。

  • 2023.10.16

    中国史を学ぶ おすすめ本①

    中国の歴史、というかアジア史ですかね、最近読んで勉強になった著作を紹介します。

    『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』(松下憲一、講談社選書メチエ、2023年)

    朝日新聞の読書欄(書評)で、筆者の松下憲一さんのインタビュー記事が掲載されていました。そこで「発売前、歴史ファンの間で「講談社選書メチエで鮮卑拓跋(せんぴたくばつ)の本が出るらしい」と話題になった」とあり、それならばと購入。

    その記事では
    「鮮卑拓跋とは、3世紀に登場し、現在の中国北部やモンゴルなどで活躍した遊牧集団「鮮卑」の一部族「拓跋部」のこと。晋の衰退からはじまる五胡十六国の時代を統一した北魏を建国したことで知られる」
    とあり、そこだけとらえるとちょっと専門的すぎるのではとの感想も持たれそうですが、いやいや、中国史の理解を大いに助けるいい著作だと思います。

    世界史を学ぶ高校生、あるいはかつて学んだ人が「世界史は苦手」という時、その理由としてあげられる一番は「年号や、言語で異なるさまざまな人名などを覚えなくてはならない」ということがあるでしょう。国(王朝)の名前が次々に変わっていくことを覚える、理解することの大変さも、「苦手理由」のかなり上位にくるのではないでしょうか。アジアに限ったことではないですが、中国も間違いなくその例にあげられるでしょう。

    秦、漢、隋、唐などはなんとかなっても、それらの間に五胡十六国、五代十国などがでてきて、その数だけの国の名前を考えるといやはや、さらにここに北方の「匈奴」、この著作の“主人公”でもある「鮮卑」、さらには「突厥」「ウイグル」など、ちょっと強い印象を受ける漢字などで名付けられている遊牧民たちもでてくるわけで、ここでまた「世界史嫌い」をつくってしまいそうです。

    インターネットで検索すると「中国の王朝の覚え方」などという、漢字のごろ合わせみたいなノウハウが紹介されていて、ああこんなことが「暗記の世界史」という思い込みを広げているのだと感じます。

    この著作はタイトルにあるように、また新聞記事にあるように、中国の歴史を時間軸で描くもの(いわゆる「通史」的なもの)ではありません。ただ、中国の歴史の本質的なところを見事にとらえていて、読む価値があると思うのです。

    「中国の歴史は、漢族と北方遊牧民との対立と融合の歴史でもある。中国王朝のなかには、夷狄とか胡族と呼ばれる北方遊牧民が支配者となったいわゆる異民族王朝がある」

    として五胡十六国、北朝、五代、遼、金、元、清があげられ、さらに
    「近年では隋・唐も遊牧王朝とする見解が強い」、「つまり中国王朝の半分は異民族王朝が支配した時代といってもいい」。

    このように、冒頭で中国の歴史を大きく括ってくれるのがありがたい。もちろん専門家の間ではあたり前のことなのでしょうが、松下さんは
    「しかし従来、中華の形成における遊牧民の関与については、ほとんど語られてこなかった」
    と言います。そこで遊牧民社会、遊牧集団を理解する一歩として、「鮮卑」の一部族「拓跋部」の歴史、社会、生活を掘り下げていくということになるわけです。

  • 2023.10.14

    いままた松本清張 その③

    『天保図録』で改めて松本清張の作品を楽しみました。そうなると、かつて訪問した松本清張記念館を再訪したくなりますし(北九州市なのでちょっと遠いですが)、作家・松本清張について改めて知りなくなります。松本清張に関する著作をいくつか書棚からひっぱり出しました。

    『松本清張の残像』 (藤井康栄、文春新書、2002年)

    松本清張の代表作の一つ『昭和史発掘』の資料集めなどで、約30年にわたり松本清張を担当した文藝春秋社の女性編集者が振り返ります。松本清張全集66巻の編集も藤井さんが携わったそうです。藤井さんは後に、松本清張記念館の館長を務めます。

    藤井さんはこんなふうに書いています。
    「松本清張くらい自分の原稿について感想を求めた作家はいないのではないか。第一読者である担当編集者はみんなこれで苦労したと思う。(略)この作家の難しいところは、ほめればいいという態度は絶対に通用しないことだ。どこをどう読んでいるかのポイントが勝負なのである」

    『誰も見ていない 書斎の松本清張』の櫻井秀勲さんも同様です。原稿を渡されると、その場で読むようにいわれ、必ず感想を求められたそうです。

    「連載小説であれば、一回一回、書斎か応接間で頂いたばかりの原稿を読んで、感想をいわなくてはならないからだ。(略)頂いた原稿は社に戻ってじっくり読んでから、電話や手紙で感想をいうのが、いわば作家と編集者のあいだの暗黙のルール、黙契となっていたからだ。また作家もそのほうが気が楽だった。目の前で読まれると、どんな大作家でも緊張するからだ」

    作家と編集者の関係とは異なるところはあるにしても、新聞記者も社外の方から原稿をいただいたり、社外の方に原稿を渡すことがあるので、何となくわかります。

    藤井さんは記念館作りの計画段階から請われて関わります。記念館の設計にあたる建築事務所の人や展示を担当する人らに誘われて、記念館作りの参考に、山口県・津和野にある森鴎外記念館に出かけてそうです。なるほど、鴎外記念館も訪れたことがあり、感慨深く読みました。いやいや余談でした。

    さて、松本清張の仕事ぶりを櫻井さんがこんなふうに書いています。

    「松本清張は、旅だけでなく現場取材も丹念だったし、電話取材も巧みだった。これらの取材力を駆使して、短い一編を書く場合でも、惜しみなく時間、労力、資料を注ぎ込んだのである」

    先だって紹介した『森浩一の古代史・考古学』(9月4日久しぶりの「邪馬台国」その③、同5日その④)に森浩一さん(元同志社大学教授)の「交遊録」の項があり、松本清張もとりあげられています。以下。

    「清張さんが『芸術新潮』七一年一月号から連載「遊史疑考」を始めた後、森さんは自宅で電話を受けた。「松本清張です」と名乗り、前方後円墳や三画縁神獣鏡について細かな質問を始めた。三十分ほど続き、肘が痛くなったという」

    もちろんインターネットやメールのない時代です。

    『松本清張生誕110年記念 文春ムック みうらじゅんの松本清張ファンブック「清張地獄八景」』(文藝春秋、 ムック版、2019年)

    松本清張の大ファンというみうらじゅんさんがこれまで松本清張について書いてきた文章や対談記事などがまとめられているほか、清張原作のテレビドラマに出演している俳優へのインタビュー、後に続く推理小説家らが語る松本作品などを掲載しています。

    みうらじゅんさんということで「えっ、なんで」と思ってしまう人もいるかもしれませんが、いたって「まじめ」、“清張愛”にあふれています。松本清張の書斎での様子をとらえた有名なポーズ写真をみうらさんが真似した写真などもあり、これらはまあ、みうらさん流のサービス精神ですかね。

    結構読まれた(売れた)のでしょうか、2021年には文春文庫(『清張地獄八景』)にもなっているようです。

  • 2023.10.13

    いままた松本清張 その②

    この夏、ついつい読んでしまった松本清張の『天保図録』。松本清張の作品はそれなりに読んできてはいるのですが、やはり膨大な素晴らしい作品を送り出してきた作家だけに、まだまだ読んでいない傑作が見つかりそうな予感もします。亡くなられたのは1992年、30年もたつわけですが、「新作」が楽しめるのは何よりです。

    松本清張ほどの作家になると、人間松本清張、創作の秘密などを紹介する本もたくさんあります。

    『誰も見ていない 書斎の松本清張』(櫻井秀勲、きずな出版、2020年)

    北九州市の朝日新聞社に勤めながら芥川賞を受賞した松本清張が上京して作家として独立し、ベストセラー作家としての地位を築く時期に、出版社の担当編集者であった櫻井さんが、松本清張との出会いから思わぬ素顔までを振り返っています。

    「清張さんの文章は、現代ものと時代もので、それほどの差異がない。時代小説を読んでみるとわかるが、現代文なのだ」
    「どちらかというと松本清張という名は、推理作家としてのほうが強くなってしまったが、もとはといえば歴史・時代小説家であある」

    そしてこんな評価をしています。
    「長編の最高傑作は、週刊誌の連載としては二年八か月という異例の長期にわたった『天保図録』(一九六四年刊)だろうか」

    作家と編集者としての付き合い方にもふれています。松本清張のような国民的作家、大作家ともなるとそれは大変だろうと想像するところですが、櫻井さんは松本清張の自宅を訪問する時に、
    「夏はカットした西瓜(すいか)を買ってもっていった」

    「西瓜は二人でポタポタ、汁を垂らしながらかぶりつくのだが、これが一番気に入っていた。現在、松本清張記念館の中に、本物の書斎と応接間が展示されているが、じゅうたんに西瓜の汁がいっぱいこぼれていることを知っているのは、私だけだろう」

    その松本清張記念館(北九州市)の「館報 第22号」(2006年8月)で『天保図録』を小特集していることはすでにふれましたが、館報によると同記念館で『天保図録』連載時の挿画(挿絵)を集めた特別企画展「『天保図録』挿画展 風間完が描く江戸のひとびと」が開かれたようです。

    そうですね、新聞や週刊誌などに小説が連載される時には、挿画が文字通り加えられることが多い、その原画をみてもらおうという企画です。連載が後に単行本、あるいは文庫本などになると、まとめて一気に読めるのはいいのですが、挿画が添えられることはあまりありません。

    すこし調べてみると、松本清張の推理小説としての代表作の一つ『点と線 』の文春文庫版(2009年)には風間完の挿画が入っているとのことなので、早速購入しました。もちろん『点と線 』は鉄道の時刻表を使ったトリックが有名な、昭和が舞台の作品なので『天保図録』とは雰囲気は異なるりますが、なかなかいいです。

    『天保図録』や『かげろう絵図』には現在の社会認識からすると「この表現はまずいでしょ」「この言葉使いはどうか」といった点が見受けられ、ちょっと「どきっ」とさせられます。作品が発表された時代からやむをえない点でもあり、それぞれの本には丁寧な「おことわり」が載っています。

  • 2023.10.12

    いままた松本清張 その①

    えっ、なんで今さら松本清張なのと言われるでしょうね。発端は夏休み前、『天保図録』の文庫本の新聞広告が目にとまったことです。著者松本清張の名前が大きく書かれています。そこがウリですものね。「天保」とあるので江戸時代を舞台にした小説だろう、確かずっと以前に読んでいるはず、と考えめぐらせ、ためらっていたのですが。

    実家の書棚でやはり江戸時代を舞台にした『かげろう絵図』は確認したものの、『天保図録』は見当たらない。文庫本で計4冊の長編ながら、松本清張の作品は読みやすいですし、思い切って購入しました。先に結論ですが、『天保図録』は結局読んでいなかった、時代背景、登場人物で『かげろう絵図』の続編と位置付けられている作品でした。

    『天保図録』は週刊朝日で1962年(昭和37年)4月から64年12月の間、連載された時代小説です。後に朝日新聞社から単行本(上中下)で発刊され、さらには朝日文芸文庫でも発刊され、また「松本清張全集」にも収められているわけですが、改めてネット通販で確認すると、当然ながら古本での購入になります。このたびは、春陽文庫が装丁も新たに全4巻で発行した、ということでした。その新聞広告でした。

    さて『天保図録』の内容ですが、教科書でもおなじみ、江戸の三大改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)の最後、天保の改革期がタイトル通りその舞台、改革を推進した老中水野忠邦、腹心の鳥居耀蔵が江戸の町奉行として辣腕を振るい、部下を使っての陰謀にも手を染めます。もちろんこれに立ち向かう旗本や町人が出てきて、ドラマが展開するわけです。後に映画化されているようです(DVD化もされていました)

    松本清張が少年青年期を過ごした北九州市に同市立松本清張記念館があります。10年以上前になりますが一度、訪れています。小倉城のある公園の一角に位置し、東京にあった松本清張の自宅書斎(仕事場)をそのまま移して展示し、作品が紹介されています。

    また、研究者を招いてのシンポジウムを開催したり研究雑誌を発行したりしています。その記念館発行の「館報 第22号」(2006年8月)は『天保図録』を小特集しています(PDF版がインターネットで公開されていました)。

    博物館学芸員の方の作品紹介から引用します。

    「家斉の治下にあった五十年間の浪費政策の影響で、徳川幕府内には賄賂が横行し、社会・文化は奢侈(しゃし)を極めていた」
    「貨幣経済の発達と共に町人ブルジョアジーが誕生し、武士階級は困窮し、幕府の権威も失われつつあった」
    「明治維新の二十数年前、幕藩体制のひずみが顕在化した時代を、清張は多彩な登場人物を操り縦横無尽に描き出す」
    「かげろう絵図に続く大作である」

    天保図録に先立つ『かげろう絵図』。こちらは1958年5月~59年10月、東京新聞夕刊に連載された作品、こちらは文庫上下巻でしたが、つい勢いで、『天保図録』に続けて再読してしまいました。

    それにしてもこの『天保図録』、『砂の器』『球形の荒野』などの傑作、代表作を相次いで発表している時期に、これだけの大作を連載していたのですから、松本清張、やはりすごいです。

    松本清張についての説明は、私など手に負えません。単なる推理作家を超えた幅広い分野で膨大な作品群があります。
    松本清張記念館の公式ホームページに「松本清張について」というコーナーがあります。

    松本清張記念館の公式ホームページはこちらから

    春陽堂書店(春陽文庫)のホームページはこちら

  • 2023.10.10

    「天下統一」に異説--『戦国秘史秘伝』を読む

    「戦国秘史」という「そそられる」題名がついていて、また新書でもあるのでつい手が出てしまいますよね。もちろん筆者が藤田達生さんということが決定打ではあるのですが。

    『戦国秘史秘伝 天下人、海賊、忍者と一揆の時代』(藤田達生、小学館新書、2023年)

    このブログ「環伊勢湾戦争」の①②(8月25日、26日)でふれましたが、徳川家康と豊臣秀吉が唯一直接対決した「小牧長久手の戦い」については「環伊勢湾戦争」と呼ぶべきだと提唱している研究グループの中心がこの藤田さんです。

    「伊勢湾」をめぐって

    「環伊勢湾戦争」という新しい視点が興味深かったのですが、この『秘伝』でも織田信長が今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」(永禄3年、1560年)について

    「尾張時代の信長は、津島や熱田といった流通拠点の維持に腐心した。これは伊勢湾支配を構想していたからであろう」

    とし、その伊勢湾に臨む知多半島への進出しようと動いた今川義元と衝突することになる、そこから桶狭間の戦いは「知多半島の争奪戦」と位置付けています。

    それだけ伊勢湾が当時の列島の流通の重要拠点であったとの見方で、それが後に登場人物は変わりながらの「環伊勢湾戦争」(小牧長久手の戦い)にもつながっていくというとらえ方ですね。

    「伊賀越え」か「甲賀越え」か

    またかい、と言われそうですが、NHK大河ドラマ「どうする家康」で「本能寺の変」の直後に家康が堺から三河にやっとの思いで逃げ帰る、いわゆる「神君伊賀越え」がとりあげられていました。ドラマのその回の題も「伊賀を越えろ」でした。

    とはいえ、この逃走ルートには従来からいくつかの説があって、藤田さんはルートにあたる地域の治安状況、つまりは家康の逃走を助けたとされる「伊賀の忍者」あるいはそれと並び称される「甲賀の忍者」の実態などの研究をもとに、「甲賀越えの方が合理的理解だと考えている」とします。当時の国名としては近江、その中の甲賀郡を家康一行は主に通ったという説ですが、「近江越え」ではなく、この忍者のイメージから「伊賀越え」に対して「甲賀越え」という言い方になります。

    ではなぜ「伊賀越え」と後世伝わったのか。江戸時代になって「戦い」がなくなり、その能力を発揮する機会を失い勢いのなくなった伊賀勢(忍者)が、「自分たちの祖先は家康を助けるのにこんなにも働いた」ということをアピールしようとしたのだろうと藤田さんは推測しています。

    このほかにも本能寺の変の原因の一つのして近年注目されている、四国の取り扱いを巡って信長が明智光秀の考え方、要望を無視する指示命令をして、立場をなくした光秀が行動に出たという説、その裏付けともされる古文書(手紙)がどのようないきさつで発見され、解読されたのかなど、興味深い話が盛りだくさんなのですが、大河ドラマでつい先日とりあげられたところに関してもう一つだけ。

    天正18年でいいのか

    1590年(天正18年)、秀吉軍(家康も加わっています)が小田原に北条氏を攻めて降伏させます。この後に家康は江戸に移ります。秀吉が家康に江戸に行けと命令していましたね。

    藤田さんは「通説のように天下統一の完成を北条氏が敗退した天正十八年とすることは明らかな誤り」と主張します。というのも、藤田さんはこう述べます。

    「天下統一とは、城割・検地などの仕置きを通じて「日本六十余州」の収公を完了し、天皇の代行として関白が国土領有権を掌握することだった。決して、戦争を通じて反抗する戦国大名がいなくなることを意味するのではない」

    そして

    「秀吉が奥州再仕置を終え、諸大名に対して全国の御前帳と郡絵図を調進させた天正十九年に求めるべきなのである」

    と唱えます。単に「戦闘」が終わっただけでなく、その後に税制度などの統治体制が共通のものになって初めて「統一」と言えるということ、経済の視点も重要だということですね。

  • 2023.10.07

    ノーベル賞--余聞 (5) 利根川進さん②

    ノーベル賞ばなしの本筋から少し離れてしまいますが、『精神と物質』(立花隆・利根川進、文藝春秋、1990年)の中で、利根川さんへのインタビューについて立花さんはこう書いています。


    「分子生物学や免疫学の参考書を山ほど買いこんで、予備知識をたくわえた上で、ボストンに利根川さんをたずね、延べ二十時間にわたるインタビューをして戻ってきた」
    「利根川さんのところには、ノーベル賞受賞後、日本のジャーナリズムがわっと押しかけ、いまもインタビューの申し込みが山のようにある。しかし、どのインタビューも、同じような初歩的な質問と応答で終わっている」

    立花さんが2021年に亡くなった後の追悼記事で文藝春秋の方だったと記憶しているのですが、この取材のことを振り返っていて、利根川さんは当初、また日本からの取材、「初歩的な質問」に答えるのかといった姿勢だった、ところが立花さんが次々と突っ込んだ質問をしてくるので、利根川さんも熱が入り、長時間のインタビューになったそうです。

    そんな背景もあったのでしょう、インタビューの終わりのところでは、生物とは何か、科学はどこまで万能か、唯物論か唯心論かといったかなり哲学的な問いについての、緊張感のあるやりとりも収められています。

    例えば

    利根川「要するに、生物は非常に複雑な機械にすぎないと思いますね」
    立花「そうすると、人間の精神現象なんかも含めて、生命現象はすべて物質レベルで説明がつけられるということになりますか」
    利根川「そう思いますね。もちろんいまはできないけど、いずれできるようになると思いますよ」

    さらに
    利根川「ぼくは脳の中で起こっている現象を自然科学の方法論で研究することによって、人間の行動や精神活動を説明するのに有効な法則を導き出すことができると確信しています」

    立花「人文科学というのは、だいたいが現象そのものに興味を持っているんであって、必ずしも、その原理的探究に関心があるわけじゃないですからね」
    利根川「ぼくはね、いずああいう学問はみんな、結局は脳の研究に向かうと思います。逆にいうと、脳の生物学が進んで認識、思考、記憶、行動、性格形成の原理が科学的にわかってくれば、ああいう学問の内容は大いに変わると思います。それがどうなっているかよくわからないから、現象を現象のまま扱う学問が発達してきたんです」

    立花「そうすると、いわゆる超越的なものには、ぜんぜん関心がない」
    利根川「関心はありますが、非常に強い疑心を持って対処します。神のようなものが存在するとは思っていない」

    ここまで踏み込んだ質問をするのかと驚き、かつ感心しますが、立花さんの関心はやはりこのあたりあったのでしょう。本のタイトルが『精神と物質』であり、副題として「分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか」とあるのですから。

    ここでの発言の通り、利根川さんはノーベル賞受賞後、その受賞理由となった研究とはかなり異なる分野である「脳」の研究を主としていきます。

    手元の本の書き込みをみると最初に読んだのが1990年8月なので発行直後、2021年8月にも再読しています。同年4月に立花さんは亡くなったのですが、その時に読み直した形ですかね。

    田中角栄元総理の金脈追及やロッキード事件・裁判取材などでジャーナリストとして高い評価を得た立花さんですが、科学分野の取材でも『宇宙からの帰還』(1983年)『脳死』(1986年)『サル学の現在』(1991年)など素晴らしい仕事を残しています。この『精神と物質』もまちがいなく代表作の一つだと思います。

    『精神と物質』は文春文庫にも入っていて、こちらの方が入手しやすそうです。利根川さんへのインタビュー形式なのですが、利根川さんの研究生活そのものが分子生物学が大きく進展する時期に重なり、利根川さんの研究がどまん中でその進展に貢献しているので、すこし古くはありますが、分子生物学のいい入門書になっていると思います。
  • 2023.10.06

    ノーベル賞--余聞 (4) 利根川進さん①

    ノーベル賞昔話で、かつての仲間の話になってしまいましたが、私自身がノーベル賞取材に「かすった」のは1987年、京都支局在籍時の利根川進さんの生理学・医学賞受賞です。日本人の生理学・医学賞受賞はこれが初めてでした。

    ちなみにこの時のこの賞の受賞者は利根川さん一人でした。各賞とも人数枠3名で選ばれるケースが圧倒的に多い。どの研究分野でも多数の研究者が「競争」しており、その中から3人が選ばれているわけです。ところが利根川さんは単独受賞、その研究分野がそもそも独創的で、加えて他の追従を許さない成果をあげた、ということでもあります。

    利根川さんは京都大卒業ということで、支局内は色めき立ったのですが、受賞時はアメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)教授でいらした。なので、京都で受賞時に「直接」取材をしたわけではなく(なので「かすった」のです)、後日、利根川さんが大学の同窓生の集まりで帰国し、そこで取材する機会がありました。

    利根川さんの受賞で日本人のノーベル賞自然科学分野での受賞者は計5人に、うち第1号の湯川秀樹、続く朝永振一郎、福井謙一、そしてこの利根川さんの4人が京都大学の出身、残る1人の江崎玲於奈さんが東京大出身でした。

    東京大に対して対抗意識の強い京都大関係者のみならず関西の人たちには「京都大学の自由な学風が独創的な研究を生み、それがノーベル賞受賞に結び付いている」みたいな思いがあり、それを当事者の口(つまり利根川さん)から言わせたいといった雰囲気がありました。取材する私にとって「尋ねないわけにはいかない」プレッシャーにもなったわけです。

    ところが利根川さん、笑いながら「たかだが数人のことでどこが多いとか、全然科学的じゃないよ」と一蹴。記憶があいまいなのですが、「京都大すごいと言わせたいんだろう」とこちらの狙いはお見通しとばかりに、ざっくばらんに返答してきたような気もします。

    つまり5人しか母数がないうちの4人が(京都大として)一致したところで、統計学の考え方からすると多いとはいえない、母数がもっと多くないとということですね。
    世界トップクラスの科学者に科学的じゃないと言われては、これはもう「恐れ入りました」しかありませんよね。

    利根川さんの研究、その意義についてはこの本をあげたい。というのも、インタビュアーが立花隆さんだからです。

    『精神と物質』(立花隆・利根川進、文藝春秋、1990年)

    利根川さんの受賞後、立花さんが取材をして月刊の文藝春秋に連載したものをまとめています。

    利根川さんは京都大理学部の時に、急速に研究が進んでいた分子生物学に興味を持ち、その分野の研究をしたいと考えたのですが、国内では十分な研究体制を持つところが限られていた。結局、京都大学の研究所に入ったものの、恩師の勧めでアメリカに留学します。

    利根川さんは言こんなふうに言っています。

    「周囲を見れば、分子生物学をやっている人はみんなアメリカで勉強してきた人たちばかりでしょう。自分も本格的に分子生物学をやるためには、絶対アメリカに行かなきゃだめだと思っていました」

    留学先のアメリカ、さらにはヨーロッパと、よりよい研究環境を求め学校や研究所を移り続けて研究を続けた利根川さんにとって、大学学部の4年間が自身の研究にどれだけの影響を与えたのか、大胆にいってしまえば、「京都を、日本を飛び出した、京都大学の学風が影響したところなどない」と考えていたのではないか、ただそう言ってしまうと身もふたもないので、「科学的じゃない」というちょっと茶化したような答えで「かわした」のではないかと、思い返しています。