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BLOG校長ブログ

2023年の記事

  • 2023.08.10

    「新曲」との出会い そして祈り

    さだまさしさんの作品『甲子園』は、さださん関連の本をきっかけに、発表の1983年から40年後の今年、私にとっての「新曲」となりました。この思わぬところでの出会いという曲が、さださんについてはまだあるのです。そのひとつは『償い』です。

    「裁判官の爆笑お言葉集」(長嶺超輝、幻冬舎新書、2023年)

    2007年初版、購入した版は第31刷という大ベストセラーです。「爆笑」となっていますが、法廷で判決文を淡々と読み上げるだけと思われる裁判官が被告に向かって結構生々しいコメントや意見を発言している、そんな事例を集めた本です。その冒頭に紹介されているのが、裁判官の「君たちは、さだまさしの償いという唄を聴いたことがあるだろうか」という説諭です。

    『償い』は、交通事故の加害者が毎月の給料を割いて被害者の遺族にお金を送りつづけたという内容の歌で、裁判官は傷害致死罪で起訴された少年2人の被告に反省の様子が見られないことからこの問いかけをしたのです。こう続けます。


    「この唄の、せめて歌詞だけでも読めば、なぜ君たちの反省の弁が、人の心を打たないかわかるだろう」

    この裁判、説諭は2002年のことで、新聞でも異例のこととして取り上げられました。

    さださんの1982年発表のソロ7枚目『夢の轍』(ゆめのわだち)に収められた曲です。しつこいようですが就職したばかりの時期でこの『償い』も発表時には聴いていません。この判決のニュースで「さだまさしにそんな曲があったんだ」と知ったのです。実際にあった話を歌にしたそうで、今でも聴くと胸がしめつけられます。

    もう1曲は『風に立つライオン』です。

    アフリカ・ケニアで医療にあたる青年医師がモデルの作品、日本に残した恋人から結婚を知らされる手紙への返信という形で、アフリカでのくらしのこと、患者とのふれあい、日本への思いなどを語るという内容です。楽曲は1987年発表。

    この曲との出会いは1992年、茨城県内の塾で中学3年生の女子生徒に教えてもらいました。新聞社で学習塾の取材をしている時で、この塾では休憩時間にみなで音楽を聴くのです。クラシックやポピュラー、民謡、黒人霊歌など音楽のジャンルは問わず、塾長が毎回選曲をします。女子生徒にこれまで一番印象に残った曲を尋ねると返ってきたのが『風に立つライオン』でした。

    その時の新聞記事にはこうあります。

    女子生徒は「自分の好きなことをしようという青年、彼女と離れたことは可哀そうだが、女の人も男の人の人生を見守っていてあげて偉い」と解説してくれました。

    この時はすぐにCDを購入して聴いたと思います。

    その後さださんは被災地などでチャリティコンサートを積極的に行うのですが、へき地医療や災害現場での復旧活動にあたる人を支援する組織や人たちを支援する団体をつくります。その団体名が「風に立つライオン基金」。

    さださんにはすばらしい曲がたくさんありますが、いろいろな意味で、『風に立つライオン』はさださんの代表作の一つだと思います。思わぬところではありましたが、出会えてよかった楽曲の一つです。

    「風に立つライオン基金」の公式ホームページはこちら

    これも余談ですが・・・

    説諭で『償い』をとりあげた裁判官、『裁判官の爆笑お言葉集』でも説明されていますが、法律にのっとって淡々と進められるのが裁判、裁判官の個性が感じられる場面は少ない、いやむしろあってはいけないと多くの人が考えていると思います。私自身新聞記者をしていて法廷での取材経験はありますが、この本に出てくるような裁判官の「生の声」を聴いた記憶はありません。

    でも裁判官だって、法廷での被告人の態度とかに一言いいたくなることは絶対にあるはず、それをずっと我慢しているのだろうと推測します。この本は、実はそうでない、裁判官の「生の声」が結構聞けるんだよ、ということをとりあげたことが新鮮だったのでしょう。

    市民から選ばれた人が裁判官になる裁判員裁判制度が導入され、司法(裁判)を身近にしなければならないというのが近年の司法の使命の一つになっているなかで、裁判官が市民に届く言葉で語ることも重要になってきていると考える裁判官が増えているのかもしれません。考えすぎでしょうか。

    「甲子園、野球の歌 その1」(8月8日)で、さださんの『甲子園』が収められているアルバム「風のおもかげ」についても書きました。改めてCDの歌詞カードめくっていたら『祈り』という曲にこんなくだりがありました。

    「この町がかつて 燃え尽きた季節に / 私たちは誓った 繰り返すまじと」

    さだまさしさんは長崎の出身です。きのう8月9日、長崎に原爆が投下され78年がたちました。

  • 2023.08.10

    甲子園、野球の歌 その2

    さだまさしさんの作品『甲子園』のことを知り、すぐにその曲が収録されているCDアルバム「風のおもかげ」を購入しました。この1曲を聴くだけならネットでダウンロードできるし、その方が安価と若い人には笑われそうです。

    CDどころかレコードから音楽にふれてきた世代としては、楽曲がパッケージ、ひとつの「かたまり」として表現される形を大事にしたい、こだわりたいと考えています。「アルバム」というのですから、どういうテーマ、コンセプトで曲を作り、あるいは選び、どういう順番で並べるのかというのも、ミュージシャンの「表現」なわけです。まことに年寄りのこだわりではありますが。

    おかげで、アルバム「風のおもかげ」で『甲子園』以外にも魅力的な曲に出会えました。これって、ネット通販で必要な書籍をピンポイントで購入するのもやむを得ないものの、書店内を歩いて棚をながめることで思いもよらぬ本で出合える、ということと同じですね。

    さださんが野球を題材にした曲には『二軍選手』という曲があります。

    1989年発表のソロ14枚目『夢の吹く頃』に収録されています。カズレーザーさんも『うらさだ』(小学館文庫、2023年)で触れていますが、こちらは知っていました。

    売れない歌手(僕)とプロ野球二軍選手(彼)との友情、二人とも飛躍(歌のヒット、1軍定着)のチャンスは生かすことができなかったが、僕は小さな酒場で歌い続けている、彼はバッティングピッチャーとして投げ続けている、歌が好きだから、野球が好きだから、といった内容です。こちらもスリーフィンガーのギターが主伴奏、『甲子園』に雰囲気は似た曲です。

    さださんが尊敬し影響を受けたサイモンとガーファンクルの名曲「ボクサー」(1969年)を意識して作られた曲だと思います。

    まったくの余談ですが・・・

    『甲子園』の歌の舞台になっているのは喫茶店ですが、店内のテレビで野球中継を流しているわけです。最近の喫茶店ではちょっと考えられないので、若い人たちにはピンとこないかもしれませんね。

    スポーツバーなどにサポーターが集まって観戦・応援することになぞらえたらとも思いましたが、こちらは積極的に「観る」、みんなで「観て盛り上がる」ことが主目的。

    ところが喫茶店のテレビで流れる野球放送は「なんとなく見ている」「時々目に入る」ですね。見ない人もいるわけです。アルバム発表の1983年は昭和58年、昭和の終わりが近づいていました。

  • 2023.08.08

    甲子園、野球の歌 その1

    高校野球、いわゆる夏の甲子園(全国選手権大会)の熱戦が続いています。広島カープ監督新井貴浩さんの球児たちへの素晴らしい応援メッセージについて紹介しましたが(6月20日付ブログ)、その後、思わぬきっかけで同じような視点で高校野球をとらえている歌に出会いました。タイトルはそのものずばり、さだまさしさんの『甲子園』です。

    1983年発表された、さださんのオリジナルアルバム8枚目になる「風のおもかげ」に収められた1曲です。スリーフィンガー奏法(フォークギターの弾き方の一つです)のギターがメインの伴奏で軽快に歌われます。

    著作権があるので詞(さださんは「詩」と表記するのですがここでは一般的な方で)をまるまる紹介することはしませんが、喫茶店のテレビで甲子園の試合が放送されている、その店での男女の会話、やりとりが描かれます。

    「ホームラン」とテレビが叫ぶ(もちろん実際はアナウンサーが叫ぶのですが、こういう表現になるわけですね)のを受けて「また誰かの夢がこわれる音がする」。

    「3000幾つの参加チームの中で たったの一度も負けないチームはひとつだけ」、各都道府県大会の出場校を合計するとこのくらいの数になる、そして甲子園に出場して優勝するのは当然ですが1チームしかないわけです。ちなみに今年の大会、全国の予選参加チーム数は3744校でチーム数は3486とのこと(学校数とチーム数が一致しないのは合同チームがあるためですね)。

    「敗れて消えたチームも 負けた回数はたったの一度だけ」と続くところに、さださんの「敗者」へのまなざし、やさしさを感じるのですが、考えすぎでしょうか。

    さださんはアルバムのライナーノーツ(作者自身の解説)で次のように書いています(抜粋します)。

    「優勝チームの校歌を聴くとき、ああこの子たちは今年の夏一度も負けなかったのだなあと奇跡でも見る思いになる」
    「同時に、それ以外の、甲子園に来る事が出来なかったチームをふと思う。そうしていつも得体の知れない熱い思いに駆られてしまうのだ」

    さだまさしさんの曲は中学生からギターを弾き始めてから相当数聴いて、弾いてきました。ただ、このアルバム発表時はもう仕事についていたので音楽からは少し遠ざかり、このアルバムもこの曲「甲子園」も知りませんでした。それなりの年齢になってまたゆっくりと音楽を楽しむ余裕が出てきてから聴くのは結局、昔聴いていたロックでありフォークになってしまいます。さださんについてもベストアルバム的なものは購入して聴いてはいましたが、やはりそこではこの曲には出会えなかったのです。

    長々と思い出話になりましたが、ではどこでこの『甲子園』を知ったかというと、つい先日読んだ『うらさだ』(小学館文庫、2023年)でした。筆者が「さだまさしとゆかいな仲間たち」とあるように、落語家の笑福亭鶴瓶さんやミュージシャンの高見沢俊彦さん(アルフィーのメンバー)、やはりミュージシャンで災害地でのボランティアコンサートなどを一緒にしている泉谷しげるさんら、さださんと交友がある人たちが、自由に「さだまさし」を語っているという内容です。

    その中でカズレーザーさんがこの『甲子園』をとりあげていました。あの金髪で真っ赤な衣装の方です。さださんと交友があったことすら知らなかったのですが、思わぬところから新しい曲を知るきっかけに感謝しました。

    こんな発見、出会いを用意してくれるから、本を読むことはやめられませんね。

    カズレーザーさん、ネットで検索したら埼玉県加須市出身、熊谷高、同志社大卒だそう。埼玉の人だったんですね。

  • 2023.08.07

    「ひまわり」が咲き始めました

    校内の池・太鼓橋を渡って多目的スペースFVB(Future View Base)に向かう通路脇の斜面に植えられた「ひまわり」の花が咲き始めました。

    ウクライナ、ロシアの国の花でもある「ひまわり」。戦争について平和について考えるきっかけにしたいと昨年に続いて1000本の苗を植えました。

    昨年とほぼ同時期の開花で、18日の生徒登校日のころには満開となりそうです。

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  • 2023.08.07

    「甲子園の土」と沖縄

    開幕した高校野球、夏の甲子園大会で、選手たちが試合後に甲子園球場のグラウンドの土を集めて持ち帰ることが4年ぶりに認められ、テレビ中継や新聞でその様子が報じられています。毎年、おなじみの光景だったのですが、新型コロナウイルスの感染拡大以降、チーム入れ替え時の接触を避け、また、入れ替を速やかに行うために控えるよう呼びかけられていたとのこと。

    この甲子園の土については、1958年(昭和33年)夏の大会に沖縄勢として初めて出場した首里高校をめぐる話がよく知られています。とはいいつつ、今の高校生は知らないかもしれません。沖縄は今秋の本校修学旅行先の一つ、事前学習にもなりそうなのであえて取り上げます。

    インターネットなどで検索すると、この話はすぐに見つけられると思いますが、今回の引用は以下によります。

    『不滅の高校野球 下 栄光と感激のあと』(松尾俊治、ベースボールマガジン社、1984年)

    ちょっと古い本ですが、著者は毎日新聞の記者(大先輩です)、発行年からして「教材」「資料」として購入したのだと思います。

    1958年の夏の大会は40回記念ということで、アメリカの統治下にあった沖縄の代表として首里高校が出場することになりました。初戦で敗れ試合後、グラウンドの土を袋に入れ持ち帰ろうとしたのですが、沖縄・那覇港でその土は検疫官によって没収され、海に捨てられてしまいます。土は植物検疫法に触れるという理由だったそうです。

    今でも、多くの国で海外旅行で持ち込んではいけないものがありますよね。生物多様性の維持、外来種の入り込みを防ぐために動植物の輸入・持ち込みが禁じられます。この「土」もその例、沖縄は「外国」だったわけです。

    この話を聞いた日本航空のスチュワーデスさんが、土がだめなら検疫に触れない石をと、甲子園の外野で拾い集めた数十個の小石を甲子園をかたどった形で箱に詰め、スチュワーデスのリレーで首里高校に届けられました。この石は、甲子園出場を記念して校内に設置された「友愛の碑」に埋め込まれています。



    1958年第40回大会に出場した首里高校の選手たち。写真は「那覇市歴史博物館デジタルミュージアム」より。

    この首里高校の選手たちと甲子園の土については、沖縄の高校の先生が著した「高等学校 琉球・沖縄史」(新城俊昭、1998年第3刷)でも取り上げられています。同書では選手たちが砂を集めている写真も掲載されていますが、『那覇百年のあゆみ』(那覇市企画部市史編集室・編、1980年)によっているようです。

    この1958年が沖縄県勢の初出場、甲子園初勝利は1963年(昭和38年)の夏の大会、同じ首里高校。初優勝は沖縄の本土復帰後の1999年(平成11年)春のセンバツ大会での沖縄尚学高です。

    内閣府のホームページ「沖縄県民を熱狂させる野球」に、沖縄の高校野球が詳しく紹介されています。こちら

    その冒頭、こんなくだりがあります。

    「沖縄とスポーツ」を語る上で、野球の存在は欠かせません。特に高校野球に対する熱は極めて高く、沖縄のチームが甲子園で試合をする時は、多くの県民が自宅や職場、ショッピングモールなどでテレビ中継に釘付けになります。その様子は、試合の最中に「道路から車がいなくなる」と言われるほどです。高校野球が一スポーツにとどまらず、一つの「文化」として地域に根付いているといっても過言ではないかもしれません。

    そんな大げさな、と思われるかもしれませんが、10年以上前の私的な経験です。

    沖縄で児童生徒向けのニュース解説の催しを地元新聞社が主催。講師役のジャーナリストのアテンドをしました。その新聞社の人が、会場(ホール)が野球場と同一敷地内にあり、高校野球県大会の最終盤に差しかかっていた時期だったため、野球観戦による付近の交通渋滞が心配、そもそもみんな野球観たくてイベントに来ないのではないかと真顔で心配していたことが忘れられません。幸い、イベントは満席になりましたが。

  • 2023.08.04

    「オフサイド」の歴史

    女子サッカーのワールドカップ(W杯)、日本代表「なでしこジャパン」は1次リーグを全勝で突破、5日の決勝トーナメント1回戦でノルウェーと対戦します。代表チームの専属シェフのことにふれましたが(7月31日)、やはりサッカーからみながら少し変わった切り口で。サッカーやラグビーを観戦する際に「わかりにくい」といわれる「オフサイド」のルールがなぜあるのかを探究した名著があります。

    『増補 オフサイドはなぜ反則か』(中村敏雄、平凡社ライブラリー、2001年、原著は1985年)

    そのものずばりのタイトルではありますが。

    さてそもそもオフサイドです。まずはサッカーに絞りますが、同書によりざっくりと「プレイヤーがボールより前方でプレーすること」を反則とする、すこし詳しく「ゴール・キーパー以外の相手チームの誰よりも相手ゴール・ラインの近くにいて、そこで攻撃側プレイヤーが後方からパスされたボールを受け取るような場合、このプレイヤーはオフサイドであるという」

    インターネットなどでサッカーのルール解説などを検索してみると、攻撃側の選手による「待ち伏せ」や「抜け駆け」を防ぐため、などと説明されています。その目的として「もしオフサイドがなければ、攻撃選手はゴール前に張り付いて、味方からのパスを待てば得点できるゲームになってしまいます」とあり、それはそうですね。「試合をより面白くするために設けられたルール」ともありましたが、ちょっとわかりにくいですよね。

    筆者の中村さんは「オフサイドがなぜ反則なのか、誰が、どのような理由で決めたのかと問われると答えは容易ではない」という問題意識をもって、「オフサイド」の起源を探ります。

    まず考えていく前提を中村さんが示します。

    ・オフサイドは、二つのチームのプレイヤーが互いに入り混じって行うボール・ゲーム、すなわちサッカー、ラグビー、ホッケー、アイスホッケーなどに取り入れられている反則の一つ
    ・同じボール・ゲームでも、ネットをはさんで行うテニス、卓球、バレーボール、あるいは交互に交代する野球、ソフトボール(略)などにはないルール(略)

    言われてみればあたり前ですが

    ・ところが、二つのチームのプレイヤーが互いに入り混じるボール・ゲームでありながら、バスケットボールにはオフサイド・ルールはない
    ・同じように二つのリームのプレイヤーが入り混じるボール・ゲームでありながら、イギリス生まれのものとアメリカ生まれのものとの間にど うしてこのような相違が生じるのか
    ・イギリス人がなぜアメリカン・フットボール、バスケットボール、野球、ラクロスなどのアメリカ生まれのスポーツに親しまず、アメリカ人がなぜラグビー、サッカー、ホッケー、クリケットなどのイギリス生まれのスポーツになじまないのかという問題

    と続きます。

    おーっ、この先を読まずにいられない問いかけですよね、そして、このあたりが、なぜオフサイドが反則なのかという答えの伏線になっています。上質な推理小説を読むようです。
    (ここでアメリカ人がサッカーになじまないとありますが、女子W杯でもアメリカは優勝候補ですし、本著の発行のころの受け止め方ですね)

    さて、オフサイド・ルールがボール・ゲームの歴史のなかに初めて文書に残る形で登場するのは1845年、イギリスのラグビーという学校で、生徒がルールを成文化した時のことだそうです。ラグビー校は競技としてのラグビー発祥の地とされています。しかし、ここの至るまでに当然、オフサイドを「いけないもの」とする歴史があったと推測はされるものの、「確実なことはわからない」、なあーんだ、ではなく、確実ではないからこそ探求する醍醐味があるわけですね。

    イギリスにおいてフットボールは村祭り、村をあげてのイベントがそもそもの起こりということは結構知られています。それが次第に学校の校庭で行うスポーツになってくる。村祭りのイベントだったので、多くの人たちが密集を作りボールを奪い合う、乱暴な面も相当あったでしょう。しかし学校スポーツとなるとルールを決めないと試合が成り立たなくなってくるわけです。

    それとオフサイドがどう関係するのか、いよいよ核心が近づいてくるのですが、正直、ここで中村さんの「解答=考え方」をあっさり紹介してしまうのはどうかと思うのです。意地悪いですかね。

    ただ、冒頭のネット検索にある「待ち伏せ」「抜け駆け」はある1面は突いているようです。「卑怯」じゃないか、といった心持ですね。学校スポーツとして発達した競技、いわゆるパブリックスクールと呼ばれるイギリスの上流階級、紳士を育てる学校なので、何よりも「卑怯」は嫌われる、そんな仮説が思い浮かびますよね。

    この本には2002年に読了の書き込みがありました。久しぶりに読み返して、仮説は半分正解でした。以下の部分に赤線が引いてありました。

    (村祭りイベントでの特徴的な形態である)密集から<離れていく>行為や<離れている>行為が「よくない」行為とされ、やがて禁止されるようになった理由としては、それによって「突進や密集」の少ないフットボールが行われるようになり、フットボールの神髄でもあり、また楽しみや面白さの中心でもある「男らしさ」を示すプレーが見られなくなるということ

    (村祭りイベントは1点取ると終わりとなったので)フットボールを1点先取というルールで行われる競技として受け継いでいく以上、この1点が容易に得られないようなルールや競技構造のものにしてしておく必要があった

    なんと、わざわざ多く点をとれないようにするためにオフサイドルールが生まれ、引き継がれてきた、というのです。

    この本でのこの結論「えーっ」と首をひねる人もいると思います。中村さんの見方といってしまえばそれまでかもしれませんが、「伏線」と書いた部分、「イギリス人がなぜアメリカン・フットボール、バスケットボール、野球、ラクロスなどのアメリカ生まれのスポーツに親しまず、アメリカ人がなぜラグビー、サッカー、ホッケー、クリケットなどのイギリス生まれのスポーツになじまないのかという問題」につながっていませんか。ここでいうアメリカ生まれのスポーツ、どんどん得点が入りますよね、対してイギリス生まれはどうでしょう、と。

    「もともとあまり点が入らないようにしてある」のだから、なでしこジャパンがなかなか点を取れなくてもイライラしないようにしましょう。でもどんどん得点をあげて勝ち進んでもらいたいものです。

    この本は、オフサイドの「歴史」をさぐるという内容ですが、イギリス文化史、あるいは教育史としても読みごたえがあるものです。またスポーツと歴史、文化を考えるうえで示唆に富んだ、以下のように考えさせられる問題提起もしています。

    フットボールにはいくつもの種類があることを紹介しつつ、「人間はボールを足で扱ういろいろな遊びや競技を多様に行っていたことは明らか」それは「人類が同じような身体的条件を持ち、同じような感情的反応をするからであろう」が、「イギリス生まれのフットボールだけが世界の人びとによって盛んにおこなわれるようにな」ったことは「単純に、フットボールが誰にでも親しまれるような面白さや楽しさをもっていたからであるというように考え」るべきではなく、イギリスが資本主義国として巨大な支配地域と富を築きあげ、政治・経済の優位性とそれを支える科学、技術、学問、思想、制度等々が、彼らの創出した文化財の文化的価値を高めていたということに注目する必要がある、と指摘しています。

    大変重要な視点だと思います。

    とはいえ、スポーツルールについてあれこれ考えることが、文化の多様性を考えることにつながることは実にいいことではないでしょうか。中村さんはスポーツルールの不思議をほかにもいくつかあげています。
    ・ラグビーのボールはなぜ楕円球か
    ・アメリカン・フットボールのタッチ・ダウンはなぜ6点なのか
    ・バレーボールはなぜ3回で相手コートにボールを返さなければならないのか
    ・陸上競技の三段跳びはなぜ三段跳びなのか、四段跳びや五段跳びではなぜいけないのか

    笑ってしまいそうですが、確かに、という疑問ですよね。

  • 2023.08.03

    「R16」から酷道・道路趣味へ

    本校のすぐ側を通る国道16号をとりあげ、「R16へのこだわり」と題してブログで2回書きました(7月27日、28日)。その続きというわけではないのですが、毎日新聞に『「酷道」にひかれて』という記事が掲載されていて(7月23日)、そうそう国道・酷道の本があったと、書棚から発掘しました。引き続き16号もでてきます。

    『ふしぎな国道』(佐藤健太郎、講談社現代新書、2014年)
    『国道者(こくどうもの)』(佐藤健太郎、新潮社、2015年)

    筆者の佐藤さんは、道路を面白がり興味を持つのはなぜか、鉄道ならまだわかるけどと、何度も聞かれたそうですが、「鉄道方面には全く何の興味もない」。ああ、そうですかと「鉄」としては苦笑せざるをえませんが、『ふしぎな』は「道路そのものを楽しむために書かれた国道マニアの入門書」とされ、国道の歴史や特徴のある国道などが紹介されています。その一節として「酷道趣味」があり、また「国道標識に魅せられて」などマニアックな内容も含まれています。

    では酷道って何? ということですが、毎日新聞の記事がわかりやすいです。

    幹線道路としてのイメージがある国道だが、道幅が5メートルに満たなかったり、崖の上を急カーブを繰り返しながら通ったり、木々に覆われ林道のようだったりする道もある。そんな悪路を人は「酷道(こくどう)」と呼ぶ。通行困難で、思わず「これはひどい」とため息をもらしそうな道だ。

    はい、青森県の竜飛岬にある車の通れない「階段国道」などは、旅行ガイドブックにも「名所」として掲載されよく知られています。

    佐藤さんによると「危険な都道府県道などには「吐道」(都道)、「獰道」(道道)、「腐道」(府道)、「険道」(県道)、「死道」(市道)、「苦道」(区道)、「損道」(村道)などという言葉も存在している」。ちょっと笑ってしまいますよね。
    そして「こうした酷道の愛好者は多く、道路趣味者の中でも最大勢力を誇っている」のだそうです。

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    この形の国道の号線の標識をマニアは親しみをこめて「おにぎり」と呼ぶそうです。うまいネーミングですねえ。

    「ROUTE」との英文表記も加えられますが中にはスペルが間違っているものもあり、それらを探すのもマニアの楽しみ? だとか。

    まさか、と疑ってしまいますが、『ふしぎな』に実例写真が何点か掲載されています。

    『国道者(こくどうもの)』は北海道から沖縄まで、特徴のある国道を「号線」に分けて紹介しています。

    「国道16号」については、首都圏を大きく回る国道で「東京環状」とも言われるものの、三浦半島の先端近く横須賀市の走水と東京湾を挟んですぐ対岸の千葉県・富津岬の間が海に隔てられていて、もちろん道路はなく、完全な環状になっていないことを指摘。この東京湾の道路が欠けている部分にかつて「東京湾口道路」を造ろうという計画があったこととの関連に触れます。

    東京湾の神奈川県側と千葉県側をつなぐ道路としては「東京湾アクアライン(トンネルと橋)」があるわけですが、それよりももっと東京湾の入り口に近いところにも道路橋をつくろうという計画でした。

    そうそう新聞記者時代に建設中のアクアラインを船で視察取材する機会があり、それとは別にもう一つ東京湾と横断する橋を造ろうという計画を知り、びっくりしたことを思い出しました。『国道者』によると、この「東京湾口道路」計画は事実上棚上げになったそうです。そうでしょうねえ。

    どちらの本も「へーっ」の連続で、あまり難しく考えず楽しく読めると思いますが、筆者の佐藤さんも、毎日新聞の記事でもふれていますが、酷道はかなり危険なところもあり、走る際には十分な準備と注意が必要ということでした。

  • 2023.08.02

    プリコジンの「乱」本能寺の「変」

    ウクライナに侵攻しているロシアの民間軍事会社ワグネルの創始者、プリゴジン氏がロシア・プーチン政権に対して反乱を起こした事件がテレビ報道などで「プリゴジンの乱」などと呼ばれているのがずっと気になっています。日本史では「乱」とか「変」とかおなじみですが、そもそも外国での出来事だし、誰が命名した?

    おりしも、これまでしつこく取り上げているNHKの大河ドラマ「どうする家康」は織田信長が明智光秀に討たれる「本能寺の変」が終わり、その時大阪・堺に滞在していた家康が少人数の部下とともに領国・三河に逃げ帰る必至の逃避行、いわゆる「神君伊賀越え」が30日放送の中心でした。

    日本史ではこの「本能寺の変」という名称は当然のごとくに使われ、「本能寺の乱」とか「本能寺の戦い」とか言われません。では「乱」と「変」、その違いは、ということが気になりだすとスルーできない性格。というわけでずばり

    『乱と変の日本史』(本郷和人、祥伝社新書、2019年)

    これまで何度も紹介してきた本郷さんの著作、何やら困った時の本郷さん、かしら。

    本郷さんは日本の歴史のなかで起きたさまざまな戦争・戦いの名称について

    「乱(例・承久の乱)」
    「変(例・本能寺の変)」
    「役(例・前九年の役)」
    「戦い(例・長篠の戦い)」
    「合戦(例・宝治合戦)」「陣(例・大阪の陣)」
    「騒動(例・霜月騒動)」

    などをあげています。(宝治合戦、霜月騒動はいずれも本郷さんのご専門、鎌倉時代の出来事でちょっとなじみがないかもしれません)

    この本で初めて知ったのですが、1221年(承久3年)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとして敗北した「承久の乱」は戦前は「承久の変」と呼ばれていたのだそうです。武士(鎌倉方)が朝廷に勝ったこと(上皇が流罪となった)を国民に広く知らせる必要はないという歴史観のもと、大した戦いではなかったという意味で「変」を使い、学校ではあまり教えなかったとも説明しています。

    この例をあげて本郷さんは「国全体を揺るがすような大きな戦いを「乱」、影響が限定的で規模の小さな戦いを「変」ととらえていいのではないか、非常に大きな歴史変動を引き起こす事案が「乱」、それほどでもないのが「変」、単発の戦いではなく数か月から数年かけて起きたひと続きの戦いであれば「乱」ととらえていいかもしません」と書いています。

    としつつも、「実は、何をもって「乱」「変」「陣」「役」「合戦」と言うか歴史学上の定義はない、学問的には決まったルールはない」「学術的に分類していくべきだが、学界ではそういう取り組みがなされてきていない」とし、「私(本郷さん)の感覚では、戦争がもっとも規模が大きく、次いで「役」「乱」「変」「戦い」と規模が小さくなっていくように思います」と結んでいます。

    辞書的には(三省堂国語辞典第八版)

    「乱」 戦争。騒動。内乱。「応仁の乱」
    「変」 事変。事件。「桜田門外の変」
    「役」 昔の、大きな戦い。「西南の役(=西南戦争)」

    などとあり、説明はないものの「乱」の方が「変」より戦いの規模が大きいようには読み取れますね。

    少なくとも、その戦い・争いを起こした当事者が「これは〇〇の乱だ」「これは〇〇の変だ」と自称、あるいは公言し、記録に残したということは日本史の中ではあまりないでしょう。その戦い・争いを後日、記録者あるいは研究者、歴史家が「〇〇の乱」とか「〇〇の変」とか呼び、場合によってはいろいろな呼び方が並び、例えば教科書に使われることなどによって、呼び方として残るべきものが残った、ということなのでしょう。なので「承久の変」が「承久の乱」に代わることもありうるわけです。

    さてそうなるとプリゴジンの乱、確かにこのように名付けるともっともらしく聞こえますが、プリゴジンの反乱でなぜだめなのか。本郷さんが書いている、単発の戦いではなく数か月から数年かけておきたら「乱」という見方をあてはめると、今のところプリゴジン陣営の軍事行動はあっというまに終わってしまっています(モスクワに向かったいう武装勢力はすぐに引き返しました)。このプリゴジン氏の動きが非常に大きな歴史変動を引き起こす事案なのかも現時点では見通せません。もしかしたら「プリゴジンの変」くらいかも。

    7月30日の毎日新聞朝刊では「ワグネル」の反乱、と書いています。プリコジン氏がワグネルのリーダーであることは間違いないわけですが、今回の反乱がプリコジン氏一人の強い意志なのか、組織としてのワグネルがどう関わっているのかによって、「反乱」のとらえ方が変わってきますね。

    いずれにしても、これ、外国のメディアの命名ではないでしょう。国内で誰かが最初に言い出したのでしょう。どこかのメディアか。メディアが言い出し使いだして定着するネーミングもあれば、消えていくものもあります。さあ、この「プリゴジンの乱」とうい名称が生き残るかどうか、そちらも注目です。

  • 2023.07.31

    サッカー代表チームの専属シェフ

    サッカー女子ワールドカップ(W杯)1次リーグで日本代表なでしこジャパンはきょう31日、スペインと対戦です。この日の朝日新聞の「天声人語」で女子サッカーは男子に比べて待遇面などで差がある現状が指摘されています。海外遠征でも女子チームはこれまで飛行機はエコノミークラスでの移動がほとんどで、今回のW杯のオーストラリア・ニュージーランドへの移動は初めてチャーター機が使われたとのこと。これはすでにニュースで聞いていましたが、加えて「専属シェフもいると聞いてほっとする」と書かれていました。よかったです。

    この専属シェフは西芳照さんで、お住まいの福島県の地元紙のネットニュースで確認しました。その西さんの著作があります。

    『サムライブルーの料理人 サッカー日本代表専属シェフの戦い』(西芳照、白水社、2011年)

    サブタイトルにもあるように、西さんは男子代表チームの専属シェフとして貢献してきました。

    福島県にあるナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」で総料理長をしていた西さんに代表チームの専属シェフを、という声がかかり2004年のW杯ドイツ大会アジア予選からチームに同行、W杯もドイツ大会、南アフリカ大会にシェフとして帯同し、選手たちとともに戦ったわけです。この本は南アフリカ大会の後の時点での記録です。

    選手が外国でも衛生面で安心して食事ができることは当然のことで、ほっとできるであろう和食の提供、また試合前、試合後のコンデションや疲労度などを配慮したメニューを考え、必要に応じて国内から食材を持ち込み、また現地で調達する。そんな苦労が語られています。本の後半は2010年のW杯南アフリカ大会の「日記」というスタイルで、毎日のメニューが紹介されています。

    長い期間一緒だった岡田武史監督(当時)や、中村俊輔、長谷部誠、中澤佑二各選手らとのやりとりなども、興味深いですよ。

    そんな西さんですが、地元紙の記事によると、昨年のW杯カタール大会で男子代表トップチームの専属シェフは引退、女子のなでしこジャパンへの同行は、昨年インドで開かれたW杯予選を兼ねたアジア・カップ以来2度目、ニュージーランドは食料品の持ち込み規制が厳しいため、現地での調達が増えそう、とのこと。

    なでしこジャパンはすでに1次リーグ突破を決めており、西さんのメニューもその後押しになっていることでしょう。

    サッカー代表チームの「裏方」の本をもう1冊。

    『通訳日記 ザックジャパン1397日の記録』(矢野大輔、文藝春秋、2014年)

    岡田武史監督の後、2010年~14年に男子代表チームの監督を務めたのがイタリア出身のアルベルト・ザッケローニさん。「ザック」の愛称で呼ばれました。その通訳を務めた方が自身の「日記」をもとにその「戦い」を振り返りました。ミーティングでの監督の話し、代表選手選考や個々の選手の評価など、チームの戦術にもかかわってくるので結構なまなましいところもあります。

    いずれにしても、代表チームは監督、選手だけでなく多くのスタッフによって支えられていることがわかります。

  • 2023.07.28

    ミュージシャンから派生してーーR16へのこだわり ②

    細野晴臣さん、大瀧詠一さんだけではない国道16号つながりのミュージシャンとして矢沢永吉さん、ユーミンの2人をあげている本を紹介しましたが、国道16号線を主題にした本をもう一冊。

    「国道16号線スタディーズ」(塚田修一・西田善行編、青弓社、2018年)

    国道16号線へのこだわりがさらにディープというか、ほとんど論文集です。社会学やメディアの研究者などがそれぞれの視点で首都圏郊外のさまざまな表情を描きだします。

    「狭山・入間」についてはこんな記述があります。

    「入間市でないところに入間、狭山市でないところに狭山の地名が散在する事態が残されている」
    そうなんです、私もかねてから疑問でした。

    筆者は「ここで目を向けるべきは、狭山市と入間市の間に、二つの市が誕生する以前から存在し続ける基地だろう」とし、1937年、入間川町(現・狭山市)と豊岡町(現・入間市)にまたがる土地が軍用地として買収され、大日本帝国陸軍航空士官学校となり、さらに在日アメリカ軍ジョンソン基地となり、現在の航空自衛隊入間基地へのつながっていくことから、説明していきます。

    その航空士官学校を要として豊岡町、入間川町と周辺7か村の合併構想があったが実現しないまま敗戦となり、ジョンソン基地をはさんで北東側に狭山市、南西側に入間市がそれぞれ誕生したのだそう。

    この歴史とは別に、本校にも関わるであろう国道16号線と基地に関することが書かれています。

    1911年に日本で最初に飛行場として「所沢飛行場」ができ「陸軍航空学校」も設定されます(これが今の航空公園の由来ですね)。その学校の分教場として「当時の入間郡元狭山村・宮寺村・東金子村・金子村にかけての一帯に建設された飛行場がある。その名は「陸軍狭山飛行場」、現在の入間基地とは別の場所に、もう一つの飛行場があった」

    あれあれ、本校周辺のなじみのある地名です。

    さらに「狭山飛行場があったのは、現在の入間市南西部、十六号線宮寺交差点や三井アウトレットパーク入間の西方、武蔵工業団地などが立地する一帯である」として、「入間市史」に収められている航空写真が掲載されています。そのこともあって、この地に入間市立狭山小学校があり、狭山ゴルフクラブがある、とされています。

    国土地理院の空中写真のデータベースで探すとありました。おおきな四角いスペースが広がっています。本校のすぐ北側に飛行場が広がっていたようです。


    写真は「国土地理院地理空間情報ライブラリー」より。同ライブラリーのデータによると1944年(昭19年)9月24日、陸軍によって撮影されています。
    下の写真は書き込みを入れてみました。赤い線に囲まれた四角のスペースが飛行場だと思われます。滑走路が写っていませんが、軍事施設なので当時、写真を加工したのでしょう。
    四角スペースの左下隅、楕円形で囲っているところに、兵舎あるいは格納庫のような建物がいくつも並んでいることがわかります。
    右上から大きく曲がって飛行場の下を左に伸びている線が現在の国道16号にあたる道路でしょう(矢印で示しています)
    ほぼ中央部分に三角形で示した場所が現在、東野高校があるところです。