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BLOG校長ブログ

2023年の記事

  • 2023.07.12

    「自然」「もの」から歴史をみる その5

    「自然」や「モノ」を切り口に歴史を見る手がかりになる本をいくつか紹介しました。ズバリ「〇〇〇の歴史」のようなタイトルがついているとわかりやすいですよね。書棚から目についたものを抜いてきました。結構古い本もあるのですが、その内容は充実しています。

    学校での世界史の学習にも役立ちます、というすすめ方がいいかどうかはわかりませんが、世界史への興味をかきたてるのは間違いないと思います。

    『時計の社会史』(角山栄、中公新書、1998年)

    奥付をみると1994年初版、98年10版なのでかなりのベストセラーですね。機械としての時計の技術的発達という「時計そのものの歴史」と同時に、時計によって社会がどう変わってきたかを考察します。

    例えば、正確に時を刻むことができて労働時間をきちんと決められる、労働時間に応じた賃金が支払われることが産業革命から資本主義の発達には欠かせない条件であったり、地方ごとにバラバラだった時刻の決め方を標準時で統一し、きちんとした時計があってきめ細かな列車の運行が可能になり、鉄道が発達する、観光などが盛んになる、といった具合。

    筆者あとがきを引きます。

    「すなわち時計という機械の歴史ではなく、時計がつくる知的で抽象的な人工の時間が人々の生活とどう関わってきたかを、比較社会史的に考えてみたかった」

    『茶の世界史』(角山栄、中公新書、2001年)

    同じ筆者でやはり中公新書、こちらは1980年初版で手元にあるのは2001年26刷、大ベストセラーですね。本をチェックすると結構きれいなまま、きちんと読んだかな、積読かも。

    『ジャガイモの世界史 歴史を動かした「貧者のパン」』(伊藤章治、中公新書、2008年)

    これも中公新書、「〇〇の世界史」と意識して発刊しているのですね。こちらには2008年に読了の日付が書き込まれていて、アンダーラインもかなりひかれています。

    南米で生まれたジャガイモが世界に広がり、「ジャガイモは歴史の曲がり角や裏舞台で大きな役割を果たしている」として、フランス革命、米国大統領、産業革命、足尾鉱毒事件などがあげられています。
    アイルランドの農民はジャガイモを主食としていたものの飢饉で多くのアイルランド移民が米国に渡った。その子孫が第35代米国大統領のJ.F.ケネディ、といったように。

    以下のような部分に赤線が引いてありました。

    「ジャガイモのヨーロッパでの普及は、迷信の壁に大きく阻まれた。ジャガイモがもたらされるまで、ヨーロッパの多くの地方には、地下の茎から取れる食用植物はなかった」
    「さらにキリスト教文化圏ではジャガイモは聖書に出てこない食物。これを食すれば神の罰が下るとの文化的偏見も加わる」

    『砂糖の世界史』(川北稔、岩波ジュニア新書、2006年)

    1996年1刷、手元にあるのは19刷、これも長く読み継がれていますね。ジュニア新書ですが、筆者の川北さんは「世界システム論」を提唱したウォーラーステインの研究者として内外で高い評価を得ている先生なので、面白くないはずがありません。

    世界中の誰からも好まれる砂糖を川北さんは「世界商品」と名付けます。世界中のどこでも必要とされるので、それを独り占めできれば、大きな利益をあげられる、だから「16世紀いらいの世界の歴史は、そのときどきの世界商品をどの国が握るか、という競争の歴史として展開してきた」。

    モノで歴史をみる、を大上段に掲げてあれこれ書いてきましたが、『砂糖の世界史』のエピローグ「モノをつうじてみる世界史--世界史をどう学ぶべきか」で川北さんがわかりやすくまとめてくれていました。

    「モノをつうじて歴史をみることで、どんなことがわかるのでしょうか」
    「ひとつは、そうすることによって、各地の人びとの生活の具体的な姿がわかります」
    「もうひとつの特徴は、世界的なつながりがひと目でわかるということです。とくに世界商品の場合は、まさしく世界に通用した商品ですから、その生産から消費までの過程を追うことで、世界各地の相互のつながりがみえるのです」

  • 2023.07.11

    「自然」「もの」から歴史をみる その4

    「銀」の話の続きというわけではないのですが、メダルの色でおなじみの「金銀銅」すべてをまとめて教えてくれる本があります。

    『金・銀・銅の日本史』(村上隆、岩波新書、2007年)

    本の帯に「石見銀山、世界遺産に登録」ともあるので、やはり石見銀山を意識した発刊でしょうか。

    まず「金」です。13世紀のイタリアの冒険家、マルコ・ポーロがその著作「東方見聞録」で日本を黄金の国と呼んだ、つまり「金」が豊富にあることを指しているわけで、仏像や建築に金がふんだんに使われていることを考えても違和感はないし、金鉱山(金山)もいくつもあったことがあげられます。

    「銀」については、石見銀山の例をあげれば、日本が銀の国でもあったことはわかりやすいですね。「銅」では弥生時代から青銅製品が造られていたことを示し、筆者の村上さんは「金・銀・銅を筆頭に、日本はかつて世界でもまれな金属の国だった」とまとめています。

    この三つの金属が国内でどのように産出され、何に使われ、さらにそれが社会経済をどのように変えていったのかが時代を追って説明されています。石見銀山の紹介の章は「銀の王国 石見銀山--世界をめぐった日本の銀」と見出しがついています。これだけで石見銀山の位置づけが十分わかります。

    江戸時代、列島で使われていた貨幣は江戸が金貨、上方(近畿・関西)が銀貨中心であることはよく知られていますが、この理由として「早くから拓けた銀山が西日本に多いことや、日本では古くから銀が使われており、先に文化が開けた上方のほうが銀を中心に経済が動き、関ケ原の合戦以降に金貨ができたことが江戸で金を中心とする要因となった」と説明されています。

    気になるのは「かつて金属の国だった」ということですよね、現在、金属の国といった印象を持つ人はほとんどいないでしょう。説明されてきた金、銀、銅山はほとんどが休山、廃鉱となっていて、金銀銅など多くの鉱山資源は輸入に頼っています。

    村上さんは、鉱山は地球から金属を取り出すことで、実は地球環境保全の立場とは相反する行為であり、「地球環境を犠牲にして人類は発展してきたといっても過言ではない」と注意喚起します。

    IT機器の普及などもあって金銀の需要は減っておらず、すこし前、携帯電話やパソコンを廃棄するにあたって機器の内部で使われている金属を回収して再利用することが「都市鉱山」などと言われました(最近はあまり聞きませんが)。地球環境とのかねあいで限りある資源を有効利用しようということで、この著作でも触れられています。大事な視点ですね。

    『世界史を変えた新素材』(佐藤健太郎、新潮選書、2018年)

    「新素材」ときくと現代の科学技術に結び付いた「モノ」を思い浮かべがちですが、歴史の中でその「モノ」が発見されたり開発された時は「新素材」であったわけで、この本で最初に取り上げられている新素材は「金」です。

    アンダーラインが引かれているところを見直すと「現在までに採掘された金の量は、世界中全て合わせても、オリンピックプール三杯分ほどでしかない」、えっ本当かと疑ってしまいますが、筆者の佐藤さんもこう続けます。「そんなバカなと思うような数字だが、金は水の二十倍近くも重たいため、重量のわりに嵩(かさ)が非常に小さいことも原因だ」と。
    確かに金はかなり薄く延ばすことが可能で、京都・金閣寺の外壁には金箔が貼られていますが約20キロもの金を使いながら金箔の厚さは約0.5マイクロメートルだそうです。

    このほかに取り上げられる新素材の「陶磁器」や「鉄」などは想像がつくとことですが、氷河期や寒冷期を人類が生き延びることができた寒さに強い皮膚に欠かせない「コラーゲン」は「動物が生み出した最高傑作」と評価されています。なるほどですね。

    このほかに「文化を伝播するメディアの王者」として「紙」がとりあげられるほか「炭酸カルシウム」「絹」「ゴム」「プラスチック」などが列挙されています。

    佐藤さんは「木材や陶器のように、これひとつであらゆる用途に対応できるといった材料は、もうそうそう出てこないと思える。すでにプラスチックがそうであるように、性質の異なる材料が多数創り出され、用途に合わせて使い分けられる形が増えていくことだろう」と歴史を振り返り、これからを見通しています。

  • 2023.07.10

    野球部 県大会快勝 2回戦へ

    全国高等学校野球選手権埼玉大会、いわゆる夏の甲子園大会の埼玉県予選を兼ねている大会で本校は9日、1回戦で狭山工高と対戦、快勝で2回戦に進みました。13日、城西大川越高と対戦予定です。

    試合会場の所沢航空公園球場、応援の一塁側スタンドには吹奏楽部のみなさんをはじめ生徒、教職員、選手保護者らが並び、打者が快音を響かせるたびに歓声があがりました。得点をあげると校歌をアレンジしたテーマが流れ、5回コールド勝ちでした。

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  • 2023.07.08

    「自然」「もの」から歴史をみる その3

    「イワシ」「ニシン」という「海のもの」、「鷹」「鶴」という山のもの、空のものに続いて「土、地面」からのものでみる歴史の本です。

    『世界を動かした日本の銀』(磯田道史・近藤誠一・伊藤謙ほか、祥伝社新書、2023年)

    島根県の「石見銀山遺跡」とその周辺の街並みや港などの「文化的景観」が世界遺産に登録されて15周年を迎えたことを記念して国際日本文化研究センターが開いた共同研究会(シンポジウム)の内容をもとにした書籍です。

    日本の貿易の歴史の中で「銀」が果たした役割は非常に大きく、世界史を変えたと言ってもいいくらいであることはこれまで関連する本で学んではいましたが、このブログでもたびたび紹介している同センター教授の磯田道史さんの基調講演というか概説が大変よくまとまっていて、いい復習になりました。

    日本では平安時代中ごろまで自前の貨幣・銅銭を造っていましたが、貨幣を使う経済が活発になるにつれてその量が間に合わなくなり、中国から貨幣・銅銭を輸入するようになります。いわば日本だけでなく「東アジアの国々は、長らく、(中国の)宋代にできたシステムや貨幣の土台の上に成立していた事実がよくわかります」と磯田さん。

    その中国が宋から元、さらに明と王朝が変わるにつれ、次第に銀貨が使われるようになるのですが、中国では銀があまり産出されない、そんなタイミングで石見銀山が発見されます。

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    石見銀山遺跡、大久保間歩(坑道)
    /清水谷精錬所跡(写真はいずれも石見銀山世界遺産センターのホームページ、写真ギャラリーより)

    16世紀から17世紀にかけての世界の銀の動きをみると、中国が輸入した銀の約7割は日本からのもので、大陸に近いといった条件を考慮すると、石見銀山産出の銀がもっとも多かっただろうと、磯田さんは推測します。「日本の銀、なかでも石見銀山が産出した銀が、中国の銀需要と銀本位制化を支えたことはまちがいありません」

    同じ時期にヨーロッパでも銀がもっぱら使われます。こちらはスペインが支配するポトシ銀山(現在のボリビアにあった)産出の銀が使われました。おおきなくくりで言うと、たった二つの銀山がこの時期の世界経済の発展を支えた、ということですね。

    石見銀山の銀など貴金属が日本の貴重な輸出品となり、日本も豊かになっていきます。「日本経済を石見銀山が引っ張った、石見銀山が日本の経済大国化の発火点となった。そう言えるわけです」と磯田さんは書いています。なるほど。

    このような石見銀山の「価値」を権力者が見逃すわけがなく、戦国時代の大名では大内氏、尼子氏、毛利氏が順に支配します。鉱山からの収入が戦国大名の戦いの軍資金となるわけです(鉄炮などの武器を揃えるのにもお金が必要です)。
    その後、いわば毛利氏の「利権」でもあった石見銀山に目をつけたのが豊臣秀吉で、毛利氏との力関係から銀山の収入の一部が秀吉のものとなります。さらに関ケ原の戦いで敗れた形となった毛利氏から石見銀山をとりあげたのが、関ケ原の勝者の徳川家康でした。

    サルファーラッシュ

    「銀」のように土中から得られる資源で日本の輸出品として大きな役割を果たしたものが他にもあることを教えてもらったのが『アジアのなかの戦国大名--西国の群雄と経営戦略』(鹿毛敏夫、吉川弘文館、2015年)です。

    おもに九州地方の戦国大名が大陸(中国)や東南アジアに近いという利点を生かして積極的に貿易に関わり、その利益を大名としての領国経営に充てていたという、その話がまず、米作り・年貢という一般的な戦国大名の印象と異なっていて興味深いのですが、その貿易、輸出品の中で「硫黄」が大きなウエイトを占めていたとして多くのページを割いています。

    硫黄は、金銀銅などのように坑道を掘って採鉱するものではなく、火山の噴火口などで採取できるので、高度な技術や施設は必要ない。鉄砲など火器が使われるにつれて火薬の原料となる硫黄の需要は国内外で高まります。そう、日本列島は火山が多いですよね、その硫黄が盛んに輸出されるわけです。

    筆者の鹿毛さんは、金鉱山に人々が集まり金産業が栄えた「ゴールドラッシュ」、同じく「シルバーラッシュ」になぞらえて、「硫黄鉱山の産地に人々が集い関連産業が栄えたこの状況を「サルファー(硫黄)ラッシュ」と呼ぶことができるだろう」と書いています。

    『銀の世界史』(祝田秀全、ちくま新書、2016年)

    南米のポトシ銀山産出の銀が大量にヨーロッパに運ばれ、その結果、ヨーロッパの経済の発展、例えば産業革命を通じての資本主義の広がりなどにつながっていくことが説明されています。

  • 2023.07.07

    「自然」「もの」から歴史をみる その2

    少し異なった視点から歴史を見る面白さ、「イワシ」「ニシン」という「海のもの」に続いて山のものというか空のもの? というか、「鷹」と「鶴」が主人公です。

    「鷹将軍と鶴の味噌汁--江戸の鳥の美食学」(菅豊、講談社選書メチエ、2021年)

    最近は「ジビエ」と呼ばれる、狩猟などで獲った野生の鳥獣肉が食べられるようになってきましたが、鳥肉というとカモが少し食べられてはいますが、もっぱら食用とされるのは鶏肉(ニワトリの肉)ですよね。

    ところが、鶏肉一辺倒になったのはごく最近のことで、歴史をみると鳥食は縄文時代までさかのぼることができ、特に江戸時代はかなりの種類の野生の鳥が捕獲されて朝廷、将軍家、大名から庶民まで幅広い層の人たちが食べていたというのです。

    鳥の種類によって「ランク」があり、売買される価格が異なるのはもちろん、その鳥を贈り物にするにあたっても、贈り先によってその「ランク」が重要視された、ランクを間違って贈ると失礼になる、というから驚きです。

    さらに、この贈り物ですが、いわゆる「使い回し」も頻繁におこなわれていて、「鳥」はそこでも重宝されたとのこと。「使い回し」は「一度使った物を、(捨てずに)次のときにも利用すること」(三省堂国語辞典)ですが、ここでは、贈り物としていただいた物を消費せずに、別の人への贈り物として使うことを言っています。

    つまり、贈ってもらった鳥肉を自分のところでは食べずに別の人への贈り物とすることです。このような「使い回し」は室町時代ごろからあたり前に行われていた習慣だということは以前、別の著作で読んで驚いたのですが、なにぶん「肉」です。使い回しているうちに腐ってしまわないか心配です。(それを言ったら、使い回ししなてくても獲ってからの輸送時間を考えると肉の保存は難問ですが、同書によると塩漬けも多用されたようです)

    このように多くの人に愛された鳥料理ですが、「ちょっと待って」と疑問を持つ人がいるはずです。おなじみの「生類憐みの令」です。

    五代将軍徳川綱吉が「生類」つまり生き物を大事にしろと掲げた法令です。建前が先行してさまざまな混乱を招いたとして悪法の見本のように語られてきましたが、近年では、戦国時代の「武」、つまり暴力を肯定する風潮から「文」の政治に切り換えたいという幕府の大きな政策転換の中にこの法令を位置付けるという見方もでてきています。

    そのような評価はおいておくとしても、野鳥を獲るなどというのは真っ先に法令違反として処罰の対象になるであろうことは容易に想像がつきます。それでも、監視の目をかいくぐって野鳥を獲る人が絶えなかったようです。

    江戸時代、その野鳥の中でも最上位にランクされたのが「ツル」、中世では「ハクチョウ」が最高位の鳥とされていたのがツルにとってかわるとのことで、その理由はさだかではないようですが、本のタイトルはここからきているわけです。

    ではタイトルの鷹、タカは何なのか

    生類憐みの令とは別に幕府は何度も野鳥捕獲の禁止令を出したようです。その理由は、タカの餌となる野鳥が減るから、つまりヒトがタカのエサを食べてしまうからです。
    訓練したタカを放って野鳥を獲る「鷹狩」は、信長、秀吉の時代から天下人、権力者の権威・権力の象徴として行われていました。趣味の域を超えていたわけですね。NHK大河ドラマ「どうする家康」でも、家康が信長の鷹狩に誘われるシーンがありました。

    /静岡市の駿府城址(駿府城公園)にある徳川家康像。左手に鷹を持つ、鷹狩の様子をデザインしています
    /柏市のホームページから。「鴨猟は手賀沼の冬の風物詩であった」との説明で1942年(昭和17年)の写真が掲載されています

    徳川幕府もそんな気風を受け継ぎ、代々の将軍は鷹狩に精を出します。その「会場」となる土地「鷹場」には鷹(タカ)の獲物になる野鳥がいなくてはならないわけで、これが庶民の野鳥獲りの禁止につながるわけです。

    幕末の1863年(文久3年)、十四代将軍家茂の鷹狩を最後に将軍による鷹狩が行われなくなり、大政奉還の年(1867年)には鷹場が廃止されます。「将軍の鷹狩を頂点とする江戸の鳥食文化も、武家社会の解体と足並みをそろえるように衰退していった」。

    この著作では江戸に鳥、特にカモを供給する場であった千葉・手賀沼での捕獲方法(猟の技術)、どのくらい値段で売られていたのか、それを担ったいた手賀沼周辺の人たちの生活などがていねいに描写されています。明治以降、近代的な猟法ともいえる猟銃による捕獲が盛んになり、また沼が埋め立てられて水田になっていくにつれてカモの量が減り、カモ猟が終焉を迎えるまでも説明されています。

  • 2023.07.06

    「自然」「もの」から歴史をみる その1

    歴史は人によってつくられる、というか人の営みの継続が歴史ということなので、人がなしえたことを探り、あきらかにしていくのが歴史家の仕事であることは言うまでもありません。ただ、「自然」や「もの」を切り口にする歴史もなかなか興味深いものがあります。面白く読んだ近刊を紹介します。

    「イワシとニシンの江戸時代--人と自然の関係史」(武井弘一・編、吉川弘文館、2022年)

    イワシ、ニシンはあの食べる魚です。それと江戸時代、なんのことかというと、どちらも江戸時代に肥料として大変重宝されました。とはいえ、養殖などができない江戸時代には、海で獲るしかなく、豊漁があれば不漁もある。農作業をする百姓にとっては死活問題でもあるわけで、ヒトともの(イワシやニシン)との関りが史料にもとづいて丁寧に語られています。

    江戸時代は商業が次第に発達していきますが、やはり農業、米作りが主産業、というか、幕府・大名の税金は米で取られたので、とにかく水田を増やす、米の生産量を増やすことにやっきになります。そのためにはよい肥料が必要です。糞尿や草木の肥料では量に限界があり、魚由来の肥料「魚肥」に頼ることになるわけです。逆にいえば、イワシやニシンという魚肥があったからこそ江戸時代の新田開発が可能になった、とも言えるでしょう。

    本書は、特に関連する史料がよく残っている加賀藩(石川県)の事例をその研究者が担当、また農業の歴史や流通経済の専門家らが分担して執筆しています。

    どのあたりの海で獲れたのか、どのような漁法(網の種類・変化など)で獲っていたのか、その後、どのように運ばれ、加工されて肥料となったのか、そして長い江戸時代を通じて、イワシだけではまかないきれなくなってニシンの需要が高まったいったことが紹介されています。

    例えば、ニシンが獲れるのは蝦夷地(北海道)なので、そこから日本海ルートで近畿地方などに運ばれてくるわけです。そのニシン漁には蝦夷地のアイヌの人たちが深くかかわっていたという大事な指摘もされています。

    イワシが古くから千葉県・九十九里浜などで多く獲られて肥料になっていたことは、千葉県内の博物館などで展示・紹介されているので予備知識はありました。また、北海道のニシンについても、北海道の歴史には欠かせない視点であることも理解はしていたつもりですが、魚肥がイワシからニシンにシフトし、それがどのように各地に広がっていったのか、やがてその役割を終え、近現代の肥料は化学肥料にとって代わることまでが、わかりやすくまとめられていて、大変勉強になりました。

    「今の農業は化学肥料に大きく依存し、その反面、従来からの魚肥や自然肥料が果たす役割は、しだいに小さくなっている。結局、江戸時代の百姓たちが喉から手が出るほど欲っしていたイワシやニシンは、数が減ったこともあり、かろうじて食用に供されている」とあり、イワシ、ニシンの歴史を通して、ヒトと自然との関わりを考えていきたいと編者は問題提起しています。

    イワシ、ニシンは時々食べますが、これからは味わいがかわりそうです。

    千葉県九十九里町にある「いわし資料館」のホームページ、こちらから

  • 2023.07.04

    本校はどう表現されてきたか その2

    7月3日の創立記念日にあたって、本校のキャンパス、校舎群などがどのように表現されてきたか、新聞記事のいくつかを紹介したのに続き、建築系の書籍から引用します。

    『学校建築の冒険』(INAX BOOKLET Vol.8 No.2 1988年)
    「江戸村や、映画のセットかと見まごうばかりの独特の環境が、しかし決して建築家の恣意的な独走ではなかったことは、ユーザーの誰からも不満の声があがっていないことでもわかる。設置者、建築家、ユーザーが互いの役割を認識しながら、それのみに止まらず、環境創造のデザインプロセスにどこまで関り合えるかを試した意欲的な作品である」

    「意欲的な作品」といった書き方が建築系ですね。

    『ポストモダン建築巡礼』(磯達雄・文、宮沢洋・イラスト、日経アーキテクチュア編、2011年)

    1975年~95年の間に建てられた、いわゆるポストモダン建築50の中に東野高校が選ばれ、写真イラスト付きで紹介されています。「カワイイ建築じゃダメかしら」というタイトル、ちょっとかわった視点での紹介記事です。取材者が本校を訪れてキャンパスを歩く、というルポ形式となっています。

    「小高い丘の上に位置するここ(旧食堂棟)からは、キャンパス全体が見渡せる。普通の学校なら、屏風のような校舎が視界を遮っているところだが、ここでは小さな家が立ち並ぶ集落のような光景が広がっている」

    このあたりは「集落」という言葉づかいもあって、木造建築、村といった従来の形容との共通点が感じられます。

    「カメラを持ってキャンパスを歩いていると、どこもかしこもシャッターを切りたくなる。そして、建物の中も外も居るのが楽しい」とあり、学校関係者としては嬉しい表現です。

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    さらに続きます。

    2000年代になってデザイン界で「カワイイ」という形容詞が注目されるようになり、「カワイイ建築」のキーワードは「スモール・スケール・センス」「家型」「こだわり装飾」「豊かな余白」などがあてはまるとし、「つまり東野高校はカワイイのである」

    うーん、ほめられているのでしょうが、なかなか難解ですね。

    「使える」と「カッコイイ」をその価値としてきた建築が、「カワイイ」へかじを切る。その始まりがこの年(1985年)であり、東野高校はその先駆けだったのだ、と結ばれます。

    単純にほめられるばかりではない例もあえてあげておきます。

    このブログでも何回かとりあげている建築史家、国際日本文化研究センター所長の井上章一さんの論考「しろうととしろうととの出会い」です。

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    「SPACE  MODULATOR  NO.68」(日本板硝子、1986年)
    東野高校を特集した雑誌で、本校キャンパスの紹介、写真グラフにあわせて何人もの建築家が本校建築への感想や批評を寄せています。井上さんもその一人です。

    「(東野高校の)建物の意匠は、歴史のなかで我々の脳裏にやきつけられているさまざまな形をくみあわせてつくられている。江戸の倉、なまこ壁、屋敷塀と門、いかにも田舎風の反り橋、イタリアの中世都市、教会、列柱のアーケード、等々である」

    なるほど、一言で特徴を言い表せない、という点ではやはり井上さんも同じです。

    「日本人の目で見れば、ほんらいの倉の腰をいろどるべきなまこ壁が上部にあしらわれているところなど、ちょっとあきれてしまう。池にかかる橋なども、どうかと思わざるをえない。悪口ついでにあえて言ってしまえば、フジヤマ・ゲイシャ風を好む外人の日本趣味が感じられる。擬和風建築といったところだろうか」
    「建築家たちのプロ意識からすれば、この学園はゲテモノであろう」

    いやいや手厳しい。しかし

    「しろうとくささとヘタさが、正々堂々とおさまっている。そして、この雄々しさは、訪問者をじゅうぶんに納得させる。じっさい、私などここしばらく建築鑑賞によってこれほど感銘をうけたことはない。友人たちにも、自信をもって、一見の価値があるところだと断言できる。プロの建築家たちには、こうした表現はのぞめない」

    けなして最後は持ち上げる。

    井上さんの批評のタイトルにある「しろうと」とは学園側(教職員)のことをさすのでしょうが、本校を設計・デザインしたアレグサンダーを「しろうと」と言ってしまうところが井上さんらしい。

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    この雑誌をたまたま手にしてページをめくっていて「あの井上章一が東野高校に見学に来たんだ」と驚きました。「狭山小学校ぞいの道をとおって訪れると、まず大講堂の姿が目にはいる」と書きだしています。

    本校の竣工・開校、雑誌の発行日から1985年~86年に来校していることになります。著作「霊柩車の誕生」「つくられた桂離宮神話」で注目され始めてはいましたが、この時は京都大人文科学研究所の助手でした。

    京都で新聞記者をしていた時に井上さんに取材をして強く印象に残りました。1987年のことで、今振り返ると、この東野高校訪問のすぐ後です。井上さんの本はずっとそれなりに読んできていますが、時を遡って、思わぬところで東野高校に縁があったのでした。

    朝日新聞の記事は、本校図書館に備えてある、朝日新聞のデータベースで検索し、探してもらいました。図書館での調べ学習などに活用しています。

    毎日新聞の記事についても記事データベースを活用しました。

    ここで紹介したものも含めて本校に関する書籍、雑誌などは本校図書館で収集、所蔵しています。

  • 2023.07.01

    創立記念日(7/3)によせてーー本校はどう表現されてきたか

    1984年7月3日、埼玉県の私立学校審議会で東野高校の設置が認可され、翌85年4月の開校が正式に決まりました。この7月3日を東野高校の創立記念日としています。

    他に類を見ない学校建築であり、開校直後から多くの建築雑誌などで特集が組まれ、紹介されました。開校から40年近くなった今でも、本校を訪ねてこられる方がみな驚かれる景観なのですが、全体の構成や校舎群について、ひとことで言い表すのが大変難しい。そこで第三者、建築の専門家らが本校の景観をどう表現したのか、新聞や雑誌の記事からひろってみました。

    開校した直後1985年4月6日朝日新聞夕刊

    「戦後最大の木造建築とされる体育館を中心に、低層一、二階の教室や講堂など二十余棟が、美しく立ち並ぶ。十一日に完工式を迎える新設校、埼玉県入間市、私立盈進学園東野高校。設計者が日本人ならずアメリカ人であったのも皮肉っぽいではないか」

    「元は茶畑だった広大な丘陵地六万六千平方メートルに、池があり、たいこ橋があり、緑があり、川越や倉敷の蔵造をほうふつとさせる建物が散在する。とにかく壮大な夢のキャンパスはできた。なまこ壁の青、手すりの赤。配色を押さえ気味に青によしの伝統を踏まえて見事だ。これから建築界に新しい論争が起こることを予感させる」

    1988年10月24日朝日新聞朝刊、 ユニークな学校建築を紹介する展覧会記事の一節
    「東野高は、なまこ壁の校舎に池を配して、明治初期の日本橋界わいといったイメージだ」

    1994年6月6日朝日新聞朝刊
    「校舎はすべて木造で、二階建ての民家のような教室が並ぶ。設計者のアメリカ人が小さな美しい村といった」

    1995年5月7日朝日新聞朝刊
    「衝撃的なデビューだった。一九八五春、茶畑が連なる狭山台に、切妻屋根にモノトーン調の建物群が姿を見せた。(略)随所に和風を取り入れたデザインもさることながら、片廊下型校舎という学校建築の常識をくつがえして斬新だった。骨太の柱に緑と白しっくいの大講堂。広場につづく正門は市松模様。町家風の教室群と赤い屋根をのせた木造の体育館。赤い屋根に目をつぶれば、大江戸のオープンセットと見まごうばかり」

    1997年9月18日、毎日新聞埼玉版の連載記事の一節
    「日本家屋の様式を取り入れた東野高校の校舎は、廊下を歩くと「コンコンコン」と柔らかな木の音がする。美しい村と呼ばれるキャンパスは初めて訪れる人を驚かせる」

    木造建築、なまこ壁、蔵造り、大江戸のオープンセット、日本風、日本橋界わい――などなど。たくさん特徴があり、私たちがひと言で言い表せない点は共通しています。

    私自身の経験からすると、取材の事前準備、そして記事を書く時には自分が書いた記事、ほかの記者が書いた記事、場合によって他の新聞記事も含めて参考にしますから、これらの記事には同じようなトーンが感じられます。(つづく

    /
    「第一の門」と「正門」を結ぶ玄関道には桜並木
    /
    「たいこ橋」の先の桜が満開に

    本校の歴史・沿革はこちらからどうぞ

    本校のキャンパス、施設についてはこちらをどうぞ

  • 2023.06.30

    外国語習得に必要なものは・・・

    朝日新聞6月27日朝刊のコラム「多事奏論」で稲垣康介記者がアスリート(スポーツ選手)の語学力について書いています。

    テニスの全仏オープン車いす部門の男子シングルスで優勝した17歳の小田凱人(ときと)選手の英語での優勝スピーチがすばらしかったそうです。小田選手は外国で暮らした経験はないのですが、テニスの先輩から英語だけは勉強するようにアドバイスを受けたのがきっかけで熱心に学習したそうです。世界でプレーしていくうえで英語が必要だということだったのでしょう。

    卓球の石川佳純さんは滑らかに中国語を話すのですが、卓球の強豪中学に入学した際出会ったのが中国人のコーチで、卓球上達のために中国語を習得しようと本気になったそうです。

    稲垣記者は「二人のアスリートに共通するのは、外国語の習得そのものが目的ではなく、自分が打ち込む競技のために必要なツール、つまり手段だと、とらえている点だ」と書いています。

    「英検週間」にあわせてあれこれ本を紹介した際に参照した『そもそも英語ってなに?』(里中哲彦、現代書館、2021年)に以下のようなくだりがあったことを思い出しました。里中さんは大手予備校で英語を教える、いわゆるカリスマ講師と言ってもいい方ですが、「外国語を身につけるにはどうしたらいいか」という質問に答える形でずばり言い切ります。「英語」はひろく「外国語」と置き換えても同じでしょう。

    「英語を学ぶのに特殊能力は要らないのです。伸びる人と伸びない人がいます。この差はどこから生じるのでしょうか。伸びない人は努力していない、ではどうして努力しないのか、それは切実な願望を持っていないからです。動機づけに失敗しているといってもよいでしょう」

    「いやがうえでも英語を使わなくてはならない状況にみずからの身をおけば、モチベーションが高まり、目標とする英語を手にすることができるようになります」

    「英語が話せるようになりたい、というあなたが目指すべき英語はただひとつ、自分にとって必要な英語を身につけることです。そして、それはまた「内容重視の英語」でなくてはなりません」

  • 2023.06.29

    ビートルズ来日の日 <6月29日>

    1966年6月29日、イギリスのロックバンド、ビートルズが来日しました。60年以上も前の話で、もはや「歴史」の一コマでしょう。先日読んでいた本がこの日のことに触れていて、そうかこんな時期(季節)に来たのかと思う一方で、楽しみにしていたのは、毎朝通勤時に聴いているラジオの「きょうは何の日」でとりあげられるかどうかでした。はい、ちゃんと紹介されていました。

    そのビートルズ、私自身が音楽を聴き続けてきたこれまでの人生(おおげさ!)の中ではいまだに現役ミュージシャンであり、その曲を聴き返すたびに新しい発見があります。ビートルズ関連の書籍も数十冊は読んでいるので(積読もありますが)、これといった本を選び出す自信はありません(この来日だけに特化した本もたくさんあります)。

    /ビートルズ博物館(英国リバプール)の年譜に日本ツアーの記述がありました
    ビートルズとしては結果的に最初で最後の来日になるのですが、日本滞在の3日間、日本武道館で5回のステージがありました。

    いちミュージシャンの来日がなんで歴史に残る日のように語られ続けられるのか、来日を前にして「武道館を使うのはけしからん」と公然と言い放つ人がいたり、警視庁が混乱を予想して警備本部を設け延べ3万5000人の警察官を動員したなど、ひとつの社会現象になったからでしょう。

    たまたま近くにあった、切り口のおもしろさがある本をとりあげます。

    「ビートルズは何を歌っているのか?」(朝日順子、シーディージャーナル、2018年)

    ビートルズの曲の歌詞について、英語としての特徴や文化的背景などをコラム風にとりあげています。体系だてて何かを主張する、という内容ではないので、私自身が付箋(アンダーライン)をつけたところを少し紹介します。

    ほどんどの英語の歌では、歌詞に韻が出てくる。なぜかというと、韻がアクセントになって「聴きやすい・覚えやすい・リズム感のある」曲ができるからだ。

    行の最後が押韻されるのが脚韻で、行の中間に出てくるのが中間韻、ビートルズの歌詞で中間韻を使用した代表的なものは“Hey Jude”だ。1行目の最後の「bad」と2行目の中頃の「sad」、2行目の最後の「better」と3行目の中頃の「let her」など、きれいな押韻構成になっている。このほかに“I’ve Just Seen A Face”や Lovely Rita”でもたくさんの韻が現れる。

    その“Hey Jude”、ポール・マッカートニーがジョン・レノソの息子ジュリアンを励ますために書いた曲ということはよく知られていますが、その励ましのフレーズ<let it out and let it in>、 <let it out>は“Let it all out”などとも言い、悲しんでいる人を慰める時などによく使う表現。怒りや悲しみなどの感情を「全部だしちゃえ」という意味。

    対する<let it in>は慣用句ではないけれど、“breath in, breath out”(息を吸ったり吐いたりする)のように、<let it out>と並べることで面白い効果を出している。人や人の感情を「受け入れろ」という意味じゃないかな、とも。

    なるほど。

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    /ビートルズ誕生の地、リバプールにあるビートルズ博物館

    リバプールの街角には若き日のジョン・レノンがたたずんでいました

    (写真はいずれも10年ほど前、友人とのビートルズ&サッカー&パブの旅で撮影したものです)

    ところどころにビートルズ歌詞クイズが織り込まれているのですが、これはかなりレベルが高いことを付け加えておきます。

    正直なところ、ビートルズがかなり好きで、ビートルズについてそれなりのことを知っていないと、おもしろさが伝わらないところもありそうです。ただ、200曲以上の多彩な楽曲を世に出して世界中のミュージシャンに影響を与え、社会現象でもあったビートルズだからこそ、こういう切り口の本も成り立ってしまうのでしょう。ビートルズ、まだまだ奥深いです。

    5月18日のこのブログでも英語の歌詞についてとりあげました。洋楽がストレートに英語学習の参考になると安易に言うつもりはありませんが、マイナスにはならないでしょう。好きなものが学習の手助けになるならそれに越したことはないですから。ビートルズ初期の傑作<I Saw Her Standing There>なんて、文法の例文そのものだと思いませんか。

    「きょうは何の日」ネタは5月9日の「ガリレオ裁判」でも使いました。