2024.01.29
文化財防火デー(1月26日)ができるきかっかけとなったのが奈良・法隆寺金堂の火災でした。その法隆寺と縁の深い聖徳太子についてまとめた『法隆寺と聖徳太子』(2023年)を読んでみました。筆者の東野治之さんはまず、聖徳太子についてこのように書き始めます。
日本の歴史上の人物で、生存年代が極めて古いにも拘らず、聖徳太子(五七四~六二二)ほど時代を越えて言及、論評される例は稀である。もちろんその評価は、時代によって大きな差異が見られるが、歴史上もっとも著名な人物の一人であることは疑いない。これには中学・高校の教科書に、その存在や業績が取り上げられていることや、かつて長く高額紙幣の肖像となっていたこともあずかって力があろう(以下略)
そして「現在一般的とみられる太子の人物像を見ておこう」として次のようにまとめています。
A 天皇中心の政治を目指した皇太子
「摂政」「皇太子」として、父用明天皇の妹で叔母に当たる推古女帝を助け、豪族の横暴を抑え、憲法十七条を作って和の精神を宣揚し、中央集権国家建設の理想を掲げた。
B 遣隋使を派遣して、隋との国交を開き、大国中国に対等外交を主張した
C 仏教・儒教をはじめとする中国文化を積極的に摂取し、古代日本の文明化を促した。
D 一時に一〇人の訴えを聞くなど、卓越した能力の持ち主で、仏教経典の講義や注釈を行った
このような人物像は「日本書紀」の記述によるものとし、そこで描かれるこのような人物像は
「太子は、政治・外交・文化の各面で活躍した超人的偉人ということになろう」
と表現します。
「一般的とみられる太子の人物像」というところの「一般的」が何かということですが、教科書にどう書かれているかは一つの指標となりそうです。
高校の日本史教科書としてよく使われる山川出版社の教科書を一般読者向け(つまり高校卒業後の大人向け)にした本で、シリーズとなって結構読まれているようです。世界史でも同様の本があります。教科書そのものではありませんが、手元にあったので開いてみました。
聖徳太子については以下のように書かれています。
「女帝の甥の聖徳太子(厩戸皇子)が皇太子として摂政となり、蘇我馬子とともに実際の政治にあたった」
ここでいう女帝は推古天皇です。「聖徳太子(厩戸皇子)」のところに注がつけられていて
「聖徳太子」という呼称は生前には用いられず、没後100年以上経過した後、8世紀半ばの漢詩文集『懐風藻』にあらわれる
そして「聖徳太子の政治」という見出しがつけられ、「冠位十二階の制が定められた」「憲法十七条が制定された」と書かれています。
東野さんがあげたA~Dと一致するところが多いですね。
ただ、東野さん自身は、太子像については研究が進むにつれて変わってきていると指摘しています。例えば
「現在の古代史研究では、推古朝に「皇太子」という地位や職のあったことや、天皇大権のすべてを代行する「摂政」があったことは否定されており、これには異論がない」
そうだとすると、上記教科書の書き方は微妙ではありますね。
2024.01.27
2024.01.26
久しぶりに「今日は何の日」ネタです。1月26日は「文化財防火デー」、奈良・法隆寺金堂の火災を教訓に文化財を守る法律がつくられたことにちなむ日です。これは取り上げなくては、ということで、法隆寺に話が飛びます。ずっと京都ネタが続いてきたので少し目先を変えたい、という思いもあります。一方で、やっぱり「古都」つながりになってはいるのですが。京都関連はまだまだ書きたいのですが後日改めて。
文化財防火デーについて、文化庁のウエブサイトから。そうそう、文化庁は機能の一部が京都市に移転したんですね。
毎年1月26日は、「文化財防火デー」です。
文化財防火デーの制定は、昭和24年1月26日に、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺(奈良県斑鳩町)の金堂が炎上し、壁画が焼損したことに基づいています。
この事件は国民に強い衝撃を与え、火災など災害による文化財保護の危機を深く憂慮する世論が高まり、翌昭和25年に文化財保護の統括的法律として文化財保護法が制定されました。
その後、昭和29年11月3日に法隆寺金堂の修理事業が竣工し、文化財保護行政も確立するとともに、文化財保護思想の一層の強化徹底を図るために普及啓発事業が行われるようになりました。その一環として,法隆寺金堂の焼損した日であること、1月と2月が1年のうちで最も火災が発生しやすい時期であることから、昭和30年に、当時の文化財保護委員会(現在の文化庁)と国家消防本部(現在の消防庁)が1月26日を「文化財防火デー」と定め、文化財を火災、震災その他の災害から守るとともに、全国的に文化財防火運動を展開し、国民一般の文化財愛護に関する意識の高揚を図っています。
法隆寺となるとやっぱり聖徳太子。少し前に購入しながら「積読」だった本をいい機会だと思い、ページをめくってみました。論文集なので関心のあるところを選んで読みましたが、興味深い論考が満載でした。
筆者の東野さんは大阪大学、奈良大学教授などを務めたか方で、「遣唐使」に関する著作をこれまでも読んだことがあり、安心して? この本も手にした次第です。
大学の研究紀要などで発表してきた論文を集めた著作なので、内容は多岐にわたります。
法隆寺が作られた時期の問題、有名な火災後の立て直し論争から始まり、防火デーに関係する金堂壁画に大陸文化がどう影響しているかといった視点、中世・近世で聖徳太子への信仰がどう変わってきたのか、そしてその行きついたところが近代明治の紙幣(お札)に聖徳太子の肖像が使われたこと、まで。
もちろん、このひとつひとつに長い研究史があるわけですが、一通り読むと、聖徳太子に関する研究の現時点での全体像をつかむことができそうです。
金堂壁画が焼失する前に撮影されてた時のガラス原板が残っていて、それをデジタル画像で見られるようにしたものです。
こちらから
ガラス原板って何、ということになってしまいます。デジタルカメラの世代にはピンとこないかもしれませんが、カメラはかつてフィルムを入れていた、それよりさらに前はガラス原板に光を写しこんでいた、といったあたりの素人の説明で勘弁してください。ガラス原板は私が生まれる前の話です。
2024年の文化財防火デーのポスター。文化庁のウエブサイトから。その趣旨からして「どんどん使ってください」ですよね、ダウンロード自由とのことで。
2024.01.25
本校の前期入学試験の準備と本番の学科試験があり、少し間があいてしまいました。
新年早々から延々と京都について書いてきました。「古都」といわれる京都ですが、かつて「みやこ」があったという意味での「古都」としては奈良もそうです(平城京などですね)。有賀健さんの著書『京都 未完の産業都市のゆくえ』(新潮選書)でも奈良に触れているくだりがあります。再録します。
「京都は古都ではなく、西京として、あるいは大京都として、つまり東京、大阪と並ぶ日本の中心都市を目指した時期がある。(略)産業革命の進行に乗り遅れたとはいえ、京都は近代都市として生まれ変わろうとした」
「京都は古都として静かな街並みと古刹の残る奈良のような都市になることを拒んだともいえよう」
そう、古都として京都と奈良がひとくくりにされることがよくあります。『京都 未完の産業都市のゆくえ』を読んだ後、さらに考えさせられる論考に偶然出会いました。
『学問をしばるもの』(井上章一・編、思文閣出版、2017年)に収められている論考の一つです。
このブログでは頻出の井上章一さん(国際日本文化研究センター所長)が声をかけてまとめたこの編著(『学問をしばるもの』)そのものも実におもしろいのですが、そこはいったんおいておくとして、筆者の高木さんは京都大学人文科学研究所の教授、論考のタイトルにあるように「古都奈良・京都が日本美術史にどう位置づくのか考えたい」というねらいで書かれたものです。
高木さんは次のように始めます。
「古都とは、かつて天皇がいたみやこの意味である。古都奈良、京都といってもその来歴は、大きく違う。たとえば京都市は昭和初期に七〇万人を超える人口の大都市であった一方で、奈良は同時期に県全体でも六一万人余の人口に過ぎなかった」
ここですね、同じ古都と言われる奈良を補助線に京都を考えてみると、有賀さんが書いたように、京都は古都でなく日本の中心都市を目指した、奈良のような都市になることを拒んだ、ということが鮮明になるのではないでしょうか。
京都は東京、大阪と並ぶ都市になれる可能性があった、それがかなえば「西京」と呼ばれるのか、あるいは「大大阪」を意識して「大京都」と呼ばれるのか、ということですね。そうそう先に紹介した澤田瞳子さんのエッセイでも戦前、「東京料理」に対して「西京料理」と呼ばれた史料がある、と出てきました。
高木さんは続けます。
「江戸時代以来の来歴を考えると、大都市の京都と田舎の奈良という異質なものが、近現代において同じ古都という概念でくくられるようになった」
「それは政治・経済・社会といった都市の現実からではなく、古都という語が一般化する時期の、一九六〇年代以降の高度経済成長下の大衆社会や観光の隆盛を通じてであろう」
田舎と言われて奈良の方々は心外かもしれませんね、ただ、京都と比べての静かさを求める人が奈良を訪れていることは一概に否定できないでしょう。私もその傾向があります。
京都はずっと「歴史都市」と自称していました。最近はどうでしょうか。「博物館都市」という言い方もあります。古いものが残り、それを見られる街をこんな言い方でまとめることができるかもしれません。それが観光として街の魅力になるわけですが、逆にあまり手をつけてはいけないという制約にもなりかねません。
「古都」である京都の「古きよきもの」を壊してはいけない、残さなければいけない、というある種の自己規制、「古都」という言葉の呪縛が、京都が産業都市にならなかった、なれなかった一番の理由かもしれませんね。
余談ではありますが
「西京」は「にしきょう」あるいは「にしのきょう」でしょうか、あるいは「東京」を意識して「さいきょう」か。ちなみに京都市の一行政区として「西京区」があります。「東京」を意識した大きな西京ではなく、右京区や左京区と同じように京都市域の西の方ということでしょうね。桂離宮などがあるところです。まったく偶然ですが、よく登場する国際日本文化研究センターはこの区内にあります。
奈良市には「西ノ京町」があり近鉄西ノ京駅があります。薬師寺、唐招提寺の最寄り駅です。
2024.01.22
22日、本校入学試験1日目が始まりました。受験生のみなさんは英語、国語、数学3科目の試験を受けます。午前9時開始の前、来校する受験生を迎えましたが、みなさん、元気よく挨拶してくれました。
健闘を期待します。
学校ホームページの「新着入試情報」でも試験のようすは随時、お知らせします。
こちらから
2024.01.20
週明けの22日(月)から本校の入学試験(前期入試)が始まります。
22日が単願推薦・単願一般の受験生、23日、24日が併願推薦・併願一般の受験生の試験日です。
校内全域で準備があるため20日、在校生は午前中で全員下校しました、22日~24日の間は自宅学習日となります。
在校生の下校後、教職員総出で試験準備にあたりました。教室内外の清掃、机イスの確認、受験番号札の貼り付け、試験会場の教室への誘導案内の掲示などを手分けして行いました。
受験生のみなさんが整った会場で気持ちよく、そして力を発揮できるよう、心をこめて準備にあたりました。
いまこれを読まれている受験生、保護者がいらっしゃいましたら再度、受験当日の諸注意の確認をお願いします。
こちらからどうぞ
2024.01.19
今年度の野球殿堂入りのメンバーが発表され、元広島カープの投手、黒田博樹さんも選ばれました。いわばプロ野球のレジェンドとして位置付けられたわけですが、このニュースを聞いたのが京都に係る話の延長線上で米国ボストンの話を掲載した直後。そういえばボストンで黒田選手応援したよねと思い出しました。今日はかなり個人史(自慢話?)です。
黒田さんは1997年に広島カープ入団、2008年に米大リーグのドジャースへ移籍、12年からニューヨークヤンキースでプレーしました。
13年夏、家族でボストンに旅行しました。私はおよそ30年ぶりの再訪でした。せっかくなのでメジャーリーグの試合を見てみたいという希望がかない、地元ボストン・レッドソックスのホームグラウンド、フェンウェイ・パークへ。レッドソックスには日本人選手として田沢純一投手、上原浩治投手が在籍していました。
対戦相手はニューヨーク・ヤンキース、レッドソックスとヤンキースの対決は大リーグの中でも伝統の一戦です。その試合、ヤンキース先発は黒田投手でした。ヤンキースにとってはアウェーでましてや先発ローテションがあるので、黒田投手の登板にあたったのはまさに幸運でした。
残している新聞記事によると5回3分の2を投げて敗戦投手となっています。レッドソックスは沢田投手、上原投手の抑えのリレー登板でした。そして、なんとヤンキースにはシアトルマリナーズから移籍していたイチロー選手もいたんです、もちろん出場していましたが、アウェーのヤンキースなので、レッドソックスのファンはイチローといえども容赦のないブーイングを浴びせていました。
以前にも書きましたが新聞記者をしていて高校野球、社会人野球はいやおうなく取材しましたが、プロ野球は対象外で、プライベートでもほとんど観戦したことはないのですが、米国で日本人選手たちの大活躍を見られるという貴重な体験でした。
そんなわけで、もちろんイチロー選手は知っていましたが、たいした知識がないままのスタンドで、そばの席にいた方が、こちらが日本人だと思ったのでしょう、黒田さんについて「ヒロシマ、カープにいたんだよね」などと話しかけてきました。英語でコミュニケーションしたのかって、いえいえ、日本で暮らしことがあるという方でした。
フェンウェイ・パークのレフト側スタンドは高いフェンス(壁)になっていてグリーンモンスターと呼ばれます。ホームランを減らしてしまいます
この日の黒田投手。ダイナミックな投球フォームです
そしてカープへ
その黒田さんですが2015年、「選手生活の最後はお世話になったカープで、ファンに恩返しをしたい」と広島に復帰し、広島のリーグ優勝に貢献します。
私は広島県東部の福山で新聞記者生活をスタートしました。当然ですが、周りはカープファンばかりでした。取材対象の刑事さんらと仲良くなるのに、例えばプロ野球の話題などから入るのが一番とわかってはいたのですが、東京から来たと知られているので、カープファンと自称するのもさすがにね、ですよね。
よきライバルであり目標でもあった地元の新聞社の記者たちも、これまた当然ながらカープファン。そんな一人がぽつりと話してくれたことがありました。
広島市内の中高一貫校を卒業して東京の大学に進学、ホームシックというほどでもないのでしょうが、東京の球場でのカープの試合に出かけスタンドで観戦する、周りから広島の言葉が聞こえてくるとね・・・といった思い出でした。
停車場の人ごみの中にふるさとの訛りを聴きにいく、石川啄木ですよね。
こんなファンがたくさんいることがカープの強みであり、黒田さんの「もう一度カープで」という思いを後押ししたのでしょうね、きっと。
2024.01.18
ここまで紹介してきた『京都 未完の産業都市のゆくえ』(有賀健、新潮選書)で筆者が京都と比較する、参考になる都市としてアメリカのボストンをあげているのは意外でした。著書ではふれられていませんが、ボストンは京都の姉妹都市のひとつです。国内の多くの自治体が海外の都市と「姉妹都市」になり、市民が行き来するなどの交流を重ねている例はたくさんあります。
ボストン市についての説明、京都市のウエブサイトによります。
「マサチューセッツ州の州都で、港湾都市です。わが国の函館とほぼ同じ緯度にあります。ニューイングランド地方最大の都市で、商業・金融・文化の中心地です。その歴史は、1630年に始まっていますが、ボストン茶会事件などアメリカ独立運動関係の遺跡や文化施設がたくさんあります。ボストン・マラソン、ボストン交響楽団、ボストン美術館などで有名です。ボストン大学のほか、郊外にハーバード大学、マサチュ-セッツ工科大学を擁し、文化・学術面でも知られ、ハイテク産業が発達しています」
1959年から京都市の姉妹都市になっています。港湾都市という点が京都とは異なりますが、アメリカ合衆国建国の歴史の最初のページを開いた、いわば「古都」という点で京都と重なり、さらには「大学の街」というところに京都市はイメージを重ねたのでしょう。
有賀さんはこのボストンも一時は産業の衰退で低迷したものの、京都市が紹介するようにハイテク産業などの「ゆりかご都市」として「カムバックした」と評価します。そのうえで、京都への「苦言」を呈するのです。
「新規企業をサポートする体制が整っていることがボストンのベンチャー企業の族生に貢献していることは間違いないだろうし、それがゆりかご都市京都にとっての最大の課題だと思える。全米で多くの学生がボストンにあこがれるのと、日本の多くの学生が京都にあこがれるのに大きな違いはないだろう。現代の京都はそれで学生を集めることには成功しているが、彼らを京都の地に留めることは出来ていない。しかし、魅力ある職があるならば京都を選びたい若者が決して少なくないだろうことは想像できる」
有賀さんの指摘にはかなり厳しいところがありますが、終わりには「(京都は)今後どうあるべきか考えてみたい」として、いくつかの政策を提言します。
例えば、町衆の本拠地である「田の字地区」を特別扱いせず、道路の拡幅も含めた区画整理事業が必要とか、交通問題の抜本的解決として市の南北を結ぶ高速道路(自動車専用道路)、環状地下鉄(道)の建設などをあげています。
かなり大胆で過激です、と冷ややかにみてしまうところに「歴史都市」に縛られている私自身がいて、同じように考える人が多かったから京都が産業都市になりきれなかったのでしょうね。
有賀さんのまとめから「なるほど」と感じたところです。
「京都は古都ではなく、西京として、あるいは大京都として、つまり東京、大阪と並ぶ日本の中心都市を目指した時期がある。(略)産業革命の進行に乗り遅れたとはいえ、京都は近代都市として生まれ変わろうとした」
「京都は古都として静かな街並みと古刹の残る奈良のような都市になることを拒んだともいえよう」
「それでも、明治維新以降の150年で東京や大阪が成し遂げたことを京都が成し遂げなかった、あるいは少なくとも未完成に終わったのはなぜか、本書の主張は明白で、それは京都という都市と社会が、近世の都市と社会から完全には脱却できなかったからである」
「京都市は人口が純流出を続ける最大の都市である。純流出は20代前半から30代にかけて続き、10歳未満も純流出が続くことは、就業機会に恵まれず、子育て世帯にも良好な住環境を提供できていない何よりの証拠である」
「京都が魅力ある都市であることに異論はない。問題はそれが就職の地として、また住む町としての魅力に結びついていないことにある」
「求められているのは魅力的な職場であり、家庭を築くにふさわしい町である。それに優れた景観や歴史がどのように役立つかを京都はもっと真剣に考えても良いのではないか」
余談ではありますが
京都市内のある書店で『京都 未完の産業都市のゆくえ』が入口のところに山積みされて販売されていました。もちろん学術書ではないですが、「新潮選書」というやや硬めの本にしては異例?、破格?の扱いかと。上記書評に「ラディカルな処方箋(せん)を提示」とあるように、京都の将来を考える人たちにとっては貴重な指摘が満載だとは思いますが、「ラディカル」なだけに一般的な関心を持たれるのかどうか、そこも注目ではあります。
2024.01.17
京料理と和食が同じようにとらえられるようになったきっかけとして、『京都 未完の産業都市のゆくえ』で筆者の有賀健さんは観光をキーワードとしてあげていました。観光客を呼び込む魅力の一つとして日本ならでは、京都ならではの食事が強調されるようになった、ということですね。
近年の観光を語る、考える際に必ずといっていいほど言及されるのがインバウンドとかオーバーツーリズムという言葉、現象でしょう。いつからかニュースで普通に使われるようになってきました。ただ、オーバーツーリズムを「観光公害」とか訳してしまうのが適切かどうか。
政府・観光庁の資料によると、オーバーツーリズムは2016年、米国の旅行業界向けのメディアで初めて生み出された言葉だということで、「観光白書」(平成30年版)では
「特定の観光地において、訪問客の著しい増加等が、市民生活や自然環境、景観等に対する負の影響を受忍できない程度にもたらしたり、旅行者にとっても満足度を大幅に低下させたりするような観光の状況は、最近では「オーバーツーリズム(overtourism)」と呼ばれるようになっている。」
とされています。
また、2023年10月に開催された「観光立国推進閣僚会議」に出された国土交通省の資料「観光の現状について」では、オーバーツーリズムと明示してはいないものの「地域で発生している課題の事例」として京都市もとりあげられています。
<混雑>
「主要観光地へ向かうバスが増便されているものの、これを上回る乗客によりバスターミナルや車内が混雑。また、大型手荷物の持ち込みにより、円滑な運行に支障」
<マナー違反>
「芸舞妓を無断で写真撮影したり、車道まで広がっての歩行、私有地への無断立ち入り等の事例も発生」
と例示されています。
(京都市以外では北海道美瑛町、鎌倉市があげられています)
『京都 未完の産業都市のゆくえ』ではこんなデータがしめされています。
「JR京都駅以北では、南北の交通で渋滞が常態化し、市中心部では旅行速度が時速20キロメートル未満となっている区間が多数存在し、市全体での平均速度は時速22・7キロメートルと政令指定都市の中で最も遅い」
なるほど、これではバスも思うように走れません。もちろん観光が渋滞の要因のすべてではなく、京都の市街地はそもそも道路が狭いうえにバス頼みという構造的な問題はあるのですが、オーバーツーリズムといっていいのでしょう。
2022年の観光客数は4361万人、前年の2102万人から大きく伸び、コロナ前2019年の5352万人に戻りつつあるとのこと。2022年度の日本人宿泊者数が911万4千人、外国人宿泊者数が57万6千人というのは正直どうなのでしょう、観光客数の割には少ないような。ちなみに修学旅行生数は74万3千人で外国人宿泊者数より多い!
2024.01.16
『京都 未完の産業都市のゆくえ』の発刊にあたっての筆者・有賀徹さんと井上章一さん(国際日本文化研究センター所長)との対談で井上さんは京料理のことについてもふれていました。
「和食」は「日本人の伝統的な食文化」として2013年にユネスコ無形文化遺産に登録されています。所管の農林水産省のウエブサイトをみると
「海外における日本食レストンランの増加や訪日外国人観光客からの郷土料理を食べることへの期待などに見られるように、ユネスコ無形文化遺産登録後、和食には世界から高い注目が寄せられています」
と誇らしげです。「伝統的な食文化」という印象から京都と深いつながりがありそうと考えてしまいがちですよね。
ところが有賀さん
「京都のレストラン、特に和食については、観光に関わりなく、常にゆるぎない地位を持つものであったと思われる方も多いだろうが、実はそうではない。京都の食が今日の隆盛を迎えたのは実は比較的最近、少なくとも高度成長期以降であると考えられる」
として、いくつかのデータを示します。そして
「要するに京都の飲食店の突出ぶりは、比較的近年、恐らくは1980年代以降に起こった現象であり、そのタイミングは「そうだ 京都、行こう。」などのキャンペーンの成功や、近年の外国人観光客の顕著な増加に後押しされたものであることを示唆している」
「京料理が和食の中で群を抜くものであるという一般的な認識は比較的最近のことであり、少なくとも高度成長期の頃までは、大阪がその位置にあったことは、関西では一般的な認識であった」
「郷土料理としての京料理の一番の特徴は、豊富な蔬菜と塩干物を利用した「いもぼう」のような「炊き合わせ」に代表される、質素な家庭料理にある。それらは確かに誇るべき和食の重要な一部ではあるが、今日の京料理の飛躍の主役ではない」
あれあれ、ですね。
「ところで今日、京都関連の書籍を繙(ひもと)くと、「京料理」という言葉が頻繁に目につく。ただこの語が一般に広まったのは、有賀健氏の『京都』(新潮選書)によればごく近年のこと」
しっかりと参照されています。そして
「ならば戦前はと史料を繰ると、京都の料理は東京風の料理、つまり「東京料理」と対比して、「西京料理」と称されることが多い。そしてその内容はやはり川魚類が主流だったらしく、たとえば大正十二年刊行のレシピ本『割烹秘典』には、西京料理の例として鮎と瓜の膾(なます)や鰉(ひがい)という川魚のつけ焼きなどが載っている」
鰉(ひがい)という名前は初めて聞きました。検索してみると、もともとは琵琶湖特産の魚で、今もメニューとして提供する料理屋さんがあるようです。それにしても『割烹秘典』、秘典です。すごいタイトルですよね。