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BLOG校長ブログ

2024年の記事

  • 2024.02.29

    犬の耳 ーー 読書法①

    本を読んでいて、気になるところのページの隅っこを折るのを dog-ear(犬の耳)と言うのだそうです。私自身も同じようにするので、外国でもこのような習慣があると知って驚きでした。なんで犬の耳かって? 想像してみてください。ページの隅っこを折ると、ページ全体と折ったところを合わせてその形が犬の耳のように見えるからだそう、なるほど。

    『本は眺めたり触ったりが楽しい』(青山南、ちくま文庫、2024年)

    この本で教わりました。翻訳家、エッセイストとして知られる青山さん、新聞の書籍広告でタイトルに魅かれて購入しました。もともとは1997年に単行本で刊行されこのほど文庫化されたとのこと。読書や本にまつわるエッセイをまとめたものです。

    「犬の耳」についてはこのように書かれています。

    「小説家の佐藤正午が、小説を読んでいて気に入った一行や気にかかる文句にであうとページの隅っこをつい折ってしまう、と書いていた。(略)じつは、ぼくにもその癖がある」

    「ページの隅っこを折るのを、英語ではたしか、「犬の耳」といったなあ、とおもいだして、あらためて辞書をひいてみた。あったあった、dog-earあるいは dog’s-ear。名詞としてだけではなく、動詞としてもつかわれるようだ。そして、dog-eared とか dog’s-earedというかたちで、形容詞にもなる。こんなことばもできているくらいなのだから、ページの隅っこを折るのは、まあ、わりあい世界中でみんながやっていることなんだろう」

    英語にあったはず、と思い出すところがさすがに翻訳家ということですね。ただ、読者が意図的に折ったかどうかではなく、自然に折れてしまった状態も含めているようです。

    こちらは共感する人も多いのでは。

    「受験勉強のときには参考書に赤鉛筆でたくさん線を引いた。これは覚えなくては、これも覚えなくては、とつぎつぎ線を引いていくうちにページはまっかっかになり、ほんとうに覚えなくてはいけないものはどれなのかがわからなくなってしまった」

    あるある、ですよね。今どきは赤鉛筆より蛍光ペンでしょうが。青山さんは続けます。

    「参考書にはこんなふうにどんどん線を引いていたぼくだが、しかし、参考書でない本には線を引くということがなかなかできなかった」

    として、自分でその理由を考察しています。

    本を読んでいて気になるところに線を引く、あるいは付箋を貼るといったことは、私自身日常のことではあります。とはいうものの、資料的に本を読む場合で、小説などではまずそのような作業はしません。

    /折って、折って、折ってます。本が「厚く」なってしまうのが欠点?
    /付箋も使っています。資料として必要なところだけ読む本です。付箋そのものがヨレヨレになりがちなのが欠点?
  • 2024.02.27

    続・屋根と庇(ひさし) 東野高校建築論 ⑤

    隈研吾さんの著書に触発され、本校の教室などの建物の屋根のでっぱりや庇のことを考えていたら、そういえば、ここではどう書かれているのだろうと気になった著作を思い出しました。

    『陰翳礼賛』(谷崎潤一郎、角川ソフィア文庫、2014年初版、2023年19版)

    表題作の『陰翳礼賛(いんえいらいさん)』などの短編が収められています。谷崎が『陰翳礼賛』を書いたのは1933年、その後文庫も含めていくつかの本が出ていますが、井上章一さんが解説を書いているということで角川ソフィア文庫版を選びました。

    裏表紙の解説にはこうあります。

    「日本に西洋文明の波が押し寄せる中、谷崎は陰翳によって生かされる美しさこそ「日本の美」であると説いた。建築を学ぶ者のバイブルとして世界中で読み継がれる表題作(陰翳礼賛のこと)」

    建築を学ぶ者のバイブルかどうかはともかく、日本の伝統的な建築や京都の町家などを語る時によく引用される作品であることはまちがいありません。

    「私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内されるごとに、つくづく日本建築の有り難みを感じる」

    こんな一節があります。谷崎は快適な厠=トイレの条件として「ある程度の薄暗さ」をあげるのです。この厠トイレはほんの一例ですが、谷崎はこの小編で、西洋の建築と比較して日本の伝統的な建築では意図的に「陰翳(旧漢字)=陰影」つまり影が作り出され、その影、薄暗さの中で日本の美意識が形作られていった、こんな見方を披露しています。

    こんなくだりもあります。

    「私は建築のことについては全く門外漢であるが、西洋の寺院のゴシック建築というものは屋根が高く高く尖って、その先が天に沖(ちゅう)せんとしているところに美観が存するのだという。これに反して、われわれの国の伽藍では建物の上にまず大きな甍を伏せて、その庇が作り出す深い広い陰の中へ全体の構図を取り込んでしまう」

    「寺院のみならず、宮殿でも、庶民の住宅でも、外から見て最も眼立つものは、ある場合には瓦葺き、ある場合には茅葺きの大きな屋根と、その庇の下にただよう濃い闇である」

    「日本の屋根を傘とすれば、西洋のそれは帽子でしかない」

    「横なぐりの風雨を防ぐためには庇を深くする必要があったであろうし、日本人とて暗い部屋よりは明るい部屋を便利としたに違いないが、是非なくああなったのであろう」

    「が、美というものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った」

    谷崎は、日本だって明るい部屋の方がいいのだが、特徴ある気候への対処として庇を深くした、その結果、陰翳が生まれてそこに美を発見した、としているので、隈さんの解説と直接結びつくわけではありませんが、建築の特徴が外形的なものにとどまらず、文化にも影響を及ぼすというところが、建築を学ぶ人たちをひきつけたのでしょう。

    もちろん学校の教室に、谷崎がいうところの日本の伝統的な陰翳を求める理由はなく(むしろ明るい方が勉強にはふさわしいでしょう)、本校の建物のひとつ一つの設計で「陰翳」が意識されたことはおそらくはなかったでしょう。でも、そんなことまで考えさせられる奥の深い魅力あるキャンパス、建物群だということを知っていただけたら。

    こんな見方もあるのだということが今後、校内を巡る際の参考になれば嬉しいです。

    /本校では2021年、「雨の日に不便」という生徒の要望に応えて教室などの入り口に庇を新設しました
    /それまでの教室入口。扉は木製でした
    /
    /

    寺院でも宮殿でも最も目立つのが大きな屋根、と谷崎。京都・知恩院の三門(写真左)、京都御所(右)

  • 2024.02.26

    屋根と庇(ひさし) 東野高校建築論 ④

    建築の専門家、五十嵐太郎さん(東北大学教授)に本校を評していただいた話題(「東野高校建築論」①~③)を書いてきましたが、その前に法隆寺と聖徳太子のところでとりあげた隈研吾さんの著書に、本校の建築に関連して「これだ」というところがあったことを思い出したので、「東野高校建築論」の付けたしをします。

    『日本の建築』(隈研吾、岩波新書、2023年)

    「西欧において屋根は壁面や柱から、外側に飛び出さない。古代ギリシャ以来、ヨーロッパ建築の本流を形成してきた正統的な古典主義建築(クラシシズム)においてだけではなく、民家においても庇は壁から外に飛び出すことは少ない。飛び出すことは構造的にも経済的にも不利であり、東アジアに比べて雨が圧倒的に少ない西欧のドライな気候においては、柱や壁を雨から守る必要がなかった。西欧では結果として、壁の二次元的な構成とプロポーションの追究が進化していった。一方雨が多く、夏の日差しが強い東アジアでは、屋根も庇も飛び出して、柱、壁、開口部を守らなければならない」

    本校の教室などほとんど建物には日本の家屋のような瓦屋根がのっています。それなのに、屋根は壁からほとんど飛び出しておらず、また庇もありません。正直、雨や雪の時などに不便に感じるのがしばしばでした。このくだりをよんで、なるほどと合点がいったのです。

    本校を設計したクリストファー・アレグザンダーはヨーロッパやアメリカで学びカリフォルニアの大学で教えていた方です。なるほど、特にカリフォルニアは雨が少ないことがよく知られているので、アレグザンダーには屋根や庇がピントこなかったのか、などとかねてから思ってはいたのですが、隈さんが指摘するように、屋根は外に飛び出さないなどが欧米の建築の一貫した特徴ならば、斬新なデザインをしたアレグザンダーでも、そこから抜け出すことはなかった、というのは言いすぎでしょうか。

    実はこの屋根や庇について隈さんが書かれているところに、思わぬ人物の名前が出てきて驚きました。フランク・ロイド・ライト(1867~1959)です。隈さんの紹介を引用します。

    「二〇世紀のモダニズム建築の巨匠の一人に称せられた、超大物である。二〇世紀のアメリカを代表する建築家であり、帝国ホテルの二代目本館(一九二三)の設計者として、日本にも大きな足跡を残した」

    1893年のシカゴ万博の日本館がライトの作品に大きな影響を与えたそうで

    「庇が大きく飛び出し、重たい壁ではなく軽やかな木製建具によって内外をつなげたユニークな建築は、庇の出のない、内外が切断された箱のような建物しか見たことがなかった二十代後半のライトに大きなショックを与えた。その後突然、ライトの建築に深い庇がつき始め、開口部が大きくなっていった。すなわち日本風になっていったのである」

    「若きライトは日本の庇に出会って、庇にめざめた。庇の下のめいっぱい大きな開口部を追究し始めたのである。(略)建築の歴史における大きな転換が、ライトから始まった」


    ライトによる帝国ホテル(二代目本館)は1976年、正面ロビー部分が博物館明治村(愛知県犬山市)に移築されました(写真)。ただ隈さんは「ライトは日本から建築を学んだということを語りたがらなかった」「帝国ホテルでも、ライトは意識的にその日本性を隠蔽した。(略)日本人にとって帝国ホテルは「異国」のものとしか見えなかった」と書いています。
    博物館明治村の公式ウエブサイトはこちらから

    明治村はさすがにちょっと遠い、でもすぐ近くでフランク・ロイド・ライト設計の建物を見ることができます。都内・池袋にある「自由学園明日館(みょうにちかん)」です。
    こちらを

  • 2024.02.21

    ポストモダンでキッチュ 東野高校建築論 ③

    さて、五十嵐太郎さん(東北大学教授)が本校見学で来校、校舎建築などを評する際にポストモダンとあわせて使った用語「キッチュ」です。ドイツ語ですが国語辞典でも採録されています。

    「俗悪な<まがいもの/ようす>。俗悪なものをうまく生かした芸術やファッション。また、そのようす」(『三省堂国語辞典 第7版』)

    ①俗悪なこと。悪趣味。
    ②本来の目的からはなれた使い方(・とりあわせ)をすること。
    ③一般常識を疑ったり反体制的なスタイルであったりで、かっこいいこと。
    (『現代新国語辞典 第六版』(三省堂、2019年)

    少し詳しい説明はこちら

    ①まがいもの。悪趣味で俗悪なもの
    ②(①から転じて)悪趣味で俗悪になりそうなところを逆に、個性や魅力として感じさせる。また、そのもの。
    <語の発祥>①が本来の意味。ブルジョア黄金時代のミュンヘンで、百貨店で売られるような悪趣味な工芸品を指すことばとして用いられた。②は、大衆文化の発達とともに、美と醜の二極におさまらない、人間と物との関係を指す概念に変化した意味。大衆が消費社会の中で、他人との小さな差異を求めて行動する生活態度と結びついている。(『表現読解 国語辞典』ベネッセ、2018年初版第16刷)

    もともとは批判的な意味だったものがいい評価にも使われるようになった言葉のようです。建築史家の井上章一さんは本校開校直後に見学して評した文章のなかでこんなふうにも書いています。

    「日本人の目で見れば、ほんらいの倉の腰をいろどるべきなまこ壁が上部にあしらわれているところなど、ちょっとあきれてしまう。池にかかる橋なども、どうかと思わざるをえない。悪口ついでにあえて言ってしまえば、フジヤマ・ゲイシャ風を好む外人の日本趣味が感じられる。擬和風建築といったところだろうか」

    「建築家たちのプロ意識からすれば、この学園はゲテモノであろう」

    「ゲテモノ」は手厳しいですが、五十嵐さんが使った「キッチュ」もこういう意味合いなのか。

    実は、東北大学の方が見学を希望されているというオファーに五十嵐さんの名前が入っていて、聞き覚えがあったので調べました。『新宗教と巨大建築 増補新版』(青土社、2022年)の筆者で同年にこの本は読んでいました。どころか書棚探っていたら『新宗教と巨大建築』(講談社現代新書、2001年)もあって、こちらは読んだ日付は書きこまれてなかったのですが、あちこちにマーカーがひかれていました。五十嵐さんご自身の解説によると、新宗教と建築に関する研究は博士論文からの取り組みで、2022年の増補新版が3度目の書籍化なのだそうです。

    この本の内容は、あまり類似の研究がないこともあって大変興味深いのですが、さすがに学校建築や今回のテーマに直接参考になるところはありませんでした。それでもページをめくっていくと、こんな記述がありました。

    「ル・コルビュジエの作品はすぐれているというようなデザインの視点だけから見れば、天理教や大本教にしても、正統な建築史には入らないだろう。基本的にはキッチュなもの、大衆的な俗悪なデザインと考えられており、ネガティブな評価になる」

    「ポストモダンの建築論では、商業施設こそが、人と建築の新しいコミュニケーションの可能性を切り開くという反転を提示したが、今でもキッチュなものは、一段低く見られる。しかし、逆にゴシックもキッチュだったのではないのかという切り返しも可能だ」

    宗教施設の建築についての五十嵐さんの評価には立ち入りませんが、五十嵐さんのここでの「キッチュ」という言葉の使い方です。「俗悪」という言い換えもされており、辞書がまずあげる否定的なニュアンスではあります。一方で後段のゴシックもキッチュだったというあたりに、キッチュを全否定しているわけではなさそうにも読んだのですが、いかがでしょう。五十嵐さんは本校建築についてこう書いてくれていることですし、都合のいい解釈でしょうか。

    完成時はポストモダン・キッチュとみなされたが、40年が経ち、いつの建築かわからなくなったタイムレスな魅力を獲得

  • 2024.02.20

    ポストモダンでキッチュ 東野高校建築論 ②

    「完成時はポストモダン・キッチュとみなされた」と五十嵐太郎さん(東北大学教授)に評された本校ですが、「モダン」の後にくるのが「ポストモダン」。『建築思想図鑑』(学芸出版社、2023年第1版第3刷)には「ポスト・モダニズム」という項目がたてられています。

    「モダニズムを乗り越えるため、「小さな物語」を志向した運動の総称」
    「モダニズムを乗り越える新しい建築をつくるため、古典様式の引用や折衷、過度な装飾などが用いられた、20世紀後半の建築に見られる傾向」

    もちろん、本校の設計にあたったクリストファー・アレグザンダー自身が「このデザインはポストモダンだ」と言ったわけではなく、他の建築家や研究者らがその特徴をとらえてポストモダンの建築と評価したわけです、
    例えば、このブログで昨年の創立記念日(7月3日)にあわせて「本校はどう表現されてきたか」を書きました。そこで紹介した本の中にこれがありました。

    『ポストモダン建築巡礼』(磯達雄・文、宮沢洋・イラスト、日経アーキテクチュア編、2011年)

    この「巡礼=訪問」先に東野高校が選ばれたということは、すなわち本校が「ポストモダン建築」と見られているということでしょう。こんなくだりがありました。

    「小高い丘の上に位置するここ(旧食堂棟)からは、キャンパス全体が見渡せる。普通の学校なら、屏風のような校舎が視界を遮っているところだが、ここでは小さな家が立ち並ぶ集落のような光景が広がっている」

    五十嵐さんが言う「群としての建築の配置構成が絶妙。地形とも絡み、身体で楽しめる空間」とも重なります。

    これとは別に建築史家、国際日本文化研究センター所長の井上章一さんの 論考「しろうととしろうととの出会い」(「SPACE  MODULATOR  NO.68」(日本板硝子、1986年)収録)も紹介しました。井上さんは開校直後に本校を見学しています。

    「(東野高校の)建物の意匠は、歴史のなかで我々の脳裏にやきつけられているさまざまな形をくみあわせてつくられている。江戸の倉、なまこ壁、屋敷塀と門、いかにも田舎風の反り橋、イタリアの中世都市、教会、列柱のアーケード、等々である」

    井上さんは論考のなかでモダンとかポストモダンとかの用語は使っていないのですが、どうでしょう、先の『建築思想図鑑』の「ポスト・モダニズム」の説明、「古典様式の引用や折衷、過度な装飾などが用いられた、20世紀後半の建築に見られる傾向」の好例とも言えてしまいそうです。


    東野高校キャンパスを空撮。「小さな家が立ち並ぶ集落のような光景が広がっている」「群としての建築の配置構成が絶妙」と評されたのですが、いかがでしょう。

    「地形とも絡み、身体で楽しめる空間」と五十嵐さん、この光景でしょうか。「なまこ壁、反り橋、列柱のアーケード」と井上さん。

  • 2024.02.19

    ポストモダンでキッチュ 東野高校建築論 ①

    東北大学で都市・建築デザイン学を教えていらっしゃる五十嵐太郎教授が先日、本校見学に来校されました。自身のX(旧ツイッター)に感想を書かれているのですが、短いながら(字数制限がありますからね)、本校の特徴をコンパクトにまとめていただいているようなので、紹介します。

    クリストファー・アレグザンダーの盈進学園東野高校を見学。群としての建築の配置構成が絶妙。地形とも絡み、身体で楽しめる空間。完成時はポストモダン・キッチュとみなされたが、40年が経ち、いつの建築かわからなくなったタイムレスな魅力を獲得。当時はめずらしい木造や参加型も、今は注目されるし

    Translated from Japanese by
    Tour of Christopher Alexander’s Higashino High School. The arrangement of the buildings as a group is exquisite. A space that is intertwined with the terrain and can be enjoyed with your body. When it was completed, it was considered post-modern kitsch, but 40 years later, it has acquired a timeless charm that makes it hard to tell when it was built. Wooden structures and participatory structures, which were rare at the time, are now attracting attention.

    失礼ながら少し補足します。

    クリストファー・アレグザンダーは本校を設計した建築家、オーストリア・ウィーンに生まれ英国・ケンブリッジ大学、米国ハーバード大学などで学び、カリフォルニア大学バークレー校教授などを務めました。「パターン・ランゲージ」を提唱したことで知られます。ではその「パターン・ランゲージ」って、ということになりますよね。

    『パターン・ランゲージ 創造的な未来をつくるための言語』(井庭崇・編著、慶応義塾大学出版会、2013年)

    「パターン・ランゲージ」研究の第一人者、慶応義塾大学教授、井庭崇先生の著書です。

    「パターン・ランゲージは、一九七〇年代に建築家クリストファー・アレグザンダーによって、住民参加型の町づくりを支援するために提唱された方法である。彼は町や建物に繰り返し現れる特徴を「パターン」と捉え、それを「ランゲージ」(言語)として記述・共有することを提案した。目指したのは、古きよき町や建物がもっている調和のとれた美しい「質」を、これからつくる町や建物においても実現することであった。そこで、そのための共通言語をつくり、住民たちがデザイン(設計)のプロセスに参加できるようにしようとしたのである」

    さらに詳細な説明が続くのですが、ここでは「住民参加型」という点を強調しておきます。本校開校時、どのようなキャンパスにするのかについてアレグザンダーと教職員が意見交換を重ねました。住民=教職員が学校作りに(デザインのプロセスに)参加した格好です。五十嵐教授が書いた「参加型」はこのことを指しているのでしょう。

    Xの引用に戻ります。順不同で「完成時はポストモダン・キッチュとみなされた」についてです。

    まず「ポストモダン」ですが、「ポスト=後」なのでモダンの後ということです、ではモダンとはということになりますが、建築の歴史で言われるのが「モダニズム建築」、モダニズムの言葉の意味そのものは「近代主義」ということになるのですが、ではどういう建築なのか。

    いくつかの辞書から説明が詳しかった『表現読解 国語辞典』(ベネッセ、2018年初版第16刷)で「モダニズム」についてこうありました。

    「既成の概念や伝統的権威を否定し、新しい価値や感覚を求める思想上・芸術上の風潮」
    「工芸・建築の分野では、機能主義的な立場から芸術と技術の統合をめざしたドイツの造形学校バウハウス」

    なかなか一言では難しそうですね。先に紹介した『日本の建築』(隈研吾、岩波新書、2023年)に頼りましょう。

    「モダニズム建築は新時代に出現した高層建築をも処理するユニヴァーサルなシステムをめざした」
    「モダニズム建築は、工業化社会が必要とする二つの建築、すなわち都市の高層建築と郊外の中産階級の住宅に対応する新様式建築として二〇世紀を席捲した」

    その後に続く建築様式が「ポストモダン」ということになるわけです。

  • 2024.02.17

    「マルハラ」知ってましたか

    「マルハラ」って知ってますか? 通勤途中に聴いているラジオでこんな話題がとりあげられていました。若い世代を研究しているコンサルタントがアナウンサーに問いかけていたのです。SNSなどでは若い人たちは句点(。マルです)をつけない、句点がついていると「冷たい」「叱られている」「怒っている」などと受け止められるそうです。そこが「ハラスメント」、よって「マルハラ」。だから若い人たちとSNSやメールでやりとりする人、会社では上司になるのでしょうが、気をつけましょう、という話しでした。

    私も知らなかったし、なんでも「ハラスメント」かと思わないでもなかったのですが、16日の朝日新聞1面コラム「天声人語」が同じ話題をとりあげていて驚いていたら、なんと今日17日の毎日新聞の1面コラム「余録」もこの話でした。

    両新聞ともにデジタル版でも有料記事なので長い引用はしませんが、天声人語によると「「句点なし」は他言語圏にも共通する傾向のようだ」というから意外です。叱られているような感じについて、天声人語では「圧」といった表現をしています。だた「。マル」がなぜ圧に感じられるのかはナゾなのですが、興味深い指摘もありました。

    「(以前)国語学者が、目上の人への手紙で句読点を使うと失礼になると説いた、読みやすいようにと指示する行為だからだ」

    なるほど、句読点はここで区切って読め、ここで文が終わるということを丁寧に教える記号ですよね、目上の人に向けてそれを使うのは、その目上の人がきちんと読めないだろう、その人の「読解力」を疑っている、ということになってしまうということですね。

    毎日新聞の余録はどうでしょう。

    「「。」(マル)が日本文に使われ始めたのは江戸時代前期だという。(略)一般に普及したのは明治以降だった」

    と歴史を教えてくれました。朝日を読んで調べなくてはと思っていたところなので助かりました。

    「ネット番組で注目され、メディアニュースや漫才コンビの爆笑問題が取り上げるなど話題を呼んでいる」

    私自身は普段あまり関心のない方面なので知らなかったわけです。新聞がとりげるころにはその話題はピークを過ぎている、などと揶揄されることもありますが、今回はどうでしょうか。

    余録が書くように、古文書には句読点などはないし、和歌や俳句は現代でもありません。そうそう表彰状や感謝状にも句読点がないことを思い出しました。本校の卒業証書授与式は3月5日、その準備として表彰状の文言の確認などが進む時期でもあります。

    もちろん表彰状などに「。」や「、」があるのは見た目美しくないというのが一番の理由でしょうが、表彰状などは読み上げるもの、目上とは限らないにしても、ありがたくいただく、そういった立場の人に読んでもらう以上「句読点は失礼になる」といった意味合いもあるのかしら、などと推測したりもしました。

  • 2024.02.16

    紙幣の聖徳太子 ③ 法隆寺がお札を発行

    この法隆寺と聖徳太子についての項のきっかけの一つが東野治之さんの『法隆寺と聖徳太子』(岩波書店)でしたが、その東野さんに『昭和の紙幣と法隆寺・正倉院の文化財』という論文があります(『文化財学報』第三十集に収録。奈良大学文学部文化財学科刊、2012年)

    1930年(昭和5)に発行された日本銀行の兌換券(紙幣)の百円と拾円(十円)のうち百円に聖徳太子の肖像が初めて使われ、正倉院宝物や法隆寺の宝物などもデザインに取り入れられていることを紹介しています。その際参考にされた図案は何だったのか、どのような出版物なのかを推定する論文です。

    「国家の威信が懸かる紙幣に、その国家が世界に誇るに足ると認識した文化遺産が採用されるのは極めて自然である。もっとも、そういう意向が働いたところで、実際に図案化されるには、その材料が手に入る形になっていなければならない」

    東野さんが意図したかはわかりませんが、日本銀行のウエブサイトいうところの「聖徳太子像がこれだけ多くの日本銀行券に採用された理由」の一つ「肖像を描くためのしっかりした材料があること」の検証にもなっています。

    紙幣になぜ聖徳太子なのかという点について、東野さんもやはり次のように書いています。

    「聖徳太子は紙幣肖像として初登場であったが、その背後で、大正年間の太子顕彰の動きや裕仁皇太子摂政という政情が影響したらしい」

    その聖徳太子の肖像の紙幣は戦後も作られました。日本銀行のウエブサイトの通り戦前、戦後を通じて紙幣に登場するのは聖徳太子だけ、戦後、占領軍(GHQ)が反対したうんぬんと出てきますが、東野さんの考察を見てみましょう。

    「敗戦後まで続いた聖徳太子の紙幣の特色は、そのデザインが、占領軍による紙幣図案の一新後も継続したことである。他の紙幣の図案はいずれも軍国主義的色彩を持つものとして、使用が許されてなかった」

    ここは日本銀行の説明と一緒です。続いて

    「百円紙幣(聖徳太子の肖像)の図案が継続したことに関しては、多分に生産上の便宜もあったかとは思われるが、聖徳太子の人物像が読み替え可能であり、敗戦後にもふさわしいと評価されたことも作用したと考えられる」

    「生産上の便宜」とは、戦後の混乱期で肖像のデザインを新しくする時間的余裕がなかったということでしょうか。聖徳太子の人物像の何をどう読み替えたのか、日銀総裁が「軍国主義者どころか平和主義者の代表である」と言ったかどうかはさておき、「平和国家」「文化国家」として新しい国をつくっていこうという戦後日本が聖徳太子の多面的な人物像の中から「文化」を見出した、といったあたりでしょうかね。

    さて、聖徳太子と紙幣という話で今回初めて知ったのは、太子ゆかりの寺・法隆寺が幕末に独自の紙幣を発行していたということです。東野治之さんの『法隆寺と聖徳太子』の中に「幕末の法隆寺とその紙幣」の一編があります。

    「法隆寺に関係する紙幣といえば、昭和に発行された聖徳太子肖像入りの高額札が、ゆかりの各種文化財を図案に取り込んでいて有名であるが、幕末に法隆寺そのものが発行した紙幣のあることは、一般にはほとんど知られていない。それには大きく分けて二種あり、いずれも法隆寺の子院である阿弥陀院と中院から発行されている」

    はい、確かに知りませんでした。

    「このような紙幣は、大名の発行した藩札や大商人の発行した私札などと同類で、十八世紀以来、主に西日本を中心に各地域で発行され流通していた」

    江戸時代も後半になって物流が活発になるにつれて、その取引にお金が必要になってくるわけですが、西日本で主に使われていた「銀」の代わりにお札が発行されたという説明です。もちろん信用できるところが作ったお札でなければ安心して使えません。そして近代になればお札を発行するのが政府であり日本銀行となるわけですが、江戸時代にはいろいろなお札が使われていた、その一つに法隆寺が作ったお札があった、とのこと。

    そのお札の写真も掲載されていますが、さすがに聖徳太子の肖像とか、法隆寺の建物とか文化財の図案などは印刷されておらず、金額や発行元などが書かれているだけです。法隆寺内にあった東照宮などの修理費用を調達するために発行されたと東野さんは述べています。

  • 2024.02.15

    紙幣の聖徳太子 ② 皇太子の摂政就任の時期にお目見え

    戦前戦後を通じて紙幣(日本銀行券)に一番多く登場したのが聖徳太子、その時代背景、理由などはやはり歴史研究のテーマとなります。

    『貨幣の日本史』(東野治之、朝日選書、1997年発刊、2004年3刷)

    再び東野さんに登場していただきます。富本銭、和同開珎から貨幣の歴史について綴っていますが、近代明治の紙幣発行については国産化・肖像画デザインのためにイタリアからお雇い外国人としてキョッソーネが招かれたことなどを紹介します。そして

    「大蔵省印刷局(紙幣寮の後身)は、紙幣に入れるにふさわしい人物を七人選び、閣議決定を経て、天皇の裁可を受けた」

    として日本武尊、武内宿禰、藤原鎌足、聖徳太子、和気清麻呂、坂上田村麻呂、菅原道真をあげています。

    「いずれも国家に勲功や業績があって、人々の尊敬を受けている、というのがその理由である」

    このうち日本武尊、聖徳太子、坂上田村麻呂を除く4人がまず登場し、聖徳太子は1930年(昭和5)に初めて使われることになります。(日本銀行のウエブサイトの一覧をみると坂上田村麻呂は結局使われなかったようです)

    『聖徳太子の歴史学 記憶と創造の一四〇〇年』(新川登亀男、講談社選書メチエ、2007年)

    このブログの「法隆寺と聖徳太子 ④ そして現代まで」(1月31日)で一度、とりあげた本です。聖徳太子の肖像が最初に使われた「乙百円券」の発行が始まった時期に注目します。

    「その紙幣肖像は、東京帝国大学教授で聖徳太子奉賛会理事の黒板勝美(一八七四~一九四六年)の意見により、摂政にふさわしく、かつ明治天皇に似せて考案されたという」

    「裕仁皇太子(のち昭和天皇)が摂政に就いたのも、ちょうど、この事業年であった。皇太子は、時に二〇歳であるから、偶然であったとも言えるが、「聖徳太子」の摂政就任も二〇歳であったと言われていた。やはり、単なる偶然の一致とは思えない」

    ここでいう「事業年」とは1921年(大正10)の「聖徳太子」千三百年遠忌事業のこと。聖徳太子が亡くなったとされる年から1300年後という区切り(遠忌)に皇族や政治家、歴史家らが太子を讃える集まり「聖徳太子奉賛会」をつくり、さまざまな行事を展開しました。それらが近代の新しい聖徳太子像が作られるきっかけ、原動力になったと多くの研究者が指摘しているようです。

    大正天皇が病気で天皇としての仕事ができなくなったために裕仁皇太子が摂政につくことになります。日本史で教わる関白・摂政の、あの摂政です。天皇が幼少のときなど、天皇に代わってその仕事をするのが摂政、古代の藤原氏をすぐに思い浮かべますが、近代になって復活するわけです。

    藤原氏は天皇家・皇族ではないので、裕仁皇太子が摂政になるにあたって、日本書紀では皇太子で摂政とされた聖徳太子が模範、モデルとされたとの見立てです。聖徳太子を讃える動きが近代の聖徳太子像を作り、摂政裕仁皇太子と重なるような形で国家の象徴ともいえる紙幣に太子の肖像が使われることになったと研究者は考えているわけです。

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    いずれも戦後発行された紙幣ですが、聖徳太子の肖像が一万円、五千円、千円、百円の紙幣で使われています(日本銀行のウエブサイトの教材用データからダウンロードしました)

  • 2024.02.14

    紙幣の聖徳太子 ① 最も多く登場

    今年2024年はお札(紙幣)のデザインが変わる年、一万円札に渋沢栄一、五千円札に津田梅子、千円札に北里柴三郎の肖像がデザインされるのですが、その作業にあたる専門家(技術者)がニュースでとりあげられたりしています。私の世代でお札の人物としてなじみ深いのが聖徳太子、日本銀行のウエブサイトによると、戦前戦後を通じてお札に肖像として最も多く登場したのが聖徳太子だったとのこと。ではなぜ聖徳太子なのか、ここでも聖徳太子にこだわります。

    まずは、紙幣(日本銀行券)を発行している日本銀行のウエブサイトから引用します。お札に登場した人物の一覧です
    (戦前)
    菅原道真(すがわらのみちざね)、和気清麻呂(わけのきよまろ)、武内宿禰(たけのうちのすくね)、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)、聖徳太子(しょうとくたいし)、日本武尊(やまとたけるのみこと)

    (戦後)
    二宮尊徳(にのみやそんとく)、岩倉具視(いわくらともみ)、高橋是清(たかはしこれきよ)、板垣退助(いたがきたいすけ)、聖徳太子、伊藤博文(いとうひろぶみ)、福沢諭吉(ふくざわゆきち)、新渡戸稲造(にとべいなぞう)、夏目漱石(なつめそうせき)、樋口一葉(ひぐちいちよう)、野口英世(のぐちひでよ)

    政府紙幣 神功皇后(じんぐうこうごう)、板垣退助

    戦前は実在が不確かな人物も混ざっていますが、戦前から戦後にかけての全体的な傾向としては「官」(政治家)から「民」(学者、文化人など)へと大きな流れがあると言えるでしょう。日本銀行ウエブサイトは続きます。

    日本のお札に最も多く登場した人物は?

    聖徳太子(しょうとくたいし)で、1930年(昭和5年)に発行が始まった「乙百円券」に初めて採用されて以来、「銀行券の顔」として最も多く登場(戦前2回、戦後5回)しています。また、登場回数もさることながら、C五千円券とC一万円券は、四半世紀以上にわたって発行され(戦後に発行された日本銀行券では、発行期間が最も長い)、長年、国民に親しまれました。このため、いつのまにか国民の間に、「聖徳太子は日本銀行券の代名詞」というイメージが浸透していったようです。

    さらに、聖徳太子像は、いずれも発行当時の最高額券に採用されたことから、「聖徳太子=高額のお札」というイメージもあるようです。もっとも、聖徳太子像を使わない日本銀行券が発行されてから長い年月が経過しているため、こうしたイメージは徐々に薄れつつあるかもしれません。

    そして「なぜ聖徳太子なのか」についても言及しています。

    ところで、聖徳太子像がこれだけ多くの日本銀行券に採用された理由は何でしょう? それは、(1)「十七条の憲法」を制定したり、仏教を保護したり、中国との国交回復や遣隋使の派遣により大陸文化を採り入れるなど、内外に数多くの業績を残したため、国民から敬愛され知名度も高いこと、(2)歴史上の事実を実証したり、肖像を描くためのしっかりした材料があること、が大きな理由のようです。

    なお、GHQ(連合国最高司令部)は1946年(昭和21年)、かつて日本政府が決定した「肖像に相応しい人物」について、「聖徳太子以外は、軍国主義的な色彩が強いため、肖像として使用することを認めない」としました。この時、聖徳太子についても議論があったようですが、当時の一萬田(いちまだ)日銀総裁はGHQに対し、「聖徳太子は『和を以って貴しとなす』と述べるなど、軍国主義者どころか平和主義者の代表である」と主張して、その存続についてGHQを押し切ったと言われています。

    「中国との国交回復」といった表現には苦心したあとがうかがえますが、いずれにしても日本銀行としては教科書に沿った、といったところでしょう。では研究者、歴史家はどうとらえているのかということです。

    *「政府紙幣」とあるのは、日本銀行が紙幣を発行する前に、政府が紙幣を発行していた時期があります。

    日本銀行ウエブサイト、紙幣についての説明はこちらから
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    日本銀行のウエブサイト、教材用データからダウンロードしました。もう1ページあり、より古い紙幣が紹介されていますが、次回に

    余談ではありますが
    この一覧表の4番目に「弐千円」(2000円)札がのっています。最近あまり手にとることがないので、高校生は知らないかもしれませんね。2000年に沖縄サミット(第26回主要国首脳会議)に合わせて発行されました。デザインされているのは沖縄・首里城の守礼門です。