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  • 2024.04.11

    「ご当地ソング」考 ④ ーー店名もあり?

    「ご当地ソング」というくくりで、具体的な地名が出てくる歌についてあれこれ書いてきたわけですが、さらに行きつく先として、実在するお店の名前が使われるのも広い意味での「ご当地ソング」と言ってもいいかもしれません。

    具体的な店の名前が出てくるいうことになると、やはり1970年代ごろから登場してくるシンガーソングライターの曲となってくるのでしょう。というか、最近の曲に好例があるかどうか知らないという年寄りの事情もありますが。

    おさらいです。1970年代あたりまでの日本の音楽シーンは、レコード会社所属の作詞家や作曲家が作った歌をプロ歌手が歌うことが当たり前というか、それがほぼすべてでした。歌謡曲などと呼ばれました。そこに、自分で歌を作って(作詞作曲して)なおかつ自分で歌う、ギターを弾いたりピアノを弾いたりして歌うという時代がやってくるわけです。その担い手がシンガーソングライター、そのような曲はフォークソング(フォーク)やニューミュージックなどと呼ばれました。

    彼ら彼女らの作る歌の多くは身の回りの生活や自分の体験に基づいて作られ、「個」の主張をはっきりと前面に出す歌でもあったため、そこが従来のプロによる歌謡曲とは大きく異なり新鮮で、特に同世代の人たちの共感を呼んだわけです。その代表的な存在としてはフォークでいえば吉田拓郎さんや井上陽水さんであり、ニューミュージックはユーミンこと荒井由実さん、中島みゆきさんなどがあげられるでしょう。

    ここではやはりユーミンをとりあげます。以前、本校通学圏内に縁のあるミュージシャン、歌について書いたとき(2023年7月27日「ミュージシャンから派生してーーR16へのこだわり ①」)、国道16号線を「Route16」と歌っていることを紹介しましたが、ユーミンは固有名詞を使うセンスは抜群ではないかと思います。

    好例がデビュー後2枚目のアルバム『MISSLIM』(1974年)に収められている『海を見ていた午後』。横浜のとあるレストランの名前が出てきます。かつて恋人と訪れた店でいま一人でテーブルに座っている、ソーダ水のグラスを通して遠くの海を行く貨物船が見える、という映画の一シーンのような描写で、リアリティを際立たせるには「とあるレストラン」ではだめだったのでしょう。

    また4枚目のアルバム「14番目の月」(1976)収録の『天気雨』では湘南・茅ケ崎でサーフィンをする恋人であろう「貴方」とのことを歌っているのですが、サーファーがよく立ち寄るお店が出てきます。

    ドラマやアニメが大ヒットして、ファンがその舞台や撮影場所を訪れる、そんな場所が「聖地」と言われたりします。最近では神奈川県にある鉄道踏切が外国人観光客も含めて大変な賑わいで大渋滞、事故の心配もあり、いわゆるオーバーツーリズム(観光が市民生活に悪影響を与える現象)を伝える際、必ずといっていいほどとりあげられます。ちょっと前は大ヒットした韓国ドラマのロケ地巡りも話題になりました。

    同様に、ユーミンのような人気の歌い手が店名をあげたら、やはりファンは訪れてみたいということになるのでしょうね。

    「リアリティを出すために固有名詞が必要では」と書きました。歌に限らず小説でもそうでしょうが、具体的な場所やモノが描かれると、さらにそこを知っていると、聴いていて、読んでいて、具体的なイメージがわくので、小説や歌の世界に入りやすくなるのは間違いないでしょう。一方で、そのイメージが固定化されてしまって、想像する楽しみがなくなってしまうというデメリットもあるでしょう。

    朝日新聞の読書欄で「旅する文学」という連載を書いている文芸評論家の斎藤美奈子さんがつい先日、こんなことを書いていました。

    「旅をした後にその土地ゆかりの本を読むと、空気感や地名に覚えがあるから不思議なほどクリアに読める。旅と読書はワンセット」

    本・読書が先か旅が先かはあるにしても、どちらも一層面白くなる相乗効果は間違いないでしょうね。歌、音楽についても同じことが言えそうです。

    それにしても、ご当時ソングなどと言われなくてもいいから、本校の近くの街や場所を歌った、これといった曲が生まれないかしら。誰かつくってくれないか。もしかしたらすでにある? そうならぜひ教えてください。

    余談ではありますが

    ユーミンが歌った横浜のレストランですが、ネット検索していたらまだお店はあるようで、そこを訪れたルポ、訪問記がアップされていました。この歌が発表されてからお客さんが増え、ユーミン本人が出かけたら満席で断られたというエピソードがファンの間でまことしやかに語られていた、と以前何かで読んだ記憶があります。都市伝説だとは思うのですが。

    茅ケ崎のサーファー御用達しの店ですが先日、ドライブ中に偶然にもこの店の前を通りました。名前はもちろん知っていましたが、サーフィンの経験もなく、もちろん「聖地めぐり」をしたこともなく、「へーっ、こんな場所にあるんだ」と。「この店さ、ユーミンがさ・・・」と車内で熱弁をふるい、同乗していた家族に呆れられました。

    ちなみにこの2曲が収められているユーミンの初期のアルバムですが発売時はレコード。自身はまだ学生でレコードで聴きました。もちろん、いい大人になってからCDも買い直していますが。

  • 2024.04.10

    「ご当地ソング」考 ③

    京都の歌を集めたCDがあることを知った時に思い出したことがあります。30年ほど前、京都で新聞記者をしていた時に京都市役所の若い職員たちが京都の将来を考える研究会を作っていて、「最近、京都をうたう歌がへっているのではないか、それって、観光地としての京都の魅力がなくなっているからではないか」という問題意識を持ち、都市研究の雑誌に論考を発表したことがありました。

    なかなか面白いなと思って少し取材してみたのですが、何年に京都に関するこういう曲が発表されている、それを経年で追いかけるというのはこれはデータ的にとても困難で、「減っているのでは」という印象論では記事にならない、よって取材は途中で終わってしまった苦い経験があるからです。

    もちろん、今回のCDだって、言い方は悪いですが制作会社の担当者の「好み」での選曲でしょうし、商品説明にある「中でも京都の歌は、テレビやラジオや有線放送から大量に流れていました」も、まさに印象論。とはいいつつ、当時の市役所の若い彼らの心配をよそに、京都は相変わらず観光地としての人気を誇っていて、市役所のみなさんは「オーバーツーリズム」対策にこそ知恵を絞らなくてはならない状況。相変わらず「恋につかれた人」ばかりが訪れているとは、さすがに思いませんが。

    これまた印象論なのですが、それでも、歌謡曲やポップス、フォークソングなど、具体的な地名を入れて歌われるということで考えると、京都は十分多い方ではないでしょうか。もちろん、ダントツは東京でしょう。ほかにどうでしょうか、神戸、横浜、長崎などは多いほうかも。なんか港町が多いような。そうそう『港町ブルース』など、北から南まで列島の著名な港を網羅しています。

    それでも『襟裳岬』(吉田拓郎、森進一)はよく知られているだろうし(行くとなるとやはり遠いので、なかなかではありますが)、青森県の竜飛岬に行けば石川さゆりさんの歌声(『津軽海峡・冬景色』)がどことからもなく聞こえてくるし(本当か?)、長崎に行って晴れているとがっかりする(『長崎は今日も雨だった』、晴れの方が観光にはいいのですが)、いやはや、「ご当地ソング」はやはり貴重な観光資源でもあり、旅の印象を大きく左右するものではありましょう。

    私自身が知らないだけかもしれませんが、近年のJポップの曲でどうでしょう、地名が具体的に出てくる曲ってありますか、ぜひご教示ください。

    ついでになってしまいますが

    小柳ルミ子さんのところでふれた大ヒット曲『私の城下町』、国内に城下町はたくさんある、どこが舞台かって気になりませんか。とんでもない本があります。

    『歌謡Gメン あのヒット曲の舞台はここだ』(テリー伊藤、宝島社、2005年)

    「とんでもない」と書きましたが、いわゆる「とんでも本」(フェイクいっぱいの本)ではなく、著者というか編者に注目。

    テレビディレクターとして数多くの人気テレビ番組をつくり、自らもテレビに数多く出演しているテリー伊藤さん。その伊藤さんがパーソナリティーを務めたラジオ・ニッポン放送の番組「テリー伊藤 のってけラジオ」のなかで、歌謡曲などの歌の舞台はどこなのかを作者や歌手に直撃取材してその答えを紹介する人気企画があり、その内容をまとめた本だそうです。その調査、取材にあたる番組スタッフを「歌謡G メン」と名付けたわけです。

    『わたしの城下町』は歌詞に場所がわかりそうな表現はありません。小柳さん自身の回答、「歌う時にイメージしていた城下町は、故郷福岡にあるお城とその一帯の街並み」と紹介されています。うーん、福岡県内、お城いくつかあるんですけと、と突っ込みたいところですが、「ちなみに、レコードジャケットを撮影した場所は小田原城」、うん、取材が深い。

    『瀬戸の花嫁』、花嫁はどこの島へ嫁いだの、との質問にこれも小柳さん、ご本人のイメージでは「この歌を歌っていた当時、取材に訪れた瀬戸内海の女木島」だそう。ただ、「地元では通称鬼ヶ島とよばれている島」だそうで、これは言わなかったのが正解。

    しかし、ラジオ番組の企画として面白いし、まじめに答えてくれる人たちも偉いですよね。作詞・作曲者本人では松本隆さん、さだまさしさん、喜多條忠さん(『神田川』作詞など)、そしてなんと秋元康さんまで。

    「京都の歌がないか?」とこの本を書棚から探し出したのですが、結論は「かすっている」といったところでしょうか。

    はしだのりひこさんの『花嫁』、花嫁は夜汽車に乗ってどこへ行ったの、との質問にはしださん本人が回答、すばり「京都」、うん、はしださん京都の方だし、すぐに納得。

    1970年代の人気アイドルの一人、麻丘めぐみさん知ってますか。ヒット曲として『わたしの彼は左きき』があげられますが、ここではデビュー曲『芽生え』が取り上げられています。「あの日あなたに会ったのは」と歌詞にある、どの街で会った? 回答は麻丘さん本人、「歌う時イメージしていた歌の舞台は京都」と、これは意外。ただその根拠というか理由が「当時、作詞の千家和也先生が京都を拠点にお仕事していらっしゃったので」とあり、共感できるかはちょっと微妙。

    もう1曲、尾崎亜美さんの『マイピュアレディ』、本にはこうあるけど、ご本人のオフィシャルサイトでは『マイ・ピュア・レディ』。尾崎亜美さん、知らないかな、杏里さんのヒット曲『オリビアを聴きながら』の作者です。この『マイ・ピュア・レディ』は化粧品会社のコマーシャルで使われ結構ヒットしたんですが。

    「ショーウィンドウにうつった街」と歌詞にでてくる、その街は、尾崎さん本人の回答、「京都、尾崎亜美が19歳でこの詞を書いたときに住んでいた故郷。河原町、四条河原町あたりのイメージ」となっています。京都の方とは知らなかった、ポスト・ユーミン(荒井由実に続く歌い手)とも言われていたので勝手に東京の人と思っていました。ちなみに、この本では「川原町、四条川原町」と表記されていましたが、まあ、間違いですね。

  • 2024.04.09

    「ご当地ソング」考 ②

    京都に関わる歌を集めた企画もののCD、その中の「京都の恋」「京都慕情」は渚ゆうこさんが歌っていました。私が京都の歌を最初に意識したのはこのあたりかと。ベンチャーズの曲ということは当時から知っていました。いや、すでにここまでで今の若い人には「なんのこっちゃ」ですね。

    CDの解説文を読むと、1970年の大阪の万博を記念してベンチャーズが発表した曲に日本語詞を後からつけたとのこと。欧陽菲菲さんの「雨の御堂筋」(71年発表)などと並んで「ベンチャーズ歌謡」と呼ばれたそうです。ちなみに欧陽菲菲さんの方は「御堂筋」、大阪です。蛇足ながらベンチャーズはエレキギターをフューチャーしたインストルメントバンド(歌がない)で、日本にエレキブームを巻き起こしました。

    この渚ゆうこさんあたりが「ポップス」(というか演歌?)とするとフォークソングというジャンル分けでは「加茂の流れに」はかぐや姫、メンバーは南こうせつ、伊勢正三、山田パンダさん、赤い鳥の「竹田の子守唄」。こちらはもはやスタンダートといってもいい曲で、みなさん聴いたことがありますよね。
    またまた蛇足ながら、グループ・赤い鳥は代表曲として「翼をください」がさらに著名。

    もうきりがないですが、小柳ルミ子さんが何曲か入っているのがちょっと意外でした。小柳さんは福岡県の出身、デビュー曲は「わたしの城下町」だし、代表曲は「瀬戸の花嫁」、京都との接点は特になさそう。では「京のにわか雨」というと作詞は著名な、なかにし礼さん、こちらも京都とは縁がなさそうです。

    もちろんこのCDに収められた曲はつくられた時期が異なるので、まとめての感想は難しいのですが、とにかく「別れ」にかかわる詞が多い、失恋した女性がやたらとでてくるようです。

    「恋に疲れた女がひとり」(女ひとり)
    「さがす京都の町に あの人の面影」(京のにわか雨)
    「京都の町は それほどいいの この私の 愛よりも」(なのにあなたは京都へゆくの)
    「あなたを追いかけ 京都にひとり」(泣きぬれてひとり旅)

    いやはや、京都は幸せいっぱいの人が出かけてはいけない街なのでしょうか。まあ、恋(失恋)の歌は平安時代の和歌からの伝統かもしれませんが。
    (というか、企画した方が京都の歌にそういうイメージを持っていたか、あるいは意図的にそういう歌を集めたか、かもしれません)

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    こういう風景、風情では、やはり「恋のうた」になるのでしょうか

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    もうひとつ、タイトルでも「三年坂」「嵯峨野」木屋町」がでてきますが、歌詞に出てくる地名をみても、これでもかという有名観光地。「高瀬川」「嵐山」「桂川」「大原」「清水」「八坂神社」、行事がらみでは「祇園祭」「長刀鉾」「都おどり」、かなりマニアックなところでは「京都嵯峨野の 直指庵」「雨の落柿舎 たんぼ道」(いずれも「嵯峨野さやさや」)、なんと「京都タワー」まで、さすがに昇ってはいないようです、「雨にかすむ京都タワーは とってもきれい」、そうでないと風情はないか(「京都にさよなら」)

    まあ京都を歌にする以上、このように誰でも知っている地名が入るのは当然といえばそうだし、それがあるからこそ詞になりやすい、ということもあるのでしょうね。

    余談ではありますが

    みうらじゅんさんが、渚ゆうこさんの大ファンだったと、少年時代を振り返ったエッセイ本で語っていました。みうらさんは私とほぼ同年代、ただ京都育ちなので、京都のうたの入り方はだいぶ異なるでしょうが。

    日本の少年少女とベンチャーズの出会い

    なんておおげさな、というわけではありませんが、ベンチャーズのエレキサウンドにはまってしまった青春(高校生)を描いた『青春デンデケデケデケ』(芦原すなお、親本1991年、河出文庫版あり)があります。映画化もされたので調べてみたら監督はなんと大林宣彦。ただし小説、映画の舞台は香川県、大林宣彦の故郷で代表作「転校生」などの舞台ともなった広島県・尾道とは瀬戸内海を挟んですぐ向こう側です。

    その、かつてのバンド少年たちのその後を描いたのが『デンデケ・アンコール ロックを再び見出し、ロックに再び見出された者たちの物語』(作品社、2021年)。最近読んだせいもあるけど、こちらの方が青春のほろ苦さでジジイ(私のことですよ)には印象が強いですね。

    この「デンデケデケデケ」ですが、ベンチャーズによって知られるようになったエレキギターの奏法を表現したもので、そもそもカタカナ表記が難しく、「テケテケ」とかいろいろな書かれ方をしたように記憶しています。芦原さんにはこのように聴こえた?

    肝心のベンチャーズですが、芦原さんは1949年生まれで私よりけっこう年上、ご自身の年齢とベンチャーズとの出会いのタイミングで、高校生がベンチャーズにはまるという実感は持てたのでしょう。

    私はベンチャーズとの同時代での出会いはありませんでした。いわば、後付けの知識、後から「ベンチャーズも聴いてみた」。昨年か一昨年かベンチャーズの相当数の曲を収めたCDを買って聴きました。2枚組だったか、歌もなくギターでメロディーを弾く曲ばかりなので、率直なところ全曲続けて聴くのはきつかったです。

  • 2024.04.08

    「ご当地ソング」考 ①

    この項の前の「新選組から西南戦争」があと1回残っていたのに、新しいこの「ご当地ソング」考をアップしてしまいました。気づいて、あわてていったん取り下げました。そのタイミングで読んでいただいている方には同じもの? となってしまいますがご容赦ください。

    また、新学期準備の諸会議、そして入学式、始業式とあわただしく、このブログを更新できませんでした。今年度も引き続き読んでいただき、感想などお寄せいただけると嬉しいです。

    「そうだ、えぼし岩があった!」と先日、サザンオールスターズの45周年記念のテレビ特番、桑田佳祐さんの歌声で思い出しました。「えぼし岩」、神奈川県茅ケ崎市の海岸沖合にある島というか岩、「湘南」のシンボル的存在ですね。そういえばサザンにはずばり「江の島がみえてきた」もある。地元愛いっぱいです。

    なんでこんな書き出しなのかというと、昨年秋購入した1枚のCDから、そういえば最近は「ご当地ソング」ってあるのかしら、という素朴な疑問がずっと残っていたからです。そうだ、サザンがいたじゃないか、といったわけ。

    そもそも「ご当地ソング」という言葉がすでに「死語」かもしれませんね。特定の場所、地名を舞台にした歌、ということでしょうが、もう少し幅広く、実在する街の名前とか店の名前が盛り込まれて、その歌にとって欠かせない要素になっている曲、とでも定義しておきましょうか。

    その1枚のCDは2023年秋、新聞の新譜紹介で目にしたのだと思いますが、すぐに飛びつきました。「えっ、また京都ネタか」と冷笑されそうですが、「京都」と銘打っていたからこそ購入したことは否定しません。

    『京都のうた~フォーク&ポップス~』(ソニー・ミュージックレーベルズ)

    企画ものなどといわれるCDでタイトルの通り「京都」に関する歌、つまり曲名に「京都」と入っていたり、京都の地名が入っていたり、あるいはタイトルにはなくても歌詞の中に京都の地名が豊富に織り込まれている曲が22曲集められています。

    通販サイトの商品説明には
    「1970年代に国鉄のディスカバー・ジャパンのキャンペーンをきっかけに日本の美しい観光地を題材にした多くの抒情的な歌が作られました。中でも京都の歌は、テレビやラジオや有線放送から大量に流れていました。そんな大ヒット曲から知る人ぞ知る名曲まで全22曲を収録」

    とあります。

    さて、みなさん、何曲知っていますか、といったところ。
    「京都の恋」(渚ゆう子)
    「京都慕情」(渚ゆう子)
    「女ひとり」(デューク・エイセス)
    「京のにわか雨」(小柳ルミ子)
    「恋しぐれ」(中村晃子)
    「なのにあなたは京都へゆくの」(チェリッシュ)
    「嵯峨野さやさや」(たんぽぽ)
    「北山杉」(うめまつり)
    「京都にさよなら」(叶正子)
    「加茂の流れに」(かぐや姫)
    「京都初雪」(梶たか子)
    「三年坂」(清水由貴子)
    「京都木屋町情話」(坂本スミ子)
    「ひとり囃子 -“祇園祭”より」(小柳ルミ子)
    「泣きぬれてひとり旅」(河島英五)
    「ひとり歩き」(たんぽぽ)
    「しあわせ京都」(ばっくすばにい)
    「街」(ザ・ナターシャ・セブン)
    「比叡おろし」(岸田智史)
    「比叡おろし」(小林啓子)
    「北山杉」(森田公一とトップギャラン)
    「竹田の子守唄」(赤い鳥)

    =()内が歌手名

    「知る人ぞ知る」とあるように(名曲かどうかはともかく)、私が知っている曲も半分ほどでしょうか。

    さてさて、このようなCDというか音楽の紹介はことのほか難しい。もちろん本の紹介でも著作権があるので引用は慎重でなければなりませんが、楽曲の場合はなおさらです。

    「YouTubeで聴いてみてください」と案内してしまえば簡単なのですが、例えば試しに「竹田の子守唄 赤い鳥」で検索したら、おそらくバンド「赤い鳥」のオリジナル版でしょうか、ボーカルの山本潤子さんの素敵な歌声が流れてきました。でも、これって、誰がどういう資格でYouTubeにアップしているのだろうかという疑念は消えません。

    かつて新聞社で仕事をしていた時、ネットでのニュースの無断転載、要するに著作権侵害にどう対処するかは悩みのタネでした(今もあまり事情は変わっていませんが)。放送業界を取材対象としていた時にも、放送局の方からYouTubeへの深刻な懸念は常に耳にしていました。

    その放送局ももはや諦めたというか、むしろ放送局がYouTubeをビジネスに活用するように変わってきていることは承知しているのですが、個人的にはまだまだ簡単に割り切れません。ただ、楽曲を聴いてもらったうえでブログを読んでもらった方が楽しいでしょうから、せめてめの抵抗としてYouTubeでのおすすめのURLリンクなどはしないで、みなさんの判断に任せたいとおもいます。

    YouTubeにオリジナルの映像や番組を流して大変な人気がある人がいる、ビジネスとして成立している、そういう点でYouTubeがメディアの世界を大きく変えたことは高く評価しますが。

  • 2024.04.03

    今年度もよろしくお願いします (新選組から西南戦争へ ⑤)

    4月1日、新年度・新学期の始まりが月曜日という暦になりました。カレンダーは1月からが新年ですが、学校はやはり4月が大きな区切りとなります。2024年度もよろしくお願いします。

    引き続き、本校生徒、保護者のみなさん、学校関係者のみなさんの参考になるようなブログを心がけます。

    「こんな本も読んでいますよ」というとことから浅田次郎さんの新選組の小説について紹介し、国内最後の内戦といわれる「西南戦争」について書いてきて、区切りが悪く年度をまたいでしまいました。この項、最終回です。

    歴史学から西郷隆盛、大久保利通、そして西南戦争はどうとらえられているのか。それぞれの人物の評伝はいくつもあり、あれもこれもとチェックするだけの余裕はなかったのですが、書棚からとりあえず目についた新書2冊をめくってみました。

    『西郷隆盛 西南戦争への道』(猪飼隆明、岩波新書、1992年)

    「戦後歴史学の西郷評価」という項はどうでしょうか。

    「戦後の歴史学による西郷と士族反乱の研究は、対象に対してきわめて厳しいものとなった。士族反乱は、新政府の開化政策によって、それまでの封建的諸特権を奪われ、不平不満を募らせた士族がそれらの回復を求め、また開国和親に見られる外交政策に反対して起こした反乱であると評価され、西郷はそうした不平士族の棟梁であると位置づけられてきた」

    「いま西郷と士族反乱は、歴史研究者にとっては必ずしも魅力あるテーマではなくなっているが、西郷は同時代の人にはじまり、今日に至るまで無数の人によって論じられて来た。いわゆる維新の元勲といわれる人物のうち、これほど伝説につつまれ、時代の推移の中でおもいおこされ、くり返し顕彰されてきた人物はいない」

    「後世の西郷の民衆的人気は、何よりも無私無欲の生きざま、「天に敵する豪侠の天性」、胆力・決断力といった西郷の人間的魅力にもとづいている」

    だから小説の素材として魅力的とも言えますよね。

    西南戦争についてはこんな説明です。

    「よく知られているように、西郷の挙兵のきっかけは、私学校生徒の「暴発」であった」

    「西郷にはたしかに起つ意思はあった。(略)しかし実際の蜂起は、彼にとってまったく意にそわない不運なものとなった。西郷は名分なき「反乱」を行うことになってしまったのである」

    「結局、西南戦争は単なる不平士族の反乱以上にはなりえなくなったのであり、ここに西郷の不運と悲劇があった」

    もう一冊、先にも取り上げました。タイトルがそのままずばりですね。

    『西南戦争 西郷隆盛と日本最後の内戦』(小川原正道、中公新書、2007年)

    西南戦争について

    「それは誕生したばかりの「日本軍」が経験した最初の本格的戦争であった」

    と位置付けています。そう、士族ではない徴兵による「軍」の戦争という点を強調しています。その一方で

    「西南戦争の内実をあらためて検証すると、多様な性格を持っていたことに気づかされる。西郷が率いる薩軍の中核となった私学校党の不満は、秩禄処分や自らの不遇とともに、欧化政策や外交政策、政府の専制、腐敗や朝令暮改などに向けられていた」

    「それでも薩軍が最後まで死闘を繰り広げられたのは、西郷その人の魅力によるところが大きい。「反乱」の名分は曖昧であったが、全軍の求心力はつねに西郷隆盛という個人が背負っていた。そこにこの西南戦争の特徴があり、悲劇がある」

    うーん、やっぱり西郷という一人の人物に収れんされてしまうのでしょうか。先の『西郷隆盛 西南戦争への道』でも「名分」がなかったとし、「悲劇」という言葉でまとめていました。こんなくだりもありました。

    「西郷がかくも人々の人気や祈りを受け止めることになったのは、その人格の魅力や維新の英雄としての声望、政治に抗した反抗精神、そして「あいまいさ」によるのであろう。明治期に入ってからの西郷は、多くを語らなかった。その主義は倫理的であり、その地位は高く、その人格は多くの人をひきつけたけれども、思想は体系化されず、いわば神秘的な魅力を湛えた巨大な沈黙であり続けた」

    語らなかったがゆえに、西郷の本音をいろいろ想像できてしまう、そこに歴史家ではない立場から入っていける余地がある、小説家として腕のふるいどころということでしょうか。

    では大久保との関係はどうなのか。

    「この西郷を、大久保は自ら説得にあたりたいと考えていたようである」
    「二月十六日に京都に着いた大久保は三条と面会し、西郷の心を知るものは自分以外にないとして、西郷と会って説得すれば私学校党を抑えられるだろうと述べたという」

    とても、二人の間に「台本」があった、「猿芝居」だとは思えないですよね。もし台本があったとしたら、この大久保の行動(演技?)は見事、というほかないのですが。

    「挙兵の段階で、西郷と大久保はその親交のゆえに、一方は裏切りへの絶望に似た感情を抱いて詰問に向かい、一方は信頼関係に託して対話に向かおうとしていた。二人の間に流れていた三年余りの時間はあまりに長く、生きている空間があまりに違いすぎた」

    歴史研究者の叙述としてはちょっと情緒的すぎるかなとも感じますが、西郷と大久保の幼いころからの親交の行きついたところが敵味方に分かれての「内戦」であった、歴史研究の立場からすればそれを「運命」とか「悲劇」とまとめるしかないでしょう。

    それでも浅田さんのように「悲劇」にしてしまわない「切り口」も、本読みの楽しさだと思いませんか。

  • 2024.03.29

    新選組から西南戦争へ ④

    今回のテーマで最初に紹介したように『一刀斎夢録 上・下』(文春文庫)の主人公、斎藤一から新選組時代、戊辰戦争、西南戦争などの昔話を聞く相手は現役の軍人です。そしてその時期を明治の終わり、つまり明治天皇が死んだ直後に設定しています。明治天皇の死を後追いするように乃木希典が自殺します。「殉死」という言い方をされています(もちろん近代になって殉死は禁止されるのですがこう表現されることが多いかと)

    乃木は西南戦争で軍のシンボルともいえる軍旗を奪われたことを生涯の恥としていました。この乃木の死について現役の軍人に語らせ、斎藤も語ります。これがサイドストーリーともなって小説に一層の深みを持たせています。

    新選組と聞くと、司馬遼太郎の作品『燃えよ剣』の主人公、土方歳三や病弱ながら天才的な剣の使い手とされる沖田総司らがよく知られており、人気があるようです。動乱の幕末という時代だからしょうがないといってしまえばそれまでですが、新選組は剣を振り回し、人を殺傷することを厭わない集団です。斎藤一の思い出話でも「そこまでやるか」という血なまぐさいところがあり、読む人によってはちょっとひいてしまうところはあるかもしれません。

    同じく新選組をとりあげた司馬の小説『新選組血風録』も読んでみました。先にあげた『燃えよ剣』もだいぶ前に読んではいるのですが、なにぶんかなりの長編なので、手が出ませんでした。ということで『新選組血風録』ですが、購入したものの、実家の書棚にきっちりとありました。1962年(昭和37)小説中央公論で連載、文庫本は1969年初版、手にしたのは改装版で2024年1月、44刷、超ロングセラーですね。

    新選組のメンバーを一人あるいは数人ずつをとりあげて構成されている短編集のような形です。残念ながら斎藤一は主役としては登場しません。数か所、名前が出てくるだけでした。
    浅田次郎さんの新選組を描いた作品としては『壬生義士伝』(上下巻、文春文庫)があり、すぐに購入したのですが、まだ読んでいません。

    明治天皇の死、乃木希典の殉死に触発された文学作品として夏目漱石の『こころ』森鴎外の『興津弥五右衛門の遺書』がよく知られています。明治を代表する文豪二人に書かせるほど社会に強い衝撃を与えたということでしょう。乃木希典について軍指揮官としての能力についてはいろいろな見方があるようです。日露戦争を描いた司馬遼太郎が『坂の上の雲』でとりあげています。
  • 2024.03.28

    新選組から西南戦争へ ③

    「西南戦争」は西郷隆盛と大久保利通が仕組んだ壮大な芝居だったと元新選組、斎藤一を主人公とした小説『一刀斎夢録 上・下』(文春文庫)で斎藤が語っています。つまり小説の作者、浅田次郎さんのとらえ方と言ってもいいわけですが、少し背景説明がいりますよね。

    倒幕から明治維新に至る要因はいろいろありますが、いわゆる雄藩といわれる薩摩、長州などの下級武士が大きな働きをしました。薩摩の西郷、大久保であり、長州の高杉晋作、木戸孝允(桂小五郎)らです。

    ところが明治政府になって武士は微妙な存在になっていきます。四民平等となり武士の特権が次々となくなっていくのに、なかなか武士としての気持ちが抜けきらない。武士は本来「軍事力」であったわけですが、徴兵制によって庶民による軍隊がつくられます。「士族」と呼ばれるようになった武士たちは戦いのプロとして徴兵制=庶民による軍隊を軽蔑しきっていました。このような元武士=士族たちをどう処遇していくかが明治政府にとって悩みの種となっていくわけです。

    西郷も大久保も、この古い武士を一掃する、士族をなくさなければ近代国家は作れないということにおいては意見に違いはなかったと思います。西郷は士族の象徴のように思われがちですが、合理的な思考、先を見通す能力がなければリーダーにはなれなかったでしょう。

    鹿児島の私学校生徒というのは、まさにこのかつての武士を引きずっている人たちの集団です。その集団に戦争をさせる、そして敗れてもはや武士はいらないと世の中に知らしめる、あわせて、士族が軽蔑していた庶民による軍隊が十分に戦えることをしめそうとした、そのために仕掛けられたのが「西南戦争」だった、というわけですね。

    もちろん、何らかの史料的裏付けがあるわけではありませんし、そのために同じ国民同士が殺し合いをするというのはめちゃくちゃな話ではあります。西南戦争で士族による反乱、反政府活動は終わり、西南戦争後に徴兵による軍隊が近代国家の軍隊として日清戦争、日露戦争などを担っていきます。西南戦争の結果から戦争前にさかのぼって西郷、大久保の意図はそれだったというのは歴史研究のルール違反ではあり、小説ならではと割り切ればいいのかもしれません。

    とはいえです。まさに倒幕の戊辰戦争から明治の新政府建設に手を携えて邁進した西郷、大久保の関係性を考えると、斎藤一の語り(つまりは浅田さんの見方)は無視しきれないのです。

    斎藤一が加わった新選組は幕末の京都で、京都守護職・会津藩のもとで治安維持にあたった軍・警察のような組織といったらいいでしょうか。傭兵部隊という言い方もできるかもしれません。新選組は幕府が倒れた後、事実上解散となり、そのメンバーの多くは戊辰戦争で戦死したり、新政府軍に捕らえられたりします。斎藤は生きのびて警視庁の警察官として後半生を過ごします。

    西南戦争では、徴兵軍のほかに警視庁の警察官の部隊も九州に出動し、薩摩の士族軍と戦います。斎藤にとっては、戊辰戦争敗戦のリベンジでもあったわけです。斎藤はいわば旧幕府方ですが警視庁警察官には薩摩、鹿児島県出身者も多かったのです。

    江戸時代の薩摩藩では武士階級内でも厳しいランクづけがあり、恵まれた上層の武士層に対して困窮していた下層(下級)武士はずっと恨みを持っていました。その下層武士出身者が多く警視庁警察官になっていました。彼らにとっても西南戦争は長年の恨みへのリベンジ戦だったのです。(というかそういう警察官の感情を上手く使ったということでしょう)

    波瀾にみちた半生を送った斎藤には、かつての「敵」だった薩摩への関心はずっと残り、西南戦争で死んだ西郷、そのすぐ後に暗殺された大久保の後の時代を生きながら「今になって思えば」と語るわけです。

  • 2024.03.26

    新選組から西南戦争へ ②

    作家の浅田次郎さんが『一刀斎夢録 上・下』(文春文庫)で独創的な見方をしめした西南戦争です。辞書的にはこんな説明になるかと。

    明治10年(1877)、西郷隆盛らが鹿児島で起こした反乱。征韓論に敗れて鹿児島に帰郷した西郷が、士族組織として私学校を結成。政府との対立がしだいに高まり、ついに私学校生徒らが西郷を擁して挙兵、熊本鎮台を包囲したが政府軍に鎮圧され、西郷は郷里の鹿児島・城山に戻り自刃した。かつては「西南の役」とも呼ばれた。

    もう少し詳しく。以下から引きます。

    『西南戦争 西郷隆盛と日本最後の内戦』(小川原正道、中公新書、2007年)

    「西南戦争は、明治十(一八七七)年二月から九月にかけて戦われた近代日本最大、そして日本史上最後の内戦である。
    「政府への尋問の筋これあり」
    東京から鹿児島に派遣された「視察団」が、西郷隆盛の暗殺を目的としていると憤激し、こう宣言して西郷以下が挙兵したとき、従う者は約一万三〇〇〇名、その後九州各地から馳せ参じた部隊や徴募隊が加わって、総兵数は三万名余りに膨れ上がった。対する政府軍は六万名余りを動員、半年以上にわたって戦闘が行われることになる」

    ここでは西郷のかつての盟友である大久保利通は出てきませんが、この時の明治維新政府の実質的なリーダーが大久保内務卿でした。徳川幕府を倒し、明治維新を推進した中心勢力の一つ、薩摩藩をひっぱった人物として西郷と大久保が双璧であることに異論はないでしょう。近年では小松帯刀も再評価されていますが、若くして亡くなったこともあって、明治に入ってからの維新政府内での影響力を考えるとやはりこの二人。

    二人は鹿児島市内のごく近いところで育った幼なじみで(西郷が少し年上)、明治新政府では征韓論で真っ向から対立するなどその関係は実にドラマチックであり、いきついたところが西南戦争でした。戦場で相まみえたわけではありませんが、実質的に西郷と大久保の戦争だったわけです。

    ではそんな幼なじみでお互いの考え方は十二分に知っている二人がどうして仲たがいしたのか、征韓論がそれほど深刻な対立を生んだのかという疑問が浅田さん、さらには磯田道史さんにはある。さらには、西南戦争での西郷の指揮や動きが不可解なわけです。

    西郷は私学校生徒らからなる軍勢を率いて東京を目指し、中央政府に圧力をかけて自分たちの主張を通そうとしたと説明されますが、それにしては例えば熊本攻略にこだわるのがよくわからない、さらには、挙兵の直接のきっかけもはっきりしないところがある。

    浅田さんの小説『一刀斎夢録』は、幕末から戊辰戦争までのいくつもの戦いを生き残った元新選組の斎藤一が明治の終わりの時期に、陸軍の剣道の名手に昔語りをするという形で書かれています。斎藤は明治になって警視庁の警察官になり、西南戦争に警察官として従軍します。その斎藤が西郷、西南戦争についてこんな言い方をするのです。

    「戦いというは偶然の積み重ねで、先のことなど誰にも見当がつかぬ。(略)しかしあの戦いに限っては、どうにも台本があるとしか思えなんだ」
    「わしが西郷と大久保の仕組んだ猿芝居を確信したのは、実はそのときであった」
    「ならばなにゆえ、あの西郷だけが格好良く死ぬのだ。あまりに都合がよすぎるではないか。長い芝居の大団円に、花道が誂えられたのじゃな」

    では西郷、大久保の狙いは何だったのか。

    「徴兵令でかき集められた百姓ばかりの軍隊は、戦の何たるかを知った。指揮官たちは近代戦の貴重な体験をなした。海軍も艦隊の総力を進め、日向灘やら錦江湾から艦砲の実弾射撃をした。輸送も通信も兵站も、すべて全力を以て実験された」

    「目的はそればかりではあるまい。あの戦は士族たちの不平不満を吞み込んだ。ほれ見たことか、武力に訴えるなど愚の骨頂じゃと、西郷は身を以て示した」

  • 2024.03.25

    新選組から西南戦争へ ①

    昨年4月からこのブログを書き始めて間もなく1年になろうとしています。高校生にどれだけアクセスしてもらっているかはわかりませんが、「とにかく本を読むことの面白さを伝えたい」ということで、自分自身が最近読んだ本をとりあげ、それを手掛かりにかつて読んだ本に言及したりして書き続けてきました。

    このブログを読んでいただいている方から先日、歴史に興味があるんですね、と感想をいただきました。確かに、歴史関連の本が多いのはその通りなのですが、意識して違ったジャンルの本もとは思っています。という気負いも交えて、「えっ、こんな本も読むの」というところを。

    『一刀斎夢録 上・下』(浅田次郎、文春文庫、2013年初版、2020年第2刷)

    映画も大ヒットした『鉄道員(ぽっぽや)』で直木賞を受賞した浅田次郎さんの小説です。実は浅田さんの作品はほとんど読んだことはなかったのです。ではなぜ、です。

    『磯田道史と日本史を語ろう』(磯田道史、文春新書、2024年)

    「なんだ、結局歴史本かい」と笑われそうですが。これまで何回も著作を紹介してきた磯田さん(国際日本文化研究センター教授)の近著。レベルの高い著作を次々に出していて、つい手にとってしまいます。

    いわゆる「対談本」、そのお相手も半藤一利さん、阿川佐和子さん、養老孟司さんら錚々たるメンバーなので、面白くないはずはなく、書籍広告などを見てもよく売れているようです。多くが月刊『文藝春秋』などに掲載されたものをまとめたものなので、さすが文藝春秋は商売上手、と感心していまいます。(それがわかっていて購入する私のようなものが多いからですが)

    その一人として浅田次郎さんとの対談にこんなくだりがありました。

    磯田 浅田さんの『一刀斎夢録』を非常に面白く拝読しました。新選組三番隊組長・斎藤一(はじめ)を主人公として、幕末維新を描かれていますが、斎藤一は局長の近藤勇や副長の土方歳三に比べると、残された記録が少なく、私のような歴史学者にとっては、掴みどころがない、謎に包まれた人物でした。でも、この小説を拝読したら、斎藤一こそが幕末最高の剣士だと深く納得させられました。

    ほーっ、ですね、私なぞ、そもそも斎藤一の名前すら知りませんでした。そして、驚かされたのはこのくだりでした。

    磯田 小説のなかで展開される、浅田さんの西南戦争論に、私は非常に頷きました。西南戦争は、大久保利通と西郷隆盛の二人が台本を書いて、日本軍を近代化させ、士族の反乱を終わらせるために打った「大芝居」だと書かれています。

    浅田 斎藤一が小説のなかでいうように、西郷隆盛と大久保利通が征韓論ごときで袂(たもと)を分かつはずがないと思うんです。

    磯田 私も「大芝居」は明確な謀議はないにしても、あうんの呼吸というか、「未必の故意」としては、あったのではないかと思います。あまり学者はそういうことを言えないのですが、あんな戦争、西郷だって成功するとは思ってないでしょう。なのになぜやったのか

    ここ読んだら浅田さんの小説を読まないわけにはいきません。

    新しい本との出会い

    最初に、なぜ浅田さんの小説に出会ったかを書きました。何がきっかけで新しい本と出合うかという一例です。何といっても本屋さんの中を歩き回るのがいいのですが、時間的な制約があります。そこで購読している毎日新聞、朝日新聞の読書欄、書評を読む、週刊誌でも週刊文春の書評などはまめにチェックしています。そして、新聞の本の広告、これはいやでも目に入ります。
    そして、この磯田本のような出会い、偶然ではありますが、そのお薦め本が面白かったとなると何とも満ち足りた気持ちになります。

    関連する本も紹介するように心がけているわけは

    読んで面白かった本、勉強になった本を丁寧に紹介するだけでなく、できるだけ関連本にも触れるようにしています。もちろん、紹介する本そのものがとてつもなく面白いということであればそれにこしたことはないのですが、その背景に別の読書体験もあるということを知ってもらいたいとの思いもあります。

    偉そうに書いていますが、ある忘れられない経験があります。新聞社勤務時に、児童・生徒の読書感想文のコンクールで審査員をしていたことがあるのですが、ご一緒していただいたある先生のお話が忘れられないからです。全国の学校を回って読書指導をされていました。

    読んだ本が面白かった、それはもちろん素晴らしい経験であり、学びだけれども、その一冊をきっかけに関連する別の本を読むようになるとさらにいい、そんな読書指導をしてほしい、といった話でした。

    児童・生徒にたくさん本を読んでほしいというのが第一なのですが、少し大げさにいえば、関連する本を読むことで、いろいろな見方、考え方があるということも学んでほしいということなのでしょう。子どもたちには言いにくいことですが、そこに書いてあることをすべて正しいと思ってはいけない、ということもあるでしょう。

    私たち大人がおもに知識を求めて本を読むことと、児童・生徒の読書を同じようにはとらえられない部分もありますが、この先生の話がずっと忘れられません。いい出会いでした。

  • 2024.03.23

    修了式(23日)あいさつ

    23日は2023年度(令和5年度)の修了式でした。校内一斉放送で実施しました。すでに卒業している3年生をのぞいた2年生、1年生に以下のような話をさせていただきました。

    みなさんは小学校から中学校、そしてこの東野高校に入学してこれまでずっと3月から4月にかけて進級、あるいは上の学校に進学してきました。4月から翌年の3月までが児童・生徒としての1年間だったわけです。

    いうまでもなく暦、カレンダーの新しい年は1月から始まり12月が終わりです。どうして学校は1月から新学期が始まらないのか、どうして4月からが1学期なのか、みなさんは疑問に思ったことはありませんか。1月から新しい年が始まるのだから学校も1月から新学期が始まればいいのではないかと考えたことはありませんか。

    これは国や東京都、埼玉県などの地方自治体が会計年度とよばれる1年間の区切りで動いていることに学校もあわせているからです。税金を集めてそれを使うのが国や地方自治体の仕事ですが、それには時間の区切りが必要です。この区切りが会計年度と呼ばれ、4月に始まり3月で終わりとされています。歴史的にみると学校は最初はほぼ公立だったので国や自治体に合わせたわけです。東野高校のような私立学校もそれにあわせているわけです。

    では、その会計年度はいつごろからこうなったのかということですが、明治時代までは1月から12月を一つの区切りとしていたようです。それが明治になって二転三転します。明治2年(1869)は10月始まり。明治6年からは1月始まり、明治8年からは7月始まりと目まぐるしく変わったそうです。わけわかりませんよね。そして明治19年、1886年から今の4月始まりになりました。

    では外国の会計年度はどうなっているのか、ということですが、日本と同じように4月から3月としている国は、インド・パキスタン・イギリス・・カナダなど、1月から12月が中国・韓国・フランス・ドイツ・オランダ・ベルギー・スイス・ロシアなど。7月から6月という国もあります。フィリピン・ノルウェー・スウェーデン・ギリシア・オーストラリアなどです。アメリカは10月から9月を会計年度にしています。

    ここで考えを広げてみてください。それならば学校の学期、1年も国によって異なるのではないかと想像できますね。

    実は日本のような4月はじまりは少数派で、圧倒的に多いのが9月始まり、アメリカ、カナダ、フランス、ロシア、中国などで、先ほど紹介したその国の会計年度とは必ずしも一致しません。何やら別の理由があるのではと推測できます。

    高校野球でこれまで最多の通算140本塁打を放った岩手花巻東高校の佐々木麟太郎選手が米国スタンフォード大学への進学を決めたというニュースがありました。佐々木選手は当然、この3月に高校卒業ですが、アメリカのスタンフォード大学は9月始まりなので、入学まで間が空くわけです。

    東野高校のみなさんの先輩の中でアメリカの大学に進んだ生徒も同じで、4月からアメリカに渡り、大学入学前に現地の語学学校で英語を学ぶと話していました。

    これから海外の学校で学ぶ人たちはどんどん増えていくでしょう、そんなこともあって、日本も世界の多くの国にあわせるために学校を9月始まりにしたらいいという意見が出てきています。一方で、今話をしたように学校だけの問題ではないので、簡単にいかないことも理解してもらえると思います。

    まとめます。これからみなさんは外国に出かけ外国で仕事をする、あるいは日本にいても外国の人たちと一緒に仕事をしていく機会が間違いなく増えます。そんな社会を生きていくために、この学校の1年の違いの例のように

    日本の伝統とか、古い歴史があるように思えることが必ずしもそうではないこと、日本であたり前だと思っていることが実は世界の中では珍しいものがけっこうあること、そんなことをあらかじめ知っておく、そのうえで外国の人とつきあっていくことが必要だと思います。

    このような学び、知識が建学の精神の一つ「知識は第一の宝」ではないでしょうか。

    会計年度の変遷については、国立公文書館のウエブサイトに教わりました。以下、引用します。

    4月は新しい年度を迎え心弾む時期。このように私たちの生活に密接な「年度」は、明治時代の会計年度が元になりました。当初から4月始まりだったわけでなく、明治政府により会計年度が初めて制度化された明治2年(1869)は、10月始まり。続いて、西暦を採用した明治6年からは、1月始まりになりました。つまり、暦年と年度の始まりが同じ時代があったのです。明治8年からは、地租の納期にあわせるという目的で、7月始まりになりました。

     次に会計年度を変更したのは、明治17年(1884)。その頃の日本は、国権強化策から軍事費が激増し、収支の悪化が顕著になっていました。当時の大蔵卿である松方正義は、任期中の赤字を削減するために、次年度の予算の一部を今年度の収入に繰り上げる施策を実施。この施策は珍しくなく、当時はよく行われていました。そして、予算繰り上げによるやりくりの破綻を防ぐため、松方は一策を講じました。明治19年度の会計年度のスタートを7月始まりから4月始まりに法改正したのです。この改正により、明治18年度は7月から翌年3月までの9ヶ月に短縮され、予算の辻褄をあわせると同時に赤字も削減されました。

     こうして会計年度は4月始まりになりましたが、この会計年度にあわせる形で学校などの新年度も4月開始になっていきました。その後、現在まで4月始まりの年度は続いています。

    いやあ、よく思いついたなという感じで、現代の感覚からするととても許容できるような話ではないでしょうが、中央政府の役割がまだまだ限定的だった時代なので、大きな混乱はなかったのでしょう。

    「暦」関連では、明治になって太陰暦を太陽暦に変更するということがありました。国立公文書館の説明文の中に「西暦を採用した明治6年」とあります。一般的には明治になって開国し、欧米スタンダードの太陽暦に合わせたと説明されることが多いようですが、太陰暦から太陽暦への切り替えの時期の設定で1年を短くし、それによって財政難だった政府の支出や役人の人件費を抑えたという「もう一つの狙い(こちらが主たる狙いだったか)があった」という研究もあります。