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  • 2023.06.19

    土偶から縄文時代も考える<その2>戦いはあったのか

    縄文ブーム、縄文への「あこがれ」的な感性を後押しするものの一つに、縄文以降の弥生時代、古墳時代に比べて縄文時代は「戦い」がない平和な時代だったといった見方があると思います。その点はどうなのでしょうか。

    「戦争の考古学的研究」を自身の主要な研究テーマにあげている松木武彦さんの著作から考えます。松木さんは認知考古学を専門とする国立歴史民俗博物館教授です。

    まず松木さんの著作、日本の歴史のシリーズ本「列島創世記」(小学館、2007年)に認知考古学の説明があります。
    「ヒトの心の普遍的特質の理解をもとにヒトの行動を説明しようとする心の科学(認知科学)が生み出され」「考古学の分野でも、人工物や行動や社会の本質を心の科学によってみきわめ、その変化のメカニズムを分析する認知考古学の発展がめざましい」とまとめられています。

    もう一冊、タイトルはずばり「人はなぜ戦うのか」(講談社選書メチエ、2001年)
    松木さんは「人が攻撃行動にいたるまでには、きわめて複雑で多様な意思決定の過程がある」との前提で、個人の攻撃本能と戦争は別もの、戦争は個人の行為ではなく、「社会的な集団がひとつの意思と目的をもっておこなうもの」と定義し、出土品から集団間での戦いがあったかどうかを認定する佐原真さんの提案を紹介しています。

    「戦争・集団の戦い」はあったのか

    その佐原さん自身の著作から引きましょう。佐原さんは日本を代表する考古学者で国立歴史民俗博物館館長などを務め2002年に亡くなられています。

    三内丸山遺跡から出土した土器(「世界遺産 北海道・北東北の縄文遺跡群」のホームページより)

    「世界史のなかの縄文」(佐原真・小林達雄、新書館、2001年)は、やはり考古学者として著名な小林さんと佐原さんの対談本で、縄文時代を考える際に必ず触れられるテーマでもある「縄文の人たちは定住していたのか」「農耕はあったのか」「縄文は平等社会だったのか」などについて激論を交わしています。戦争・集団での戦いについても意見が微妙に異なります。

    佐原さんは「こういうものがあれば戦争と認めていいと言っている」として6項目をあげます。
    ①濠(ほり)や壁で村を守る
    ②武器(最初は狩の道具を凶器に転用するが、やがては人を殺傷する目的で作り使う道具が発達する)
    ③武器の副葬(死者に副えて武器を葬る)
    ④殺傷人骨(武器が骨に刺さった人骨)
    ⑤武器型祭器(祭りや儀式に武器の形をした道具を使う)
    ⑥戦士・戦闘場面の造形(絵や彫刻などに武器を持つ戦士や戦闘場面などが表される)

    佐原さんは、このような証拠が現れるのは、世界のどの地域でも農耕社会が成立してから、つまり、弥生時代で、日本列島で戦争が始まるのは弥生時代からとします。これに対して小林さんは「縄文は戦争はあったけど弥生ほど戦争が重要なファクターになってはないと思う」と縄文に戦争があったことは否定しません。

    松木さんはどうでしょうか。

    道具や利器で傷つけられた人骨の例も縄文社会でも知られているので、個人的な攻撃はあっただろうが、「考古資料から判断する限り、縄文社会に戦争は行われなかった」としています。
    戦争が農耕社会と密接に結びついていることには異論は少ないことから、縄文人が大陸から伝わってきただろう農耕(稲作)を取り入れようとしなかったこと、そういった縄文人の心のありようが戦争の導入をもはばむ結果につながったのではという見方もしています。

    そして「一部の文化人類学者や哲学者が、縄文は日本の「基層文化」だ、などと説いたことがある。だが、複雑な脳の現象である文化というものに、科学的な意味での基層や表層があるということそのものが、そもそも疑問だ」と言います。

    さらに「縄文が日本の「基層文化」だと説く人びとから共通してうかがえるのは、そう主張することによって、縄文の文化を自分たちに近いもの、自分たちにつながるものとしてとらえようとする一種の意図めいた空気だ」と続け、「縄文の文化は、私たち現代日本人の文化とは、むしろ、かなり遠いように感じられる」と冷静です。縄文への「あこがれ」的な風潮に警鐘を鳴らしているかのようにも読めます。

    松木武彦さんの研究業績などについてはこちらから
     (国立歴史民俗博物館の研究者紹介のページ)

  • 2023.06.17

    土偶から縄文時代も考える<その1>

    土偶が作られた縄文時代は日本ならではの時代区分であり、土偶の展覧会に多くの見学者を集めたことからも近年、縄文ブーム的なものが続いているともいわれます。また意地悪くいってしまえば、文字のない時代=考古学の世界は、専門家でなくても自由にあれこれ考えられるという「楽しみ」があるとも言えるでしょう。ましてや縄文時代に生きた人が「何を考えていたか」など簡単にわかりようがありません。だから発掘のニュースなどの常套句「ロマン」があるわけですね。

    「縄文聖地巡礼」(坂本龍一・中沢新一、木楽舎、2010年)
    「縄文聖地」というネーミングも「おやっ」ですが、著者に注目です。先ごろ亡くなった世界的な音楽家、坂本龍一さんと宗教学者の中沢新一さんが縄文の代表的遺跡、三内丸山遺跡(青森県)から諏訪(長野県)、若狭・敦賀(福井県)、山口、鹿児島などを旅しながら対談を重ねてその内容をまとめています。
    それぞれの分野ですばらしい業績をあげているお二人で、「ロマン」のレベルでとりあげるのは失礼ではあるのですが、やはり「縄文」へのかなりの思い入れが感じられます。

    /三内丸山遺跡 「大型掘立柱建物跡」(復元)(「世界遺産 北海道・北東北の縄文遺跡群」のホームページより)
    /

    中沢さんは「縄文」について「厳密に考古学的な意味とは別に、ひじょうに多様な意味を包摂する言葉になっている」としたうえで、「縄文時代の人々がつくった石器や土器、村落、神話的思考をたどっていくと、いまの世界をつくっているのとはちがう原理によって動く人間の世界というものを、リアルに見ることができます」と語ります。

    さらに「私たちがグローバル化する資本主義や、それを支えている国家というものの向こうへ出ようとするとき、最高の通路になってくれるのが、この縄文なのではないでしょうか」と続けます。

    もちろん歴史に学ぶということは現在の問題意識があってのことであり、未来を考えることでもあるので、その点からすると中沢さんの問題意識、姿勢、向き合い方は当然といえばその通りなのでしょうが、縄文に理想の世界を見出そうとしているようにも感じられます。

    坂本さんは、約1万年前にはじまった農耕の発明によって人間が環境を改変しはじめた、それが現代まで続いている、権力が生まれ、国家を作り出し、軍事力も伸ばし、核までできてしまった、この1万年のやり方を見直して、方向転換したい、と語ります。「縄文」は坂本さんがいうところの「1万年の前の時代」です。そういう視点での縄文への関心、ということのようです。

    坂本さんの音楽の話もいろいろ出てきますが、何しろ博識のお二人のやりとりなので、話があちこちに飛んでいく印象はぬぐえませんが、「縄文」から何かを見出そうとする姿勢は一貫しています。

    縄文タワーはどう建てた?

    三内丸山遺跡を紹介する際にまず言及されるのがこの建物でしょう。

    遺跡の公式ホームページによると「大型掘立柱建物跡」と堅苦しく書かれていますが、「縄文タワー」などとも呼ばれています。説明では「地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡です。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、(中略)6本柱で長方形の大型高床建物と考えられます」とあります。
    あれれ、一番知りたい「高さ」や「役割」が書いてありませんね。

    「古代史のテクノロジー」(長野正孝、PHP新書、2023年)でも「遺跡を管理している三内丸山遺跡センターは目的も高さも示していない」と注意喚起しています。発掘であきらかになった穴の直径や間隔などだけを示し、高さはもともとの柱が残っていないので不明、柱が立ち並んでいたことはわかるがどのような構造物(建物)だったのかももちろんわからない、ましてやその用途、役割などがわかるはずがない、という研究者としての姿勢であり、筆者の長野さんも「考古学上、大変正しい判断」と評価します。

    とはいえ、やはり知りたいですよね。

    そこで工学博士の長野さんは「(ゼネコンの)大林組が柱の先端部の土がどの程度荷重がかかっているか、土の圧密の程度で計算し15メートルと想定している。ほぼ間違いないと思われる」と教えてくれます。そのうえで、縄文人の建て方を考察します。ざっくり言ってしまえば、足場を組んで柱を一本ずつ立てていくというものなのですが、技術上の大きな問題点は作業する人間の数と柱を結わく植物繊維のロープの強度、などと自説に対して謙虚です。

    この建物は祭祀(マツリ)のためのものだという考え方があるのですが、これに対し長野さんは「祭祀のために四階相当の構造物は必要ない。高さはそれなりに理由があると考える。私の仮説は、狼煙(のろし)台である」と提案します。どこに向かって「のろし」をあげたのか、その目的はなんなのか、魅力的な仮説は著作そのものでぜひ。

    同書では縄文の後の時代についても、奈良盆地に大きな湖があり大阪湾と運河で結ばれていたことなどを取り上げています。「歴史の素人が歴史の面白いところだけを切り取らせていただいた」とご本人は謙遜しますが、なかなかどうして、新鮮な発見、驚きがつまった、失礼ながら期待以上の内容でした。

  • 2023.06.16

    「土偶」ーーあなたは何者? その2

    縄文時代の「土偶」をめぐって、『土偶を読む」という刺激的な著作とそれへのこれまた強烈といっていい反論『土偶を読むを読む』が出たわけです。学問的に論争があるのは当然のことだし、むしろあるべきでしょうが、一冊の単行本に対して名指して反論する本が出るというのは結構珍しいかもしれません。

    もちろん土偶に関する「定説」といってもどこかの機関・組織が認定するわけではありませんし、細かいところは研究者での見解が異なるのが普通でしょう。あくまでも「こんな考え方が主流」といったところです。

    その例としてこのあたりでしょうか。改めて、国立歴史民俗博物館教授、藤尾慎一郎さんの「縄文論争」(講談社選書メチエ、2002年)から。わかりやすくまとめられていると思います。

    藤井さんはまず「土偶は、今では使われておらず、また、使われなくなってから二〇〇〇年余りもたっているため、何に使われていたのかがわからないものの一つである」と書きます。あたり前のことですが、ここが土偶を考える原点ですよね。

    「明治以来、土偶に関する数多くの説が提出されてきた。根拠はバラバラであるが、それらはおよそ二つの機能に分けることができる。一つは玩弄具(もてあそぶ、なぶりものにする)説、もう一つが宗教関連の道具説だが、出土する遺跡や土偶時代の考古学的考察にもとづいた研究が始まる一九六〇年代以降は、後者(宗教関連の道具説)が主流になっている」とまとめ、「主なものに神像、女神像、精霊、護符、呪物説などがある」と付け加えています。

    そして土偶の出土状況と土偶の状態を検討し、「土偶は、ある時期から一定期間、住居内の決まった空間に大切に保管されているが、マツリの時がくると持ち出され、使用される。マツリの途中から終了後に、手・脚・乳房などがもぎ取られ、マツリに参加した複数のムラや、一つのムラの内部で分配される」と具体的にかなり踏み込んでいます。

    一方で、何のマツリか明確な答えはない、土偶が女性なのかどうかも決着がついていないとし、土偶の機能や用途論でなく、土偶が現れるときの、消える時の社会状況から土偶の機能に迫りたい、と続けます。

    藤井さんは、土偶が作られた縄文時代の後の弥生時代になって土偶が作られなくなることをあげ、稲作が中心となる弥生時代はコメが豊かに実ることが一番の願いになる。縄文時代の土偶に託された願いとは異なるので、弥生時代・農耕社会にとって土偶は不要になった、とします。逆の言い方をすると、弥生時代には作られなくなった土偶は弥生時代とは異なった人々が必要とした道具だった、ということになります。そこから縄文時代の人々が土偶に何を託して作ったのかが推測できるという論法ですね。

    藤井さんの意見は、日本史辞典にそった説ではありますが、注意したいのは以下の点でしょう。

    「土偶祭祀(土偶を用いたマツリ)が消滅してすでに二〇〇〇年余、私たちはその意味を完全に忘れてしまった。その内容と目的を再び体感することは、もはや不可能に近いと考えている。土偶一つとってみても縄文人と私たちがかなり心性的に異なっていることがわかる」とも書きます。

    安易に現代の私たちの心、気持ちで縄文時代の人たちの心、気持ちを理解しようということへの警告のようにも読めます。

    エース 遮光器土偶

    「土偶」その1でも取り上げた特別展「縄文--1万年の美の鼓動」展は「「縄文の美」というコンセプトなので、土偶だけでなく土器も多数出展されました(土器のほうが多いでしょう)。

    土偶については「縄文時代の祈りの美、祈りの形が土偶です。土偶は人形(ひと・がた)の土製品で、縄文時代の始まりとともに登場します。乳房が表現されるため女性像であることは明らかです」と書かれています。まずます「定説」ですね、展覧会ですし。

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    「亀ヶ岡」出土の遮光器土器は、最寄りのJR木造駅にも鎮座しています(JR東日本のホームページより)

    「遮光器土偶」については「縄文時代の土偶といえば誰もがまず思い浮かべる土偶」としています。藤井さんの著書の表紙も遮光器土偶ですね。何体かあるようですが、青森県つがる市木造の「亀ヶ岡」出土品については「赤い彩色が冠状の装飾などに一部残ることから、本来は全面が赤く塗られていたと考えられる」との説明も加えられています。これが全身赤色だったとすると、結構な迫力ですねえ

  • 2023.06.15

    「土偶」 あなたは何者 その1

    まずはこの写真から。このように並ぶと何ですか? と疑問・興味がわきますよね。

    『土偶を読む』(竹倉史人、晶文社、2021年)は「土偶の謎をついに明らかにした」と話題になった本で、著名人からの賞賛も多くサントリー学芸賞を受賞しました。私も発行後、ほどなく読みました。この本に真っ向から反論したのがつい先日発行の『土偶を読むを読む』(縄文ZINE編、文学通信、2023年)。「『土偶を読む』を大検証! 土偶の正体を解明した? そんなわけあるかぃ」と刺激的です。

    まず前知識として日本史のおさらいです。

    土偶の説明として辞典的には例えば「人物や動物の形に作った土製品。日本では縄文時代に流行」とあり、ハート型、山形、ミミズク土偶、遮光器土偶などがあり、土偶の用途について「母性原理の表示手段として、出産・豊穣・再生にかかわるという解釈がある。ただしその多彩なあり方から、用途・役割はなお不明な部分が多い」とされています(「岩波日本史辞典」1999年第1刷)

    『土偶を読む』(以下『竹倉本』とします)の筆者は人類学者で、筆者紹介によると「世界各地の神話や儀礼を渉猟する過程で、縄文土偶の研究に着手することになった」。

    「土偶は縄文人の人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。<植物>の姿をかたどっているのです。それもただの植物ではない。縄文人の生命を育んでいた主要な食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている」とし、「私の土偶研究が明らかにした事実は、現在の通説とは正反対のものである」と言い切ります。

    引用した日本史辞典は発刊年からすればだいぶ時間が経過はしていますが、ほぼ「現在の通説」と言えるでしょう。それに対して「事実は正反対」と言っているわけです。

    『竹倉本』ではいろいろな土偶をとりあげ「そのモチーフはこれだ」と示していきます。著書では土偶の写真とそのモチーフとなった植物の写真を並べて説明していきます。写真を見ていただくのが手っ取り早いのですが、著作権があるので簡単ではありません。

    悩んでいたら、2018年に東京国立博物館で開催された特別展「縄文--1万年の美の鼓動」展の案内チラシが手元にありました。約35万人の来場者があり「縄文ブーム」とも呼ばれた展覧会でした。そこに載っている土偶が『竹倉本』でいくつもとりあげられています。

    1例として「美のはじまり」と大きく書かれている赤色基調のチラシ(写真右)の土偶は北海道函館市で見つかった、国宝に指定されている「中空土偶」と呼ばれる土偶です。『竹倉本』ではこの土偶の頭が「クリ」の形と似ていることから「クリをかたどったフィギュア」だと言うのです。『竹倉本』の表紙の写真にこの土偶の頭部の写真とクリの写真が「=」で結ばれていますね。

    では『土偶を読むを読む』(以下『読むを読む』とします)はこの土偶をどう見るのか。こちらの本は何人かの考古学者がいろいろな角度からの分析、反論を書いています。
    「中空土偶」について、平面的にはクリに似ていても立体的にみるとどうなのかと疑問視し、さらには、この土偶の頭部には大きな穴が二つ空いていて、類似の土偶から、頭にラッパなような二つの大きな突起が付く土偶だと推測される、と説明します。そうなると、ぜんぜんクリには似ていない、というわけです。『読むを読む』の表紙の写真では土偶の頭部の写真とクリの写真が「≠」で結ばれています。本のつくりも表紙からして「対決」しているわけです。

    もう1例、同じ展覧会の別のチラシ(写真左)の中央に写真が載っている「遮光器土偶」と呼ばれる土偶。青森県つがる市の出土、重要文化財に指定されていて、眼のところに北方民族の遮光器(雪眼鏡、ゴーグルですね)をかけているように見えることからこう呼ばれています。教科書や資料集で見ることが多いかもしれませんね。

    この遮光器土偶について『竹倉本』では「サトイモの精霊像」としました。これに対して『読むを読む』では、食用植物をモチーフにしたと言っているが、遮光器土偶が出ているのは北東北、そこではサトイモは育たない、サトイモ精霊像説は成り立たないのではないか、というわけです。

    このように、『竹倉本』がモチーフとした取り上げたクリ、オニグルミ、ハマグリはモチーフにしたという土偶の出現時期や範囲よりもかない広く長く利用され、土偶の出現との関連はまったく見えない、同じくモチーフとされたイタボガキ、トチノキ、イネ、ヒエに至っては、その土偶の出現時期に食用利用された形跡がほとんどないと批判します

    また、土偶のデザインと土器のデザインや文様は共通するとことがあるのに、土器との関連についてもほとんど触れられていない点にも疑問を呈します。

    /
    /もちろん本物ではありませんよ。

    遮光器土器のフィギュアです。なかなかよくできていると考えますが、いかがでしょう。

    どこで手にいれたか……博物館のショップだとは思うのですが。

    土偶(もちろん土器も)はヒトがつくるものなので、当然、前の時代からの流れを受け継ぎます。微妙に形が変わっていくわけですが、その流れの大きな特徴をとらえて制作時期を特定して分類し、その特徴が何を表すのか、作者が何を表現しようとしているのかを考えていくのが「編年」という従来からの研究方法であり、似たような土偶と比較する「類例」も研究手法としては必須のはず。しかし『竹倉本』では編年・類例はほとんど考慮されず、流れの中の一つにたまたま自説にあった形のものを取り出して似ていると決めつけていると、かなり厳しい口調です。

    『読むを読む』は「時代時代で斬新的に変化する土偶の形態変化の中に(人体や女性性以外の)モチーフが滑り込む隙間は限りなく小さい」のだから、土偶にモチーフはあるという思い込みを捨てて土偶を見詰め直す必要があると結論づけています。

    このように『読むを読む』の筆者たちは、ベストセラーともいえる『竹倉本』によって土偶とはこうだと考える人が増えていくことを心配しています。

    では私自身は『竹倉本』をどう読んだのか。『竹倉本』での個々の土偶のとらえ方、詳細な記述はあまり覚えていないのですが、「結構大胆に言い切っているな」という印象は持ちました。筆者の書きようが、いわゆる考古学の専門家のこれまでの研究に対して挑戦的だということがその印象を強めたのでしょう。

    /
    /写真のように『竹倉本』のページを結構折っています(読んでいて気になったところはどんどんページの上隅を三角形に折るようにもています)。またところどころ黄色マーカーもひいています。

    自分は『竹倉本』のどこを重要、あるいは注意と思ったのか、問題意識を持って読めたのか、ページを折ったところに何が書かれているかチェックしてみました。ドキドキ。

    「本書の目的はあくまでも土偶のモチーフの解明、土偶の用途論についての見解は改めて発表する」
    「遮光器土偶の体高と横幅の縦横比が白銀比になっている。日本人が最も好む縦横比で、日本人になじみのあるキャラクターも縦横がほぼ白銀比になっている」(この点は『読むは読む』で遮光器土偶の高さと横幅の比率は土偶によって千差万別、と退けられています。これも編年・類例を参照していない例とされています)

    「遮光器土偶は意図的に立たないように造られている。あえてそうしたのは、遮光器土偶は礼拝や鑑賞の対象ではなかったということ、そしてこの土偶が寝かせた状態で使用された呪具であったことを意味している」
    あれあれ、用途論についての見解は後で、としながら、遮光器土偶については用途に言及していますね。まあ、このあたりは重箱の隅……になりそうですし、私もそれが理由でしるしをつけたわけではないでしょうし。

    後から読んだ本の方がどうしても印象が強いのでそこを差し引いても、個人的には、やはりこの土偶という不思議な土製品がどのような願いをこめて作られ、また実際にどのように使われたのか、そこから想像される縄文時代に生きた人たちの精神の方に興味がありますね。

    なお、上記のように土偶そのものも写真はそのまま出しませんでしたが、以前にも紹介した東京国立博物館のデジタル資料「画像検索」で重要文化財指定などかなりの数の土偶の画像を見ることが可能です。こちらです

  • 2023.06.14

    教育実習生の研究授業がありました

    大学で教員免許取得を目指す本校卒業生3名が教育実習生として母校に戻ってきています。3週間にわたる実習の仕上げてとして13日、14日と研究授業を行いました。

    指導担当の先生だけでなく同じ教科の先生たちが授業を見守るなか、緊張しながらも3人ともに生徒とよくコミュニケーションをとっていました。

    1年生の保健の授業は「がんの治療と回復」。「がん」にかかってしまった時どのような治療を選択するのか、その際に重要になること、さらには「がん」になっても社会生活を送っていくのがあたり前の時代を迎えようとしているといったことを、生徒に考えさせていました。

    2年の地学は「地震の分布・地震災害」がテーマ。地震でどのような被害が起きるかを生徒一人ひとりに発表してもらい、特に被害が大きくなる心配のある津波、液状化現象、長周期地震動について、その特徴や予防・対策をみなで考えていました。

    2年数学Bは「数学的帰納法」。設問の解き方・証明をていねいに説明し、生徒も熱心にプリントに書き写していました。

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    本校は条件を設けて校内でのスマートフォンの使用を認めています。授業でも「調べもの」などに活用しています。実習生もすぐに取り入れていました。

    普通教室、セミナー室などにはプロジェクター型電子黒板を配備しており、これを有効に使っていました。地学の授業では津波や長周期地震動についての説明動画も投影されていました。

    実習は今週いっぱいで終わります。実習生はみな教員になりたいという強い希望をもっているとのこと。母校での実習の成果を大学の今後の勉強に生かしてもらえると嬉しいですね。

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    積極的に手があがっていました
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  • 2023.06.13

    時代考証もたいへんのようで

    「長篠の戦い」でなく「設楽原の戦い」でしたね。11日(日)放送のNHK大河ドラマ「どうする家康」のタイトルです。

    9日のこのブログで小説集「「決戦! 設楽原」を紹介、『長篠の戦いは、前半戦が長篠城の攻防戦でその城の名前から「長篠の戦い」「長篠合戦」と呼ばれてきました。武田軍と織田・徳川連合軍が正面からぶつかった場所は城から西に3キロほど離れた丘陵地で設楽原という地名があり、それをとって「長篠・設楽原の戦い」などと呼ぶのが適当という意見もあるようです』と書いたのですが、「設楽原」としたことに制作側の「こだわり」があるのかと期待したのですが(予告編見てればタイトルはわかりますよね)、ドラマのなかでは信長が用意した鉄砲の数について「3000」と知らされて同盟している家康もびっくりしていましたし、「三段撃ち」は映像でそのようにも見えました。

    余計なお世話ですがこのドラマの時代考証の研究者の顔ぶれからして、はて、とも思ったのです。

    5月11日付のこのブログ「三方ヶ原の戦い」で紹介した「日本史のミカタ」 (井上章一・本郷和人、祥伝社新書、2018年)では、国際日本文化研究センター所長の井上さんと、これまでにも何回も紹介している本郷さんが縦横無尽に語り合うのですが、本郷さんが2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」の時代考証を担当されたことを井上さんがとりあげます。

    ドラマは京都(平安京)が舞台なのに平家の公達(きんだち、貴族の青少年)、摂関家、宮廷の女房たちがみな標準語を話している、一方で、海賊や山中の「追いはぎ」は関西弁をしゃべっている、井上さんは「これに憤りを感じる」とつっこみます。

    本郷さんは「それは、私の発想ではありませんが、やめろとも言いませんでした。表現としてはありかなと思いました、制作担当者は関西弁のほうがおもしろいと思ったのではないでしょうか」と答える一方で「なぜ平氏一門も京都の貴族も関西弁をしゃべらないのか、おかしいではないかと批判された」と明かします。

    これに対して井上さんは「そこは納得しているのです。今は東京時代だから、しかたがない。東京時代らしく、みんな標準語に、海賊も追いはぎも標準語にしてくれと言いたい」と返します。

    井上さんは京都で生まれ育ち、京都大学で学び、現在の勤務先も京都所在。いかにもという指摘? です。

    ここで本郷さんの「やめろとも言いませんでした」という答えに時代考証がどのような仕事・役割なのかが少しうかがえるのですが、時代考証をテーマとしている本「時代劇の「嘘」と「演出」」(安田清人、洋泉社、2017年)から「時代考証」の仕事を引いてみます。

    まずシナリオのチェック、「歴史上の出来事や実在の人物の行動や考えなどが事実に反していないかどうかを洗い出し、さらにはセリフや所作、あるいはナレーションにいたるまで、時代にそぐわない表現があれば訂正する」

    そして撮影に入ってから、現場からあがってくる疑問や質問に答えるのも考証の仕事、とまとめられています。

    本のタイトルに「時代劇」とあるので、大河ドラマは時代劇ではない、「〇〇将軍」とか「水戸〇〇」とかといっしょにしないでくれとNHKの方から叱られそうですが、この本では「時代考証が支えるNHK大河ドラマ」という1章をもうけていて、「大河ドラマにおける時代考証とは、歴史を映像表現として成立させるための「お墨付き」を与える作業と言えるだろう」としています。

    その大河ドラマの章で、過去の大河ドラマと時代考証についてのエピソードがいくつか紹介されています。そのひとつ。

    戦国時代・近世史の著名な研究者が戦国時代を舞台にした大河ドラマで時代考証にあたった時に、城が炎上するシーンがあったので、最近の研究では城は燃えていないと要請。番組スタッフは城が燃えていないと落城と一目でわからないから少し火をつけさせてほしいと言い、結局、放送では見事に大炎上していた、とのこと。この研究者は研究者仲間から「城は焼けていないのに、そんなことも知らないのか」と言われた、そんな後日談も書かれています。(本にはこの研究者のお名前、ドラマ名も書いてあるのですが出典が不明なのであえて書きません)

    この『時代劇の「嘘」と「演出」』でも取り上げられているのが「時代考証学会」です。

    学会つくりを提唱したのは、大河ドラマだけでも「新選組」「篤姫」「龍馬伝」「西郷ドン」などの時代考証を担当してきた大石学さん。時代劇などの「歴史作品」と歴史学などの「諸学問」が、時代考証という窓口を通じてかかわる場をつくりたい、その基礎となる「時代考証学」という新しい学問ジャンルを確立したい、というのが学会設立の目的だそうです。
    そして「諸学問」とあるように、歴史学にととまらず、建築史、風俗史、食物史などの研究者、さらには時代劇をつくるテレビや映画の制作者も加わっているようです。

    「戦国時代劇メディアの見方・つくり方」(大石学・時代考証学会編、勉誠出版、2021年)は同学会の研究成果をまとめたもので、学会員の論文、学会シンポジウムの記録などからなります。特徴的でなるほどと思わせるのは、テレビドラマや映画にとどまらず、歴史的人物をとりあげる、あるいは過去を舞台に描かれる漫画やアニメ、さらにはゲームまでを対象にしている点です。

    フィクションなら「考証」なんていらないのではないかという意見も当然あるでしょうが、学会編の同著作では「さまざまなメディア媒体を通じて社会に発信される「歴史作品」を「時代劇メディア」ととらえている」とし、「当会(学会)は時代劇メディアにおける間違いなどのあら捜しをし、論評するための場では決してない」と説明しています。
    時代考証について「ある時代がどんな時代だったか、より正確な叙述とするという点において、可能な限り深く関わるべきだと考えている」という姿勢を持っていたい、ということのようです。

    「時代考証学会」の公式ホームページはこちらから

    井上章一さんについては国際日本文化研究センターの研究者紹介を。こちら

  • 2023.06.12

    プレゼン力を磨く

    プレゼンテーション力は大学受験、大学でのゼミナールなどの授業、さらには社会に出ていろいろな場面で求められます。パソコンやタブレットを使うのがプレゼンといった狭い解釈でなく、言葉で自分の考え・思いを伝える、発信する、そして理解してもらうというのがプレゼン力ですよね。

    12日、そんなプレゼン力を高めようという授業を見させていただきました。大学受験も迫ってきている3年生インターナショナルIクラス、国語表現の時間です。

    生徒はこれまでの高校生活を振り返って、そこで得たこと、学んだことをまとめました。また、自分の長所、短所を考えます。入試の面接などで質問されそうな項目ですね。自己分析ができているか自己PRができるかが試されます。そしてIクラスならでは、プレゼンの項目のどこかで英語で発表しなければなりません。

    クラス全員がタブレット(iPad)を持っており、プレゼン用アプリを使って投影し、スピーチをしていきます。

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    高校生活で頑張ったこと、学んだこととして部活動、英語検定、ボランティア活動、カナダ留学などがあげられました。大学では経済を学び将来は国連で働きたい、英語だけでなく多言語も積極的に学びたい、などといった希望が語られ、また最近気になったニュースとして子どもの自殺が増えていること、イタリアの少子化対策などがあげられていました。大変感心しました。

    授業担当の教諭からは、原稿を見てばっかりでなく、聞いてもらっている人への視線も大事、身振り手振りも交えて、といったアドバイスがありました。

    また、発表しっぱなしではありません。質問も受け付けます。クラスの仲間からだけでなく、授業を見に来ていた外国語科の先生から英語で次々と質問され、ちょっと戸惑う場面もありましたが、きちんとコミュニケーションをとっていました。

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  • 2023.06.10

    長篠の戦い その3

    これまで何度か紹介している磯田道史さんは「徳川家康 弱者の戦略」(文春新書、2023年)で「信長・家康軍の勝利のカギを握ったのは、馬などを防ぐ柵、そして弾薬の物量でした」とし、さらに「近年、また新たな長篠合戦像が提起されてきました」として紹介しているのが藤田達生さんの「戦国日本の軍事革命」(中公新書、2022年)です。

    藤田さんは同書で、日本への鉄砲伝来以前の伝統的な勝利の条件は「高・大・速」だったとし、「高」は敵よりも高いところに陣を取ることが有利で、「大」は馬の大きさ、「速」は軍勢の移動速度をさす、と説明しています。その条件が長篠戦いで崩壊した、と評価しています。

    磯田さんと同様に藤田さんも長篠の戦いに関する近年の研究の進展を紹介しています。その1例が、長篠の合戦の現場(古戦場)から見つかった、当時の鉄砲の玉についてです。鉛の玉が見つかるのですが、そもそも原料となる鉛を国内で十分に産出できなかった。見つかった鉛玉を科学的に分析すると、なんと、東南アジアのタイの鉛鉱山のものであることがわかったというのです。

    当然、その鉛は輸入によって国内に入ってきます。その輸入ルートと考えられる貿易港・堺(大阪府)を支配していた信長が十分な量の鉛を確保するのに有利だったのは間違いありません。逆に言えば、だからこそ信長は早い段階から堺に目をつけた、とも言えるわけです。また、鉄砲に必ず必要な火薬の原料の硝石もほとんど輸入に頼っていたこともこの考え方を補強します。

    作家の安部龍太郎さんは「家康はなぜ乱世の覇者となれたのか」(NHK出版、2022年)でこの鉛玉のことについて、こんな形でとりあげています。
    「織田・徳川連合軍は三千挺もの鉄砲を使用したと言われています」と仮定すると九十万発の弾丸が飛び交ったはずだが、古戦場からは弾はあまり見つからない、合戦の後、かたづけをした地域住民が鉛の玉を集め、いったん溶かしてまだ弾丸に鋳なおされ、次の戦いに備えたのだろう、そのわけは、それ(鉛)が貴重だったから。鉄砲の需要が増えれば鉛の需要も増える」

    同じ「鉛の玉がどこから来たのか」を説明するにしても歴史研究者の書きぶりとは異なる、やはり作家ですね。ひきこまれます。

    「織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代」(武田知弘、ソフトバンク新書、2011年)では、武田信玄(勝頼の父)は戦国大名のなかでももっともはやく鉄砲に目をつけた人物とし、長篠の戦いのころには鉄砲の国産も始まり、輸入品も流通していたので、戦国大名は「鉄砲そのものは入手しやすくなっていた」としたうえで、しかし火薬の原料である硝石、さらには弾になる鉛は中国大陸、東南アジアから堺をはじめとする西日本の港に入ってくる、そこを抑えていたのが信長ら近畿、西日本の大名たち。東国・甲斐に拠点を置く武田軍には硝石や鉛がなかなか手にはいらなかったと結論づけています。

    そんな信長といえども、硝石や鉛を輸入するわけですからお金が必要です。また、そもそも合戦をするのにもとんでもなくお金がかかるのは容易に想像できます。では、戦国大名がどう稼いでいたのか。

    「戦国大名の経済学」(川戸貴史、講談社現代新書、2020年)では、戦国大名は領国内での農業生産(いわゆる年貢)だけではおぼつかない。ましてや「兵力を補強したい時には傭兵を多数雇い入れることもしばしばで、鉄炮を中心とする火器・弾薬に至っては、特別なルートによってのみ入手しうるものであった」ので、どの大名も苦労したことが紹介されています。

    鉄砲一挺の価格を示す史料はないそうですが、いろいろな史料から現在の貨幣価値に換算して一挺50万円~60万円くらいとする研究が多いそうです。川戸さんは、長篠の戦いの信長が鉄砲を一〇〇〇挺用意したとすると、その費用は5億円~6億円としています。これは鉄砲だけの話しで、もちろん戦争にかかる費用はこれにとどまりませんね。

    主役は信長?

    ここまで大河ドラマ「どうする家康」から長篠の戦いについて書いてきましたが、長篠の戦いは「信長・家康連合軍」とされるものの、一般的には「織田対武田」と、とらえられているのではないでしょうか。確かに武田勝頼軍が領国に侵入してきて長篠城を救わなければならない徳川家康が、同盟していた織田信長に援軍を頼み、信長が駆けつけてきたわけですが、信長にとって武田はいずれ決着をつけなくてはならない相手であったし、その後の天下統一におおきなはずみとなる戦いであったのはまちがいないでしょう。

    そこで改めて信長についての著作からも長篠の戦いの意味を探そうと何冊かひっぱり出してきたのですが、信長に関する本格的な評伝に始まり関連本は膨大で、また、信長の一生を振り返ってみても、どこに焦点をあてるか、何を切り口にするか考えだすと、私のような素人には簡単に手が出せそうにありません。

    「どうする家康」でも岡田・信長は準主役ですよね。本能寺の変はもう少し先でしょうから、岡田・信長のキャラクター理解の参考になればと、何冊かあげてみます。

    ドラマの時代考証にあたっている平山優さん、小和田哲男さんの著作を紹介してきたので、時代考証にあたっているもうお一方、柴裕之さんの「織田信長 戦国時代の「正義」を貫く」(平凡社、2020年)。尾張平定から上洛、天下統一への歩み、その政治構想など、比較的オーソドックスな構成です。

    「信長 「歴史的人間」とは何か」(本郷和人、トランスビュー、2019年)。何度も登場していただいている本郷さんの著作、信長の一生を追うような形式でなく、信長と宗教、信長と土地、信長と軍事、などテーマごとにくくります。レベルを落とさずに読みやすく書かれているのはさすがと思わせますが、本郷さんらしく奔放に話題が広がっていくので、信長についてある程度基礎的なところを押さえたうえでの方がいいかもしれません。

    鉄砲の鉛のところで名前の出てきた藤田達生さんの「信長革命 「安土幕府」の衝撃」(角川選書、2010年)。副題に「安土幕府」とあります。信長が安土城を拠点として行った諸施策から、織田の軍事政権・幕府であったという主張で、また尾張統一から勢力を広げていく時期を「環伊勢海政権」と命名するなど、斬新で刺激的に受け止められそうでもあります。

    信長が主人公、あるいはそれに準ずる小説もこれまた膨大です。比較的新しいものとして、また今回のテーマに直接つながりそうな「信長、鉄砲で君臨する」(門井慶喜、祥伝社、2022年)。題名でもはやストーリーの説明はいらなそうですね。

  • 2023.06.09

    長篠の戦い その2

    長篠の戦いの評価、位置づけで研究者の意見が分かれるのは武田の騎馬軍団もですが、やはり鉄砲の問題が一番でしょう。信長が戦場に持ち込んだ鉄砲が3000挺もあったのか、そしてその3000挺でいわゆる「三段撃ち」があったのかという点です。

    <鉄炮3000挺について>

    信長の秘書的立場にいた人物の書いた「信長公記」が信長研究の一級史料とされていますが、印刷のない時代にいろいろな人によって書き写された「写本」がいくつも存在し、三千挺と書かれてあったり、千挺と書かれてあったりすることから意見が分かれているようです。

    前回ブログで紹介した平山優さんと同じく、NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代考証を勤めている小和田哲男さんは「戦国の合戦」(学研新書、2008年)で「一〇〇〇挺なのか三〇〇〇挺なのかの決着はまだついていない」と慎重な書き方をしています。前に紹介した本郷和人さんの「天下人の軍事革新」(祥伝社新書、2023年)では「一〇〇〇(三〇〇〇とも)挺もの鉄砲で一斉射撃を行います」とあります。

    藤田達生さんは「戦国日本の軍事革命」(中公新書、2022年)で「有名な三千挺・三段撃ちについて、現時点において検証できないが、千挺単位の鉄炮を有効に使用して快勝したことは確実である」とまとめています。

    平山さんは「この戦いで信長が使った鉄炮(この表記を使っています)は一五〇〇挺プラスアルファ、鉄砲が大きな役割を果たしたことは間違いないが、あまり過大に考えないほうがよい。織田・徳川軍が鉄砲を有効に使えたのは、野戦築城と組み合わせたから」とします。
    本郷さんも馬防柵を主とした野戦築城の役割を重視しています。

    鉄砲の数については、新しい確定的な史料が今後出てくることはなかなか考えにくいので、それなりの数はあったが3000挺にはしっかりとした根拠はない、といったあたりで落ち着くのではないでしょうか。

    この数とは別に、その鉄砲をどう使ったのか、それが勝敗にどうかかわったのか、平山さん、本郷さんがいうところの野戦築城とも大きく関わるのが、三段撃ちの検討でしょう。

    <三段撃ちについて>

    小和田哲男さんがわかりやすくまとめてくれています。
    「鉄砲隊が一〇〇〇挺ずつ三段に構え、「放て」の号令一下、一〇〇〇挺の鉄砲が一斉に火を吹く、撃ち終わると最後尾に回り、二列目だったものが最前列に出、同じように「放て」で撃ち、最後尾にまわるというものである。これによって、鉄砲一挺だと、弾ごめなどに時間がかかる欠点を克服したとし、信長の鉄砲革命といわれてきた」。そのうえで「地形的にも無理だということが論証され、敵が横一列になって攻めてくるならまだしも、バラバラに攻めかかってくる状況で、「号令一下、一斉に」ということはまったく必要ないわけで、絵空事だと結論づけられている」と明確です。

    とはいえ、小和田さんは「最近は、鉄砲足軽が三人で一組になり、いつでも弾が発車できる状態にしていたのではないかとする考えが主流」とし、三段撃ちを全否定するのではなく、「馬防柵とセットで、鉄砲足軽三人一組による三段撃ちはありえたのではないかとみている」と、少し含みを持たせています

    「絵空事」との表現を使っているわけではありませんが、三段撃ちを全否定するのが鈴木眞哉さん。

    「戦国15大合戦の真相」(平凡社新書、2003年)で「小瀬甫庵(おぜ・ほあん)の創作、実行できる可能性も乏しければ、実行する必要性もない戦法、信長が戦場に並べた銃兵は、あちこちからかき集めてきた連中だった。一度も一緒に訓練したことのない兵士たちに、いきなり<三段撃ち>などという難しいことをやれといったところで、絶対にできるはずはない」と。いやはや、強烈ですね。

    平山優さんは「長篠合戦と武田勝頼」(敗者の日本史9、吉川弘文館、2014年)で「決戦場においては1000挺であったとする考え方が定着」しつつ、三段撃ちについては、史料にある「段」は当時、将兵を列に配備することではなく、部隊をしかるべき場所に配置することを意味していた、と解釈し、織田軍の鉄炮衆は三部隊に分割され、三か所(三段)に配備された、その部隊内部で銃兵は複数列に編成され、輪番射撃が実施されていたと思われる、と結論づけています。

    当時の鉄炮は撃ってから次を撃つまでにどうしても時間がかかるので、その間に攻め込まれることはやはり心配であり、撃つ兵隊の後ろの列で準備をして(複数列の編成)、入れ替わりながら撃つ(輪番射撃)という工夫はあった、という考え方ですね。

    平山さんは、まだまだ開発途上の武器である鉄炮は故障などで射撃ができなくなることも容易に予測できたので、鉄炮衆の周りを弓の部隊が囲み、武田軍の接近を防いだのでは、と付け加えています。

    いずれにしても、かなりの数の鉄砲を用意し、かつ、当時の鉄砲の欠点を補うべく、巧みに使ったというあたりは共通するようで、その具体的な形はこれまたなかなか史料では再現しにくいということになりそうです。

    小島道裕さんのまとめがわかりやすいかもしれません。「信長とは何か」(講談社、2006年)にこんなくだりがありました。
    「単に兵器としての鉄砲の威力というよりも、鉄砲を活用し、また全軍が周到な作戦と準備の中で組織的に動いた信長・家康の作戦勝ち、という意味の方が大きいと言うべきだろう。兵農が未分離で、豪族が率いる軍隊の連合という側面が強い武田軍との体質の差が出たというべきかもしれない」

    「決戦! 設楽原」(講談社、2018年)。時代小説集です。「したらがはら」と読みます。長篠の戦いは、前半戦が長篠城の攻防戦でその城の名前から「長篠の戦い」「長篠合戦」と呼ばれてきました。武田軍と織田・徳川連合軍が正面からぶつかった場所は城から西に3キロほど離れた丘陵地で設楽原という地名があり、それをとって「長篠・設楽原の戦い」などと呼ぶのが適当という意見もあるようです。

    7人の作家が武田勝頼、家康の家臣・酒井忠次、信長軍の佐々成政ら、異なる主人公で戦いのいろいろな側面を描きます。この「決戦!」はシリーズ化されていて、川中島、桶狭間、本能寺、関ケ原などが同じスタイルで発刊されています。いろいろなタイプの作品が一度に読めるので、お気に入りの作家に出会えるかもしれませんよ。

  • 2023.06.08

    長篠の戦い その1

    久しぶりというか、しつこく、NHK大河ドラマからみで。いよいよ次回は長篠の戦い、長篠合戦のようですね。

    最近の日本史の教科書はこんなに変わっている的な雑誌の特集や本をけっこう見かけます。それなりの年齢がいった世代が学校で習った「歴史」が新しい研究によってどんどん書き換えられている、といった内容です。そんな時によくとりあげられるもののひとつが長篠の戦いです。5月11日の当ブログ「三方ヶ原の戦い」で「長篠の戦いはどう描かれるのか」と予告もしましたし、参考になれば。

    そのかつての「教科書」的なまとめは

    織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼軍がぶつかり、武田自慢の騎馬軍団の攻撃に対して鉄砲3000挺を用意した織田・徳川連合軍は鉄砲部隊が三列に並び、一列目が発砲後後方にさがり、弾込め準備をしていた二列目が前に出て撃つ、おなじよう三列目と入れ替わってまた撃つ、当時の銃は撃つまでの準備に時間がかかるのでその間に攻め込まれる心配がある、それを避ける工夫で「三段撃ち」と呼ばれる戦法をとった。そういった戦法の前に武田軍はひたすら騎馬での突撃を繰り返して大敗した。

    だいたいこんなところでしょうか。

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    手元にある「詳説 日本史図録 第6版」(山川出版社、2014年)では「織田信長の統一事業」の項で「長篠合戦」については「1575年織田・徳川連合軍は、鉄砲隊の威力で武田軍の騎馬隊を破った」と説明されています。

    「三段撃ち」こそ書かれていませんが、両軍がそれぞれ鉄砲と騎馬で代表されています。

    大河ドラマ「どうする家康」の時代考証も担当している平山優さんは著作「長篠合戦と武田勝頼」(敗者の日本史9、吉川弘文館、2014年)で、長篠合戦が戦術革命、軍事革命と評価され、新戦法=織田信長、古戦法=武田勝頼というように語られてきた、と整理しています。そして1990年代以降、これを批判する研究が出てくるとし、以下の3点を検討していきます。


    ▽武田軍に騎馬軍団は存在したのか
    ▽信長が投入したとされる鉄炮(鉄砲)3000挺は事実か
    ▽その3000挺の三段撃ちはあったのか

    これらの点について、平山さんの著作をはじめ何人かの研究者の本から引用していきます。

    「戦国15大合戦の真相 武将たちはどう戦ったか」(鈴木眞哉、平凡社新書、2003年)=5月15日の「三方ヶ原の戦い」の際にも紹介
    「誤解だらけの徳川家康」(渡邊大門、幻冬舎新書、2022年)
    「徳川家康 弱者の戦略」(磯田道史、文春新書、2023年)
    =5月12日の「三方ヶ原の戦い」の際にも紹介
    「戦国の<大敗>古戦場を歩く」(黒嶋敏、山川出版社、2022年)

    まず、その批判した研究者として平山さんがあげているおひとりが鈴木眞哉さん。1964年生まれの平山さんからみると1936年生まれの鈴木さんは大先輩の研究者です。「三方ヶ原の戦い」の際にもとりあげましたが、鈴木さんは長篠合戦についても明快、痛快な語り口です。

    いわゆる定説について「江戸時代の初期に小瀬甫庵(おぜ・ほあん)という作家がでっちあげた与太話から始まったものである。それを明治になって陸軍参謀本部が史実のようにとりあげたのが発端で、学者や軍人があれこれと論を立て、長篠で「戦術革命」が起きたかのような話にまで発展してしまった」とバッサリです。

    では個別の検討です

    <騎馬軍団について>

    鈴木さんは騎馬軍団について「騎馬兵は確かにいたが、それほど大勢いたわけではないし、今日のポニー程度のちっぽけな、蹄鉄も打っていないような馬に乗った連中を寄せ集めてみたところで、近代ヨーロッパの騎兵のような密集突撃などできるものではない。このころには一般に騎乗したまま戦うということはなくなり、下馬戦闘が慣行化してもいる」

    渡邊さんは「そもそも武田氏の兵が、騎馬を使った専門的な訓練を受けたとは考え難い。当時はまだ兵農未分離の時代であり、上層の家臣以外は平時は農業に携わっていた。当時は馬から降りて戦うのがセオリーだったという。現実的に考えてみると、馬が大軍で陣営に押し寄せ、次々と的に体当たりして倒すというのはかなり困難だったといえよう」

    磯田さんは「戦国時代には馬に乗った武者とそれに徒歩で従う従卒とがセットで編成されていて、騎馬だけで編成された部隊は考えにくいのです」

    少しずつニュアンスの違いはあるものの、だいたい、騎馬軍団には否定的に読めます。

    これに対して平山さんはどうでしょう。

    「戦国時代の軍隊に、弓衆、鉄炮衆(「炮」の字を使っています)、長柄衆(槍部隊)と並んで、乗馬衆(騎馬衆)が実在したことは動かし難い事実、長篠合戦で武田軍に騎馬衆が存在していたことは、信長が「馬防」の柵を構築させたことで簡単に照明できる」と明確です。

    その信長の「警戒」については、東国の戦国合戦は騎馬と歩兵が主軸なのに対し、畿内や西国を主戦場としていた信長の経験した合戦では、鉄炮などの大量使用が目立ち、多数の騎馬衆を揃えた軍勢との戦闘はなじみがなかったのでは、と推測します。信長にとって「未知」であったため、きっちりと「警戒」したというわけです。

    平山さんは、「当時、騎馬武者は下馬して戦ったという見方に良質な史料で反論するのは一見困難に見える」としながらも、上記東日本と西日本の違いをあげて、西国の武士は下馬戦闘が伝統だが、馬が多数飼育され、活用されていた東国は異なるのではないか、さらに検証が必要だとします。

    そのうえで、「問題となるのは(騎馬軍団が)合戦でどのように運用されていたか」であり、「武田軍の騎馬衆の突入は、敵の備えが万全で乱れがない時には実施されることはなく、合戦のとば口からいきなり乗込をかけるような運用法は存在しなかった」としています。

    「<大敗>古戦場」の黒嶋さんは大学の准教授ですが、桶狭間や三方ヶ原などの戦場を実際に訪ね、その地理的特徴などから合戦を検証し、また、その戦いが地域でどう伝えられ、あるいは戦死者をどう慰霊してきたのかを調査した、ルポルタージュのような著作です。

    長篠も歩くのですが、平山さんがとりあげた「馬防」の柵について、「江戸時代につくられた合戦図屏風でも連合軍の陣地に大きな柵が描きこまれている。いま現地(戦場跡)で復元された馬防柵も、これらの史料をもとにサイズが検討されたもの」と紹介。

    そのうえで「ふつう馬防柵は武田軍の騎馬隊を防ぐ信長の新戦術として説明されることが多いが、騎馬兵を含む軍勢の通行を遮断するために柵を設けることは古くから行われており、オーソドックスな戦術である」と、さらっと書いています。

    「軍団」という表現がそもそも適切かどうかということがあるでしょう。馬を戦いに使っていたのはまちがいないでしょうから、その戦闘集団がどのくらいの規模なら戦いの主体・中心といえるのか、これまた難しいところでしょう。

    渡邊さんは「長篠の戦いに限らず、合戦の中身そのものを一次史料で捕捉するのはほぼ不可能である。合戦の展開は、軍記物語などの二次史料でしかわからない。しかし、軍記物語は執筆の意図(勝者を称える)があるため、必ずしも事実を書いたとはいえない」といいます。研究者の見方が分かれるわけですね。

    長篠の戦いでの「馬防柵」については、新城市のホームページで解説されています。こちらから

    このテーマ、続きます。