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  • 2024.07.04

    創立記念日(7月3日)を迎えました

    7月3日は東野高校の創立記念日です。1984年のこの日に埼玉県の私立学校審議会で東野高校の設置が認可され、翌85年4月の開校が正式に決まったことから、創立記念日としています。

    記念の日であり学則では休業日とされていますが、定期考査(期末考査)中でもあり7月8日(月)を代休としました。

    学校のウエブサイトのトップページに以下のバナーを掲出しはじめました。

    100th & 40th Anniversary 2025
    学校法人 盈進学園100周年
    東野高等学校40周年

    ひろげて、つなげて、そして・・・

    本校の歴史・沿革はこちらからどうぞ

  • 2024.07.01

    「地図から消された島」③

    広島県竹原市の「大久野島」で旧日本軍が毒ガスを製造していたことを伝えようという「毒ガス資料館」があることは事前に調べて出かけたのですが、その規模などは言ってみないと実感できません。多くの資料が散逸し、あるいは軍によって意図的に廃棄されたなかで、関係者の努力によって集められた資料を見ることができました。

    ただ、「活字」にこだわる性格なので、関係する本や資料などが購入できないかと期待はしていたのですが、そういう施設はありませんでした。ところが、英連邦軍(BCOF)の進駐について調べるために取り寄せた『英連邦軍の日本進駐と展開』(千田武志、お茶の水書房、1997年)はさすがにきっちりと、大久野島での英連邦軍の業務について触れていました。

    「国際法上、化学兵器や細菌兵器にたいする禁止要請が強まるなかで、日本陸軍は極秘裏に毒ガスの開発をすすめ、昭和三年七月九日、その製造と研究のため、豊田郡忠海町の大久野島に陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所を設立した。忠海兵器製造所は日本で最大の毒ガス兵器工場として、イベリットガス、ルイサイトガス、クシャミガス、催涙ガスなどを製造した」

    終戦後、米軍が島に入り調査を開始したもののまもなく撤退、「大量の毒ガスと製造施設の処理はBCOFの手にゆだねられることになった」、BCOFは民間会社の人を動員して実際の作業にあたり、毒物は船に積んで船ごと海に沈め、また工場建物を壊し焼却したようです。

    毒ガスは「極秘裏」に製造されたわけですから、島に住んで、あるいは船で通って働く人たちは口止めされ、また、戦争目的ですから働く人たちの安全対策など望むべくもなかったことは容易に想像できます。その実態の一端はこの労作が明らかにしてくれました。

    『地図から消された島 大久野島毒ガス工場』(武田英子、ドメス出版、1987年発行、同年第4刷)

    児童文学作家の武田さんが埋もれていた資料を掘り起こし、実際に大久野島で働いていた人たちの記録や聞き書きをもとに、大久野島での毒ガス製造を追究しました。旧日本軍によって毒ガス弾、毒ガス兵器が実戦使用されたことをめぐる論争、終戦後の戦争犯罪訴追の中で毒ガス製造の罪は不問にされてしまった経緯などにも触れています。
    また、動員された女性らが島で風船爆弾の製造をさせられていたことにも言及しています。

    この著作で戦後の毒ガス処理、製造施設の処理についても書かれていますが、BCOFには化学兵器などの専門家がおらず米軍の協力がかなりあったようです。実態はBCOFと米軍の共同作業のように読めます。

    終戦後、後遺症に苦しむ人たちの治療にあたった医師らの記録や被害救済を訴える運動の記録などによると島の製造所で働いてい人は最盛期で五千人~六千人と伝えられ、亡くなられた人は千二百人を超えるとのこと。

    「調べていくうちに、大久野島がすっぽり消された地図を見つけた。五万分の一の地図の微細な島々のなかに、大久野島だけが白紙を貼ったように消されていて異様であった」
    「戦時下の地図編纂は参謀本部が掌握し、要塞地帯や重要地点を消した例は多いと、国土地理院担当者は語っていた」

    現在、大久野島が「地図から消された島」と言われるのは、おそらくこの著作によるのでしょう。

    驚いたことがありました。

    米軍の協力も得てBCOFの工場施設の処分が終了した後の1947年6月13日に大久野島は日本に返還されたのですが、1950年6月に朝鮮戦争が始まり、米軍は大久野島に弾薬庫を置くことにして51年の日米安保条約によって島を接収したというのです。いわば「二度目の占領」といってもいいでしょう。57年、再び島は日本に還され、国民休暇村として一般に開放されるのが63年だったとのこと。島にとっての「戦後」の始まりはずっと後だったと言ってもいいのでしょう。

    毒ガスが製造された大久野島のことがどのように語り継がれてきたのか。県内で歴史を教える先生方が1970年に作った本が平和教育の視点から大久野島をとりあげた最初ではないかと武田さんは指摘しています。さらに武田さんは「あとがき」で「竹原市では毒ガス資料館を建設する計画を進めており」「世界ではじめての「毒ガス資料館」の完成が望まれる」とも書いています。それが1986年のことです。
    私が広島県内で仕事をしていて大久野島のことを知ったのがこの少し前になるので、資料館建設に向けての動きを伝える記事を読んだのかもしれません。

  • 2024.06.28

    「地図から消された島」②

    広島県の瀬戸内海にある大久野島を訪れました。個人史をお許しください。広島県福山市で新聞記者生活をスタートしたのですが、管内の竹原市にある大久野島でかつて毒ガスが製造されていたという漠然とした知識は得ていたものの深く知る機会はありませんでした。ようやく訪れることができました。

    休日だったこともあり島に渡る船を待つ長蛇の列、大多数が家族連れで、戦史に興味を持つ人がこんなにいるのかと驚かされたのですが、早とちり。大久野島は瀬戸内海国立公園内の国民休暇村となっていてキャンプ場や宿泊施設があり、また野生のウサギがたくさん生息している「ウサギの島」として知られているのだそう。竹原市観光協会のウエブサイトによると500~600羽生息しているそうです。

    もちろん自然とのふれあいもいい、ウサギ目当ての人たちの何割かでも毒ガスの島だったという歴史を知ってもらえばそれはいいことだ、などと考えながら島を歩きました(島内は自家用車は走れません)。

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    島には「毒ガス資料館」という施設があり、毒ガス工場で使われていた防毒マスクや防護服などが展示され働いていた人たちの資料が掲示されていました。「地図から消された」ことを示す、島が描かれていない地図と本来の地図が並べて展示されてもいました。

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    「毒ガス資料館」の館内は撮影ができなかったので、いただいたパンフレットを。作業時に来ていた防護服の写真がショッキングです。

    島内には、製造工程に不可欠な電力を得るために発電所もつくられました。本土から電気線を引くわけにはいかなかったわけです。廃墟としか言いようのない建物が残っていました。

  • 2024.06.27

    「地図から消された島」①

    太平洋戦争(第二次大戦)敗戦後、日本にやってきた米軍あるいは英連邦軍。いずれにしても「占領」「進駐」などと表現されるわけですが実際にどんなことをしていたのか。特に英連邦軍(BCOF)につては米軍とは少し異なっていたようです。奥田泰広さんの論文『占領期日本と英連邦軍――イギリス部隊の撤退政策を中心に――』に英連邦軍の位置づけについてこんなくだりがあったことを紹介しました。

    「アメリカ以外の軍事力を軍政の領域から追いやり、日本軍の武装解除をはじめとしたごく狭い領域に閉じ込めたのである」
    「この結果、戦後日本においてBCOFの存在感は極小化されることになった」

    英連邦軍の担当地域を中国・四国地方に「追いやった」だけでなく、その業務も限定させたというのです。

    これまでに何回も紹介した『英連邦軍の日本進駐と展開』(千田武志)では海外資料をもとにBOCFが考えていた軍事的役割として次の3点をあげています。
    (1)連合国の全施設および武装解除待ちの日本の全施設の安全警護
    (2)日本の施設と兵器装備の武装解除と処分
    (3)軍事統制(これには軍政は含まれない)

    奥田さんが書くところの「軍政の領域から追いやり」の「軍政」の定義はなかなか難しいのですが、米の占領軍が連合国という名の下ではありながら農地解放や財閥解体など政治経済の改革を進めていったことに比べると、「軍政」に関わらないという点で同じ占領軍でも英連邦軍の業務は確かに「極小」だといえそうです。

    ところがこの武装解除ですが、どんでもない「解除」もしていました。旧日本軍の毒ガス工場の撤去・処分です。米軍が着手し、後に英連邦軍に引き継がれました。

    広島県竹原市の沖合、瀬戸内海に大久野島という周囲約4キロの小さな島があります。「地図から消えた島」「地図から消された島」と呼ばれました。というのも、旧日本軍がこの島で毒ガスを製造していたからです。当然秘密にしたかったので、当時作成されていた地図から島の存在そのものが消されていたのです。

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    フェリーあるいは旅客船で大久野島に渡ることができます

    呉市の「大和ミュージアム」(呉市海事歴史科学館)や同市内、周辺の旧日本海軍施設を見学した際、大久野島まで足を伸ばしました。

  • 2024.06.26

    「英連邦軍」の施設接収 ② 長官官舎も

    広島県呉市の海沿いにある旧日本海軍の鎮守府(現・海上自衛隊呉総監部)から少し山をのぼったところに鎮守府司令長官官舎(入船山記念館)が残されており、関連施設と合わせて内部が公開されています。この旧鎮守府トップの住まいも占領軍に接収され、占領軍司令官の住まいとして使われました。

    もともとは2階建ての洋館でのちに地震被害で和洋折衷の平屋に建て替えられたとのこと。「洋風」好みの旧日本海軍がゆえの洋館だったのかどうか、現在の建物を見学しても内部には洋式がしっかりと残っており、占領軍司令官(外国人)にはうってつけの宿舎だったのではと、皮肉の一つも言いたくなりました。

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    占領軍の司令官は接収した官舎から司令部に通ったわけですが、当然自動車だったでしょう。日常生活はどんな様子だったのか、呉の市民はどう見ていたのか、なかなかうかがい知ることは出来ません。東京にいたあの司令官はどうだったのでしょうか。

    『占領 1945~1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人』(ハワード・B・ショーンバーガー)でマッカーサーはこのように描かれています。

    「日本の民主化と本国での自らの政治的信用の確立に成功するためには、国家元首として振舞い、近寄り難い権威をもっているとのイメージを演ずる必要があるとマッカーサーは考えていたふしがある。日本にいた五年以上にわたる期間に、マッカーサーは天皇と一握りの政府高官以外の日本人とは決して口を聞こうとはしなかった」

    「厚木飛行場と横浜から東京までの上陸当初の移動を除いて、マッカーサーが見た日本というのは、住居としていたアメリカ大使館と皇居近くの第一生命ビルに置かれた総司令部との間を行き来するリムジンの窓を通してだけであった」

    マッカーサーが日本占領のリーダーとして目指したものは何だったのか、やはり考えさせられます。政治的信用の確立が必要だったのは、自分が米国大統領を目指すためです。このマッカーサーの評伝の後半は、その大統領を目指したマッカーサーと米国の政治情勢が詳しく綴られています。

  • 2024.06.25

    「英連邦軍」の施設接収 ① ーー旧鎮守府・江田島

    広島県呉市の「大和ミュージアム」(呉市海事歴史科学館)を訪れて旧日本軍の戦艦「大和」について考え、呉市など広島県が太平洋戦争(第二次世界大戦)のあと英連邦軍(BCOF)に占領されていたことを知り、あれこれ調べてここに書いてきました。

    米軍が占領・進駐した際に彼らの事務所や宿舎として既存の施設を自分たちのものとし(接収・収用)、あるいは兵員の宿舎を新たに建設したことは以前、京都や東京での例をあげてやはりこのブログで書きました。呉市とその周辺も例外ではなく、その足跡がいくつか残っています。

    ただ、京都のところでも少しふれましたが、自治体などによる施設紹介では、占領軍との関係、あるいは「かつてこうだった」という案内があまりされていないようにも感じられたことは少し気になりました。歴史に向き合い未来への教訓とする姿勢は重要だと感じます。

    まず進駐軍の本拠地というか司令部が何よりも必要になります。「武装解除」という進駐軍の任務にも関係しますが、旧日本軍はなくなり、その旧日本軍が使っていた施設も不要になるわけです。そこを進駐軍がそのまま使うことは建物を新設する必要はなく費用節約にもなります。もともと軍隊のための施設ですから、言い方はともかく進駐軍にとって使い勝手はよかったかもしれません。

    ということで旧日本海軍の「呉鎮守府」の施設が当然のように進駐軍の施設となります。英連邦軍のことを知るきっかけとなった通信施設も旧鎮守府の施設を転用したものでした。

    この呉市の沖合に江田島という大きな島があります。「江田島市」のウエブサイトの紹介を引用します。

    ・広島県南西の広島湾に浮ぶ江田島、能美島とその周辺に点在する島々で構成されています。
    ・広島市からは海上約7.5キロメートル、呉市からは海上約6キロメートルの位置にあります。
    ・呉市とは、音戸大橋・早瀬大橋の両架橋により結ばれ実質的には陸続きとなっています。

    地図で見ていただくと分かりますが、橋で陸続き(赤色で示されている国道)ではあるものの大きな島なので目的地によっては広島・呉からフェリーで島に渡る方が所要時間が短くなります。

    近現代史の中での「江田島」は旧日本海軍の幹部を養成する兵学校があったところとして語られ、知られるところです。兵学校は終戦でその役割を終えました。ここにも進駐軍が入ってきます。司令部が置かれた時期もあり、また病院施設としても使われたようです。
    占領が終わった後に、旧鎮守府が海上自衛隊の呉総監部になったように、この江田島の旧海軍施設も現在は海上自衛隊の幹部養成の学校・施設となっています。

    /レンガ造りの旧兵学校の建物(写真上)。式典で使われる講堂も重厚な建物でした
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    /江田島から帰路はフェリーで呉に。向かいに見える山のところが呉市街です

    6月13日付のこのブログ「「英連邦軍」の日本占領 ②」で紹介した「海上自衛隊呉総監部」の一般公開と同じように、この江田島の「海上自衛隊第1術科学校」(旧海軍兵学校)も日時を限って一般公開されています。自衛隊の方の案内で構内を回ります。

  • 2024.06.24

    沖縄「慰霊の日」<23日>にあたって

    太平洋戦争末期の沖縄戦の犠牲者らを悼む「慰霊の日」の23日、沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園で行われた「沖縄全戦没者追悼式」で県立宮古高校3年の仲間友佑(ゆうすけ)さんが「これから」と題した「平和の詩」を朗読しました。NHKテレビで中継されご覧になった方も多いとは思います。

    各新聞のニュースサイトでもその全文が紹介されています。

    たとえば毎日新聞のサイトはこちらから

    日曜日ということもあって、本校でも3学年主任がウエブ連絡システムを使って以下のようなメッセージを3年生全員に向け送ってくれました。より多くの生徒にも考えてもらいたく、引用します。

    メッセージにもありますが、現3年生の中には昨年秋の修学旅行(3コースに分かれました)で沖縄を訪れた生徒もいます。現2年生も今秋の修学旅行の行先2コースのうち1コースの旅行先は沖縄です。これから修学旅行の事前学習も本格化します。

    【沖縄慰霊の日】

    今日6月23日は、旧日本軍の組織的戦闘が終結した日として制定された「慰霊の日」。住民をも巻き込んだ激しい地上戦、沖縄戦から79年となります。

    特に修学旅行で沖縄に行った皆さんは、1年前とは違う思いを抱いていることでしょう。そんな皆さんは、下級生たちにその知見を伝えていく役割を担っています。伝えるためには考えなくてはなりません。あなた方が学んだこと、感じたことを一層深めてください。そして考えましょう。なぜ戦争が起こるのか、平和とは何か、私たちはどう生きるべきなのか……。

    79年前の戦禍を想像できる心と、平和の礎の前で祈る遺族の方々の想いに共感できる心を、ずっともち続けてほしいと、私は思っています。

    学年主任
    鬼嶋知見

  • 2024.06.21

    全く異なった「占領」ーー23日は沖縄慰霊の日

    太平洋戦争の終戦後、連合国軍によって日本は占領されたわけですが、連合国軍=米軍でなく英連邦軍(中心はオーストラリア軍)も中国・四国地区に進駐していたということを知り、いろいろ調べて書いてきました。ところが6月23日が近づいてきて、そもそもこの連合国軍による占領とはまったく違った占領があったことを忘れてはならないと思い起こしました。そう沖縄です。

    『占領と改革 シリーズ日本近現代史⑦』(雨宮昭一、岩波新書、2008年初版、2023年第13刷)にこんなくだりがありました。

    「(1945年9月2日の降伏文書)調印の日(沖縄は六月から米軍政が施かれた)から52年4月28日の講和条約(対日平和条約)発効まで連合国による占領がおこなわれた」

    危うく読み落とすところでした。「沖縄は六月から米軍政が施かれた」のです。そしてそれが終わったのも52年4月28日ではなく、72年5月15日でした。

    『高等学校 琉球・沖縄史』(沖縄県歴史教育研究会、1998年第3刷)によります。

    「米軍は沖縄島に上陸した時点で、沖縄を日本本土から切り離して占領することを決めていた」

    そのことを証明する資料として「ニミッツ布告」(米国海軍軍政府布告第1号)を紹介しています。ニミッツは米軍司令官の名前です。つまり戦闘当事者である軍人の名前で布告する、文書で命令するということです。

    この布告で、沖縄における日本帝国政府のすべての行政権を停止、つまり米軍が行政権を持つということを宣言し、実行に移していきます。この結果、沖縄は1972年5月15日まで27年間、米軍の占領・統治が続くわけです。52年の講和条約発効、連合国による占領の終了は、沖縄には及ばなかった、本土とはまったく異なった「占領」が沖縄にはあったのです。

    このニミッツ布告は従来、45年4月に発したとされてきたそうですが近年の研究では3月末の慶良間諸島への上陸直後との見方が強いとのこと。つまり米軍は沖縄上陸作戦の極めて早い段階から、沖縄は本土から切り離して米軍主導で占領することを決めていたわけです。

    旧日本海軍の戦艦「大和」を中心とする連合艦隊が向かったのは、米軍上陸が必至と見られていた時期の沖縄でした。そのはるか手前で撃沈されました。

    米軍の沖縄上陸作戦での戦闘は太平洋戦争で唯一の日本国内の地上戦となり、約20万人以上の戦死者を出しました。その半数に近い9万4000人あまりが一般県民や子どもでした。日本軍の組織的戦闘が終結した6月23日が「沖縄慰霊の日」とされています。8月15日の終戦記念日と同様、忘れてはならない日だと思います。


    「沖縄県公文書館」の資料より


    那覇の日本軍司令部の近くにあった首里高校(旧県立一中)は、米軍の激しい攻撃を受けて廃墟となりました。戦後も軍政下にあったため、復旧が遅れ、崩れかけた校舎の中で授業が行われたそうです(1952年撮影)
    沖縄が長く米軍の占領・施政下にあったことをしめす一つでしょう、沖縄では米本土と同様に車両の「右側通行」が続きました。復帰後の1978年(昭和53)7月30日、ようやく交通方法が変わります。『高等学校 琉球・沖縄史』によります。

    「7月29日午後10時、全県車両通行止めのサイレンとともに通行区分の切り替えがおこなわれ、7月30日午前6時を期して多くの県民の見守るなか、“人は右車は左”へと交通方法が変更がなされた」

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    事前に「交通方法」の変更が伝えられ、変更直前に覆いがはずされ新しい道路標識があらわれました。その「瞬間」を多くの市民が見守ったそうです。下の写真はまさにそんな様子をとらえていますね。

    この「交通方法」の変更を今回資料で確認したら、復帰の6年も後でした。復帰と同時か、それは準備が大変だとしても復帰後間もなく行われたものと勝手に思い込んでいました。写真のような交通標識の新設にとどまらず、路線バスのルート・停留所の変更、児童・生徒へのルール徹底など、事故を減らすために入念な準備が必要だったということですね。

    写真はいずれも「那覇市歴史博物館デジタルミュージアム」から。以前にもこのブログで使わせていただきましたが、この施設の資料公開の姿勢はすばらしいものがあります。

    2023年6月22日にも、このブログで「沖縄「慰霊の日」にあたって」を書きました。

  • 2024.06.20

    「英連邦軍」の日本占領 ⑦ 「Commonwealth」

    現在の「英連邦」Commonwealth of Nation、略してCommonwealthと呼びれてもいるわけですが、そもそもこの単語「Commonwealth」あるいは「Common wealth」の由来は、また、どのような意味があるのか、『英連邦 王冠への忠誠と自由な連合』(小川浩之、中公叢書、2012年)にはこんな説明がありました。

    「そもそも、「コモンウェルス」とは、文字通り「共通の富」(Common wealth)を意味する言葉である。それは当初、一六四九年のチャールズ一世の処刑から一六六〇年の王政復古までの間イングランドに存在した共和制を指す言葉として用いられた。そこでは、公共の福祉、共通の善や利益といった意味を持つこの言葉を通して、共通の利益や目的を持つ人々の共同体が指し示されていた」

    別の著作ではどうでしょうか。

    『イギリス史10講』(近藤和彦、岩波新書、2013年)

    「一六世紀にはコモンウェルス(Commonwealth)という語が人口に膾炙する。もとはラテン語「公共善」の英訳で、国家・政治共同体・共和制でもある。(略)このあとのイギリスおよび英語圏の歴史を貫くキーワードの一つである」

    「コモンウェルス」という言葉がずっと時代が下って英連邦発足の時に「活用」された、ということのようです。連合王国の「連合」=Unitedは使うわけにはいかない、「ゆるやかな」集まりとして「共同体」が使われたということでしょう。

    『英連邦』(小川浩之)には英連邦軍(BCOF)の「日本占領への参加」という一節がありました。千田武志さんの労作『英連邦軍の日本進駐と展開』のように詳細ではありませんが、ポイントは押さえているのかと。

    「英連邦諸国で、日本占領に最も大きな役割を果たしたのはオーストラリアである。イギリスは、(略)戦後の経済的疲弊と財政的制約のなかでドイツ占領に多大な資源を割く必要に迫られたため、日本占領に十分な貢献をする余力を欠いていた」

    「日本占領と同様に、東京裁判を主導する立場にあったのもアメリカだったが、英連邦諸国のなかではオーストラリアが中心的な役割を担った」
    「戦後アジア太平洋地域での英連邦内の主導権をめぐり、イギリスとオーストラリアの関係はときに競合しあうものとなったが、多くの場合、イギリスがこの地域に対して割きうる資源には限界があった」

    広島を中心に中国・四国地方を占領したのは英連邦軍でした。まず米軍が入りその後に遅れて英連邦軍が進駐、その遅れの原因の一つにイギリスとオーストラリアの間での対立があったという研究成果を紹介しましたが、ここではイギリス側の「事情」があげられています。

    英連邦軍の進駐が完了した1946年末現在でその構成はオーストラリア11918人、インド10853人。イギリス9806人なので、実態でもイギリスは引いた立ち位置のように見えます。

  • 2024.06.19

    「英連邦軍」の日本占領 ⑥ 「英連邦って?」

    英連邦軍の日本占領について書いてきましたが、そもそも英連邦とは何かということ、これがなかなか難しい。「イギリスと旧イギリスの植民地だった国々で構成される、ゆるやかな連合組織」などと説明されますが、その国々の主権をどう考えるのか。例えば、外務省のホームページによると、オーストラリアの国家元首はイギリスのチャールズ国王で連邦総督が王権を代行と説明されています。カナダも同様です。

    2023年5月、イギリスのエリザベス女王が亡くなりチャールズ皇太子があとを継いで国王に就任しましたが、このオーストラリアやカナダのように英連邦構成国での元首の交代にもなるので、英連邦という言葉が報道でとりあげられていたことは記憶に新しいところです。

    英国そのものの正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)で、ここで「連合(United)」と使われており、それと英連邦の「連邦」はどう異なるのか。また世界の国の中には「連邦共和国」という名前の国もあり(例えばドイツ連邦共和国=Federal Republic of Germany)これらとどう違うのかということもあります。

    『英連邦 王冠への忠誠と自由な連合』(小川浩之、中公叢書、2012年)

    タイトルにそのものずばり「英連邦」とあります。

    「英連邦とは、イギリスと、過去にその帝国支配下に置かれた国々が中心となり、イギリスの君主を「首長」(Head)として共有しつつ、国家間の自由な連合体としてまとまったものである」

    このように定義しながら

    「それは随分と曖昧で捉えどころがなく、不思議な印象を抱かせる組織である」
    「英連邦とはそもそも、現代世界に生きる私たちが自明と考えるような、主権国家が並び立つ近代国際体系から逸脱した存在である」

    だから理解も難しいというわけです。かつて植民地を持っていた国と植民地から独立した国との間は対立しがちです。

    「イギリスはなぜ、過去の帝国支配から脱して独立した国々と、英連邦という枠組みを通して共存を可能にできたのだろうか」

    という問いを投げかけます。その答えを探っていくのがこの本の目指すところであり、地域間緊張が増している国際関係の中でこのようなユニークな国家間の連携がなぜなくらないのか、構成する国々にとってのメリットはなんなのかなどを考えていく著作です。

    英連邦は1931年に正式に発足し、自治領であった地域が独立したりして構成する国々の形(政治体制)は変わりながらも今日まで続いています。公式ホームページによると現在の加盟国は56か国。発足時は「British Commonwealth of Nations」と、英国を表すBritishがついてましたが、脱英国の流れの中で現在はCommonwealth of Nationsが正式名、さらに略してCommonwealthという呼び方でもいいと申し合わせているとのこと。

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