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  • 2024.06.21

    全く異なった「占領」ーー23日は沖縄慰霊の日

    太平洋戦争の終戦後、連合国軍によって日本は占領されたわけですが、連合国軍=米軍でなく英連邦軍(中心はオーストラリア軍)も中国・四国地区に進駐していたということを知り、いろいろ調べて書いてきました。ところが6月23日が近づいてきて、そもそもこの連合国軍による占領とはまったく違った占領があったことを忘れてはならないと思い起こしました。そう沖縄です。

    『占領と改革 シリーズ日本近現代史⑦』(雨宮昭一、岩波新書、2008年初版、2023年第13刷)にこんなくだりがありました。

    「(1945年9月2日の降伏文書)調印の日(沖縄は六月から米軍政が施かれた)から52年4月28日の講和条約(対日平和条約)発効まで連合国による占領がおこなわれた」

    危うく読み落とすところでした。「沖縄は六月から米軍政が施かれた」のです。そしてそれが終わったのも52年4月28日ではなく、72年5月15日でした。

    『高等学校 琉球・沖縄史』(沖縄県歴史教育研究会、1998年第3刷)によります。

    「米軍は沖縄島に上陸した時点で、沖縄を日本本土から切り離して占領することを決めていた」

    そのことを証明する資料として「ニミッツ布告」(米国海軍軍政府布告第1号)を紹介しています。ニミッツは米軍司令官の名前です。つまり戦闘当事者である軍人の名前で布告する、文書で命令するということです。

    この布告で、沖縄における日本帝国政府のすべての行政権を停止、つまり米軍が行政権を持つということを宣言し、実行に移していきます。この結果、沖縄は1972年5月15日まで27年間、米軍の占領・統治が続くわけです。52年の講和条約発効、連合国による占領の終了は、沖縄には及ばなかった、本土とはまったく異なった「占領」が沖縄にはあったのです。

    このニミッツ布告は従来、45年4月に発したとされてきたそうですが近年の研究では3月末の慶良間諸島への上陸直後との見方が強いとのこと。つまり米軍は沖縄上陸作戦の極めて早い段階から、沖縄は本土から切り離して米軍主導で占領することを決めていたわけです。

    旧日本海軍の戦艦「大和」を中心とする連合艦隊が向かったのは、米軍上陸が必至と見られていた時期の沖縄でした。そのはるか手前で撃沈されました。

    米軍の沖縄上陸作戦での戦闘は太平洋戦争で唯一の日本国内の地上戦となり、約20万人以上の戦死者を出しました。その半数に近い9万4000人あまりが一般県民や子どもでした。日本軍の組織的戦闘が終結した6月23日が「沖縄慰霊の日」とされています。8月15日の終戦記念日と同様、忘れてはならない日だと思います。


    「沖縄県公文書館」の資料より


    那覇の日本軍司令部の近くにあった首里高校(旧県立一中)は、米軍の激しい攻撃を受けて廃墟となりました。戦後も軍政下にあったため、復旧が遅れ、崩れかけた校舎の中で授業が行われたそうです(1952年撮影)
    沖縄が長く米軍の占領・施政下にあったことをしめす一つでしょう、沖縄では米本土と同様に車両の「右側通行」が続きました。復帰後の1978年(昭和53)7月30日、ようやく交通方法が変わります。『高等学校 琉球・沖縄史』によります。

    「7月29日午後10時、全県車両通行止めのサイレンとともに通行区分の切り替えがおこなわれ、7月30日午前6時を期して多くの県民の見守るなか、“人は右車は左”へと交通方法が変更がなされた」

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    事前に「交通方法」の変更が伝えられ、変更直前に覆いがはずされ新しい道路標識があらわれました。その「瞬間」を多くの市民が見守ったそうです。下の写真はまさにそんな様子をとらえていますね。

    この「交通方法」の変更を今回資料で確認したら、復帰の6年も後でした。復帰と同時か、それは準備が大変だとしても復帰後間もなく行われたものと勝手に思い込んでいました。写真のような交通標識の新設にとどまらず、路線バスのルート・停留所の変更、児童・生徒へのルール徹底など、事故を減らすために入念な準備が必要だったということですね。

    写真はいずれも「那覇市歴史博物館デジタルミュージアム」から。以前にもこのブログで使わせていただきましたが、この施設の資料公開の姿勢はすばらしいものがあります。

    2023年6月22日にも、このブログで「沖縄「慰霊の日」にあたって」を書きました。

  • 2024.06.20

    「英連邦軍」の日本占領 ⑦ 「Commonwealth」

    現在の「英連邦」Commonwealth of Nation、略してCommonwealthと呼びれてもいるわけですが、そもそもこの単語「Commonwealth」あるいは「Common wealth」の由来は、また、どのような意味があるのか、『英連邦 王冠への忠誠と自由な連合』(小川浩之、中公叢書、2012年)にはこんな説明がありました。

    「そもそも、「コモンウェルス」とは、文字通り「共通の富」(Common wealth)を意味する言葉である。それは当初、一六四九年のチャールズ一世の処刑から一六六〇年の王政復古までの間イングランドに存在した共和制を指す言葉として用いられた。そこでは、公共の福祉、共通の善や利益といった意味を持つこの言葉を通して、共通の利益や目的を持つ人々の共同体が指し示されていた」

    別の著作ではどうでしょうか。

    『イギリス史10講』(近藤和彦、岩波新書、2013年)

    「一六世紀にはコモンウェルス(Commonwealth)という語が人口に膾炙する。もとはラテン語「公共善」の英訳で、国家・政治共同体・共和制でもある。(略)このあとのイギリスおよび英語圏の歴史を貫くキーワードの一つである」

    「コモンウェルス」という言葉がずっと時代が下って英連邦発足の時に「活用」された、ということのようです。連合王国の「連合」=Unitedは使うわけにはいかない、「ゆるやかな」集まりとして「共同体」が使われたということでしょう。

    『英連邦』(小川浩之)には英連邦軍(BCOF)の「日本占領への参加」という一節がありました。千田武志さんの労作『英連邦軍の日本進駐と展開』のように詳細ではありませんが、ポイントは押さえているのかと。

    「英連邦諸国で、日本占領に最も大きな役割を果たしたのはオーストラリアである。イギリスは、(略)戦後の経済的疲弊と財政的制約のなかでドイツ占領に多大な資源を割く必要に迫られたため、日本占領に十分な貢献をする余力を欠いていた」

    「日本占領と同様に、東京裁判を主導する立場にあったのもアメリカだったが、英連邦諸国のなかではオーストラリアが中心的な役割を担った」
    「戦後アジア太平洋地域での英連邦内の主導権をめぐり、イギリスとオーストラリアの関係はときに競合しあうものとなったが、多くの場合、イギリスがこの地域に対して割きうる資源には限界があった」

    広島を中心に中国・四国地方を占領したのは英連邦軍でした。まず米軍が入りその後に遅れて英連邦軍が進駐、その遅れの原因の一つにイギリスとオーストラリアの間での対立があったという研究成果を紹介しましたが、ここではイギリス側の「事情」があげられています。

    英連邦軍の進駐が完了した1946年末現在でその構成はオーストラリア11918人、インド10853人。イギリス9806人なので、実態でもイギリスは引いた立ち位置のように見えます。

  • 2024.06.19

    「英連邦軍」の日本占領 ⑥ 「英連邦って?」

    英連邦軍の日本占領について書いてきましたが、そもそも英連邦とは何かということ、これがなかなか難しい。「イギリスと旧イギリスの植民地だった国々で構成される、ゆるやかな連合組織」などと説明されますが、その国々の主権をどう考えるのか。例えば、外務省のホームページによると、オーストラリアの国家元首はイギリスのチャールズ国王で連邦総督が王権を代行と説明されています。カナダも同様です。

    2023年5月、イギリスのエリザベス女王が亡くなりチャールズ皇太子があとを継いで国王に就任しましたが、このオーストラリアやカナダのように英連邦構成国での元首の交代にもなるので、英連邦という言葉が報道でとりあげられていたことは記憶に新しいところです。

    英国そのものの正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)で、ここで「連合(United)」と使われており、それと英連邦の「連邦」はどう異なるのか。また世界の国の中には「連邦共和国」という名前の国もあり(例えばドイツ連邦共和国=Federal Republic of Germany)これらとどう違うのかということもあります。

    『英連邦 王冠への忠誠と自由な連合』(小川浩之、中公叢書、2012年)

    タイトルにそのものずばり「英連邦」とあります。

    「英連邦とは、イギリスと、過去にその帝国支配下に置かれた国々が中心となり、イギリスの君主を「首長」(Head)として共有しつつ、国家間の自由な連合体としてまとまったものである」

    このように定義しながら

    「それは随分と曖昧で捉えどころがなく、不思議な印象を抱かせる組織である」
    「英連邦とはそもそも、現代世界に生きる私たちが自明と考えるような、主権国家が並び立つ近代国際体系から逸脱した存在である」

    だから理解も難しいというわけです。かつて植民地を持っていた国と植民地から独立した国との間は対立しがちです。

    「イギリスはなぜ、過去の帝国支配から脱して独立した国々と、英連邦という枠組みを通して共存を可能にできたのだろうか」

    という問いを投げかけます。その答えを探っていくのがこの本の目指すところであり、地域間緊張が増している国際関係の中でこのようなユニークな国家間の連携がなぜなくらないのか、構成する国々にとってのメリットはなんなのかなどを考えていく著作です。

    英連邦は1931年に正式に発足し、自治領であった地域が独立したりして構成する国々の形(政治体制)は変わりながらも今日まで続いています。公式ホームページによると現在の加盟国は56か国。発足時は「British Commonwealth of Nations」と、英国を表すBritishがついてましたが、脱英国の流れの中で現在はCommonwealth of Nationsが正式名、さらに略してCommonwealthという呼び方でもいいと申し合わせているとのこと。

  • 2024.06.18

    「英連邦軍」の日本占領 ⑤

    太平洋戦争敗戦後に日本を占領した連合国軍は米軍、とみなが思ってしまっていることについて、論文『占領期日本と英連邦軍――イギリス部隊の撤退政策を中心に――』を発表した愛知県立大学の奥田泰広さんはこのように書いています。

    「占領期日本がアメリカとの関係のみで考えられてきたのは故なきことではない」
    「アメリカはその占領政策を実施するにあたって、ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)が最大の影響力を振るうことになるが、マッカーサーはその際に本国政府の影響力をかなりの程度払いのけただけでなく、日本占領に本来的な権限を持つはずの極東委員会や対日理事会の存在も無視していった」

    「そして、実際の占領政策に携わるべき占領軍についても、アメリカ以外の軍事力を軍政の領域から追いやり、日本軍の武装解除をはじめとしたごく狭い領域に閉じ込めたのである」
    「この結果、戦後日本においてBCOFの存在感は極小化されることになった」

    BCOFが英連邦占領軍(British Common wealth Occupation Force)のことです。

    そのBCOFに関するまとまった唯一の研究ともされる『英連邦軍の日本進駐と展開』(お茶の水書房、1997年)の筆者、千田武志さん自身は1997年、著書についてこんなふうに書いています。

    「私が英連邦占領軍のことを知ったのは、昭和五十三(一九七八)年十一月に防衛庁戦史部の図書館を訪れて「呉進駐関係綴」などの資料を収集したさいのことです。この資料によって、中国、四国地方はアメリカ占領軍についで二十一年二月から英連邦占領軍によって占領されたことを知ったのでした」

    「日本占領の特色は、連合国といいながら事実上アメリカ一国によって単独占領され、間接統治方式が採用されたと点にあると思いこんでいた私は、英連邦占領軍の存在におどろき、そして興味を持ちました」(社会経済史学会中国四国部会会報第13号、1997年7月)

    多くの人がBCOFの存在を知らなかった、占領を経験した人も忘れていたのでしょう、楽しい経験ではなかったので忘れたいということもあるでしょう、また、あえて研究対象とする人もあまりいなかったということですかね。そして千田さんは呉市の市史編纂室に勤務しながら研究を進め、オーストラリア、ニュージーランドにも出かけて現地の資料館や公文書館などで資料を集めたそうです。

    千田さんはこう結んでいます。

    「これまでの英連邦占領軍の解明がほとんどなされていないという認識にたって、その形成、進駐、組織と活動、朝鮮戦争との関係、日本人との交友、撤退など、総合的に解明することにつとめました。これによって、かつての私のように、事実上、日本はアメリカ一国によって単独占領されたと考える人がいくらかでも少なくなることを願っています。特に、実際に進駐していた中国・四国地方の人にとって、英連邦占領軍は、けっして忘れられた軍隊であってはならないでしょう」(明らかな誤字もあり一部手直しをしています)

    千田さんの著書にたどりついたこと

    呉で英連邦占領軍(BCOF)のことを知り、少し調べてみようと思って、まずはインターネットでいくつかのキーワードで検索してみる、ということになります。例えばフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「イギリス連邦占領軍」で概略はほぼ把握できるし、写真も豊富に掲載されています。

    フリー百科事典についてはいろいろな意見はあるでしょうが手掛かりとしては重宝します。「手掛かり」と書きました。きちんとした研究者が書かれている項目が多くなっていると感じますが、それでも、そのまま引用するにはやはり抵抗があります。幸い、以前と比べると脚注や参照文献や論文などが丁寧に紹介されるようになっているという印象を持っています。可能な限り原典にあたりたいと考えています。

    BCOFについても、そのような手順を踏んでいくなかで奥田さんの論文にぶつかり、奥田さんが「これ」と言っていた千田さんの著作を取り寄せました。奥田さんの論文まではネット上での作業で「ほぼ無料」なわけですが、改めて千田さんの労作を手にとってみると、すばらしいお仕事をされたということを実感できます。

    奥田さんの論文は大学の研究紀要で発表されたものです。「紀要」は大学の学部単位、博物館・美術館など研究施設が発行する、論文などを掲載する媒体(雑誌)で読者層も限られていますし、かつては、どの紀要にどういう論文が掲載されているのかを把握することも簡単ではなく、当然気軽に読むことも困難でした。

    ところが最近はウエブサイトで電子版(多くはPDFで)を公開している例が多く、大変助かります。一昔前はおそらく国会図書館にでも行かないと読めなかったでしょう。このあたりは、インターネットの効用だと素直に評価はします。

    「本を読む楽しさ」を伝えたいと書き続けているブログですが、迷路をたどるようにして思わぬ一冊にたどり着く「本との出会い」も楽しいことを知ってもらえれば嬉しいです

  • 2024.06.17

    「英連邦軍」の日本占領 ④

    太平洋戦争後の連合国による日本占領で米国と英連邦軍との間で占領・進駐地域をめぐってそれぞれの思惑があったであろうと研究者は指摘しているわけですが、千田武志さんの『英連邦軍の日本進駐と展開』(お茶の水書房、1997年)にはちょっとこんな気になる記述がありました。

    「アメリカが原爆投下にたいする市民感情を考慮して広島・呉地区の占領をさけ、BCOFにゆだねようとしたのではないかという一部の疑問を否定することはできない。ただ、こうした説を裏付ける公式資料は、現在まで発見されていない」

    「(英連邦軍側は)首都として重要な東京やかつて経済的な基盤を有していた神戸、大阪ではなく、地方の戦災地であり、とくに問題の多い原爆の地広島に進駐させられたのでは、威信を保つことも戦前からの経済的利益を確保することもできないと考えた」

    言い方が適切かどうかわかりませんが、日本の敗戦を受けてどこの国が日本に一番乗りするか、終戦に向けて米軍は沖縄に上陸して占領し、本土に迫っていたわけですから、日本の降伏(8月15日)を受けて米軍トップのマッカーサーがいち早く8月30日には日本にやってきます。マッカーサー率いるアメリカ太平洋陸軍第8軍はまず東日本に進駐、西日本の占領はやや遅れ、呉に先遣隊が到着したのが9月26日、本体の到着が10月7日、中国地方・全域で進駐が完了したのは12月末になりました。

    英連邦軍はいくつかの国の軍隊の総称ですからその内部は一枚岩ではなく、千田さんや奥田泰広さん(愛知県立大学准教授)の研究によるとオーストラリアが単独での軍派遣を主張してイギリスと対立する場面もあり、それが日本到着遅れの原因の一つでもあったようです。BCOFの進駐は終戦の年が明けた46年2月から5月にかけてで、同年末現在で総計37021人、イギリス人9806人、インド10853人、オーストラリア11918人、ニュージーランド4444人という、まさに「連邦軍」となりました。

    連合国軍である以上、進駐するというBCOFの意向をマッカーサーもまったく無視することはできなかったでしょうし、一方で、列島全域を米軍が押えるとなると軍編成も大がかりになり当然費用もかかります。イギリスが大都市が含まれていないことに不満を持ったということにも触れました。米側が中国・四国地区という「地方」にBCOFを追いやったというあたりが一般的な見方かもしれませんが、米国・マッカーサー側が原爆投下地の広島を避けたのではという「説」には、やはりひっかかりが残ります。

    そもそもBCOFが日本占領に加わることにこだわるのはなぜなのか。費用もかかるし、派遣される軍人が喜ぶとは思えませんよね。近代以前の戦争ならば戦勝国が敗戦国を占領して植民地にしてしまうなどということがあったわけですが、日本占領についてはいわゆる「間接統治」、日本の行政機構はそのまま生かし、そこに連合国軍側があれこれ指示をするというスタイルです。

    『占領 1945~1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人』(ハワード・B・ショーンバーガー)の「おわりに」にこうまとめられています。

    「占領初期の進歩的な民主化政策の背後には、アジアにおけるアメリカの利益を再び脅かすかもしれない日本の軍国主義を永遠に破壊しておこうという決意があった。アジアにおけるアメリカの利益に対する主要な脅威は、かつては日本であると定義されていた」
    「ところが一九四七年には、日本から、ソ連と中国での共産主義運動に移っていた。アメリカの政策は、冷戦の中で日本をアメリカの同盟国とすることへ移行した」

    日本が二度と道を誤らないように、アメリカやイギリスなどと同じ価値観のもとで民主主義国家に生まれ変わらせるという使命感が占領・進駐の原動力だったというのはあまりにきれいごとのように思えます(もちろんそういう理想を抱いてきた人もいたでしょうが)。もちろん植民地といったストレートな形での経済的恩恵ではなくても、占領・進駐で得られる有形無形の利益への期待はあるでしょうし、特にアメリカは、戦争中は手を結んだものの本来は相容れない社会主義国家である「ソビエト連邦」を十分意識しながらの日本占領だったという分析です。

  • 2024.06.14

    「英連邦軍」の日本占領 ③

    英占領軍(BCOF)についての唯一ともいえそうなまとまった研究書である千田武志さんの『英連邦軍の日本進駐と展開』(お茶の水書房、1997年)の内容に入っていきます。前回、呉市の「大和ミュージアム」内の呉の歴史を紹介するコーナーの展示で、広島地区も最初は米軍が進駐してきたが後に英連邦軍に変わったという記述があったわけですが、では英連邦軍はなぜ広島県、さらには中国・四国地方だったのかという点です。

    米側は最初、英豪側に対して進駐地域として北海道、神戸・大阪と広島を提示したが、北海道はオーストラリア人やインド人に寒すぎるとして英豪側が断った、神戸・大阪については英連邦軍の規模では統治は不可能ということで、「気候温暖で環境のすぐれた広島県とその周辺地区を選択した」とされています。

    その後、BCOFの進駐地域が中国・四国地方に拡大されるのですが、その理由についてこう分析しています。
    「ソ連と中華民国の占領軍派遣が中止となったこと、復員、除隊が緊急事態となっていたアメリカが急速に占領軍を縮小せざるをえなくなったことなどからBCOFの占領業務地区の拡大へとつながったものと思われる」

    一方で「東京への進駐は英連邦関係国すべての希望であったが、とくにイギリスにはそれが切実な問題であった」とも書いていて、占領地域決定にあたって米側・マッカーサーと英連邦軍にはそれぞれの思惑があり、両者の間でかけひき、緊張したやりとりがあったことが想像できます。

    こんな証言もあります。

    『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』(サー・セシル・バウチャー著、加藤恭子・今井萬亀子訳、社会評論社、2008年)

    英連邦軍(空軍)の司令官として進駐、山口県・岩国に滞在した軍人の回顧録です。BCOFがどのような形で進駐するか決まっていない段階で来日し、米軍側との調整にあたります。

    「マッカーサーおよび東京の彼の参謀たちとの温かい会談、また英連邦軍が日本へやってきたことへの彼らの歓迎ぶりからみると、われわれにはまずは広島県だけしか任せてもらえなかったのには驚いた」

    「(オーストラリア軍総司令官の)ノースコット中将は、わが軍は全占領軍の三分の一にあたるといっても良いくらいだと指摘した。もう少し場所が欲しいというわれわれの要求は、連合国軍にくい込もうと圧力をかけるソヴィエトに対して米国が著しく態度を硬化させているのと相まって、早速結果が現れた。日本の主要部をなす島である本州の南西部全体と、四国という大きな島を割り当てられた」

    「ノースコット中将は、日本海軍の呉軍港を英連邦占領軍の主力基地および軍港に使い、彼の司令部をそこに設置すると決定した」

    『占領 1945~1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人』(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章・訳、時事通信社、1994年)

    少し古い著作ですが、アメリカ外交史、日本占領史の研究者が日本占領のキーパーソンとして8人を選び、その評伝という形で全体として日本占領を描くという形の研究書です。当然、マッカーサーが出てきます。

    米国は日本への戦勝が確実になった段階でいち早く日本占領のプランを作成します。そこでは、連合国が協議する組織はできるであろうが「いかなる国際管理委員会においても、アメリカが卓越した影響力を行使することを想定していた。イギリス、中国、ソ連の役割はアメリカがそれらの国のために名目上設定したものにとどまっていた」

    「戦争終結後、太平洋地域におけるアメリカの優越性は明らかであったから、日本の総督としてのマッカーサーの権限にとって重要な問題は、連合国による管理ではなく、ワシントンの政策立案者たちがどの程度介入してくるかであった」

    奥田泰広さん(愛知県立大学准教授)が「マッカーサーは(中略)日本占領に本来的な権限を持つはずの極東委員会や対日理事会の存在も無視していった」と書いていましたが、マッカーサー個人の考えにとどまらず「無視」は米国の基本的な姿勢だったということですね。

    そうなると米国、マッカーサー側がBCOFと協調しながらやっていこうという姿勢があったとは到底思えません。とはいうものの連合国という建前上、日本に進駐したいという英連邦軍をむげに扱うわけにもいきません。そこで、言い方は悪いですが「うるさいから影響の少ないところを担当させておけ」といった感じだったのではないでしょうか。

  • 2024.06.13

    「英連邦軍」の日本占領 ②

    太平洋戦争の終結後、広島県など中国・四国地方が英連邦軍(BCOF)によって占領されていたということに驚かされたわけですが、呉市にある「大和ミュージアム」(呉市海事歴史科学館)は呉の歴史についての展示も充実していて、「戦後の歩み」コーナーには英連邦軍についての説明がありました(「公式ガイドブック」から引用します)

    「昭和20(1945)年10月7日1万9,500名にのぼるアメリカ占領軍が第11海軍航空廠内に上陸しました。その後中国、四国地方の占領は英連邦占領軍が担当することになり、昭和21(1946)年12月には3万7,010名に達しました」

    当初は米軍による占領で途中から変わったということです。英連邦占領軍のために働く人のための注意事項や規則などが書かれた手帳などの写真が掲載されています(館内で現物が展示されていたはずです)。「上陸したオーストラリア占領軍(呉港)昭和21(1946)年2月14日 /アメリカ国立公文書館 所蔵)とクレジットのある写真も紹介されています(ここでも米国立公文書館です)

    英連邦占領軍は徐々に兵員が撤退していき1950(昭和25)年5月19日には全面撤退が決定したものの、6月25日に朝鮮戦争が起きると撤退は延期され、新たに英連邦朝鮮派遣軍が進駐してくることになったとのこと。

    この英連邦軍とマッカーサー率いる米軍との関係や英連邦軍とオーストラリア軍など、詳しく知りたくなります。そこで、英連邦軍の占領について調べはじめたのですが、これがけっこう難題というか、研究文献がなかなか見つからないのです。

    そして『英連邦軍の日本進駐と展開』(千田武志、お茶の水書房、1997年)という書籍にたどりつきました。タイトルがそのものずばりであり、もっともまとまった研究のようです。

    愛知県立大学の奥田泰広准教授が2020年に「愛知県立大学外国語学部紀要」で発表した論文『占領期日本と英連邦軍――イギリス部隊の撤退政策を中心に――』にはこうあります。

    「現在の日本の学術界でBCOFを扱った業績は千田武志『英連邦軍の日本進駐と展開』のみであり、本稿もこの業績を出発点としている」

    奥田さんはイギリス政治をご専門にされているようで、その研究者に「これだけ」と断言されてしまったらこれは読まないわけにはいきませんね。とはいえ、発行もかなり前なので古本で入手しました。

    旧日本海軍の拠点「呉鎮守府」は現在、海上自衛隊の「呉総監部」となっています。校内には鎮守府時代の庁舎や遺構が残り、日時を限って構内見学ができます。
    /
    「鎮守府」時代の遺構の一つが庁舎の裏側(写真上)にある「地下通路」です。

    本格的な調査がまだ続けられているそうです

    /
    /
    「地下通路」入口です
    /内部はこんなようす
    /「鎮守府」から続く建物であることがわかります
    /こんな形で案内してくれます。大変わかりやすかったです
  • 2024.06.11

    「英連邦軍」の日本占領 ①

    広島県呉市に「大和ミュージアム」(呉市海事歴史科学館)があるのは旧日本海軍の戦艦「大和」が呉で建造されたからです。呉は戦前から旧海軍の基地として栄えた街で、市内や周辺に旧海軍の施設跡などが残っています。大和ミュージアムを訪れた機会にいくつかの施設を見学することができたのですが、戦艦「大和」についての新知識に劣らないくらい勉強になったことが他にもありました。

    呉市に旧海軍の拠点である「鎮守府」が1889年(明治22)に置かれ、軍艦造船のための「呉海軍工廠」も設立されて街は発展しました。「大和」はこの海軍工廠で建造されました。鎮守府は太平洋戦争の敗戦によってなくなるのですが、その後、海上自衛隊の「呉地方総監部」として引き継がれ、構内には旧鎮守府の庁舎が残っています。現在も一部は使用されており、日時を限って一般公開もされています。

    自衛隊の方が構内を案内してくれるのですが、その中に「日本海軍呉鎮守府電話総合交換所」という斜面を利用した半地下室のような施設がありました。文字通り電話交換所だという記録はあるものの、資料があまり残っていないので詳細は不明とのこと。その説明を聞いて掲示板を見て驚きました。
    「戦後は、昭和21年2月以降中国四国地方は英連邦占領軍(British Common wealth Occupation Force(BCOF)が進駐し、呉通信工事局第一電話交換所とBCOF通信隊司令部として使用されていました」

    自衛隊の方の案内でもふれられたようにも思えるのですが、とにかく「えっなに、英連邦軍?」とびっくりしました。


    この説明版で「BCOF」を知りました。説明文後半にでてきます

    太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦で日本は占領されたわけですが、復習です。

    『占領と改革 シリーズ日本近現代史⑦』(雨宮昭一、岩波新書、2008年初版、2023年第13刷)

    「日本はポツダム宣言にもとづいて、連合国の占領下に置かれることになった。連合国の構成は、いちばん上に極東委員会があり、米、英、中、ソ、豪、蘭、仏、印、カナダ、ニュージーランド、フィリピンの一一ヵ国で構成された。のちにビルマ(現ミャンマー)、パキスタンが加わって一三ヵ国になる」(念のためですが「ソ」は「ソヴィエト連邦=ソ連」、豪はオーストラリア、蘭はオランダ、仏はフランス、印はインドです)

    「極東委員会が占領政策を決定し、アメリカ政府を通じて連合国最高司令官に伝達される体制であった」
    「この最高司令官の頭脳ともいうべきものが連合国最高司令官総司令部(GHQ)で、その手足とも言うべき第八軍の各軍政部などの地方軍政機構と日本政府を通じて日本国民を管理した」

    連合国最高司令官がアメリカのマッカーサーで同時にアメリカ太平洋陸軍総司令官でもありその下に第八軍があったので

    「連合国の占領といっても、実質的にはアメリカ政府の政策が日本を支配していた」

    1945年9月2日の降伏文書の調印から52年4月28日の講和条約発効まで、日本は連合国に占領されていたわけですが、これをアメリカによる占領と一般的に理解されるのは、こういう組織構成からしてやむを得ないところでしょう。

    このブログの「京都も占領されていた」(3月7日付)では、京都にも東京や他都市と同じように占領下に連合国軍が進駐していて、その司令官の宿舎や事務所として使われた建物がいくつも残っているということを、「恥ずかしながら京都で仕事をしていた時には知らなかった」と書きました。改めて確認すると京都に進駐してきたのは米軍でした。当然そうだろうと、この時点では疑いもしなかったし、今思うと、日本のどの都市にも米軍がやってきたと思い込んでいたわけです。

    /「BCOF通信隊司令部」として使われていたという施設の外観です
    /施設内部です
  • 2024.06.10

    「公文書館」の役割 ②――「大和ミュージアム」余話

    米国の国立公文書館(「DC」と呼びます)は1934年に設立されています。日本の国立公文書館(「北の丸」と呼びます)の設立は1971年、この差はなんなのか、ということです。「北の丸」のウエブサイトに公文書館設立の前史としてこんな説明が載っています。

    「我が国では、明治以来、各省の公文書はそれぞれの機関ごとに保存する方法をとってきました。しかし、戦後、公文書の散逸防止と公開のための施設の必要性についての認識が急速に高まり(略)」

    でも、米国ではすでに戦前から公文書館があったわけですよね。「北の丸」では「公文書はそれぞれの機関ごとに保存する方法をとってきました」とさりげなく書いてありますが、ようするに各役所が自分たちのところで「抱えていた」ということです。もちろん日々の仕事を進めるうえで過去の例にあたるために直近の記録などは手元に置いておくのが合理的です。

    しかし、「歴史資料として重要なもの」(「北の丸」のウエブサイト)、つまりある程度時間が経過したら役所ではなく公文書館で保管しましょうというのが基本的な考え方です。各役所も記録(書類)の保管場所を無尽蔵に持っているわけではありませんし、手放した方がいいはずです。

    ここで問題になるのは「歴史資料として重要なもの」は何か、誰がどう判断するのかということです。役所などでは日々膨大な公文書が生み出されます。その中から何を重要なものとして選びだすのか、その専門家としてアーキビストという資格をつくり養成をしているのですが、役所にそもそもどういう記録(リスト)があるのかがわからなければ選びようがないという壁につきあたります。

    そうなると役所が出してきたものを「いただく」しかありません。言い方が悪いのですが、役所が「都合が悪いので公開したくない」と言って抱えこんで(あるいは廃棄)しまえばどうしようもないわけです。それを防ぐためにはどうすればいいのか。公文書館なりアーキビストに強い権限を持たせるのが一つの方法です。

    考えさせられたのが米国でのトランプ氏をめぐるニュースです。

    2022年8月、大統領を退任していたトランプ氏が退任時に国立公文書館に引き渡すよう法律で定められていた機密文書300件以上をトランプ氏の邸宅で保持していたと報じられました。公文書館がなかば強制的に約半数を回収し、さらにはFBI(連邦捜査局)も家宅捜索で書類を押収した、というのです。

    もちろんトランプ氏と現政権との緊張関係など政治的な思惑が背景にあるのかもしれませんが、まさに米国の歴史そのものである大統領がどのように政策をつくりそれを実行したのか、その記録は当然のごとく公文書館に渡されるべきものだという理念があり、そのことを当然視していることがうかがえるニュースでした。

    日本の役所が公文書を抱えこんでいるのではないかというのが私の思い込みならいいのですが、役所に公文書がある段階で市民が情報公開請求しても、そもそも公文書が存在するのかないのかすら回答しない例や公開しても真っ黒に塗りつぶして公開する例などを知るとどうでしょう。もちろん「今は見せられない」、時間がたって「公文書館」に移されてからなら見ることができると役所側が説明することは予想されますが、公文書そのものを改ざんすらしてしまう例など知ると残念ながら信頼することは難しいのです。

    しつこくもう1点、重箱の隅をつつくようですが、そもそも公文書の定義が難しいということもあります。「DC」のウエブサイトが対象とするものについて「all documents and materials」としているのが気になります。「文書と資料」です。言葉として大変幅広い、ある意味何でもありとも言えそうです。実は歴史研究では「公文書」になる前の政策決定過程でのメモやメールも重要な資料です。「メモやメールは公文書ではない」という役所のコメントもよく聞きます。

    日本の国立公文書館や地方の公文書館、文書館の役割を支える法律「公文書館法」(1987年制定)にはこうあります。
    「第二条 この法律において「公文書等」とは、国又は地方公共団体が保管する公文書その他の記録(現用のものを除く。)をいう」
    「その他の記録」をより幅広く解釈してくれることを願うばかりです。

    米国の公文書館が素晴らしいと単純に賞賛するつもりはありませんが、公務員の、自分たちの仕事が歴史を作っているという意識、そのために後世に記録を残さなければならないという義務感、公文書は国民共有の財産であるとする理解、これらの点で諸外国と日本との差はなかなか埋められないのではと痛感します。

    米国立公文書館のウエブサイトに「数字で見る国立公文書館」というコーナーがあり、こんな数字が紹介されています。

    永久保存されている資料の内容について
    135億枚の紙
    725,000点以上の遺物
    4億5000万フィート以上のフィルム、つまり約85,302マイル(地球をほぼ3.4周するのに十分な量)
    4100万枚の写真
    4,000万枚の航空写真
    1,000万点の地図、チャート、建築・工学図面
    330億件以上の電子記録(837テラバイト)

    旧日本海軍の戦艦「大和」を捉えた米軍偵察機の写真は「4100万枚の写真」か「4000万枚の航空写真」の中にあるのでしょう。今回新発見の「大和」のカラーの動画は「4億5000万フィート以上のフィルム」の中にあったのでしょう。ウエブサイトをみるとこれらの資料を検索するためのシステムの改良が続けられていることがうかがえます。

  • 2024.06.07

    「公文書館」の役割 ①――「大和ミュージアム」余話

    旧日本海軍の戦艦「大和」について長々と書いてきました。そのきっかけというかキーワードの一つが「米国立公文書館」でした。大分県の市民団体が、「大和」が米軍機から攻撃を受ける場面のカラー映像を米国立公文書館の資料の中から見つけたというニュースがあり、広島県呉市の大和ミュージアムの展示物の中にも「米国立公文書館 所蔵」とクレジットのある資料がいくつもありました。公文書館についても改めて考えさせられました。

    日本国内にも「大和」関連の資料は残っていたでしょうが、「大和」の沈没、終戦の1945年からの時間経過の中で、これから「大和」に関する新しい資料がどれだけでてくるのか悲観的にならざるをえません。

    太平洋戦争終結が見えてきた段階で軍関係者が敗戦で責任を問われることを避けるために膨大な関係資料を焼却処分するなどしたことはよく知られています。「大和」についても同様だったでしょう。戦争の勝者と敗者という違いはあるにしても、自分たちの国のことを調べるのに外国の記録に頼るところが多いというのは、なんとも複雑な思いです。その米国立公文書館のことを調べてみて驚いたのですが1934年に設立されています。そう、日米が太平洋戦争を戦っているときにもう存在していたのです。

    とはいえ、まず「公文書館」とは何かから始めないといけないでしょう。「図書館」などに比べると一般的ななじみはないでしょうが日本にも「国立公文書館」があり、都道府県などの自治体単位で「公文書館」あるいは「文書館」などの名称で設置されている例もあります。

    日本の国立公文書館のウエブサイトにはこうあります(この後、米国立公文書館と両方参照しますが組織名称が長くなるので日本のそれは「北の丸」と略します。東京千代田区の北の丸に本館があります。米国の国立公文書館はワシントンDCが本拠地なので「DC」と表記します)

    「国立公文書館は、国の機関で作成された膨大な公文書の中から、歴史資料として重要なものを選んで保存し、一般に公開してご利用いただくための施設です。保存されている公文書は、日本の歩みを後世に伝えるための国民共有のかけがえのない財産です」

    「これらの公文書を、より多くの方にご利用いただくために、私たち国立公文書館は、国民みんなに信頼され、親しまれる施設でありたいと考えます。公文書と国立公文書館を、“国民みんなのもの”と感じていただくことができるように努めます」(北の丸)

    米国の国立公文書館(DC)も考え方は同じといっていいでしょう。

    「国立公文書記録管理局 (NARA) は、国の記録保管機関です。米国連邦政府が業務を行う過程で作成されたすべての文書と資料のうち、法律上または歴史的理由から非常に重要であるため、永久に保管されるのは1%~ 3%のみです。これらの貴重な記録は保存されており、家族の歴史に関する手がかりが含まれているかどうかを確認したい場合、退役軍人の軍務を証明する必要がある場合、または興味のある歴史的なトピックを調査している場合などに利用できます」(米国立公文書館のウエブサイトの自動翻訳なのでちょっとこなれない表現になっています)

    「米国連邦政府が業務を行う過程で作成されたすべての文書と資料」(DC)とあり、連邦政府には米軍も当然含まれます。さらに「業務」(原文はbusiness)とありピンとこないかもしれませんが、要するに軍の業務=戦争で作成された文書、資料ということになります。作戦立案のために集められた資料も含まれるでしょう。旧日本軍の戦艦「大和」に関する偵察機の写真も該当するでしょうし、業務=実際の戦闘、その経過(成果)を記録した「大和」撃沈のようすをとらえた動画、映像も「資料」という理解ですね。

    ウエブサイト(DC)のトップページをみると「軍関係の記録はこちら」という目立つ入口(バナー)が設けられており、軍関係の記録は重要視されていることもうかがえます。また「家族の歴史に関する手がかり」という記述も目をひきます。

    『史料保存と文書館学』(大藤修・安藤正人著、吉川弘文館、1986年)

    タイトルは「文書館」となっていますが日本国内で公文書館、文書館が少しずつできつつあった時期に、公文書館の必要性、そこで資料を扱うアーキビストの役割などについて諸外国の例を研究し、提言してきた研究者の著作です。少し古い発行ですが、国内の公文書館創設期の関係者の「熱気」も伝わってきます。こんなくだりがありました。

    「この米国国立公文書館(ナショナル・アーカイブス・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ)は、アメリカ合衆国連邦政府の永久保存公文書を保管し一般の利用に供している世界最大の文書館で、議事堂にほど近いワシントン中心部に立つギリシャ神殿風の壮大な建物である」

    「一九八四年の秋、私は文部省在外研究員として欧米の文書館の実状を調査するためにここを訪れた。文書館などというと、せいぜい一〇人かそこらの研究員か歴史愛好者が、ひっとりと古い文書に読みふけっている光景を想像しがちだが、なかなかどうして、老若男女じつにさまざまな人々が列をなして閲覧に詰めかけているというありさまなのであった」

    「史料閲覧者の中で一番多いのは自分の先祖のことを調べる一般市民で、ジ二オロジスト(家系調査家)と呼ばれ、七、八割を占めるという」
    「国民の大多数が北米大陸以外からの移民や奴隷を先祖に持つ人たちであるアメリカで、自分たちの“ルーツ”探しがこれほど盛んなのはよくわかるような気がするが、ヨーロッパでも事情はそんなに変わらないらしい」

    一概に欧米と日本の「公文書館」「文書館」を比べてはいけないのでしょうが、現在の米国立公文書館のウエブサイトがあえて「家族の歴史に関する手がかり」と書く理由は十分にあり、また、米国民が歴史文書にこだわる背景もうかがえると受け止めました。

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