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BLOG校長ブログ

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  • 2024.03.14

    1年生の写真作品が高く評価されました

    1年、今井椋大さんの写真が「青いボクら写真展」(大塚製薬主催)で、全国から応募があった中から選出される70作品のひとつに選ばれました。「青春の光」というタイトルだそうです。

    おめでとうございます。

    写真展についてはこちらを

  • 2024.03.12

    東京・練馬の米軍住宅ーー京都も占領されていた ④として

    第二次大戦・太平洋戦争後に連合国軍(占領軍)、実質的にはアメリカ軍(米軍)が列島各都市にやってきて進駐軍、占領軍として日本を統治下に置きます。古都・京都もその例外ではなかったということで、占領軍の事務所が置かれた場所や軍人家族の住宅が建てられたところなどを紹介しました。それでは、東京はどうだったのか、軍の規模からいっても京都の比ではありませんよね。半世紀ほど前に自分自身のすぐ身近にあったことを思い出しました。ということで「京都も占領されていた」の付記とします。

    練馬区のほぼ中央付近、緑いっぱいの「光が丘公園」があり、その周辺には高層住宅も立ち並んでいます。同区のウエブサイトによると、公園の広さは約60万平方メートル、23区内で4番目の広さだそうです。この公園付近がかつては「グラントハイツ」と呼ばれる米軍住宅でした。

    『古都の占領 生活史からみる京都1945-1952』(平凡社、2017年)で筆者の西川祐子さんは、占領期の研究があまりされないうちに時間がたっていくことを危惧していると、前回のブログで紹介しました。グラントハイツに関しては、練馬区はウエブサイトでけっこう丁寧に「光が丘公園の歴史」をまとめていて感心させられました。写真も豊富です。

    ご存じかどうか、練馬区は戦後の1947年(昭和22)に隣の板橋区から分離して「練馬区」になりました。東京23区で一番新しい区です(といってもかなり昔ですが)。現在の光が丘公園のあたりは戦前は田畑が広がっていたところで、区の説明文では大根畑などが例示されています。そう「練馬大根」です。

    戦争中には軍の「成増飛行場」が作られ、そこに戦後、米軍住宅が建てられることになります。飛行場だったので平らに整地されている、住んでいる人を立ち退かせる必要がないなどの理由から米軍住宅の適地として選ばれたのでしょう。その後は京都の米軍住宅の推移と同じように軍人・家族が減っていくにつれ、その広大な土地を還してほしいという運動が広がり、1973年(昭和48)に完全返還されました。

    このグラントハイツですが、私はけっこう近所で成長しました。練馬区のウエブサイトにこんなくだりがあります。
    〔昭和35年〜〕金網の中は荒れた原っぱに
    (略)1960(昭和35)年頃になると、住民はほとんどいなくなり、雑草が茂る広大な空き地が残されました。

    もともと金網で囲われていたグラントハイツ。貯水槽や害虫駆除の管理が行き届かなくなると、悪臭や蚊・ハエも発生。また、「金網の向こう側を野犬が走り回っていた。野犬はたくさんいたので怖かった」と、多くの人が当時を語ります。

    そう、金網あるいは鉄条網の向こう側に、なかば崩れた建物が見えた、廃墟が広がっていたことをよく覚えています。野犬云々はわかりませんが。そして、こんなくだりもありました。

    「グラントハイツ」は、南北戦争後に第18代アメリカ大統領になったグラント将軍に由来しています。1879(明治12)年に来日し、伊藤博文や岩倉具視とも会談した将軍です。

    飛行場跡地の広々とした場所がグラウンドをほうふつさせるためか、「グランドハイツ」だと勘違いしている人も多いようですよ。

    はい、私も勘違いしていた一人でした。

    「鉄ちゃん」(鉄道愛好者)として忘れてならないのは、このグラントハイツまで鉄道があったことです。もともと戦時中に、現在の東武東上線の上板橋駅付近から陸軍施設まで線路が敷かれていた、戦後、グラントハイツの建設工事のためその路線が延長された、その工事責任者の軍人の名前をとって「ケーシー線」と呼ばれたそう。1959年(昭和34)に廃止されたとのこと。
    当時の地図には「啓志線」と書かれていたそうで、アメリカ人の名で呼ぶのに抵抗があったのかもしれませんね。


    1948年3月、米軍によって撮影された写真。横長の建物が規則的に並んでいるのが見て取れます。ほぼ中央に幅広い道路が上下一直線に伸びていますが、練馬区のウエブサイトに載っている「成増飛行場」の写真をみると、ここが滑走路だったようです。

    写真右端から上に斜めに伸びている白い太い線が国道254号線(川越街道)で、そこからT字路で太い道路がグラントハイツに入り込んでいます。同じように写真中央右端からグラントハイツに向かって白い線が伸びグラントハイツ手前で何本にも枝分かれしています。これが鉄道「ケーシー線」ですね。

    時代は下って、その代わりというわけではありませんが、現在、光が丘には、都営地下鉄大江戸線が伸びてきています。

    2019年11月撮影の「光が丘公園」一帯。林の中に4面の野球場や陸上トラックが見えます。公園の敷地右上端に、国道254号線から伸びてくる道路がそのまま残っています。

    「光が丘公園」の歴史を紹介する練馬区のウエブサイト特集ページはこちらから

    この2枚の写真は、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで検索しました。探したい地点を地図で見つけ、写真が撮られた時期などを指定して検索します。すぐれたデータベースです。

  • 2024.03.11

    京都も占領されていた ③

    『古都の占領 生活史からみる京都1945-1952』(西川祐子、平凡社、2017年)で第二次大戦後には京都にも連合国軍がやってきてホテルや役所を接収したことを改めて知ったわけですが、この西川さんの本でのきわめつけはこれかと。

    「占領期のあいだ二条城前、現在は大型観光バスが数多くとまっている広い道が小型飛行機の発着場所となっていた。だが、その前に、進駐開始の日に御苑に舞い降りた飛行機があったのだ」

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    小型飛行機の発着場所となった二条城前の広い道、はここのことでしょう。写真の左端に映りこんでいる白い壁が二条城の外壁。その外壁、堀に沿ってタクシー乗り場、観光バスの駐車場が設けられていて、右側は堀川通り。戦後すぐのころは、もちろんこのような舗装路でなく並木もなかったでしょうから、長く広い道が滑走路替わりになったと思われます。

    「それにしても」ですよね。

    そして「御苑」です。「京都御所」の周囲に広がる公園で市民が自由に出入りできる場所です。この京都御苑に米軍将校宿舎を作るというプランがあり、懸命の交渉の結果、先に紹介したように植物園に変更になったことは「京都も占領されていた ②」でふれました。その御苑に飛行機が降りた、とは。

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    左の写真が京都御苑の御所西側。右側に長く続く築地塀(ついじべい)の内側がかつて天皇の住まいだった御所。右の写真は御所南側の京都御苑。戦後は荒れていたでしょうが、確かにスペースとしては広いので宿舎を作ろうという発想があってもおかしくはないし、広さだけなら滑走路代りにはなるでしょうが。二条城前同様、「それにしても」ですよね。

    宿舎を建てるという占領軍の要求をどうはねのけたのでしょうか、興味がありますね。京都が都で天皇がいて政治が行われていた時は、現在の御苑の場所には役所の建物や貴族の屋敷が並んでいました。占領軍に「昔はここに貴族が住んでいたではないか(だから自分たちが住んで何が悪い)」などと持ち出されたら、なかなか拒否するのは難しかったかもしれない、などと想像してしまいます。

    長々と書いてしまいました。京都に関心のない人にはなんのこっちゃ、でしょう。ただ、こういった「歴史」がきちんと書かれ次の世代に受け継がれていくことは大事です。

    西川さんが書いています。

    「戦後のはじまりに占領期があったことは忘れられやすい。思い出したくない記憶だからである」
    「戦争だけでなく占領期を経験として語ることができる人はすでに数少なくなった。占領期研究の大勢は文献研究へと移っている。消えかかった記憶を呼びさまし、文献を読み直すことを急がなければならない」

    「京都御苑」の公式ホームページはこちら

  • 2024.03.08

    京都も占領されていた ②

    京都占領期のゆかりの地巡り、と書いたら不謹慎でしょうか。進駐軍の将校や兵士の宿舎などを紹介しました。では、彼らはどこで仕事をしたのか、迎える側の日本の役人は、というところに続きます。

    進駐軍を受け入れるのはまずは自治体、京都府であり京都市なわけですが、占領軍とその進駐先の地方行政機関とのあいだをつなぎ連絡をとる終戦連絡事務京都委員会は現在の京都府庁内に置かれ、さらには軍政部がこの建物の中に入り、府の行政を監督、監視したそうです。

    この京都府庁の建物ですが、京都府のウエブサイトによると
    「旧本館は明治37年(1904)12月20日に竣工しました。昭和46年まで京都府庁の本館として、また、現在も執務室として使用されており、創建時の姿をとどめる現役の官公庁建物としては日本最古のものです」

    とあります。

    『古都の占領』ではこう紹介されています。
    「京都府庁旧本館は現在、重要文化財に指定されている美麗な建物である。中庭をかこんで部屋が並ぶ様式で二階の部屋数は約二〇、その半分を超える部屋が接収されていたことになる」

    私が京都で仕事をしていた時、教育委員会だったかが入っていて、建物に出入りしたことはあります。くどいようですが、こんな「歴史」は全く知りませんでした。
    京都府庁旧本館。玄関には車寄せが設けられています

    /京都府庁旧本館正面
    /正面玄関を入ったところ
    /中庭をかこんで玄関とは反対側の外観
    /2階の廊下。赤じゅうたんが敷かれていました
    /正面玄関から2階にあがる階段
    /玄関脇の建物の歴史を紹介する掲示。占領軍に使われていたことは書かれていませんでした

    京都府のウエブサイト「京都府庁旧本館」の案内はこちらから

    余談ではありますが
    この建物、占領軍はともかくとして後に京都府の庁舎として使われたわけで、府の役人のみなさんはこういう環境下で日々仕事をするのはどんな気分だったのだろうかと、いろいろと想像してしまいます。

    もちろん耐震の問題やIT設備対応などを考えると、さすがに今ここを役所としてフル活用するわけにはいかないでしょうが。ただ、建物そのものをきちんと保存していることは素晴らしいですよね。

  • 2024.03.07

    京都も占領されていた ①

    2024年の初めからしばらく(しつこく)京都のことを書きました。そのきっかけは、知らなかった京都という点で驚きがたくさんあった本『京都 未完の産業都市のゆくえ』(有賀健、新潮選書)との出会いでした。その内容を紹介しながら、「そういえば知らなかったという点ではこれもあったな」と思い出した別の一冊を読み返しました。そして先日、京の街を歩く機会があり、その本に出てくる場所を改めて訪ねてみました。

    『古都の占領 生活史からみる京都1945-1952』(西川祐子、平凡社、2017年)

    「占領」だけだと何のこと、ですかね、「1945-1952」が必要でしょう。

    「アジア・太平洋戦争後、ポツダム宣言の受諾により日本列島は米軍を主力とする連合国軍の占領下に置かれた。占領期を一九四五年夏のポツダム宣言受諾と九月二日のミズーリ号艦上における降伏文書調印から五二年四月二八日のサンフランシスコ条約発効までとするなら、約七年の歳月である」

    本の副題「1945-1952」はこの7年間をさします。京都も連合国軍の占領下にあったわけです。戦後の占領と聞くと首都東京にマッカーサー率いる連合国軍がやってきたことはよく知られていて、国内の主な都市にも連合国軍が進駐したことは知識としてはあったのですが、京都もそうだったとは恥ずかしながら京都で仕事をしていたころ、考えたことはありませんでした。

    改めてページをめくりなおしてみます。

    1945年9月25日に占領軍が京都駅前広場に姿を見せ占領が始まります。挿絵をみるとかつての京都駅ビルが写っています。烏丸口です、もちろん現在のあのすごい駅ビルからは想像できない光景です。

    「進駐した第六軍第一軍団の司令部は四条烏丸の大建ビル、現在のCOCON KARASUMAに設置された」
    「七〇年後の現在、建築家隈研吾による改修を経て京都のもっともファッショナブルなビルのひとつとなっている」

    おお、ここでも隈研吾さん。施設のウエブサイトにビルの変遷が紹介されています。進駐軍に関しては特段の記述はないようです。

    ホテルも植物園も

    「占領軍のクルーガー司令官は最初、東山にあった都ホテル(現・ウェスティン都ホテル京都)に滞在したが、やがて烏丸丸太町の交差点北西にある大丸社長宅、通称下村ハウスまたは大丸ヴィラが司令官宿舎となった」

    格式からいっても司令官はトップクラスのホテルだったここか。では将校やその家族はどこで暮らしたのか、ということです。

    「占領軍の将校家族用の宿舎は植物園に建設され、植物園が京都における「アメリカ村」といった空間になる」
    「京都駅から植物園までひきのばされた南北の動線1を、占領軍の行政ラインと呼ぶことができるであろう。じっさい住民たちは、烏丸通にはいつもジープが走っていた、と覚えている」

    「えーっ、植物園」ですよね。現在の京都府立植物園ですね。京都府立植物園のウエブサイト「京都府立植物園の沿革」には以下のようにあります。

    「戦後は、昭和21年(1946)から12年間連合軍に接収されました。このとき多くの樹木が伐採されるなど苦難の時代が続きましたが、昭和36年(1961)4月、憩いの場、教養の場としてその姿を一新し、再び公開しました」

    進駐軍司令部の置かれた、現在の「COCON KARASUMA」のウエブサイトはこちらから

    京都府立植物園のウエブサイト「京都府立植物園の沿革」はこちらから

    大丸ヴィラは京都市登録有形文化財に登録され、「史跡」あるいは京都の代表的な建築として紹介されています。
    こちらから(上京区のウエブサイトから)

    大丸ヴィラの建物写真を撮ろうとしたのですが高い塀と高い門があって歩道からは屋根くらいしか見えません。ネットで検索してみると、時々一般公開されていて建築関係のウエブサイトなどで建物や室内の写真などが多数紹介されています。区のウエブサイトでの紹介文には占領軍関連の記述はありません。

    すぐ近くには京都府庁、京都府警察本部があり、かつては毎日のようにこの建物の前を通っていたのですが、気にもしなかったし、ましてや占領軍うんぬんなど、まったく知りませんでした。

  • 2024.03.05

    卒業証書授与式がありました<5日>

    令和5年度卒業生の「卒業証書授与式」が5日、本校大講堂で行われました。本校37期生の新しい門出を祝いました。

    会場の都合で、ご来校いただいた保護者のみなさまには体育館で式の中継を視聴していただくという形をとりました。式後には各クラスに分かれ、卒業生・保護者と担任らがともに写真に収まったりして、本校最後の一日を過ごしていました。

    式辞では、AI(人工知能)によって社会が大きく変わろうとする中で、AIにとって代わられない価値は何か、私たち人間ができることは何かを考え続けてほしいと話し、また、卒業生が本校で過ごしたこの3年間にウクライナや中東での戦禍で多くの人が犠牲になっていることを忘れず、他人事と思わず、これからも平和を求め続ける努力をみなで続けようと呼びかけました。

    式辞のほか、中川進理事長のごあいさつ、在校生代表の送辞、卒業生代表の答辞を学校ウエブサイトのニュース欄で紹介しています。
    こちらをどうぞ

  • 2024.03.04

    途中でやめていいか ーー読書法③

    青山南さんのエッセイに出てきた「犬の耳」の話から福田和也さん、梅棹忠夫さんの著作に寄り道してしまいましたが、青山さんのエッセイにはほかにも「同感、共感」がいくつかありました。「犬の耳」ができているところから引用します。

    「ぼくの場合、本を読むのを途中で決意してやめるにはかなりの勇気がいる。読んでいるうちになんだかおもしろくなくなってきて、読みつづけるのが時間の無駄づかいのようにおもえてきても、決意して読むのをやめることがなかなかできない」

    「もちろん、読むのを途中でやめた本なら、いくらでもある。(略)でも、それらは、読むのをやめた! と断固決意したうえで読むのをやめた本ではなくて、なんだか読む気がしなくなったなあ、と曖昧な気持ちでいるうちに、なんとなくずるずる読まなくなったという本だ」

    わかります、わかります。そして

    「本は最後まで読むもんだ、と決めたのはだれだ? いや、待てよ、そんな決まり、あったっけ? (略)小さい頃、本ひとつ最後まできちんと読めないようでは、おまえ、なにもできませんよ、と母親あたりから注意でもされただけの話ではないのか」
    「本を最後まで読むということも、じつは、本をめぐるしつけのひとつにすぎないのかもしれない」

    ここの「母親」を「教師」「先生」に代えられるかもしれません、学校での読書の勧めの中で無意識に最後まで読むことを求めているかもしれません。

    私もなかなか途中で読むのをやめることができなかったのですが、ジャーナリストの立花隆さんが自分の読書歴、読書方法について語っているのを読んだとき、勇気づけられました。

    少し読みだして面白くない、役に立ちそうもないと思ったらすぐに読むのをやめていい、そんな本を読むのは時間のムダ、と明快に言い切っていました。
    あるテーマで取材をしようと決めた時、神田・神保町の書店でその分野に関する本をそれこそ棚ごとすべて購入してしまうという立花さんであり、資料としての本読みの側面が強いので、必ずしも私のようなただの本好きとはレベルが違うのですが。

    次々と読みたい本が現れてくるのに今読んでいる本がなかなか先に進まない、たぶん、今一つその本に入りきれないからだろうと頭では理解しているのですが、時々、この立花さんの叱咤を思い出しています。何しろ、限られた人生の中で読書に費やせる時間は限られていますからね。

    最後に青山さんの本から本棚の話し。本好きは本棚の話も好きです、たぶん。

    「本棚の本が一望のうちにながめられるうちはいい。本棚の本は、とくに本好きの本棚の本となると、かぎりなくふえていく。本は増殖する、と本好きはみな本気で信じている。勝手にふえていく、と思っているふしもある」

    もちろん生物ではないので本は増殖しません。気持ちはわかります、自己弁護として。

    そして、本棚に収めきれなくなると床に本を積み始める。そうなると、どこにどんな本があるかわからなくなるので、だいたいの地図を書いておく、という翻訳家の話を紹介した後で

    「ぼくの場合、地図はない。ぼんやりとした記憶と勘だけが頼りだ。本棚の奥深くから、とんでもない本が顔をだして、わお、と大喜びすることもある。じぶんの本棚は、そう、発掘の喜びをもたらしてくれる遺跡のようなものでもある」

    うーん、私はここまでには至っていないはず・・・

  • 2024.03.01

    リズムを崩さない? ーー読書法②

    本を読んでいて気になったところのページの隅っこを折ること、折った状態(形)を英語で「犬の耳」ということを紹介しました。私自身も読書のたびに「犬の耳」をせっせと“作って”いるわけけですが、いつごろからそうしているのか。さすがにはっきりとした記憶はありませんが、「なるほど、これもありか」と「犬の耳」の後押しになった1冊を書棚から探し出しました。

    『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』(福田和也、PHP研究所、2001年)

    文芸評論などで数多くの著作がある福田さん(慶応大学教授)ですが、この本では、資料としての本をどう探しどう読むか、効果的な情報整理方法、さらには文章術まで、まあ、ノウハウ本です。

    「私は本を読むと、不細工かもしれませんが、メモを取ろうと思ったところ、あるいは引用しようと思ったところのページの上部を折っていきます。折るだけで、メモは取らない。そして、読了すると、今度は折ったところだけを、もう一度読み直す」
    「それで、もう一度読んで大事だと思ったところは、今度は下のところで折っていくのです」

    福田さんはこの後に、読み終わったら読み返し、必要ならメモをとると書いています。ではなぜまず「折る」のか。

    「読みながら、メモを取る人がいますが、私はあまり勧めません」
    「メモを取りながらだと、読む速度が落ちます」
    「読むことと、書くことは、どうしても生理的なシステムが違うので、読むことを中断して書いていると、集中力が途絶えてしまう」

    線を引いたり付箋を貼ったりすることとメモをとることとはかなり作業内容は異なりますが、やはり「読む」がいったん止まる、読むリズムが崩れる、と言えるでしょう。もちろん、ページを折る作業もいったんは読むことを止めるのですが、鉛筆やマーカーを手にとったり、付箋を取り出したりといった作業よりは読むリズムにあっているでしょう。ページをめくるようなものですから。

    それならば、読み方、書き方のノウハウ本としての元祖というかロングセラーにはどう書いてあるのかと気になり、探し出しました。

    『知的生産の技術』(梅棹忠夫、岩波新書、1969年初版・1980年第31刷)

    大阪にある国立民族学博物館の開設に尽力し初代館長でもあった筆者の代表作の一つで、ノウハウ本などとくくってしまうと叱られそうなくらい、岩波新書の中でも超ロングセラーとして読まれ続けてきました。もう本はすっかり黄ばんでいます。

    「本は、一気によんだほうがいい」
    「むかしからいわれている読書技術のひとつに、ノートをとれ、ということがある。(略)しかし、わたしはそういうやりかたには賛成できない。(略)いちいちそんなことをしていたら、よむほうがなかなかすすまない」

    うんうん、そうですよね。ところが、です。

    「もっとも、よんでいるうちに、ここはたいせつなところだとか、かきぬいておきたいなどとおもう個所にゆきあうことがすくなくない。そういうときには、これもむかしからいわれていることのひとつだが、その個所に、心おぼえの傍線をひくほうがよい」
    「線のほかに、欄外にちょっとしたメモや、見だし、感想などをかきいれるのもいいだろう」

    そして、読み終わった後に、「知的生産の技術」としての読書、読書を何かの役にたてようというつもりなら、読書ノートをつくるべきだと自説を展開します。

    結局は読む人が一番なじむ方法、というありきたりの結論になってしまいそうです。ただ、本を読むのが好きな人はだいたいこういった本の読み方論みたいな話も好きだと思うのですが、いかがでしょうか。

  • 2024.02.29

    犬の耳 ーー 読書法①

    本を読んでいて、気になるところのページの隅っこを折るのを dog-ear(犬の耳)と言うのだそうです。私自身も同じようにするので、外国でもこのような習慣があると知って驚きでした。なんで犬の耳かって? 想像してみてください。ページの隅っこを折ると、ページ全体と折ったところを合わせてその形が犬の耳のように見えるからだそう、なるほど。

    『本は眺めたり触ったりが楽しい』(青山南、ちくま文庫、2024年)

    この本で教わりました。翻訳家、エッセイストとして知られる青山さん、新聞の書籍広告でタイトルに魅かれて購入しました。もともとは1997年に単行本で刊行されこのほど文庫化されたとのこと。読書や本にまつわるエッセイをまとめたものです。

    「犬の耳」についてはこのように書かれています。

    「小説家の佐藤正午が、小説を読んでいて気に入った一行や気にかかる文句にであうとページの隅っこをつい折ってしまう、と書いていた。(略)じつは、ぼくにもその癖がある」

    「ページの隅っこを折るのを、英語ではたしか、「犬の耳」といったなあ、とおもいだして、あらためて辞書をひいてみた。あったあった、dog-earあるいは dog’s-ear。名詞としてだけではなく、動詞としてもつかわれるようだ。そして、dog-eared とか dog’s-earedというかたちで、形容詞にもなる。こんなことばもできているくらいなのだから、ページの隅っこを折るのは、まあ、わりあい世界中でみんながやっていることなんだろう」

    英語にあったはず、と思い出すところがさすがに翻訳家ということですね。ただ、読者が意図的に折ったかどうかではなく、自然に折れてしまった状態も含めているようです。

    こちらは共感する人も多いのでは。

    「受験勉強のときには参考書に赤鉛筆でたくさん線を引いた。これは覚えなくては、これも覚えなくては、とつぎつぎ線を引いていくうちにページはまっかっかになり、ほんとうに覚えなくてはいけないものはどれなのかがわからなくなってしまった」

    あるある、ですよね。今どきは赤鉛筆より蛍光ペンでしょうが。青山さんは続けます。

    「参考書にはこんなふうにどんどん線を引いていたぼくだが、しかし、参考書でない本には線を引くということがなかなかできなかった」

    として、自分でその理由を考察しています。

    本を読んでいて気になるところに線を引く、あるいは付箋を貼るといったことは、私自身日常のことではあります。とはいうものの、資料的に本を読む場合で、小説などではまずそのような作業はしません。

    /折って、折って、折ってます。本が「厚く」なってしまうのが欠点?
    /付箋も使っています。資料として必要なところだけ読む本です。付箋そのものがヨレヨレになりがちなのが欠点?
  • 2024.02.27

    続・屋根と庇(ひさし) 東野高校建築論 ⑤

    隈研吾さんの著書に触発され、本校の教室などの建物の屋根のでっぱりや庇のことを考えていたら、そういえば、ここではどう書かれているのだろうと気になった著作を思い出しました。

    『陰翳礼賛』(谷崎潤一郎、角川ソフィア文庫、2014年初版、2023年19版)

    表題作の『陰翳礼賛(いんえいらいさん)』などの短編が収められています。谷崎が『陰翳礼賛』を書いたのは1933年、その後文庫も含めていくつかの本が出ていますが、井上章一さんが解説を書いているということで角川ソフィア文庫版を選びました。

    裏表紙の解説にはこうあります。

    「日本に西洋文明の波が押し寄せる中、谷崎は陰翳によって生かされる美しさこそ「日本の美」であると説いた。建築を学ぶ者のバイブルとして世界中で読み継がれる表題作(陰翳礼賛のこと)」

    建築を学ぶ者のバイブルかどうかはともかく、日本の伝統的な建築や京都の町家などを語る時によく引用される作品であることはまちがいありません。

    「私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内されるごとに、つくづく日本建築の有り難みを感じる」

    こんな一節があります。谷崎は快適な厠=トイレの条件として「ある程度の薄暗さ」をあげるのです。この厠トイレはほんの一例ですが、谷崎はこの小編で、西洋の建築と比較して日本の伝統的な建築では意図的に「陰翳(旧漢字)=陰影」つまり影が作り出され、その影、薄暗さの中で日本の美意識が形作られていった、こんな見方を披露しています。

    こんなくだりもあります。

    「私は建築のことについては全く門外漢であるが、西洋の寺院のゴシック建築というものは屋根が高く高く尖って、その先が天に沖(ちゅう)せんとしているところに美観が存するのだという。これに反して、われわれの国の伽藍では建物の上にまず大きな甍を伏せて、その庇が作り出す深い広い陰の中へ全体の構図を取り込んでしまう」

    「寺院のみならず、宮殿でも、庶民の住宅でも、外から見て最も眼立つものは、ある場合には瓦葺き、ある場合には茅葺きの大きな屋根と、その庇の下にただよう濃い闇である」

    「日本の屋根を傘とすれば、西洋のそれは帽子でしかない」

    「横なぐりの風雨を防ぐためには庇を深くする必要があったであろうし、日本人とて暗い部屋よりは明るい部屋を便利としたに違いないが、是非なくああなったのであろう」

    「が、美というものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った」

    谷崎は、日本だって明るい部屋の方がいいのだが、特徴ある気候への対処として庇を深くした、その結果、陰翳が生まれてそこに美を発見した、としているので、隈さんの解説と直接結びつくわけではありませんが、建築の特徴が外形的なものにとどまらず、文化にも影響を及ぼすというところが、建築を学ぶ人たちをひきつけたのでしょう。

    もちろん学校の教室に、谷崎がいうところの日本の伝統的な陰翳を求める理由はなく(むしろ明るい方が勉強にはふさわしいでしょう)、本校の建物のひとつ一つの設計で「陰翳」が意識されたことはおそらくはなかったでしょう。でも、そんなことまで考えさせられる奥の深い魅力あるキャンパス、建物群だということを知っていただけたら。

    こんな見方もあるのだということが今後、校内を巡る際の参考になれば嬉しいです。

    /本校では2021年、「雨の日に不便」という生徒の要望に応えて教室などの入り口に庇を新設しました
    /それまでの教室入口。扉は木製でした
    /
    /

    寺院でも宮殿でも最も目立つのが大きな屋根、と谷崎。京都・知恩院の三門(写真左)、京都御所(右)