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BLOG校長ブログ

2023年の記事

  • 2023.12.16

    無着成恭さんのささやかな思い出

    無着成恭(むちゃく・せいきょう)さんが今夏亡くなり、無着さんが長年回答者を務めたTBSラジオ「全国こども電話相談室」の元アナウンサーの方が先日、毎日新聞紙上で思い出を語っていました。無着さんには千葉のお寺の住職をされていた時に取材させていただいたことがあり、その時の記事の切り抜きが実家の資料の中から同じようなタイミングで見つかりました。これも何かのご縁かと。

    訃報から無着さんの経歴を簡単にまとめます

    1927年(昭和2)山形県の寺に生まれ、赴任した同県内の中学校で子どもたちが生活のありのままを作文に書く教育「生活綴方(つづりかた)」を実践。その生徒たちの詩や作文を収めた学級文集「山びこ学校」がベストセラーになりました。

    その後、明星(みょうじょう)学園(東京)で教諭や教頭を務め、「全国こども電話相談室」の回答者を約30年続けました。1987年、千葉県香取郡にある福泉寺の住職になり、大分県国東市のお寺に移った後、また福泉寺に戻って暮らしていたそうです。

    新聞切り抜きの日付を見ると1991年1月20日、東北地方向けの紙面で「ふるさと人」と題し、東北出身で今は東北を離れている著名人に故郷について語ってもらうという連載記事、東京本社の何人かの記者で分担して取材しました。そのお一人として山形出身の無着さんを千葉の福泉寺に訪ねたわけです。記事そのものを見ていただくのが簡単なのですが、著作権もあるし、また、今読み返しては拙い原稿ですので少しだけ引用しながら。

    無着さんがわざわざ選んだ福泉寺は成田空港(当時は新東京国際空港という呼び方が一般的で記事にもそう書いてあります)のすぐ近く。このころはまだ、開港時のいきさつから空港への反対運動が続いていました。記事にはこうあります。

    「周辺には「上空を飛ぶ飛行機の音で雲の様子が分かり、それで天気を占う」人たちが暮らしている。檀家の中には空港の拡張工事で自分の土地を手放したものかどうか悩む人もいる」

    「あえて檀家が数十戸の寺を選んだ。「大きな寺は葬式と法事で毎日が過ぎていく」からで、各地から子供たちが寺を訪れ「無着先生」の話を聞き、座禅を組んで帰っていく」

    さらっと書いてしまっているのですが、今思うと、成田空港のことを無着さんはどう考えていたのでしょうか、それがこのお寺を選んだこととどう関係するのか、そういう生々しい取材趣旨ではなかったと言ってしまえばそれまでですが、取材したこちらの問題意識が足りなかったですかね。

    「へーっ」と思い、記事にした後もずっと忘れられないことがあります。山形県は県内の水がすべて最上川に集まると無着さんが話したことです。

    もちろん最上川には支流はあるのですが、山形県域に降った雨はすべてが最終的には最上川に集まる、という言い方がわかりやすいかもしれません。一つの川が地域の生活のあり方や文化を、さらには県民性みたいなものまで形つくっていくということを無着さんは言いたかったのだろうと理解しました。そう「母なる川」みたいな。そういう視点もあるのだ、ということが新鮮でした。

    後年、その最上川を船で川下りしたこともあり、山形県に行くたびにこの話を思い出します。

    「(山形の)人々は山の向こうには何があるのだろうと思いながら暮らしてきた、という。それに比べて千葉は、海と二つの大河による県境に囲まれ、一年中青野菜がある」

    山形の人に叱られてしまいそうですね。念のためですが「二つの大河」は利根川と江戸川です。めぐりあわせでしょうか、この後その千葉で3年間仕事をすることになります。

    つけたしで

    無着さんはお寺の生まれ、珍しい姓ですよね。そういえばと突然思い出しました。奈良・興福寺にある鎌倉時代の仏師・運慶の最高傑作の一つとされる「無著像」。インドで仏教教学を学び広めた兄弟の一人とされる彫刻(仏像)で国宝に指定され、日本史資料集などで目にしたこともあると思います(兄弟のもう一人は「世親像」)。年に何回か特別公開されるたびにお参りにいくようにしているのですが、都度その何とも言えない表情に心うたれます。

    その「むちゃく」だ、ここに縁がある姓に違いないと嬉しくなったものの、よく確認したら、無着さんは「着」の字で「ちゃく」、興福寺は「無著」、「著」で「じゃく」(濁点がついている)、うーん、早とちりか、いやいや、仏教つながり、きっと何らかの理由があるに違いないと勝手に考えています。

    奈良・興福寺のホームページで「無著像」が紹介されています。こちらから

  • 2023.12.15

    家康話も大団円 ④

    豊臣秀吉、徳川家康は死後、名前はそれぞれながら「神」とされたわけですが、神となった武士は他にもけっこういるのです。

    『神になった武士 平将門から西郷隆盛まで』(高野信治、吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2022年)

    全国にある神社に祀られている神(祭神)を調べ、その中に武士から神になった例がどのくらいあるかを示します。高野さんは、武士の祭神を見つける、あるいはそれを定義するのはなかなか難しいと言います。

    「神とは死後も記憶され続け、現生の人びとと何らかの交流(その象徴は禍福の招来)をなす存在であり、狭義の神道的な神のみならず、仏教的なホトケや民俗信仰の対象となる存在であることが挙げられる。とくに前近代の神仏習合的な神のあり方から、仏教的祭祀も視野に入れる必要がある。しかし、ここでは、明治初期の神仏分離を前提に、神社などに祀られた祭神を対象とする」

    そのうえで、古代から現代までに神に祀られた武士の総人数は2431人、そのうち、一か所でのみ祭祀されている武士が2112人で「圧倒的に多い」

    「武士として祀られた一番古い人物は、伊勢平氏の祖とされ、甥の平将門に襲撃された平国香(略)、武士とした祀られた最も新しい人物については、西郷隆盛と考えている」

    そして、一番多くの神社で祀られている武士は誰か、はい、徳川家康、神様(祭神)なので「東照大権現」と呼んだほうがいいかしら。祭神数として623件、44都道府県に広がっているそうで、全国至るところに東照大権現を祭神とする神社などがあるということですね。

    すぐに思い浮かぶのは家康が最初に埋葬された静岡・久能山東照宮、日光、東京・上野にも東照宮はありますよね。この東照宮ですが、「将軍や幕府が正式に許可した東照宮は、全体の数からすれば少数」とのことで、「独自の勧請(私勧請)の事例が多い」そう。将軍家との縁戚関係にある大名らが、将軍家・幕府と良好な関係を保つため、というか、幕府にいい顔をみせたいがため、自分の領国内に東照宮をおいた、つまり自分の領国内に「東照大権現」を勧請した、招いて敬ったということですね。

    このように東照宮はたくさんつくられたわけですが、各地でそれぞれ事情が異なること、また上下関係や系列があるわけではないので現在、東照宮がどのくらいあるのか、残っているのかは十分に把握できていないようです。

    群馬県太田市世良田は徳川家発祥の地といわれ、世良田東照宮があります。今夏再訪して宝物館を見学した際、東照宮一覧のような展示がありましたが、この623という数字から思い出すと、ずっと少なかったようです。

    余談ではありますが

    「一番古い平国香を襲撃した平将門」とある平将門ですが十世紀に関東の地で、一族の内紛をきっかけに地方政庁を襲うなどして新皇と名乗った武士です。その将門を祀る神社として有名なのが「神田明神」、意外と知られてないかも。

    この高野さんの著書で紹介されている、家康に次いで祀られている例が多い武士はというと秀吉、織田信長、いやいや、加藤清正だそう。家康に比べると祭神数153件でぐっと少ないですが。ちなみに秀吉(豊国大明神)は36件でランクでは11番目とされています。

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    静岡の久能山東照宮です。門の上部屋根の下にある「扁額」には「東照大権現」と祀られている祭神の名前が記されています(青い部分、小さくてすいません)

    日光・東照宮です

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    今夏、外国人観光客でにぎわっていました。

  • 2023.12.14

    家康話も大団円 ③

    NHK大河ドラマ「どうする家康」で寺島しのぶさんがナレーションをつとめていますが、家康を紹介する時に「われらが神の君」と言っているのが気になってはいました。いかがでしょう。

    その「神の君」「神君」、つまり家康は死後神様になった、神様として崇められたということで、そのように整えられたことは歴史的にまちがってはいないわけです。とはいえ、ドラマのナレーションとして生きている家康をこう呼ぶことはどうかと思ってはいたのですが、17日の最終回のタイトルは「神の君へ」、寺島さんは三代将軍家光の乳母春日局役で出演、幼い家光に祖父家康の生涯を語り聞かせるという場面があるとか。そこでは家康のことを「神の君」とたたえるのでしょうから、ナレーションと一致する、ということのようです。

    それはさておき、そもそも家康を神様として崇めるようになったことについてです。江戸時代、幕府が諸大名さらには農民らを統治するうえで、幕府の創始者・家康を神としてたたえ崇める、ということなわけですが、どういう経緯でそうなったのか。
    少し前の発刊ですが、こんな本があります。

    『神君家康の誕生 東照宮と権現様』(曽根原理、吉川弘文館・歴史文化ライブラリー、2008年)

    日本での「神」と聞くとまず「日本書紀」や「古事記」などに出てくる神を思い浮かべます。

    「神々の優れた働きを認めた日本人であったが、実在の人間を神とみなしたのは、さほど古いことではない」
    「古代から中世にかけては、物語の主人公(最後は神になる浦島太郎など)や、世に恨みを残して死んだ怨霊(菅原道真など)、そして天皇を生きた神とみなす観念を除けば、人間が神になるという概念は皆無に等しかった」

    「日本人の神に対する意識が大きく転換したのは、中世末期から近世初期にかけての時期である。豊臣秀吉を祀った豊国大明神、徳川家康を祀った東照大権現が出現し、その後、各地の藩祖から、特別な活動をした庶民にまで神格化が広がった」

    「神君家康」の登場は、日本の文化史、宗教史の中でも注意を払われる出来事ということになります。

    前述の『新説 徳川家康』(野村玄、光文社新書、2023年)では家康が秀吉の遺言にかなりこだわったことが強調されていると紹介しましたが、この『神君家康の誕生』でも、神になるにあたって家康は秀吉をかなり意識していた、ということが述べられています。

    秀吉の神号、つまり神様としての名前は「豊国大明神」とされました。しかし豊臣家は大阪の陣で滅亡してしまいます。

    「現代の目では、権力者一族の滅亡でしかない。しかし同時代の人々の目には、<秀吉神>の敗北と受け取られたはずである」
    「秀吉の試みは、家康に大きな教訓を残した。強力な守護神となれず、孤立して滅びていく神の姿を、家康は間近に見た。徳川の神は、では、どうすれば子孫を守りきれるだろうか」

    神になることによって、その「力」で子孫が反映することが目的なのに、秀吉神はそれができなかった。ではどうすればいいのかと家康は悩んだはずだ、ということですね。

    「神の子孫とされた天皇は、神号や神階をコントロールする。秀吉神を「豊国大明神」と名付け、「正一位」を与えたのは朝廷であり天皇であった。だが、天皇家の神もその他の神々も、秀吉神を助けなかった。新たな神は、従来の神々を超えた力が必要であることを、家康は意識せざるを得なかっただろう」

    家康が遺言で、遺体の埋葬や葬式の場所などについて指示をしたことはよく知られていて、自らは「八州」(関東地方のことでしょう)の鎮守神になる、と話したとの史料もあるようです。ただ、どういう「神」か、ましてや神の名についてまでは指示していないようです。

    家康の死後、家康側近の僧侶らの間で、神の名として「権現」を使うか「明神」を使うかという論争が起きます。「明神」は秀吉神に使われたことから、「権現」派が「子孫が滅亡した豊国大明神の例を見よ」と言ったとの記録もあるようですが、曽根原さんは俗説にすぎない、秀忠が熟慮を経て決断した、徳川家が信仰する仏教との関係などから「権現」が選ばれたと推測しています。

    秀吉に「学んだ」家康が神号にまで考えが及んでいたのかどうか不明ですが、「<秀吉神>の敗北」ということが「俗説」であったとしても、結果的には、家康の、秀吉と同じようになったら困るという心配は避けられたということになるのかと。

    さて「大権現」にとどまらず「神君」とも呼ばれたことについてです。

    寛永五年(一六二八)の家康十三回忌についての記録に「皇考神君ノ十三周忌」とあり、寛文十年(一六七〇)完成の歴史書『本朝通鑑』でも見られ、五代将軍綱吉の時代に作成された書の中で、家康は「大神君」と記されている、などと紹介されています。

    さらに曽根原さんは
    「「神」はもちろん東照権現という神であり、一方「君」は通常天子を指す。家康を天皇と同格以上とみなしていたことが、呼称からもうかがえるのである」

    としています。
    「神君がナレーションとしてどうなのか」といった個人の感想とかの話ではなく、江戸時代の幕府と朝廷との関係、近世の「王権」について考えるうえでの手掛かりの一つでもあるという視点には、はっとさせられました。

  • 2023.12.12

    家康話も大団円 ②

    関ヶ原合戦を終えて徳川家康は征夷大将軍になったものの、すぐに息子の秀忠に将軍職を譲ります。徳川が着々と力をつけていくのを豊臣秀頼の大阪方は悔しい思いで見ているしかないのですが、一方で、大阪方にとっての「強み」は秀頼が日々成長していくこと、いわば「これから」の人、対して家康は老いていく一方、家康は豊臣と戦うことと同じように「老い」とも戦わなくてはならないわけです。

    将軍職は徳川家が継いでいく、徳川がこの国を治めるという姿勢を見せる一方で、気になるならば豊臣・大阪方をもっと早くに完全に潰すことが可能だったろうに、結果的に大阪の陣は約10年も後になった。幸い家康は長生きをしたからよかったものの、けっこう危うい選択ではなかったか。このあたりは、これまでにも研究者がいろいろと考えてきました。

    豊臣・大阪方もまだまだ力を持っており、正面からぶつかるのにはリスクが大きい、じわじわと力を削いでいけばいいと考えていたというあたりが最大公約数的な見方であり、この徳川・豊臣が並び立つ状態を「二重公儀体制」と呼ぶ研究もあり、共存する体制で構わないと考えた大名が多かった、とうの家康さえそれを許容していたといった見方すらあります。

    『新説 徳川家康 後半生の戦略と決断』(光文社新書、2023年)で著者の野村さんは秀吉死後の家康の行動を縛ったものとして秀吉の遺言を強調します。一般的には、家康は秀吉が死んだあと、その遺言を無視して行動を起こして天下人になったと理解されるのですが、野村さんはこう書きます。

    「家康は年寄衆(前田や毛利、上杉など)・奉行衆(石田三成など)との間での起請文を破ることがあったものの(約束を破ることはあったものの)、秀吉の遺言は忠実に守り、家康にとっての重要な政治的行動の時期は全て秀吉の遺言と照らし合わせて決定されていた。そのような姿勢が諸大名からの信望をつなぎとめ、また決定的な失敗を回避してきた要因であろう」

    では大阪の陣の時期=重要な政治的行動の時期に関する秀吉の遺言は、ということです。

    「生前の秀吉は家康に、秀頼が十五歳から二十歳になるまでの間、天下を治める器量があると見込んだならば、秀頼に天下を返してほしいと述べていた」

    つまり、秀吉の願いは、自分の死後は家康に天下を「預ける」が、いずれは豊臣家に天下を還してほしいということですね。秀頼がリーダーとしてふさわしいかどうかを見て判断してと言っているわけですが、秀吉の本音は言うまでもないでしょう。

    この「十五歳から二十歳になるまでの間」は、数え年・満年齢で計算すると慶長十二年(一六〇七)・慶長十三年(一六〇八)から慶長十七年(一六一二)・慶長十八年(一六一三)。大阪の陣は慶長十九年(一六一四)のことです。

    もちろん、この年限はたまたま偶然かもしれませんが、秀吉恩顧の大名がまだまだ残り力を持っていただけに、その秀吉の遺言を守る家康とい姿勢が重要だったという指摘はなかなか説得力があるとも思いますが、どうでしょう。

    そして迎える「大阪の陣」、追い詰められた秀頼は自害して豊臣家は滅びるわけですが、野村さんは「家康は秀頼の殺害までは考えていなかったようである」と指摘します。

    「家康にとっては秀忠の器量を示す場として大阪の両陣が何としても必要であり、秀頼の敗北が決定的となれば秀頼に対する秀忠の優位は動かず、天下人としての秀忠は安泰となるから、家康は秀頼の殺害までは要さないと判断していたものと思われる」

    秀忠は関ヶ原合戦に間に合わず、武将として戦いで成果をあげたことがない、将軍として諸大名を率いていくにはやはり強い武将という実績が必要と家康は考えた。その実績を残す最後のチャンスが大阪の陣、ということですね。野村さんが「秀吉の器量を示す」というのはこのことでしょう。大阪の陣で豊臣家を滅ぼせば、まずその後、大きな戦いは起きないことが予想されますから(つまり武将としのて強さを見せる機会がない)

    しかし結果は家康の望んだものとは違ったわけで、どうしてそうなったのか。むしろ強硬策を主張したのは息子、二代将軍の秀忠のほうで
    「やはり家康は最後まで秀吉の遺命を気にし、自らは手を下せなかったのではないかと思われてならない」
    従来「非情」とか「冷酷」とか思われがちだった家康だけに、この解釈はどうでしょうか。

    「本書は、いろいろな意味で、従来の徳川家康の評伝と相当異なる内容になっていると思う」
    と書く野村さん。

    家康が好きか嫌いか、「江戸時代」を日本の歴史のなかでどう位置付けるかはいったん置いておき、約二百六十年間もの「平和」な時代の基礎を築いた政治家・家康についての研究は十分に意味のあることは間違いないわけで、今後も新しい家康像が描かれていくのでしょう。

  • 2023.12.11

    家康話も大団円 ①

    今年しつこく取り上げてきたNHK大河ドラマ「どうする家康」も来る17日が最終回。このブログで少し書いた関ヶ原合戦以降、徳川家康が征夷大将軍になり、大阪の陣にいたるまで、つまりドラマの最終盤を迎えるにあたって新しい本はないかと考えていた時、タイトルの副題にひかれて読んでみました。いや、なかなかおもしろかったです。

    『新説 徳川家康 後半生の戦略と決断』(野村玄、光文社新書、2023年)

    そもそも後半生はどこから、ということになるわけですが、幕府を開いてそれを確固としたものにするという家康の仕事から逆算していくと、これはなかなか難しいですよね。やはり、豊臣秀吉の死あたりということでこの著作も始まります。そうなると時間軸としては結構長い(ページ数もなかなかの量です)。加えて、そこにも新しい見方が盛りだくさんで、ちょっとはぶくにはもったいない。ドラマが終わろうとしているのに家康が若返りますがご勘弁を。

    「一次史料」にもとづくことを強調していて、数多くの大名・武将間の書状(手紙)が紹介されます。

    例えば家康率いる軍勢の奥州・会津攻めです。会津にいる上杉景勝に京・大阪に出てくるよう求めたのに言うことを聞かない、ということで兵を進めます。この最中に石田三成がいわば留守となった関西で家康打倒を掲げて挙兵し、結果的に関ヶ原合戦につながることから、家康の会津攻めがどこまで本気だったのか、三成をその気にさせる陽動作戦ではなかったかといった見方もされました。小説だったら知謀家・家康といった設定で、こちらの方がドラマチックですよね。

    野村さんは意外な史実に注目します。家康の会津攻めは源頼朝の行動をなぞったのではないか、というのです。

    この家康の時代から400年以上前になります。平氏を破った後に頼朝はその勢いで奥州(東北地方)に大軍勢を送り込み、平泉の一大勢力藤原氏を滅ぼします。その後に征夷大将軍となり鎌倉幕府を開くということになります。

    家康が鎌倉幕府の公式記録といえる『吾妻鏡』を愛読し、政治を進めるうえで参考にしていたことはよく知られています。東国に勢力を持った源氏の長・頼朝が奥州合戦を経て征夷大将軍になったという流れに家康は自らを重ねた、同じように東国(江戸)を基盤とし、徳川も源氏、奥州会津に位置する上杉を抑えこんで征夷大将軍になる、幕府を開く、家康がこういうプランを思い描いていたというのです。

    どうでしょう、なかなか興味深い見方ではないでしょうか。この後、その会津攻めを取りやめて西に反転するために豊臣系大名を納得させる、あの「小山評定」などのあたりの家康や三成の動きについても考察しているのですが、もう小山評定でもないでの、少し急ぎます。

    関ヶ原合戦そのものについても、家康側(東軍)と三成側(西軍)の主力がぶつかったのはこれまでいわれてきている地名「関ヶ原」だが、西軍の大谷吉継が陣取ったのは少し西よりの史料にも出てくる地名で「山中」といわれる場所、大谷陣の南側松尾山にいた小早川秀秋が山を降りて9月15日の未明、大谷軍とぶつかった、「山中」は主力同士がぶつかった場所(いわゆる関ヶ原)からはかなりの距離があり、家康や三成の本陣からは見通せない場所だった。別の戦いがあった、と言ってもいい。
    その後大谷軍を破った小早川軍が「山中」から「関ヶ原」に移動して同日午前7時ごろから東軍方に合流、大阪方を押し崩す戦況だったとします。「戦いは二段階あった」、そして「関ヶ原・山中の戦いと呼ぶべきだ」と提唱するところは、まさに「新説」です。

    そうなると小早川秀秋が戦いの様子を見ていて結果的に東軍に加わったといった見立てはそもそもありえないことになります。

    「従来の軍記物などに基づいて描かれてきた戦闘の様相とはかなり異なった、徳川方による一気呵成の総掛かり戦であったことがうかがわれよう」

    もちろん他の研究者が賛同するのか反論するのかはわかりませんが、なかなか説得力がありました。とはいえ、ドラマ「どうする家康」での関ヶ原合戦より前にこの本が発刊されていたら(もちろん気づいて読んだらですが)、このブログの関ヶ原のくだりも内容が濃いものになったのにと恨み言も少々。

  • 2023.12.08

    「東京新大阪間の通勤を認める」とのニュース

    8日の東京新聞朝刊に「えっ」と目を引くニュースが載っていました。JR東海が、社員が通勤できる範囲を東海道新幹線(東京―新大阪)の全区間に拡大することを明らかにした、というのです。これによって東京―新大阪の通勤が可能になるそうです。仕組みまでは知りませんが、この区間での通勤にきちんと手当を出すということですね。

    記事ではその理由として、望まない単身赴任をなくすこと、があげられています。例えば東京で家族で暮らしていて、人事異動で関西圏で仕事をすることになった、家族を残しての単身赴任でなく、新幹線で東京の家から通っていい、ということになるのかと。

    東海道新幹線「のぞみ」の東京新大阪間の所要時間は約2時間30分、これは駅から駅の話で家と働く場所によって通勤時間はこれにプラスアルファがあるわけです。他社のことで余計なお世話ですが、どうでしょう、これだけではなかなかですよね。

    一方で記事には、通勤時に新幹線の車内で働くことも認める、ともあります。副業許可、まさか、ちょっとわかりにくいので他の新聞をチェックしました。

    日本経済新聞のウエブ版は
    「JR東海は社員が新幹線や特急を使った通勤中に仕事をした場合も、勤務時間として扱う制度を導入する方針を固めた。東京―新大阪間の新幹線通勤も認める」
    という書き方をしています。

    うん、こちらの方がJR東海のねらいがはっきりしていると思いました。

    つまり新幹線に乗っている時間を通勤時間とすると、通勤時間は決められた勤務時間には入らないので、働く人の拘束時間はさらに長くなるわけです。それでは、いくら通勤が認められても(通勤手当が支払われても)、なかなか利用はしにくいですよね。

    そうではなくて、新幹線に乗っている時間も勤務時間とする、ということ。車内でもオンラインなどを活用することでオフィスと同じように仕事ができる状況になっている、という判断なのでしょう。実際、東海道新幹線車内はWi-Fi環境が整えられつつあります。やはり報道は複数チェックすることが大事です。

    ちなみに記事では、現状で通勤が認められているのは東京―豊橋、新大阪―浜松などだそうです。前に書きましたが30年ほど前、新聞社で働いていた時にJR東海の方とよく会っていました。東海道新幹線の三島駅のすぐ近くに会社の寮があってそこから新幹線通勤していると聞いて驚いたことを覚えています。

    ただ、そのころでも三島東京間は「こだま」で1時間くらい、寮(自宅)も駅そば、仕事場も駅そばなら、通勤時間は都内で働く多くの会社員とさほど変わらない、むしろ短いかもと、妙に納得してしまいました。もちろん通勤手当が出るという前提ですよ。

    それが、東京でいえば豊橋まで伸びていたわけですね、そして新大阪まで、もちろん「のぞみ」もスピードアップしているという変化はあるにしても、です。

    そういえば、ネットで検索した記事の中には、今回のJR東海の判断はリニア新幹線開業を見据えてみたいに書かれたものもあり、またまたびっくり。確かにリニアができれば東京名古屋間が40分くらい、名古屋も首都圏の通勤圏というのがうたい文句ではありますが、かなり気が早い。

  • 2023.12.07

    祝 第一位 『可燃物』

    週刊文春年末恒例の「ミステリーベスト10」が最新号(12月14日号)で発表されていました。今年で47回目という「伝統」のベストテン、国内部門第1位は米澤穂信さんの『可燃物』だそうです。

    10月24日のこのブログ「忘れていました はまる警察・推理小説作家 ②」で紹介しました。「今年のミステリ小説の中でかなりの評価を得るであろう作品です」と、えっへん(自慢するような話でもないですが)

    ちなみに米澤さんのベスト1獲得は『満願』(2014年)、『王とサーカス』(2015年)、『黒牢城』(2021年)に続いて4回目だそう。

    『可燃物』は文藝春秋社からの発行ですが、このベスト10はミステリー作家や評論家、書店員さんらのアンケートによるものなので、「身内びいき」ではありません。

    以前はこのベスト10を毎年参考にして、未読作品をあわてて読んだものですが、最近はミステリー小説を読むことも少なくなってきて、今年のベスト10のうち国内部門で読んだのはこの『可燃物』だけでした。海外部門においてはゼロ、というかジャンルとして今年はほとんど読んでいないので。

    ということで、ランクインした作品を「遅まきながら手を出してみるか」とは思うのですが、またまた「積ん読」が増えるだけなような予感もして。

  • 2023.12.06

    脳はまちがえていい⑤ 毎日出版文化賞の過去受賞作の2

    「毎日出版文化賞」の過去の受賞者・受賞作品、さらにさかのぼります。

    2020年受賞  『追いついた近代 消えた近代――戦後日本の自己像と教育』(苅谷剛彦、岩波書店)

    戦後日本の教育政策の変遷をたどります。社会階層と教育との関係についての先駆的な研究で知られる苅谷さん、『学校って何だろう』(講談社、ちくま文庫)は中学生、高校生にはぜひ。

    2020年受賞 
    『ものがたり西洋音楽史』(近藤譲、岩波ジュニア新書)
    『ものがたり日本音楽史』(徳丸吉彦、岩波ジュニア新書)

    西洋と日本とセットで、ということですね。「岩波ジュニア新書」の、難しいことをわかりやすく説明する、それでいて手を抜かないというところは、いつも感心させられます。この受賞作品に限らず、ついつい購入してしまいます。

    2017年受賞 『ゲンロン0 観光客の哲学』(東浩紀、株式会社ゲンロン)

    難解な本だったという印象、改めてページをめくり直しても、なかなかすぐには頭に入ってきません。

    「人間が豊かに生きていくためには、特定の共同体にのみ属する「村人」でもなく、どの共同体にも属さない「旅人」でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる「観光客」的なありかたが大切だ」

    かねてからこのように主張してきた東さんが「観光」について論を進めます。確認すると、こんなところにアンダーラインがひいてありました。

    「二一世紀の新たな抵抗は、帝国と国民国家との隙間から生まれる。それは、帝国を外部から批判するのではもなく、また内部から脱構築するのでもなく、いわば誤配を演じなおすことを企てる。出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した技をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる」

    「ぼくたちは観光でさまざまな事物に出会う。なかには本国ではけっして出会わないはずの事物もある」
    と書いてもいます。予期しない出会い、コミュニケーションが社会を世界を変えていく力になる、と読んだのですがどうでしょう。

    2012年受賞 『河原ノ者・非人・秀吉』(服部英雄、山川出版社)

    出自がはっきりとしない豊臣秀吉について、かなり大胆な説を提示し、ある種センセーショナルに受け止められた著作です。この著作も受賞発表前に読んでいるので、「受賞を機に手にとった」という趣旨には適合しないのですが。

    「本書は主として中世史の観点から差別の歴史を叙述する」とあり、筆者が発表した論文を再構成するなどしてまとめられています。そして
    「天下人秀吉を賤の視点からとらえ直す。少年期の賤の境遇を脱して、貴の頂点に達した男、関白秀吉を考え直す」

    とします。「はじめに」から引用します。

    「秀吉(藤吉郎)の実父はわからない。父とされる木下弥右衛門は架空の人物で、秀吉はいわば父のない子である。義父筑阿弥と折り合いが悪く、放浪していた。路上の少年(ストリートチルドレン)として生きるしか、すべてのない秀吉幼少時の環境を、フロイス『日本史』や同時代人の記述によりつつ考える。彼は非人村(乞食村)に入るほかはなかった」

    この後、この視点を追いかける研究、あるいは反論があったのかどうか、ただの歴史本好きの範囲では確認しきれないのですが、秀吉や戦国時代をとりあげた一般向けの本でも、服部さんのこの著作がしばしば引用されているのは目にします。

  • 2023.12.05

    脳はまちがえていい④ 毎日出版文化賞の過去受賞作の1

    「毎日出版文化賞」の2023年度受賞者・受賞作品のひとつ「まちがえる脳」について書いてきましたが、過去の受賞者・受賞作品でこれまでに読んだ何冊かを。

    2022年受賞 『大久保利通 「知」を結ぶ指導者』(瀧井一博、新潮選書)

    大久保利通は学生時代の専攻からして避けて通れない政治家でり、その後も評伝などいろいろ読んではきましたが、大久保研究の近年の一つの到達点とも言われた著作です。読んだのは22年8月の書き込みがあり、受賞が決まる前かと。今回、改めてページをめくってみました。

    薩摩藩士時代から倒幕を経て岩倉使節団の一員として欧米を回り、帰国後のいわゆる「明治6年政変」、台湾出兵、西南戦争と大久保の生涯を丹念に追う力作です。では、瀧井さんのどのような切り口で大久保をとらえなおしたのか。

    まず大久保が従来、研究者らによってどのように描かれてきたのかをおさえます。

    「多くの政敵を追い落としながら、彼は明治政府の実権を掌握し、大久保政権と呼ばれる有司専制の体制を築いた。絶大な権力をほしいままにして彼が追求したのが、富国強兵と殖産興業の明治国家の二大政策であり、今日ふうに言うならば、大久保は権威主義体制下で開発独裁を推進した国家指導者の典型となろう」

    その大久保像への異なった見方が近年出てきているとし

    「政治家としての大久保利通の評価はいま大きな見直しを迫られている。(略)本書において新しい大久保像をデッサンしてみたい。(略)当時の様々な政治的勢力や政策的意見を媒介し結び合わせ、国家としてのひとつの大きな政治的潮流と制度的まとまりを造形したのが大久保だったのではないか、とのイメージである」

    「本書で論じられる大久保とは、普段は人々の後衛に立ってそのまとまりに腐心し、何か事があった場合には前面に出て皆を導こうとしたそのような政治的リーダーである」

    そして副題にある「知」を結ぶ指導者、との意味合いについては

    「大久保を「知の政治家」とここで称しようとするのは、彼が知ないし知識の機能というものをまさに弁えていたと目されるからである。知の機能とは何か。本書はそれを、地縁や血縁といった直接的な人間関係とは異なる、人と人との新しいつながりを生み出すものと捉えたい。大久保は知を通じてのネットワークの形成に並々ならぬ関心を寄せ、そのようなネットワークから編み出された、知識の交換と交流を成り立たせるためのフォーラムを作ることに腐心していたというのが、筆者の見立てである。大久保にとって国家とは、そのようなネットワークであり、ファーラムだった」

    このあたり引用していて、現代の政治家にもっとも求められている資質ではないか、と思いました。おそらく瀧井さんもそう考えたのだろうし、そこを感じ取った方々がこの著作の今日的意味を高く評価したのでしょう。

  • 2023.12.04

    脳はまちがえていい ③

    「毎日出版文化賞」の受賞者・受賞作品『まちがえる脳』(櫻井芳雄、岩波新書)発表にあたって審査員で情報学者の西垣通さんが以下のような評を寄せています。

    「かぎりなく複雑で、未知の謎に満ちている脳。――安易な断定を避け、その謎の解明に向けて一歩ずつ地道な実験研究を積み重ねていく、著者の研究者魂に脱帽したい」

    櫻井さんの本を読んで脳にはまだまだ謎、未知が数多く残されているということは、いやというほどわかりました。それに挑む研究者はすごいと思います。一方で、そんな簡単に解明できるのだろうかと絶望的になるような難問でもあるようにすら感じました。でも、です。

    ノーベル賞について以前少し書きましたが、免疫の研究で生理学・医学賞を受賞した利根川進さんはその後、脳の研究にシフトしていきます。利根川さん自身がその理由についてどう語っているのか、著書をめくってはみました。

    『私の脳科学講義』(利根川進、岩波新書、2001年)

    ノーベル賞を受賞(1987年)したすぐ後の著作です。取り組んでいた脳研究について説明していますが、「生物学の中で遅れをとってきた脳研究」として、ノーベル賞につながった分子生物学にもとづく研究と比較しています。

    「精神機能に関する生物学は、ひじょうに遅れをとっています。二一世紀においては、この精神の生物学、つまり脳の研究が大発展を遂げるであろうと、私たちは考えています」

    利根川さんが受賞時在籍していた米国マサチューセッツ工科大学(MIT)の利根川研究室の若い研究生(名前は失念してしまいました)に、京都で開かれた学会の場で話を聞いたことがあります。受賞の数年後でした。

    やはり脳の研究をしているとのことで、「どうして脳なんですか」とストレートに質問しました。その答え「だって、わからないことばかりだから。楽しいじゃないですか」と。その率直で迷いのない返事が何ともまぶしかったことをよく覚えています。

    利根川さんは『私の脳科学講義』でこんなふうにも書いています。

    「いまのところは、有能な若い科学者や学生がわたしのところへ応募してくるんですよ」

    「わたしは、一九九〇年、五〇歳くらいのときに、脳科学の研究を始めたわけです。でもわたしなりのストラテジー(戦術)、新しい攻め方に気がつかなければやっても意味がない。わたしの研究室が投じた新しい攻め方に価値があって、脳科学における中心的問題を新しい角度から研究していく道が開けた。その攻め方が役にたつから、優秀な若い研究者が応募してくるのだと思います」

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