2023.11.18
NHK大河ドラマ「どうする家康」の12日放送第43話、タイトルはまさに「関ヶ原の戦い」、合戦シーンはそれなりにありましたが、比較的淡々と描き、むしろ敗れてのちに捕まった石田三成と家康が対面する場面がクライマックスのようだったこと、西軍の総大将なのに大阪城を出なかった毛利輝元に対して、秀頼生母の淀殿が敗戦をなじって叩いてしまったのにも、驚きました。(合戦後の幕府誕生が明日19日の放送のようなので急ぎます)
さて「関ヶ原の戦い ①」で紹介して論点のうち「合戦は早期に終結したのか、問い鉄砲はなかったのか」に注目して12日の放送を見ました。合戦にどのくらいの時間がかかったのか(戦いは何時ごろに終わったのか)は放送でははっきりとしませんでしたが、家康は合戦の当初は後方にいて戦いの推移をみて中央部に進み出たという、あまり意見の相違のないとことはきちんと描かれていました。いすれにしても、この合戦の時間、問い鉄砲についての論点は、小早川秀秋がどう動いたかがカギとなります。
秀秋は結局は徳川方、東軍として戦い、勝敗の行方を大きく左右したとされてきました。ただ、いつ東軍に協力することを決めたのか、少し離れた山の上に陣を敷き、東軍西軍どちらが有利かを見極めたうえでどちらにつくかを決めた「日和見」、優柔不断な武将、秀吉の親族なので西軍につくのが当然ながら東軍についたのだから裏切りとか、散々に言われてきました。
白峰旬さんは『関ヶ原合戦の真実』で「小早川秀秋が裏切ったのは開戦と同時だった―――当日午前中は傍観していたというのは間違い」と断言します。
「通説では当日の正午頃まで秀秋は去就をあきらかにしておらず、石田三成方を裏切って大谷吉継隊を攻撃したのは正午頃としているが、これは同時代の一次史料では全く確認できず、一次史料による根拠がある話ではない。よって、この点については、軍記物などによって後世につくられたフィクションであると考えられる」
として、開戦と同時に小早川秀秋などが裏切ったために敵(西軍)は敗軍になったと書かれている書状を紹介しています。
さて「問い鉄砲」です。関ヶ原合戦を伝えるなかで「小山評定」と並んでドラマチックなエピソードとして伝えられてきました。東西両軍の衝突が膠着状態になり、東軍に味方すると事前に約束していた小早川軍がいっこうに動かない、これにいら立った家康が小早川軍に向けて鉄砲を撃たせた。これにあわてふためいて動転した小早川軍が山を降り、東軍として戦いに加わったというストーリーです。
これだけ聞くと、小早川秀秋はトホホの人、なんとも情けない人のようにとらえられてしまい、かなり気の毒ですよね。いずれにしても「問い鉄砲」は、秀秋はしばらく様子見をしてから東軍に加わることを決めた、あるいは東軍に味方すると約束しながらなかなか実行できなかった人、という見方が前提になっているエピソードです。
ドラマ「どうする家康」では小早川陣営に向かって鉄砲と撃つという「問い鉄砲」はありませんでした。家康本人・本陣が後方から戦いの中心部に進み出てきたのを知った小早川秀秋が自らの決断で西軍の大谷軍を攻める指示を出したように描かれていました。「どうする家康」での小早川秀秋は結構凛々しい若者として描かれていたので、決断できないトホホの人では整合性がとれないということだったのかもしれません。
「問い鉄砲」についても白峰さんは明確です。開戦と同時に東軍として戦ったのだから問い鉄砲はありえないという話ではあるのですが、やはり一次史料について言及します。
「この「問鉄砲」(表記のままです)の話は、関ヶ原合戦当日の状況を伝える同時代の一次史料には記載がなく、後世の編纂史料にしか記載が見られないという点のほか、「問鉄砲」の話の内容自体にいろいろなバリエーションがあり、話の内容が一定していない」
「江戸時代前期に成立した編纂史料には「問鉄砲」に関する記載がなく、江戸時代中期~幕末にかけて成立した編纂史料に「問鉄砲」に関する記載が見られることがわかる。このことは「問鉄砲」の話が江戸時代中期に創作されたものであることを強く示唆している」
渡邊大門さんは『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』で以下のように「判定」しています。
「(問鉄砲については)一次史料には、明確な記述はない。しかしこのエピソードは脈々と受け継がれ、今や関ヶ原合戦に関する小説、テレビドラマなどではすっかりおなじみのシーンとされる一つである」
「ところが近年になって、白峰旬氏が「問鉄砲はなかった」ことを証明し、学界にも広く受け入れられつつある(白峰:二〇一四)」
2023.11.17
笠谷和比古さんが『論争 関ヶ原合戦』(新潮選書、2022年)で「小山評定」を描かなかった例としてあげた映画『関ヶ原』は2017年制作公開。司馬遼太郎原作『関ヶ原』の映画化作品です。司馬の原作をチェックしました。
確認した文庫本は1980年発行の15刷、作品そのものは1964年~66年に週刊誌で連載されています。「小山評定」のくだりは文庫本中巻、ちょうど真ん中あたりに出てきます。
「すべては、あすである。あす、豊臣家の諸大名がことごとく参集したうえで西上の意見を盛り上げるべきであった。それには、工作が要る。」
「家康は、あす、この小山でひらかれる諸侯会議こそ徳川家盛衰のわかれみちであるとみていた」
そして家康は近臣を呼び、会議で自らがまず発言するが、その後に最初に声をあげる役目が大事だと説き、福島正則の名前をあげます。そして黒田長政が福島正則を口説くことになり、黒田が福島を説得するやりとりや当日の「評定」の様子を細かく描いています。
文庫本でも3巻になるほどの大作ですから、原作をすべて映像化できるわけではありません。映画のシナリオつくりの段階で、この「小山評定」をめぐる論争をどの程度考慮したかはわかりません。劇場でこの映画見ているのですが、恥ずかしながらこの「小山評定」が描かれていたかどうかは覚えていません。
ちなみにこの映画での石田三成役は岡田准一さん、NHKの「どうする家康」では織田信長役でしたね。
この後の関ヶ原の地での「決戦」に比べると、小山でのできごとにさほどこだわる必要はないのではとの指摘も受けそうですが、関ヶ原合戦の全体像をつかむうえで、小山でのできごとは結構重要な位置づけだと思います。
関ヶ原合戦というと徳川勢と豊臣勢が正面からぶつかり、どちらが天下をとるかという意味合いで「天下分け目の合戦」などと呼ばれてきたわけです。しかし、大河ドラマもきちんとおさえていましたが、徳川勢といってもかなりの部分がいわゆる「豊臣恩顧」の大名諸将です。豊臣秀吉に育てられ秀吉のために戦ってきた武将たち、そんな武将たちが、「豊臣」相手で戦うでしょうか、秀吉はもういないにしても子の秀頼がいるわけです。
家康としては相手は豊臣でなく、毛利であり、石田でなければならない、秀頼が戦場に出てきてもらったら困る、そういう悩みを抱えながら、上杉攻めをやめて西に向かおうとする、そのターニングポイントが小山なわけです。ここで失敗したら、徳川もけっこう危ない。だからこそ、この小山をうまく乗り切った、「さすが家康」ということで、後の世にドラマチックな「物語」がつくられたのでしょう。
このあたりについて笠谷さんは『論争 関ヶ原合戦』で以下のように書いています。
「従来の関ヶ原論は、それを豊臣政権から徳川政権への転換をもたらした事件として捉え、同合戦における東軍の勝利を以て家康の覇権の確立と、その後二六〇年余にわたる徳川政権の盤石の基を築いた画期として理解してきた」
「これに対して筆者(笠谷)は(略)同合戦において最も多くの果実を得たのは徳川勢ではなく、家康に同盟して東軍として戦った豊臣系武将たちであった事実を踏まえて、同合戦はむしろ豊臣政権の内部分裂の所産であり、それに家康の天下取りの野望が複合したものとして位置づけるべきものであるとした」
また、『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』(PHP新書、2019年)で渡邊大門さんは今後の関ヶ原合戦の研究の方向性に言及しています。
「関ヶ原合戦については、当日の戦いの重要性もさることながら、今後は豊臣政権の問題として捉え、政治過程および諸大名の動向を精緻に探ることが、問題の本質に迫るカギになると思われる」
2023.11.16
「関ヶ原合戦」前夜の名場面として描かれてきた「小山評定」はなかったとする白峰旬さん。『新解釈 関ヶ原合戦の真実』(宮帯出版社、2014年))では以下のように書いています。
「小山評定は非常に有名な場面であり、これまで関ヶ原合戦の歴史ドラマでは一番の見せ場としてくりかえし放映されてきた。(略)ところが、江戸時代の軍記物など後世の編纂資料で、小山評定がまるで見てきたかのように雄弁に記述されているのに対して、同時代の一次史料では、小山評定について直接言及したものは皆無なのである
ここでいう一次史料は書状(手紙)と考えていいでしょう。そして、これまでの通説で取り上げられている書状は評定があったことに直接触れているわけではなく、その前後の動きを記しているだけなので
「小山評定の実存性を明確に立証する一次史料が発見されていない現段階では、いわゆる小山評定は江戸時代の軍記物やその他の編纂資料が作り出した想像の産物」
とバッサリです。
これに対して近年の関ヶ原合戦研究の第一人者と言っていいでしょう、笠谷和比古さんの見方はどうなのか。「小山評定はあったのか①」で紹介した雑誌でも笠谷さんは小山評定について書いているのですが、ここではご自身の著作から。
学術文庫版は2015年発刊の第6刷を2016年に読んでいる私自身の記録があり、もちろん小山評定についても書かれているのですが、より近著から引きます。
「論争」とあるように、笠谷さんの説への反論をとりあげ、自身で再反論している内容になっているので、こちらの方が「小山評定はなかった」説と比べた時に整理ができているように思います。
小山の評定については、近年、その存在を疑う議論が広く行われたために、関ヶ原関係の歴史叙述においても、また歴史ドラマ(先年制作された東宝映画『関ヶ原』など)においても小山の評定の描写を避ける傾向が見られるが、これは重大な誤りであり、小山の評定は紛れもなく実在の事件である。その根拠は以下の通り。
として3通の書状(手紙)を紹介しています。この書状のうち1通は白峰さんが触れていない書状で、この書状が論文で発表された時期は白峰本の発刊時と微妙なタイミングなので、白峰さんがいうところの「新たな一次史料」にあたるのかどうかはわかりません。ただ、その書状の内容は小山で何らかの相談があったことを示しているだけで、評定という言葉はもちろん使われていませんし、ましてや福島正則の発言は確かめようもありません。
笠谷さんは
浅野幸長ら武将たちが小山に参集して家康と共に作戦会議を催していたこと、会津攻めを暫時停止して、三成方西軍との対決を優先して、駿河国から西に領地を有する豊臣系武将たちが反転西上していったことなどが事実であったことが確認される
と「小山評定」という言葉は使わず、何らかの集まりはあったのだろうとしています。
このお二人の見方の違いについては山本博文さんが以下のようにまとめています。
「小山評定」については真偽が疑われている(白峰旬『関ヶ原合戦の真実』)。しかし、会津攻めは豊臣「公儀」の軍事行動であるから合議の必要はないが、家康が三成の挙兵に対して新しい方針を出す場合、諸部署の了解を取り付ける必要があったから、こうした会議が開かれた蓋然性は高い(笠谷和比古『徳川家康』)
お二人を含めて関ヶ原合戦についての研究史はこちらがわかりやすいかと。
「(戦後になって)本格的に関ヶ原合戦を研究として取り上げたのは、笠谷和比古氏である。(略)これまでは合戦のにみ目が向けられがちだったが、笠谷氏の研究により関ヶ原合戦が政治的な問題として分析されるようになった」
「さらに、白峰旬氏の『新「関ヶ原合戦」論 定説を覆す史上最大の戦いの真実』(二〇一一)、「『関ケ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』(二〇一四)が刊行され、これまでの二次史料に基づいた誤りが正されるようになった。白峰氏は現在も、関ケ原に関する学術論文を次々と公表している」
どちらをとるのか、なかなか悩ましいところではありますね。ただ、私自身は白峰さんの本を読んだ時に結構驚き、感心したこともあったので、大河ドラマを見ていて「へーっ、描くんだ、思い切ったな」という感想は持ちました。その点NHKは、笠谷さんのいうところの、「最近の歴史ドラマは小山の描写を避ける傾向」に従わなかったわけですね。
2023.11.15
NHKの大河ドラマ「どうする家康」をまたとりあげます。「しつこい」と叱られそうですが、いよいよ終盤というか、ようやくというか「関ヶ原合戦」、5日は「天下分け目」、12日は「関ヶ原の戦い」のタイトルで、戦い前夜から戦い当日、戦後処理までを描きました。ドラマのクライマックスとも言える「関ケ原」、合戦そのものの勝敗ははっきりとしていて、また、これによって家康が天下人となったと説明されるのでよく知られているわけですが、近年、新説も出てきて、なかなかにぎやかです。
「石田襲撃事件」
「直江状は偽書なのか」
「小山の評定はなかったのか」
「関ケ原が決戦場となった理由は? 本当の決戦地は」
「合戦は早期に終結したのか、問い鉄砲はなかったのか」
このうち、朝鮮半島から戻ってきた大名武将たちが石田三成を恨み、京都・伏見の三成屋敷を襲撃したものの、家康の取りなしで戦いにならないですんだ「石田襲撃事件」、上杉景勝の腹心、直江兼続が家康に送った書状(手紙)いわゆる「直江状」については大河ドラマで描かれていましたが、このあたりこだわっているとなかなか先に進みません。
「小山の評定」は5日放送のハイライトでした。会津(福島県)の上杉を討つために徳川勢が下野(しもつけ、今の栃木県)まで進んだところで、石田三成が近畿地方で挙兵したとの報告が届き、「さあどうする」。家康に従ってきた大名諸将の多くが豊臣家に恩顧のある(秀吉に見いだされ取り立てられて出世した)武将たちだったので、家康は「自分に従わず、ここから離れて(三成側について)も構わない」と太っ腹なところを見せるわけです。
その大名諸将を集めたとされる場所が下野・小山の地、「評定」は一般的には戦略などを議論することで、このまま会津・上杉に向かうか軍勢を返して西に向かい三成と戦うかを決める場、ということで「評定」と言われてきました。
小説では、事前に豊臣恩顧の有力大名、福島正則を引き込んで真っ先に声をあげるよう根回しをしておいた、その通りに福島正則が「家康に味方する」と声をあげ、賛同意見が相次ぎ、流れができてしまう、といったパターンが多いようです。
これは小説、ドラマに限らず、関ケ原に関する本でも同じような傾向にあります。例えば
「家康は、二十五日に従軍してきた諸将を集めて、下野小山城(栃木県小山市)で急きょ評定を開き、諸将の旗印を鮮明にさせる作戦に出た」
「家康の巧妙さは、正則を説得する役を同じ豊臣系大名である黒田長政に依頼したことである」
「小山評定は案の定、最初は誰も重い口を開こうとはしなかった。やがて福島正則が立って、「秀頼様のためには、三成を討つことこそ肝要である。そのために今回は是非家康公にお味方したい」と言った」
このくだりについて、どのような史料によるのかの記述はありません。
もう一冊。
「家康の着陣とともに、宇都宮に在陣していた秀忠はじめ諸将も小山にきて、軍評定が開かれた。これが有名な小山評定である」
「小山評定が開かれた日にちについては、二十四日と二十五日の二説がある。(略)最近では二十五日説が採られているようだ(『新訂 徳川家康文書の研究』中巻ほか)
大河ドラマではまず家康が力強く語って諸大名が感銘を受けたかのように描かれていました。そして福島正則が力強く発言していました。
これに対して「そもそも小山評定はなかった」という新説が出されました。
白峰さんの指摘は多岐に渡るのですが、小山評定については
小山評定の内容は非常に感動的なストーリーであり、関ケ原合戦に至る経過の中で最もよく知られた名場面として知られている。関ケ原合戦の歴史ドラマでは、静まり返った評定の場で、福島正則が家康に味方することを大見えをきって真っ先に発言するくだりでは、視聴者の感動を呼び起こす一つのクライマックスといってもよいだろう
と紹介してうえで、「歴史的事実ではない、江戸時代に誕生した「小山評定」」と明快に否定しています。
(白峰説の詳しい紹介は次回)
*「関ケ原」の表記ですが、「ケ」が大きい字だったり、小さい「ヶ」だったり、けっこうまちまちです。関ケ原古戦場記念館は大きい「ケ」で表記されています。書名はそのままとします。
2023.11.13
歌手の大橋純子さんの訃報がテレビニュースでも伝えられ、12日朝刊各紙に掲載されていました。毎日新聞1面のコラム「余録」でも取り上げていました。どうしても硬いテーマとなりがちな余禄なので、珍しい。
大橋さんが北海道夕張市の出身ということは初めて知りました。「余録」によると
「沈む故郷を元気づけようと大橋さんは2007年3月、北海道出身の歌手有志と市内で開いた無料コンサートに参加した。売り上げを同市への寄付にあてようと、カバーアルバムも発売した」
とあります。
そうだったんだ、ということでそのカバーアルバム、実家のCDの山の中からうまく見つけ出すことができました。「Terra」というタイトル、ラテン語で大地、陸地、地球といった意味。通勤途中の車の中で聴きなおしました。
大橋さんのボーカルをいかそうということでしょう、アレンジはジャズ、ボサノバといった色合いながらも、アコスティックギター中心の抑えめの伴奏をバックに、大橋さんの伸びやかな声が素晴らしい。
先年、夕張市を訪れました。「余録」にもありますが、炭鉱の町夕張はすべての鉱山が閉山し、その後の「町おこし」としてリゾート開発に力を入れますがうまくいきません。戦後の産業構造の変化、過疎化、リゾート開発の破綻など、近年の社会が抱える諸問題が凝縮しているかのような地域です。そんな夕張の町を思い出しながら耳を傾けました。
カバーアルバムということで、他のアーチストの曲を歌っているわけです。「時代」「地上の星」は中島ゆみき、「季節の中で」「大空と大地の中で」は松山千春、「ワインレッドの心」「恋の予感」が玉置浩二と続き、あれあれ、なんか北海道出身の人ばかりだよと気づきました。あわててCDのパッケージを見直すと、大橋さんからのメッセージが書かれています。
「生まれ育った大地とそこに暮らす人々の悲しみの声が聞こえます。私が歌うことで、少しでもその声がやすらかで元気になりますように、そして笑顔が戻りますように、祈りを込めて。
そしてドリカムの「未来予想図Ⅱ」「LOVE LOVE LOVE」、ボーカルの吉田美和さんは調べると北海道池田町出身、もう間違いない。「プリズム」はYUKIさんの曲で函館市出身、そして「HOWEVER」、GLAYのヒット曲、そうメンバーは函館市出身です。
記事の「無料コンサート」云々では、そこまで読み取れなかった。おそるおそるこのCD発売時の紹介をウエブで検索したら、「大橋純子が同じ北海道出身のアーティストや歌手が残した名曲をカバー」とありました。脱力です、ファンなら知っててあたりまえの話なんですね。何回も聴いているCDですが、これまで気づかなかったことに気づいた、ということで良しとします。
ちなみにこの「Terra」、シリーズとして「Terra2」「Terra3」も出ているようです。
ただ、大橋さんだけでなく松山千春さんや玉置浩二さん、ドリカムの吉田美和さんの歌声には、松山さんが歌うところの「果てしない大空と広い大地」が感じられます。そう「Terra」、大地です。北海道の修学旅行で生徒たちが大地の声を感じ取れたら素敵だなと願っています。
2023.11.12
新幹線の本の話から線路のゲージの話に広がってしまい、さらに、脱酸素社会を目指す世界的な潮流の中でも鉄道復権についても少し触れましたが、鉄道の役割の見直しについては、実は日本国内でも少しずつ声があがってきています。ここで日本の新幹線の話に戻ります。
トラック運転手の労働時間規制で物流が滞るおそれのある「2024年問題」の対策として、「物流革新緊急パッケージ」をとりまとめた。具体策は今月中に策定する新たな経済対策に盛り込む方針だ。
輸送方法をトラックから船や鉄道に切り替える「モーダルシフト」では、鉄道と10トントラックが共同で使える大型のコンテナの普及を進め、切り替えしやすい環境を整える。港や鉄道貨物の積み替え拠点などの施設の整備にも補助する。
この「モーダルシフト」という考え方はかなり前から言われてきました。「鉄ちゃん」として期待もしましたが、残念ながらあまり真剣に検討されたことはなかったように思われます。ヨーロッパのように環境問題が「鉄道復権」を後押しするような潮流もあったのに、日本では採算のとれない鉄道地方路線の廃線、あるいは廃線の検討ばかりが進んでいます。そして何より、鉄道での貨物輸送が圧倒的に減ってしまいました。
筆者の石井さんは日本国有鉄道(国鉄)でディーゼル車両の設計などにあたった後、常務理事・首都圏本部長などを務め、1987年の国鉄からJRへの分割民営化にあたってJR九州社長となった方で、当初から条件が悪いといわれたJR九州の経営を軌道に乗せました。
国鉄の長い歴史、そしてJRへの移行についてはたくさんの著作があります。時の政権のさまざまな思惑、国内最大規模の労働組合の存在など複雑な要素が絡むだけに、どのような立場の人が書いたかが重要になってきます。その点で石井さんは経営側と言えばそうでしょうが、豊富なデータを提示しながら、丁寧に説明をしています。各種書評でも好意的に受け止められているようです。
その中で「鉄道貨物の栄枯盛衰」という1章を設けています。
「貨物輸送における昭和35年度の鉄道貨物の分担率は39.0%もあったものが、昭和55年度にはわずか8.5%に下落している。この落ち込みの原因は主として自動車との競争に完全に負けてしまったことにある」
「この貨物部門の膨大な赤字が、国鉄経営全体の経営悪化の大きな原因になっている」
このような数字をみると、モーダルシフトと言われても「もはや不可能」と冷ややかに受け止められそうであり、簡単な話ではないと思います。
石井さんは、日本鉄道の将来についていくつか提言しています 。その中で「新幹線物流」という提案をしています。端的に言ってしまうと、新幹線で貨物を運べばいいということです。
東海道新幹線はリニア新幹線建設計画からわかるように、すでに輸送量は限界にきています。東海道新幹線建設時から貨物列車を走らせるという考え方はあったようですが、高速移動、乗客を増やすことを最優先させたため、退けられたようです。
しかし、東海道新幹線以外を見ると、列車本数もそんなに多くはなく、そこを旅客輸送だけで使うのは、建設にかかって費用を考えても、もったいないのではないかというのが石井さんの指摘です。
もちろん現在の新幹線の車両は乗客を乗せる設計になっているので、貨物輸送には適しません。しかし、軽い小さい荷物、短時間での輸送が期待される食料品などを今のままの新幹線車両に積んで運ぶ「貨物輸送」は車両の改造などは必要ないので、すぐにもできそうです。
実際、JR東日本ではすでに、小口の荷物を新幹線で輸送する「はこビュン」サービスをすでに実施しています。石井さんはさらに発展させ、新幹線でのコンテナ輸送の可能性に言及し、著書ではそのイメージ図も載せています。
国をあげてのモーダルシフトという考え方が本格化すれば、新幹線での貨物輸送の後押しになるかもしれません。鉄道の「新しい未来」が拓けるのかもしれません。
2023.11.11
そもそも鉄道のゲージの選択についてはいろいろな要素があります。ゲージが広ければ大きい車体でも安定するので、旅客、貨物ともに大量輸送が可能でスピードも出せます。しかし、大きい車体に合わせてトンネルや鉄橋なども大きく作る必要がでてきて費用も人手もかかります。また、それぞれの国がどこの国の鉄道技術に学ぶかによって異なります。建設工事を「指導」する国の技術者らは、とうぜん自分の国の基準に合わせろ、ということになるからです。
北朝鮮とロシアのように国境で時々行き来するためにゲージの違いをどう解決するのかは、その時々の緊急性などで都度考えればいいわけですが、日常的に多くの人が行き来するとなるとゲージが異なれば結局乗り換えるしかありません。最終解決方法は、はい、山形新幹線、秋田新幹線の建設がその実例です。
東海道新幹線はゲージ1453ミリメートルで造られました。その後の東北新幹線も同様で、その東北新幹線から分かれる形で山形新幹線、秋田新幹線が計画されます。利便性を考えるとこの両新幹線は東北新幹線と接続しないと意味がないし、さらには同じ駅で接続するだけでは乗り換えの手間がかかるので乗客には歓迎されない、できれば、山形、秋田新幹線区間を走ってそのまま東北新幹線に乗り入れて東京方面まで向かえるのが理想ではあります。
しかし、東北新幹線の接続駅から東北新幹線と同じゲージ(つまり1453ミリ)で山形、秋田方面に新しい線路を引くとなると、そのための用地買収やら大変な費用とお金がかかり、開業時期がどんどん遠ざかってしまう。
そこですでにある路線=在来線を利用すればいいというアイデアが出てきます。東北新幹線とは別の東北本線(在来線)の福島駅からは奥羽本線が山形方面に伸びていました、同じく東北本線の盛岡駅は在来線の田沢湖線と奥羽本線で秋田と結ばれていました。この在来線を新幹線の路線にしてしまえば、用地買収はいらないわけです。ところが、在来線のゲージは狭軌の1067ミリ、東北新幹線の新幹線車両が乗り入れることはできません。では台車交換、まさかね。
結論は「改軌」、つまり在来線のゲージを新幹線のゲージに合わせることにしました。在来線の線路を付け替えました。1067ミリが1543ミリに広がったわけです。これで大きな問題はクリアできたのですが、では東北新幹線の車両がそのまま在来線の福島・山形間に入り込んでいいか、盛岡・秋田間に入り込んでいいかとなると、そうはいかない、トンネルや鉄橋などは在来線用のままのサイズ、東北新幹線の車両は通れません。ゲージを変えただけでは終わらないわけです。かといってトンネルや鉄橋も造り変えるとなると、これもやはりかなりの費用と時間がかかる。
ということで、福島・山形間、盛岡・秋田間を走れる新幹線車両を新たに造りました。東北新幹線の車両より小ぶりなので、山形新幹線、秋田新幹線を通称、ミニ新幹線などと呼ぶことになります。(福島・山形間、盛岡・秋田間を走れる新幹線車両はもちろん東北新幹線内を問題なく走れますが、ご存じのように、東北新幹線の列車と連結して走っています。福島駅、盛岡駅で切り離されてそれぞれの路線に入っていきます)
さらに付け加えると、ゲージが変わった福島・山形間や盛岡・秋田間は新幹線車両だけが走るわけではありません。新幹線が停まらない駅もたくさん残ったので各駅停車用の電車が必要です。見た目は首都圏などでみられるタイプの電車ですが台車が広いゲージ用になっています。つまりこの電車は同じJRでも別の区間は走れないわけです。
この「改軌」ですが、実はこの新幹線の時特有のことではなく、首都圏や関西圏の私鉄ですでに例があるのです。これ以上はマニアックなので、もうここらあたりで。
およそ100か国・地域で鉄道を取材してきたフォトジャーナリストの方と、新聞社の企画で読者親子との北海道鉄道の旅をご一緒したことがあります。かっこよくいえば引率責任者ですが、「鉄ちゃん」であることを知っている心優しい部下がすべてお膳立てして、心よく送り出してくれました。
鉄道資料が充実している小樽市総合博物館でのことだったと記憶しています。この方がリュックから取り出したのがメジャー(巻き尺)、そのメジャーを線路にあてて見せてくれました。外国に行けばいろいろなゲージの鉄道があり、それを確認するのが習慣になっているとか。「これ旅の常備品です」と。おそれいり、脱帽でした。
ゲージの話のしめくくりとして。
2023.11.10
『将軍様の鉄道 北朝鮮鉄道事情』(国分隼人、新潮社、2007年)には、近年の北朝鮮の鉄道事情が書かれているのですが、「戦前の蒸気機関車」云々とありました。北朝鮮の鉄道の多くは戦前に日本が建設したものです。日清戦争、日露戦争で朝鮮半島への影響力を強め1910年の韓国併合で朝鮮半島を統治下におきます。その過程で半島内に鉄道が建設されていきます。
資料編の「北朝鮮 鉄道略年表」からひきます。
「朝鮮半島の鉄道史は日本の鉄道史でもある。1906年の京義線の開通から1945年の終戦まで、朝鮮総督府鉄道局と南満州鉄道が朝鮮半島の鉄道経営を担った」
では半島の鉄道のゲージは? ここで先のロシアのシベリア鉄道とそれに対抗する日本・イギリスの鉄道建設の話が結びつきます。そう「標準軌」です。やはり資料で「路線一覧」が掲載されていますが、ごく一部の支線が狭軌なのをのぞいて、幹線はすべて標準軌1435ミリとなっています。
ですから、第二次大戦後、朝鮮半島では韓国と北朝鮮の二つの国家が独立してものの、鉄道は標準軌鉄道がそのまま残り、使われました。北朝鮮とソ連・ロシアが友好関係にあってもすでに鉄道はあったので、ゲージの違いはいかんともしがたい、わざわざソ連・ロシアのゲージに合わせてつくりなおす(改軌)だけの必要性、経済的余裕はないということで、北朝鮮ロシアの国境を越える列車は「台車交換」が必要になるわけです。
さて北朝鮮の鉄道となると韓国の鉄道にもふれないわけにはいきませんよね。もうここまで書いてきたのですぐに理解していただけると思いますが、韓国内の鉄道のゲージも標準軌です。ゲージは南北同じ。さらにいえば戦前は現在の北朝鮮内と韓国内を行ったり来たりする列車が当然あったわけです。それが朝鮮戦争を経て軍事境界線(国境)によって分断された状態になっています。
2006年、北朝鮮と韓国との間で融和ムードが高まり、首脳会議をへてこの分断された南北の線路をつないで国境を越える列車を走らせようということなったのです。残念ながら実施前日、北朝鮮側から中止が一方的に通告されて実現しませんでした。
筆者の小牟田さんは先に紹介した『「日本列島改造論」と鉄道』の筆者、海外の鉄道事情、鉄道乗車のルポなども多く手掛けている方で、韓国の鉄道に乗りながら南北に分断されたかつての路線に思いをはせます。「鉄馬」は列車のことです。
発刊年からわかる通り、06年の分断されていた路線をつなぐという試みの前になりますが、その時点での韓国内でもっとも北朝鮮に近いところに設けられた都羅山駅を訪れるルポがあります。その駅の先は北朝鮮というわけです。この時点では線路は途切れているわけですが。
「駅舎は想像以上に大きくて立派である。改札の前の待合室は広々として天井が高く、開放感がある」
いつでも南北路線がつながり、列車が国境を越えることを見越した韓国側の意欲の表れなのでしょうか。
「その展示物の中に、現在の終端部を写した写真のパネルがある。駅のホームからそれほど離れていない位置で途切れている線路の前に、ソウル、平壌それぞれまでの距離を示した簡単な立札が建てられている」
「都羅山駅は非武装地帯への観光バスが立ち寄る新たな観光地となっていて、滞在中に次々と観光バスが駅前に発着し、待合室の中を見学する。板門店へ行く日本人の団体もやってくる」
先日、北朝鮮の鉄道事情に参考になりそうな本を書棚で「発掘」していたらこの『鉄馬は・・』がありました。書き込みをみると読んだのは2004年、あらためてページをめくっていてこの都羅山駅のくだりが目にとまり、「ここ行っているよ」と思い出しました。2003年です。
ここにあるように、友人と板門店ツアーに行った際に立ち寄っている、確かに駅はえらく立派、対照的に周辺は閑散としていた印象が残っています。そんな経験があったので、この本を購入したのかもしれません。
2023.11.09
どこの国・地域の鉄道のゲージが共通なのか、逆に、国・地域が隣接しているのにゲージが異なるのはなぜなのか。このようなゲージが国際関係、さらにいえば世界史の理解を深める補助線になります。『鉄道ゲージが変えた現代史 列車は国家権力を乗せて走る』(井上勇一、中公新書、1990年)はその典型としてロシアのシベリア鉄道とイギリス・日本との関係をとりあげた著作です。
筆者の井上さんは大使館勤務も経験されている外交史の研究者。まず本の紹介には
「当時、鉄道は国家の勢力範囲そのもので、どのゲージを選ぶかは国家的重大事であった。本書は、一九世紀末から日露戦争、満鉄建設、第二次世界大戦に至るアジア現代史を、鉄道ゲージを通して検証する」
とあります。どうです、こんな視点で歴史を見る、大変興味深いと思いませんか。
さて、ロシアのシベリア鉄道がユーラシア大陸の西端、中国や朝鮮半島近くまで到達したことによって、中国に進出していたイギリスや朝鮮半島、中国東北部に勢力を伸ばそうとしていた日本はいよいよロシアを警戒することになります。
ロシアがシベリア鉄道を国の西端まで敷くのは国境警備、あるいは国境を超えて他国に侵略するための軍事輸送がその目的であるとイギリスも日本も考えました。そのイギリスも日本も同様の理由で、ロシアとの国境まで鉄道を敷く必要性が高まります。その鉄道のゲージをどう決めるか、ということになります。
シベリア鉄道は5フィート(メートル法で1524ミリメートル)の「広軌」、イギリスと日本はロシアとの国境に近い中国東北部(いわゆる満州)、朝鮮半島に4フィート8インチ半(1435ミリ)の標準軌の鉄道を敷きます。国境をはさんで両側の主要鉄道のゲージが異なることになったわけです。というかあえて異なるようにした。
ロシアとイギリス・日本が戦うことになってロシアが優勢としたら、シベリア鉄道経由で共通のゲージで兵士、武器がどんどんイギリス・日本側に入ってきてしまう。もちろん逆の情勢になればイギリス・日本側にとって共通のゲージは有利になるわけですが、あえてそのリスクは負わない、ということでしょう。
「シベリア鉄道と、それとは異なるゲージにより日英両国の建設した鉄道との対抗関係は、ロシアと日英両国との間に東アジアにおけるそれぞれの勢力範囲をめぐる抗争を提起してきた。ここにシベリア鉄道が東アジアの国際政治を動かす要因となった背景があり、今世紀初頭の東アジア国際政治において、日英両国(標準軌)対ロシア(広軌)という日英同盟の成立する基本的枠組みがあったと考えられるからである」
なお、イギリスと日本は標準軌を選んだということですが、日本国内(列島)の鉄道は狭軌で、その点では共通点がありません。大陸にいちから新しい鉄道を敷くということで、高速大量輸送がしやすい標準軌を選んだのでしょう。大陸・朝鮮半島と日本列島が海で隔てられているので、列島の狭軌と「つなぐ」ことがそもそもできないという、わかりやすい理由ももちろんです。
いや、こういう本があるんです。決してふざけた本ではありません。ここでいう将軍様は北朝鮮の現在の最高指導者(この方も将軍ですが)の父親です。筆者はトラベルライターで「筆者紹介」には「鉄道ファンにとって最後の秘境である北朝鮮の鉄道にも乗車しており、関連資料の収集は随一である」とあります。
確かに豊富な写真や地図、「国家機密」ともいわれる時刻表などを掲載、また将軍様の専用列車の編成図も載っているのにびっくり。実際の列車の写真をもとに客車の特徴をみてとって、何両目におそらく将軍様が乗っている(貴賓室車両)、また、この車両は警備員用などと推定しています。
「(北朝鮮の路線の)設計上の最高速度は時速150キロメートルとも180キロメートルともいわれているが、実際にはこのスピードで走ることはない。(略)常に40キロ~60キロ程度の低速走行が義務付けられているからともいわれる。もっとも国内路線の場合、路盤整備が行き届かないことから、実際にスピードを出し過ぎると脱線の危険が伴うという、切実な現状があることも忘れてならないだろう」
時速150キロにしても、現在の日本国内の在来線電車特急の最高速度にほぼ匹敵するので、機関車がひっぱる将軍様専用列車ではまずありえず、後段の路盤整備への不安が低速運行の理由でしょう。
「はじめに」にはこうあります。
「21世紀になって暫く経ったある年、私は中国北京から列車に乗り、北朝鮮に入った。鉄道の置かれた状況は、聞きしに勝るものであった。中国国境から平壌まで僅か225キロメートルになんと5時間もかかるのである。戦前の蒸気機関車の時代でさえ4時間15分で走っており、北朝鮮の鉄道は停滞するどころか、退化していたのだ」
国分さんが乗車した正確な日時は書いていませんが、ここ十数年の北朝鮮の軍事強化一辺倒、国内経済の停滞を考慮すると、鉄道事情がよくなっていることはまず考えられません。今回の最高指導者(将軍様)のロシア訪問で走った路線もほとんど同じ状況だったと考えていいでしょう。
2023.11.07
では、そもそもなんで鉄道のゲージが異なるのか、おおもとのところを整理します。
まず、日本の新幹線のゲージ1435ミリメートルは一般的に「標準軌」(standard gauge)と呼ばれます。1435ミリメートル、メートル法だとえらく「半端」な数字に聞こえますよね。鉄道発祥の地、イギリスで長く使われた長さの表記だと4フィート8インチ半、うーん、これでも「半端」な感じ、もっときりのいい長さにしたらいいのに、と同じ思い。
初めに、鉄道ゲージのあれこれがコンパクトにまとめられているので、引用します。
鉄道がイギリスで初めて敷かれた時のゲージが4フィート8インチ半(1435ミリ)、その理由については
「鉄道工学上の科学的根拠にもとづくものではなく、蒸気機関車を考案したスティーブンソンがたまたまこの幅を蒸気機関車のゲージとしたからであった」
とあっさり。とはいえ、古代ローマの戦車の軌間と同じともいわれていて
「多分に歴史的な経験から割り出されたもの」
と含みは持たせてはいますが。
イギリスでも最初は私鉄ばかりで、それぞれの会社が独自のゲージで鉄道を敷いていったものの、やはりゲージが共通のほうが便利ということで、徐々に4フィート8インチ半に統一されていったとのこと。そして1846年、イギリス政府はこのゲージを「標準軌」と定めます。これは今でも世界中で使われる用語で、これよりゲージが広いと「広軌」、狭いと「狭軌」と呼ぶことになります。
「ゲージが異なる二本の鉄道が接続する場合には、その二本の鉄道は接続地点で不連続な状態となり、そのままではその間の相互乗り入れができないなど、経済効率の上からはきわめて不都合になるからである」
西ヨーロッパではスペイン、ポルトガルを除いてゲージは標準軌に統一されているものの東ヨーロッパ、ロシアはそうではなく、
「第一次世界大戦の独ソ講和条約が締結されたブレスト・リトウスク(ソ連・ポーランド国境、ソ連側)では、東(ソ連側)からは広軌の鉄道が、また西(ポーランド側)からは標準軌の鉄道がきており、そこを通過する列車はゲージを合わせるためにクレーンにより車体を吊るして台車の交換を行っていたという」
そっか、ソ連がロシアになったとはいえ、「台車交換」、これって“お家芸”かも。逆に言えば、こんな歴史があるので、北朝鮮からロシアに列車が入る際に台車交換することに抵抗がないのかもしれません。
ロシア、北朝鮮の間の話だけではありません。
ロシアのウクライナへの進攻に対して、ヨーロッパの国々がウクライナに武器支援を行っていますが、大量に武器を運ぶのにはやはり鉄道がいい、ところが、ウクライナの鉄道のゲージとヨーロッパの国のゲージは同じではないので、両国の鉄道が国境の駅で接続していても、列車がそのまま通過することはできないのです。結局、貨物を積み替えるか、このように台車を換えてまで「直通」させるかという選択になります。
ではウクライナの鉄道のゲージはというと、ロシアと同じなのです。旧ソ連時代の連邦構成国同士だったので、たくさんの列車がロシア・ウクライナ間を行き来していたのでしょう。こんな面からもロシアのウクライナ侵攻の歴史的背景がうかがわれます。
ところが、その国同士が一転して仲が悪くなるとどうでしょう。隣接の国に攻め込むとき、ゲージが同じだと鉄道列車で直通し、大勢の兵隊や武器を送り込みやすくなります。共通のゲージが一転して危険な要素になってしまいます。
もともと友好国だったならばやむをえませんが、隣接する国・地域を危険視するならば、最初から「防衛」のためにあえて異なるゲージで鉄道を敷く、という選択が出てくるわけです。(国境の駅がそれぞれの国にあって線路が直接つながっていなくても、国境をはさんで駅間距離はおそらく短いので、短期間の工事ですぐに線路をつなぐことができます)
そうなると一つの疑問が湧いてきます。北朝鮮とロシア(ソ連)って友好国のはず、首脳会談しているわけですから。それなのに、それぞれの国のゲージが異なるのはなぜ、ということですね。