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BLOG校長ブログ

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  • 2023.07.10

    野球部 県大会快勝 2回戦へ

    全国高等学校野球選手権埼玉大会、いわゆる夏の甲子園大会の埼玉県予選を兼ねている大会で本校は9日、1回戦で狭山工高と対戦、快勝で2回戦に進みました。13日、城西大川越高と対戦予定です。

    試合会場の所沢航空公園球場、応援の一塁側スタンドには吹奏楽部のみなさんをはじめ生徒、教職員、選手保護者らが並び、打者が快音を響かせるたびに歓声があがりました。得点をあげると校歌をアレンジしたテーマが流れ、5回コールド勝ちでした。

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  • 2023.07.08

    「自然」「もの」から歴史をみる その3

    「イワシ」「ニシン」という「海のもの」、「鷹」「鶴」という山のもの、空のものに続いて「土、地面」からのものでみる歴史の本です。

    『世界を動かした日本の銀』(磯田道史・近藤誠一・伊藤謙ほか、祥伝社新書、2023年)

    島根県の「石見銀山遺跡」とその周辺の街並みや港などの「文化的景観」が世界遺産に登録されて15周年を迎えたことを記念して国際日本文化研究センターが開いた共同研究会(シンポジウム)の内容をもとにした書籍です。

    日本の貿易の歴史の中で「銀」が果たした役割は非常に大きく、世界史を変えたと言ってもいいくらいであることはこれまで関連する本で学んではいましたが、このブログでもたびたび紹介している同センター教授の磯田道史さんの基調講演というか概説が大変よくまとまっていて、いい復習になりました。

    日本では平安時代中ごろまで自前の貨幣・銅銭を造っていましたが、貨幣を使う経済が活発になるにつれてその量が間に合わなくなり、中国から貨幣・銅銭を輸入するようになります。いわば日本だけでなく「東アジアの国々は、長らく、(中国の)宋代にできたシステムや貨幣の土台の上に成立していた事実がよくわかります」と磯田さん。

    その中国が宋から元、さらに明と王朝が変わるにつれ、次第に銀貨が使われるようになるのですが、中国では銀があまり産出されない、そんなタイミングで石見銀山が発見されます。

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    石見銀山遺跡、大久保間歩(坑道)
    /清水谷精錬所跡(写真はいずれも石見銀山世界遺産センターのホームページ、写真ギャラリーより)

    16世紀から17世紀にかけての世界の銀の動きをみると、中国が輸入した銀の約7割は日本からのもので、大陸に近いといった条件を考慮すると、石見銀山産出の銀がもっとも多かっただろうと、磯田さんは推測します。「日本の銀、なかでも石見銀山が産出した銀が、中国の銀需要と銀本位制化を支えたことはまちがいありません」

    同じ時期にヨーロッパでも銀がもっぱら使われます。こちらはスペインが支配するポトシ銀山(現在のボリビアにあった)産出の銀が使われました。おおきなくくりで言うと、たった二つの銀山がこの時期の世界経済の発展を支えた、ということですね。

    石見銀山の銀など貴金属が日本の貴重な輸出品となり、日本も豊かになっていきます。「日本経済を石見銀山が引っ張った、石見銀山が日本の経済大国化の発火点となった。そう言えるわけです」と磯田さんは書いています。なるほど。

    このような石見銀山の「価値」を権力者が見逃すわけがなく、戦国時代の大名では大内氏、尼子氏、毛利氏が順に支配します。鉱山からの収入が戦国大名の戦いの軍資金となるわけです(鉄炮などの武器を揃えるのにもお金が必要です)。
    その後、いわば毛利氏の「利権」でもあった石見銀山に目をつけたのが豊臣秀吉で、毛利氏との力関係から銀山の収入の一部が秀吉のものとなります。さらに関ケ原の戦いで敗れた形となった毛利氏から石見銀山をとりあげたのが、関ケ原の勝者の徳川家康でした。

    サルファーラッシュ

    「銀」のように土中から得られる資源で日本の輸出品として大きな役割を果たしたものが他にもあることを教えてもらったのが『アジアのなかの戦国大名--西国の群雄と経営戦略』(鹿毛敏夫、吉川弘文館、2015年)です。

    おもに九州地方の戦国大名が大陸(中国)や東南アジアに近いという利点を生かして積極的に貿易に関わり、その利益を大名としての領国経営に充てていたという、その話がまず、米作り・年貢という一般的な戦国大名の印象と異なっていて興味深いのですが、その貿易、輸出品の中で「硫黄」が大きなウエイトを占めていたとして多くのページを割いています。

    硫黄は、金銀銅などのように坑道を掘って採鉱するものではなく、火山の噴火口などで採取できるので、高度な技術や施設は必要ない。鉄砲など火器が使われるにつれて火薬の原料となる硫黄の需要は国内外で高まります。そう、日本列島は火山が多いですよね、その硫黄が盛んに輸出されるわけです。

    筆者の鹿毛さんは、金鉱山に人々が集まり金産業が栄えた「ゴールドラッシュ」、同じく「シルバーラッシュ」になぞらえて、「硫黄鉱山の産地に人々が集い関連産業が栄えたこの状況を「サルファー(硫黄)ラッシュ」と呼ぶことができるだろう」と書いています。

    『銀の世界史』(祝田秀全、ちくま新書、2016年)

    南米のポトシ銀山産出の銀が大量にヨーロッパに運ばれ、その結果、ヨーロッパの経済の発展、例えば産業革命を通じての資本主義の広がりなどにつながっていくことが説明されています。

  • 2023.07.07

    「自然」「もの」から歴史をみる その2

    少し異なった視点から歴史を見る面白さ、「イワシ」「ニシン」という「海のもの」に続いて山のものというか空のもの? というか、「鷹」と「鶴」が主人公です。

    「鷹将軍と鶴の味噌汁--江戸の鳥の美食学」(菅豊、講談社選書メチエ、2021年)

    最近は「ジビエ」と呼ばれる、狩猟などで獲った野生の鳥獣肉が食べられるようになってきましたが、鳥肉というとカモが少し食べられてはいますが、もっぱら食用とされるのは鶏肉(ニワトリの肉)ですよね。

    ところが、鶏肉一辺倒になったのはごく最近のことで、歴史をみると鳥食は縄文時代までさかのぼることができ、特に江戸時代はかなりの種類の野生の鳥が捕獲されて朝廷、将軍家、大名から庶民まで幅広い層の人たちが食べていたというのです。

    鳥の種類によって「ランク」があり、売買される価格が異なるのはもちろん、その鳥を贈り物にするにあたっても、贈り先によってその「ランク」が重要視された、ランクを間違って贈ると失礼になる、というから驚きです。

    さらに、この贈り物ですが、いわゆる「使い回し」も頻繁におこなわれていて、「鳥」はそこでも重宝されたとのこと。「使い回し」は「一度使った物を、(捨てずに)次のときにも利用すること」(三省堂国語辞典)ですが、ここでは、贈り物としていただいた物を消費せずに、別の人への贈り物として使うことを言っています。

    つまり、贈ってもらった鳥肉を自分のところでは食べずに別の人への贈り物とすることです。このような「使い回し」は室町時代ごろからあたり前に行われていた習慣だということは以前、別の著作で読んで驚いたのですが、なにぶん「肉」です。使い回しているうちに腐ってしまわないか心配です。(それを言ったら、使い回ししなてくても獲ってからの輸送時間を考えると肉の保存は難問ですが、同書によると塩漬けも多用されたようです)

    このように多くの人に愛された鳥料理ですが、「ちょっと待って」と疑問を持つ人がいるはずです。おなじみの「生類憐みの令」です。

    五代将軍徳川綱吉が「生類」つまり生き物を大事にしろと掲げた法令です。建前が先行してさまざまな混乱を招いたとして悪法の見本のように語られてきましたが、近年では、戦国時代の「武」、つまり暴力を肯定する風潮から「文」の政治に切り換えたいという幕府の大きな政策転換の中にこの法令を位置付けるという見方もでてきています。

    そのような評価はおいておくとしても、野鳥を獲るなどというのは真っ先に法令違反として処罰の対象になるであろうことは容易に想像がつきます。それでも、監視の目をかいくぐって野鳥を獲る人が絶えなかったようです。

    江戸時代、その野鳥の中でも最上位にランクされたのが「ツル」、中世では「ハクチョウ」が最高位の鳥とされていたのがツルにとってかわるとのことで、その理由はさだかではないようですが、本のタイトルはここからきているわけです。

    ではタイトルの鷹、タカは何なのか

    生類憐みの令とは別に幕府は何度も野鳥捕獲の禁止令を出したようです。その理由は、タカの餌となる野鳥が減るから、つまりヒトがタカのエサを食べてしまうからです。
    訓練したタカを放って野鳥を獲る「鷹狩」は、信長、秀吉の時代から天下人、権力者の権威・権力の象徴として行われていました。趣味の域を超えていたわけですね。NHK大河ドラマ「どうする家康」でも、家康が信長の鷹狩に誘われるシーンがありました。

    /静岡市の駿府城址(駿府城公園)にある徳川家康像。左手に鷹を持つ、鷹狩の様子をデザインしています
    /柏市のホームページから。「鴨猟は手賀沼の冬の風物詩であった」との説明で1942年(昭和17年)の写真が掲載されています

    徳川幕府もそんな気風を受け継ぎ、代々の将軍は鷹狩に精を出します。その「会場」となる土地「鷹場」には鷹(タカ)の獲物になる野鳥がいなくてはならないわけで、これが庶民の野鳥獲りの禁止につながるわけです。

    幕末の1863年(文久3年)、十四代将軍家茂の鷹狩を最後に将軍による鷹狩が行われなくなり、大政奉還の年(1867年)には鷹場が廃止されます。「将軍の鷹狩を頂点とする江戸の鳥食文化も、武家社会の解体と足並みをそろえるように衰退していった」。

    この著作では江戸に鳥、特にカモを供給する場であった千葉・手賀沼での捕獲方法(猟の技術)、どのくらい値段で売られていたのか、それを担ったいた手賀沼周辺の人たちの生活などがていねいに描写されています。明治以降、近代的な猟法ともいえる猟銃による捕獲が盛んになり、また沼が埋め立てられて水田になっていくにつれてカモの量が減り、カモ猟が終焉を迎えるまでも説明されています。

  • 2023.07.06

    「自然」「もの」から歴史をみる その1

    歴史は人によってつくられる、というか人の営みの継続が歴史ということなので、人がなしえたことを探り、あきらかにしていくのが歴史家の仕事であることは言うまでもありません。ただ、「自然」や「もの」を切り口にする歴史もなかなか興味深いものがあります。面白く読んだ近刊を紹介します。

    「イワシとニシンの江戸時代--人と自然の関係史」(武井弘一・編、吉川弘文館、2022年)

    イワシ、ニシンはあの食べる魚です。それと江戸時代、なんのことかというと、どちらも江戸時代に肥料として大変重宝されました。とはいえ、養殖などができない江戸時代には、海で獲るしかなく、豊漁があれば不漁もある。農作業をする百姓にとっては死活問題でもあるわけで、ヒトともの(イワシやニシン)との関りが史料にもとづいて丁寧に語られています。

    江戸時代は商業が次第に発達していきますが、やはり農業、米作りが主産業、というか、幕府・大名の税金は米で取られたので、とにかく水田を増やす、米の生産量を増やすことにやっきになります。そのためにはよい肥料が必要です。糞尿や草木の肥料では量に限界があり、魚由来の肥料「魚肥」に頼ることになるわけです。逆にいえば、イワシやニシンという魚肥があったからこそ江戸時代の新田開発が可能になった、とも言えるでしょう。

    本書は、特に関連する史料がよく残っている加賀藩(石川県)の事例をその研究者が担当、また農業の歴史や流通経済の専門家らが分担して執筆しています。

    どのあたりの海で獲れたのか、どのような漁法(網の種類・変化など)で獲っていたのか、その後、どのように運ばれ、加工されて肥料となったのか、そして長い江戸時代を通じて、イワシだけではまかないきれなくなってニシンの需要が高まったいったことが紹介されています。

    例えば、ニシンが獲れるのは蝦夷地(北海道)なので、そこから日本海ルートで近畿地方などに運ばれてくるわけです。そのニシン漁には蝦夷地のアイヌの人たちが深くかかわっていたという大事な指摘もされています。

    イワシが古くから千葉県・九十九里浜などで多く獲られて肥料になっていたことは、千葉県内の博物館などで展示・紹介されているので予備知識はありました。また、北海道のニシンについても、北海道の歴史には欠かせない視点であることも理解はしていたつもりですが、魚肥がイワシからニシンにシフトし、それがどのように各地に広がっていったのか、やがてその役割を終え、近現代の肥料は化学肥料にとって代わることまでが、わかりやすくまとめられていて、大変勉強になりました。

    「今の農業は化学肥料に大きく依存し、その反面、従来からの魚肥や自然肥料が果たす役割は、しだいに小さくなっている。結局、江戸時代の百姓たちが喉から手が出るほど欲っしていたイワシやニシンは、数が減ったこともあり、かろうじて食用に供されている」とあり、イワシ、ニシンの歴史を通して、ヒトと自然との関わりを考えていきたいと編者は問題提起しています。

    イワシ、ニシンは時々食べますが、これからは味わいがかわりそうです。

    千葉県九十九里町にある「いわし資料館」のホームページ、こちらから

  • 2023.07.04

    本校はどう表現されてきたか その2

    7月3日の創立記念日にあたって、本校のキャンパス、校舎群などがどのように表現されてきたか、新聞記事のいくつかを紹介したのに続き、建築系の書籍から引用します。

    『学校建築の冒険』(INAX BOOKLET Vol.8 No.2 1988年)
    「江戸村や、映画のセットかと見まごうばかりの独特の環境が、しかし決して建築家の恣意的な独走ではなかったことは、ユーザーの誰からも不満の声があがっていないことでもわかる。設置者、建築家、ユーザーが互いの役割を認識しながら、それのみに止まらず、環境創造のデザインプロセスにどこまで関り合えるかを試した意欲的な作品である」

    「意欲的な作品」といった書き方が建築系ですね。

    『ポストモダン建築巡礼』(磯達雄・文、宮沢洋・イラスト、日経アーキテクチュア編、2011年)

    1975年~95年の間に建てられた、いわゆるポストモダン建築50の中に東野高校が選ばれ、写真イラスト付きで紹介されています。「カワイイ建築じゃダメかしら」というタイトル、ちょっとかわった視点での紹介記事です。取材者が本校を訪れてキャンパスを歩く、というルポ形式となっています。

    「小高い丘の上に位置するここ(旧食堂棟)からは、キャンパス全体が見渡せる。普通の学校なら、屏風のような校舎が視界を遮っているところだが、ここでは小さな家が立ち並ぶ集落のような光景が広がっている」

    このあたりは「集落」という言葉づかいもあって、木造建築、村といった従来の形容との共通点が感じられます。

    「カメラを持ってキャンパスを歩いていると、どこもかしこもシャッターを切りたくなる。そして、建物の中も外も居るのが楽しい」とあり、学校関係者としては嬉しい表現です。

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    さらに続きます。

    2000年代になってデザイン界で「カワイイ」という形容詞が注目されるようになり、「カワイイ建築」のキーワードは「スモール・スケール・センス」「家型」「こだわり装飾」「豊かな余白」などがあてはまるとし、「つまり東野高校はカワイイのである」

    うーん、ほめられているのでしょうが、なかなか難解ですね。

    「使える」と「カッコイイ」をその価値としてきた建築が、「カワイイ」へかじを切る。その始まりがこの年(1985年)であり、東野高校はその先駆けだったのだ、と結ばれます。

    単純にほめられるばかりではない例もあえてあげておきます。

    このブログでも何回かとりあげている建築史家、国際日本文化研究センター所長の井上章一さんの論考「しろうととしろうととの出会い」です。

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    「SPACE  MODULATOR  NO.68」(日本板硝子、1986年)
    東野高校を特集した雑誌で、本校キャンパスの紹介、写真グラフにあわせて何人もの建築家が本校建築への感想や批評を寄せています。井上さんもその一人です。

    「(東野高校の)建物の意匠は、歴史のなかで我々の脳裏にやきつけられているさまざまな形をくみあわせてつくられている。江戸の倉、なまこ壁、屋敷塀と門、いかにも田舎風の反り橋、イタリアの中世都市、教会、列柱のアーケード、等々である」

    なるほど、一言で特徴を言い表せない、という点ではやはり井上さんも同じです。

    「日本人の目で見れば、ほんらいの倉の腰をいろどるべきなまこ壁が上部にあしらわれているところなど、ちょっとあきれてしまう。池にかかる橋なども、どうかと思わざるをえない。悪口ついでにあえて言ってしまえば、フジヤマ・ゲイシャ風を好む外人の日本趣味が感じられる。擬和風建築といったところだろうか」
    「建築家たちのプロ意識からすれば、この学園はゲテモノであろう」

    いやいや手厳しい。しかし

    「しろうとくささとヘタさが、正々堂々とおさまっている。そして、この雄々しさは、訪問者をじゅうぶんに納得させる。じっさい、私などここしばらく建築鑑賞によってこれほど感銘をうけたことはない。友人たちにも、自信をもって、一見の価値があるところだと断言できる。プロの建築家たちには、こうした表現はのぞめない」

    けなして最後は持ち上げる。

    井上さんの批評のタイトルにある「しろうと」とは学園側(教職員)のことをさすのでしょうが、本校を設計・デザインしたアレグサンダーを「しろうと」と言ってしまうところが井上さんらしい。

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    この雑誌をたまたま手にしてページをめくっていて「あの井上章一が東野高校に見学に来たんだ」と驚きました。「狭山小学校ぞいの道をとおって訪れると、まず大講堂の姿が目にはいる」と書きだしています。

    本校の竣工・開校、雑誌の発行日から1985年~86年に来校していることになります。著作「霊柩車の誕生」「つくられた桂離宮神話」で注目され始めてはいましたが、この時は京都大人文科学研究所の助手でした。

    京都で新聞記者をしていた時に井上さんに取材をして強く印象に残りました。1987年のことで、今振り返ると、この東野高校訪問のすぐ後です。井上さんの本はずっとそれなりに読んできていますが、時を遡って、思わぬところで東野高校に縁があったのでした。

    朝日新聞の記事は、本校図書館に備えてある、朝日新聞のデータベースで検索し、探してもらいました。図書館での調べ学習などに活用しています。

    毎日新聞の記事についても記事データベースを活用しました。

    ここで紹介したものも含めて本校に関する書籍、雑誌などは本校図書館で収集、所蔵しています。

  • 2023.07.01

    創立記念日(7/3)によせてーー本校はどう表現されてきたか

    1984年7月3日、埼玉県の私立学校審議会で東野高校の設置が認可され、翌85年4月の開校が正式に決まりました。この7月3日を東野高校の創立記念日としています。

    他に類を見ない学校建築であり、開校直後から多くの建築雑誌などで特集が組まれ、紹介されました。開校から40年近くなった今でも、本校を訪ねてこられる方がみな驚かれる景観なのですが、全体の構成や校舎群について、ひとことで言い表すのが大変難しい。そこで第三者、建築の専門家らが本校の景観をどう表現したのか、新聞や雑誌の記事からひろってみました。

    開校した直後1985年4月6日朝日新聞夕刊

    「戦後最大の木造建築とされる体育館を中心に、低層一、二階の教室や講堂など二十余棟が、美しく立ち並ぶ。十一日に完工式を迎える新設校、埼玉県入間市、私立盈進学園東野高校。設計者が日本人ならずアメリカ人であったのも皮肉っぽいではないか」

    「元は茶畑だった広大な丘陵地六万六千平方メートルに、池があり、たいこ橋があり、緑があり、川越や倉敷の蔵造をほうふつとさせる建物が散在する。とにかく壮大な夢のキャンパスはできた。なまこ壁の青、手すりの赤。配色を押さえ気味に青によしの伝統を踏まえて見事だ。これから建築界に新しい論争が起こることを予感させる」

    1988年10月24日朝日新聞朝刊、 ユニークな学校建築を紹介する展覧会記事の一節
    「東野高は、なまこ壁の校舎に池を配して、明治初期の日本橋界わいといったイメージだ」

    1994年6月6日朝日新聞朝刊
    「校舎はすべて木造で、二階建ての民家のような教室が並ぶ。設計者のアメリカ人が小さな美しい村といった」

    1995年5月7日朝日新聞朝刊
    「衝撃的なデビューだった。一九八五春、茶畑が連なる狭山台に、切妻屋根にモノトーン調の建物群が姿を見せた。(略)随所に和風を取り入れたデザインもさることながら、片廊下型校舎という学校建築の常識をくつがえして斬新だった。骨太の柱に緑と白しっくいの大講堂。広場につづく正門は市松模様。町家風の教室群と赤い屋根をのせた木造の体育館。赤い屋根に目をつぶれば、大江戸のオープンセットと見まごうばかり」

    1997年9月18日、毎日新聞埼玉版の連載記事の一節
    「日本家屋の様式を取り入れた東野高校の校舎は、廊下を歩くと「コンコンコン」と柔らかな木の音がする。美しい村と呼ばれるキャンパスは初めて訪れる人を驚かせる」

    木造建築、なまこ壁、蔵造り、大江戸のオープンセット、日本風、日本橋界わい――などなど。たくさん特徴があり、私たちがひと言で言い表せない点は共通しています。

    私自身の経験からすると、取材の事前準備、そして記事を書く時には自分が書いた記事、ほかの記者が書いた記事、場合によって他の新聞記事も含めて参考にしますから、これらの記事には同じようなトーンが感じられます。(つづく

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    「第一の門」と「正門」を結ぶ玄関道には桜並木
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    「たいこ橋」の先の桜が満開に

    本校の歴史・沿革はこちらからどうぞ

    本校のキャンパス、施設についてはこちらをどうぞ

  • 2023.06.30

    外国語習得に必要なものは・・・

    朝日新聞6月27日朝刊のコラム「多事奏論」で稲垣康介記者がアスリート(スポーツ選手)の語学力について書いています。

    テニスの全仏オープン車いす部門の男子シングルスで優勝した17歳の小田凱人(ときと)選手の英語での優勝スピーチがすばらしかったそうです。小田選手は外国で暮らした経験はないのですが、テニスの先輩から英語だけは勉強するようにアドバイスを受けたのがきっかけで熱心に学習したそうです。世界でプレーしていくうえで英語が必要だということだったのでしょう。

    卓球の石川佳純さんは滑らかに中国語を話すのですが、卓球の強豪中学に入学した際出会ったのが中国人のコーチで、卓球上達のために中国語を習得しようと本気になったそうです。

    稲垣記者は「二人のアスリートに共通するのは、外国語の習得そのものが目的ではなく、自分が打ち込む競技のために必要なツール、つまり手段だと、とらえている点だ」と書いています。

    「英検週間」にあわせてあれこれ本を紹介した際に参照した『そもそも英語ってなに?』(里中哲彦、現代書館、2021年)に以下のようなくだりがあったことを思い出しました。里中さんは大手予備校で英語を教える、いわゆるカリスマ講師と言ってもいい方ですが、「外国語を身につけるにはどうしたらいいか」という質問に答える形でずばり言い切ります。「英語」はひろく「外国語」と置き換えても同じでしょう。

    「英語を学ぶのに特殊能力は要らないのです。伸びる人と伸びない人がいます。この差はどこから生じるのでしょうか。伸びない人は努力していない、ではどうして努力しないのか、それは切実な願望を持っていないからです。動機づけに失敗しているといってもよいでしょう」

    「いやがうえでも英語を使わなくてはならない状況にみずからの身をおけば、モチベーションが高まり、目標とする英語を手にすることができるようになります」

    「英語が話せるようになりたい、というあなたが目指すべき英語はただひとつ、自分にとって必要な英語を身につけることです。そして、それはまた「内容重視の英語」でなくてはなりません」

  • 2023.06.29

    ビートルズ来日の日 <6月29日>

    1966年6月29日、イギリスのロックバンド、ビートルズが来日しました。60年以上も前の話で、もはや「歴史」の一コマでしょう。先日読んでいた本がこの日のことに触れていて、そうかこんな時期(季節)に来たのかと思う一方で、楽しみにしていたのは、毎朝通勤時に聴いているラジオの「きょうは何の日」でとりあげられるかどうかでした。はい、ちゃんと紹介されていました。

    そのビートルズ、私自身が音楽を聴き続けてきたこれまでの人生(おおげさ!)の中ではいまだに現役ミュージシャンであり、その曲を聴き返すたびに新しい発見があります。ビートルズ関連の書籍も数十冊は読んでいるので(積読もありますが)、これといった本を選び出す自信はありません(この来日だけに特化した本もたくさんあります)。

    /ビートルズ博物館(英国リバプール)の年譜に日本ツアーの記述がありました
    ビートルズとしては結果的に最初で最後の来日になるのですが、日本滞在の3日間、日本武道館で5回のステージがありました。

    いちミュージシャンの来日がなんで歴史に残る日のように語られ続けられるのか、来日を前にして「武道館を使うのはけしからん」と公然と言い放つ人がいたり、警視庁が混乱を予想して警備本部を設け延べ3万5000人の警察官を動員したなど、ひとつの社会現象になったからでしょう。

    たまたま近くにあった、切り口のおもしろさがある本をとりあげます。

    「ビートルズは何を歌っているのか?」(朝日順子、シーディージャーナル、2018年)

    ビートルズの曲の歌詞について、英語としての特徴や文化的背景などをコラム風にとりあげています。体系だてて何かを主張する、という内容ではないので、私自身が付箋(アンダーライン)をつけたところを少し紹介します。

    ほどんどの英語の歌では、歌詞に韻が出てくる。なぜかというと、韻がアクセントになって「聴きやすい・覚えやすい・リズム感のある」曲ができるからだ。

    行の最後が押韻されるのが脚韻で、行の中間に出てくるのが中間韻、ビートルズの歌詞で中間韻を使用した代表的なものは“Hey Jude”だ。1行目の最後の「bad」と2行目の中頃の「sad」、2行目の最後の「better」と3行目の中頃の「let her」など、きれいな押韻構成になっている。このほかに“I’ve Just Seen A Face”や Lovely Rita”でもたくさんの韻が現れる。

    その“Hey Jude”、ポール・マッカートニーがジョン・レノソの息子ジュリアンを励ますために書いた曲ということはよく知られていますが、その励ましのフレーズ<let it out and let it in>、 <let it out>は“Let it all out”などとも言い、悲しんでいる人を慰める時などによく使う表現。怒りや悲しみなどの感情を「全部だしちゃえ」という意味。

    対する<let it in>は慣用句ではないけれど、“breath in, breath out”(息を吸ったり吐いたりする)のように、<let it out>と並べることで面白い効果を出している。人や人の感情を「受け入れろ」という意味じゃないかな、とも。

    なるほど。

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    /ビートルズ誕生の地、リバプールにあるビートルズ博物館

    リバプールの街角には若き日のジョン・レノンがたたずんでいました

    (写真はいずれも10年ほど前、友人とのビートルズ&サッカー&パブの旅で撮影したものです)

    ところどころにビートルズ歌詞クイズが織り込まれているのですが、これはかなりレベルが高いことを付け加えておきます。

    正直なところ、ビートルズがかなり好きで、ビートルズについてそれなりのことを知っていないと、おもしろさが伝わらないところもありそうです。ただ、200曲以上の多彩な楽曲を世に出して世界中のミュージシャンに影響を与え、社会現象でもあったビートルズだからこそ、こういう切り口の本も成り立ってしまうのでしょう。ビートルズ、まだまだ奥深いです。

    5月18日のこのブログでも英語の歌詞についてとりあげました。洋楽がストレートに英語学習の参考になると安易に言うつもりはありませんが、マイナスにはならないでしょう。好きなものが学習の手助けになるならそれに越したことはないですから。ビートルズ初期の傑作<I Saw Her Standing There>なんて、文法の例文そのものだと思いませんか。

    「きょうは何の日」ネタは5月9日の「ガリレオ裁判」でも使いました。

  • 2023.06.27

    「掘る」話――さらに古い時代へ

    土偶の縄文時代、さらに古い旧石器時代の石器など発掘に関わることを何回か書きましたが、おなじように「掘る」でもさらにずっとさかのぼった時代がターゲット、恐竜や古生物研究のために発掘をする人たちの本です。

    『恐竜まみれ 発掘現場は今日も命がけ』(小林快次、新潮社、2019年)。北海道むかわ町で、恐竜のほぼ全身の骨が揃った形で見つかった「むかわ竜」を発見・発掘した北海道大学の先生の著作です。

    アメリカ特にアラスカ州、カナダ、モンゴルの3か国と日本を行き来しながら1年の3分の1は野外のフィールド調査で恐竜化石を探し続けてきたという小林さん。

    「じつは発掘というのは、恐竜研究の一部にすぎない。だか結論を言えば、恐竜研究の醍醐味はここにある。自分の足と手、目をつかって発見をする、抜群の面白さだ。姿を消してしまった恐竜を研究する面白さは、恐竜そのものに挑むことにある。圧倒的に少ないデータを、自分の力で増やしていくのだ」という思いが、発掘を続ける原動力のようです。

    アラスカで巨大なグリズリーに出会ったり、一人用のテントを張りキャンプ生活となる砂漠での発掘は「命がけ」と言っても過言ではないのでしょう。「化石の調査でフィールドを歩いていると、ふと思うことがある。いつからこんな“探検家”のようなことをするようになったのだろう?」と自問しながらも「だがそのなかにしかない大きな快感もある」。

    北海道大学で勤め始めた小林さんのもとに、むかわ町の博物館の学芸員が訪ねてきたことが縁になって発掘が始まり、町も理解を示してくれておおがかりな作業となり、最終的に全長8メートル、頭から尻尾まで8割以上の骨が揃ったのです。

    少しの骨から全体像を考えるより、骨がより多く揃った方が全体像を正確にえがくことができるのは言うまでもありませんよね。8割以上もあれば「全身骨格」と呼んでいいようで、このような大型恐竜の全身骨格は日本初とのことで、「むかわ竜」と名付けられました。

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    むかわ町は人口約7400人。

    カムイサウルス・ジャポニクス(通称・むかわ竜)の全身化石(写真はいずれもむかわ町のホームページより)

    この小林さんは1971年生まれ、ほぼ一回り下1983年生まれの木村由莉さんの『もがいて、もがいて、古生物学者!! みんなが恐竜博士になれるわけじゃないから』(ブックマン社、2020年)は、「青春の全てを恐竜と古生物に捧げ、同級生たちに遅れて10年後にようやく仕事にありつけた古生物学者の、もがいて、もがいて、すすんだ道のはなし」(「プロローグ」より)なのですが、「むかわ竜」の小林さんも登場します。

    富山市での発掘にアルバイトで参加、福井県立博物館に勤務していた小林さんを紹介してもらい、かぶっていた恐竜の帽子をくるっとひっくり返し、駆け寄り、サインをしてもらったそうで、「すぐに憧れの存在になった」。

    「古生物学者になるには(進路アドバイス)」という章の「高校生へ編」では、恐竜の研究者になりたい、古生物学者になりたいという気持ちが高校生まで続いていたのなら、次の進路には地球科学系分野(地質学、岩石学、古生物学など)が学べる大学を選ぶのがいいだろう」と教えてくれます。

    随所にイラストやカットがはさみこまれ、またやさしく丁寧に書かれていて、恐竜や古生物に限らず、理系の研究者をめざす若い人向けのガイド的な内容にもなっているのですが、そこにとどまりません。

    「研究をするということ編」では、「研究は、教科書を読んだり人から教わったり経験を積むことで得られる「学び」に、「世界の誰も知らない新しいことを探究する」とう要素が加わってなりたつ。研究の世界では「学力」と「発想力」と「プレゼン力」が大切になる」と、見事に本質をとらえています。

    「なぞ」の1 「恐竜の体の色は?」

    少し驚いたのは、小林さんが「以前は絶対にわからないとされていた恐竜の色までわかるようになってきた」と、さらっと書いていることです。というのも、私は恐竜に限らず昔の生物が復元される、また図鑑などで紹介されるときに、体に何らかの色がついているのがずっと疑問のままでした。

    見つかるのは骨や歯の化石であって、生物の体(皮膚など)そのものが見つかっているわけではないのですから。もちろんその生物を見たヒトが絵を描いて残してくれるわけはないし、文字で伝えてくれているわけでもないからです。

    福井県立恐竜博物館の専門家が教えてくれます。(博物館の公式ホームページのQ&Aより)

    「一部の例外を除いて、今のところ恐竜の色はわかっていません。化石に色がわかるような証拠がほぼ残っていないためです。多くの復元画では、現在の爬虫類(はちゅうるい)や鳥類を参考にして恐竜の色を塗っています。以前は変温動物のイメージが強かったため、トカゲなどを参考にした地味な色合いにされることが多かったのですが、羽毛恐竜が発見されるようになると、鳥に近い鮮やかな色使いも増えました」

    うん、そうだろうと、ここまでで私はとまっていたのです。しかし小林さんの記述です。Q&Aには続きがありました。

    「例外として、近年、何種類かの羽毛恐竜では、羽毛の部分を顕微鏡で詳しく調べると、色のもととなる色素が入っていた小さな入れ物(メラノソーム)が残っており、その形などから部分的にその色が判明しました。(略)今後の研究によっては様々な恐竜の色がわかっていく可能性があります

    「おおっーー」、小林さんはこのことをいっているのですね。

    「羽毛恐竜アンキオルニスの生体復元」の図が同博物館のホームページに載っています。こちらからどうぞ

    「なぞ」の2 「恐竜王国 ニッポン」

    小林さんは以下のようにも書いています。

    「1億7000万年にわたって繁栄した恐竜の数はどのくらいになるのか、いま見つかっている恐竜はたったの1%に過ぎないかもしれない。偶然が積み重なって化石となった個体は非常に希少で、そのうち発掘されたものはさらに少ないからだ」

    「現在までに1000種類を少し超える恐竜に名前(学名)がついている。そのうち75%はたった六つの国から発見されていることはあまり知られていないだろう。アメリカ、カナダ、アルゼンチン、イギリス、中国、そしてモンゴル、つまり化石が出る国は極端に少ない」

    えっ、そうなの、という驚きです。小林さんは「この6か国に日本は入っていないが、日本には異常ともいえるほど恐竜ファンが多く、人気が根強いのはなぜだろう」と首をかしげます。

    まったく同感です。ちょっとネットで検索したら、全国各地で「恐竜展」的な催しが開かれています。東京・上野の国立科学博物館ではワンフロアまるまる恐竜に関する展示にあてられていますし、国内で数多くの貴重な恐竜化石が見つかっている福井県勝山市には「福井県立恐竜博物館」があります。

    /
    勝山市のホームページより
    /
    「福井県立恐竜博物館」(福井県公式観光サイトふくいドットコムより)

    例えば、東京の上野の森美術館ではこんな特別展も開催中。こちらから

    恐竜好きの子どもたちの中から小林さん、木村さんたちに続く研究者が育ち、また恐竜好きな人たちが研究環境を支援していけるといいですね。

  • 2023.06.26

    ノンフィクションの名作

    先日休刊した週刊朝日での後藤正治さんの連載をまとめた『クロスロードの記憶』(文藝春秋、2023年)が発行され、感慨深く読ませていだきました。

    ノンフィクション作家として40年を超えるキャリアを持つ後藤さんがこれまでの作品の登場人物について別の人物との関わりという形で振り返ります。人と人との関りというところから{クロスロード(交差点)」というタイトルになったようです。週刊朝日での連載も時々読んでいて、それぞれの回でとりあげられる人を対象とした後藤さんの作品を思い出しては再読したりしました。

    例えば、江夏豊投手と阪神で同僚だった川藤幸三選手。江夏投手については現役時代に一緒にプレーをした選手や取材した記者らから話を聴きまとめた「牙(きば)―江夏豊とその時代」(講談社、2002年)というすばらしい作品があります。もちろん川藤選手とのことも一章をさいて綴られています(「江夏の21球」を紹介する時(4月21日のこのブログ)に参照しようとしたらついつい読み返してしまいました)。

    「スカウト」(講談社、1998年)というプロ野球の名スカウトを追った作品、広島カープにスカウトとして30年間在籍した木庭教さんへの取材を重ね、木庭さんがどのような経緯でスカウトになったのか、スカウトとして出会った球児たちのことを聴きだしていきます。カープに入団した選手もいればうまくいかなかった例もでてきます。

    後藤さんは「クロスロード」で「スカウト」の取材について「お目当ての選手を見詰め、のんびりと野球観戦し、帰り道に喫茶店に立ち寄り、昔話に耳を傾け、雑談する。そんな日々を足かけ三年送った。退屈したことは一度もなかった。当初の心づもりでは一年だったのが三年に延びた。そんな日々が楽しかったからだと思う」と振り返っています。

    1964年の東京オリンピックで世界を魅了した体操選手ベラ・チャスラフスカに会いにチェコ・プラハに出かけ(「ベラ・チャスラフスカ 最も美しく」(文藝春秋、2004年)、「マラソン・ランナー」(文春新書、2003年)では君原健二、瀬古利彦、谷口浩美、有森裕子、高橋尚子選手らが登場します。「クロスロード」では「マラソン・ランナー」で取材した選手たちについて「いずれも豊かな内面の持ち主で、きちんと自己表現をする人たちだった」と評価しています。

    個人的な思い出も含めて……

    スポーツ分野では同志社大学ラグビー部の名指導者、岡仁詩さんをとりあげた「「ラグビー・ロマン―岡仁詩とリベラル水脈」があるのですが、岡さんとその教え子たちの章は週刊朝日で読み、すぐ「ラグビー・ロマン」を手にしました。

    私は学生時代、同志社大学ラグビーの全盛期に東京・国立競技場(オリンピックで新しくなる前の国立です)でその試合を観戦したこともあり(なぜだが東京の強豪大学を応援しないで同志社を応援しました。ひねくれていたんですね)、また京都で新聞記者をしていると、市役所などに同志社大学ラグビー部のOB、つまり岡さんの薫陶を受けた人が結構いて、ずっと気にはなっていただけに、「ラグビー・ロマン」は大変興味深く読みました。

    後藤さんはこのようなスポーツ分野に限らず、医療関係についての著作も多く、特に心臓移植、臓器移植についてはかなり早い時期から海外取材も積極的に行い、この分野のノンフィクションの先駆けとなる著作がいくつもあります。

    国内では1968年に札幌医大での国内初の心臓移植手術が刑事告発されたこともあってその後、心臓移植が行われない時期が続きました。臓器移植を選択せざるを得ない患者さんは外国で移植手術を待つことになるのですが、多額の費用がかかります。その支援のための寄附呼びかけなどがニュースとなり、そんな取材現場の京都市内の病院で後藤さんをお見かけすることがありました。取材対象を超えた担当の医師との信頼関係がはたからもうかがえたことが印象に残っています。

    後藤さんが著作を次々に発表するころから、ノンフィクション作品に筆者が「私」として登場することが多くなってきたように思います。「スカウト」のところでも触れたように、どのような場所でどういった流れで取材になったのか、取材相手の表情や口ぶりなども細かく書いていく。そして「私」の思いも遠慮なく書く。今ではノンフィクションでは当たり前の手法ではありますが、当時は「客観的でなければらない」という新聞記事の書き方とは異なっていたので、一連の著作が新鮮だったのでしょう。筆者の人がらが感じられたのです。

    後藤さんは「「復活」十の不死鳥伝説」(文藝春秋、2000年)で「大きな挫折と遭遇し、深い谷底にある時間を過ごし」たスポーツ選手十人を取り上げ、「人はどんな状況に置かれても立ちすくむことなどない。いつだってまた歩み始めることができる」と書いています。

    弧塁に刻む 自選エッセイ&ノンフィクション集」(1998年、三五館)ではそれまでの20年間を振り返り「結局、私は、<人生>を書きたかったのだと思う。それが私にとってのノンフィクションであり、それ以外のことには根本のところで興味を持つことはなかった」とし、野球やボクシングは「<人生>を描くために借りた土俵」と表現しています。

    甦る鼓動」(講談社、1991年)は肝臓移植を主に、実際の手術にあたる医師や「脳死」に関わる救急医療の現場、移植手術・医療にとって欠かせない免疫抑制剤開発にあたる研究者など、国内だけでなく海外にも足を運んで取材しています。

    後藤さんは「日本における移植外科は、その出発において非常に不幸なスタートを切った。すでに二十三年前になるひとつの臨床例が、いまだ翳をおびたものとして語り続けられていること自体、異様なことという他はない」と札幌医大の例に触れています。そのうえで、もともと医療問題の関心度も低かったのに長く取材をすることになった理由として「宿命的な困難を帯びた医学分野をあえて選んだ外科医たちの仕事に、いささか心ひかれるものを感じたから」と書いています。

    ここでも「人」です。やはり、人の生き方に対する興味というノンフィクションの原点が感じられます。