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  • 2023.08.04

    「オフサイド」の歴史

    女子サッカーのワールドカップ(W杯)、日本代表「なでしこジャパン」は1次リーグを全勝で突破、5日の決勝トーナメント1回戦でノルウェーと対戦します。代表チームの専属シェフのことにふれましたが(7月31日)、やはりサッカーからみながら少し変わった切り口で。サッカーやラグビーを観戦する際に「わかりにくい」といわれる「オフサイド」のルールがなぜあるのかを探究した名著があります。

    『増補 オフサイドはなぜ反則か』(中村敏雄、平凡社ライブラリー、2001年、原著は1985年)

    そのものずばりのタイトルではありますが。

    さてそもそもオフサイドです。まずはサッカーに絞りますが、同書によりざっくりと「プレイヤーがボールより前方でプレーすること」を反則とする、すこし詳しく「ゴール・キーパー以外の相手チームの誰よりも相手ゴール・ラインの近くにいて、そこで攻撃側プレイヤーが後方からパスされたボールを受け取るような場合、このプレイヤーはオフサイドであるという」

    インターネットなどでサッカーのルール解説などを検索してみると、攻撃側の選手による「待ち伏せ」や「抜け駆け」を防ぐため、などと説明されています。その目的として「もしオフサイドがなければ、攻撃選手はゴール前に張り付いて、味方からのパスを待てば得点できるゲームになってしまいます」とあり、それはそうですね。「試合をより面白くするために設けられたルール」ともありましたが、ちょっとわかりにくいですよね。

    筆者の中村さんは「オフサイドがなぜ反則なのか、誰が、どのような理由で決めたのかと問われると答えは容易ではない」という問題意識をもって、「オフサイド」の起源を探ります。

    まず考えていく前提を中村さんが示します。

    ・オフサイドは、二つのチームのプレイヤーが互いに入り混じって行うボール・ゲーム、すなわちサッカー、ラグビー、ホッケー、アイスホッケーなどに取り入れられている反則の一つ
    ・同じボール・ゲームでも、ネットをはさんで行うテニス、卓球、バレーボール、あるいは交互に交代する野球、ソフトボール(略)などにはないルール(略)

    言われてみればあたり前ですが

    ・ところが、二つのチームのプレイヤーが互いに入り混じるボール・ゲームでありながら、バスケットボールにはオフサイド・ルールはない
    ・同じように二つのリームのプレイヤーが入り混じるボール・ゲームでありながら、イギリス生まれのものとアメリカ生まれのものとの間にど うしてこのような相違が生じるのか
    ・イギリス人がなぜアメリカン・フットボール、バスケットボール、野球、ラクロスなどのアメリカ生まれのスポーツに親しまず、アメリカ人がなぜラグビー、サッカー、ホッケー、クリケットなどのイギリス生まれのスポーツになじまないのかという問題

    と続きます。

    おーっ、この先を読まずにいられない問いかけですよね、そして、このあたりが、なぜオフサイドが反則なのかという答えの伏線になっています。上質な推理小説を読むようです。
    (ここでアメリカ人がサッカーになじまないとありますが、女子W杯でもアメリカは優勝候補ですし、本著の発行のころの受け止め方ですね)

    さて、オフサイド・ルールがボール・ゲームの歴史のなかに初めて文書に残る形で登場するのは1845年、イギリスのラグビーという学校で、生徒がルールを成文化した時のことだそうです。ラグビー校は競技としてのラグビー発祥の地とされています。しかし、ここの至るまでに当然、オフサイドを「いけないもの」とする歴史があったと推測はされるものの、「確実なことはわからない」、なあーんだ、ではなく、確実ではないからこそ探求する醍醐味があるわけですね。

    イギリスにおいてフットボールは村祭り、村をあげてのイベントがそもそもの起こりということは結構知られています。それが次第に学校の校庭で行うスポーツになってくる。村祭りのイベントだったので、多くの人たちが密集を作りボールを奪い合う、乱暴な面も相当あったでしょう。しかし学校スポーツとなるとルールを決めないと試合が成り立たなくなってくるわけです。

    それとオフサイドがどう関係するのか、いよいよ核心が近づいてくるのですが、正直、ここで中村さんの「解答=考え方」をあっさり紹介してしまうのはどうかと思うのです。意地悪いですかね。

    ただ、冒頭のネット検索にある「待ち伏せ」「抜け駆け」はある1面は突いているようです。「卑怯」じゃないか、といった心持ですね。学校スポーツとして発達した競技、いわゆるパブリックスクールと呼ばれるイギリスの上流階級、紳士を育てる学校なので、何よりも「卑怯」は嫌われる、そんな仮説が思い浮かびますよね。

    この本には2002年に読了の書き込みがありました。久しぶりに読み返して、仮説は半分正解でした。以下の部分に赤線が引いてありました。

    (村祭りイベントでの特徴的な形態である)密集から<離れていく>行為や<離れている>行為が「よくない」行為とされ、やがて禁止されるようになった理由としては、それによって「突進や密集」の少ないフットボールが行われるようになり、フットボールの神髄でもあり、また楽しみや面白さの中心でもある「男らしさ」を示すプレーが見られなくなるということ

    (村祭りイベントは1点取ると終わりとなったので)フットボールを1点先取というルールで行われる競技として受け継いでいく以上、この1点が容易に得られないようなルールや競技構造のものにしてしておく必要があった

    なんと、わざわざ多く点をとれないようにするためにオフサイドルールが生まれ、引き継がれてきた、というのです。

    この本でのこの結論「えーっ」と首をひねる人もいると思います。中村さんの見方といってしまえばそれまでかもしれませんが、「伏線」と書いた部分、「イギリス人がなぜアメリカン・フットボール、バスケットボール、野球、ラクロスなどのアメリカ生まれのスポーツに親しまず、アメリカ人がなぜラグビー、サッカー、ホッケー、クリケットなどのイギリス生まれのスポーツになじまないのかという問題」につながっていませんか。ここでいうアメリカ生まれのスポーツ、どんどん得点が入りますよね、対してイギリス生まれはどうでしょう、と。

    「もともとあまり点が入らないようにしてある」のだから、なでしこジャパンがなかなか点を取れなくてもイライラしないようにしましょう。でもどんどん得点をあげて勝ち進んでもらいたいものです。

    この本は、オフサイドの「歴史」をさぐるという内容ですが、イギリス文化史、あるいは教育史としても読みごたえがあるものです。またスポーツと歴史、文化を考えるうえで示唆に富んだ、以下のように考えさせられる問題提起もしています。

    フットボールにはいくつもの種類があることを紹介しつつ、「人間はボールを足で扱ういろいろな遊びや競技を多様に行っていたことは明らか」それは「人類が同じような身体的条件を持ち、同じような感情的反応をするからであろう」が、「イギリス生まれのフットボールだけが世界の人びとによって盛んにおこなわれるようにな」ったことは「単純に、フットボールが誰にでも親しまれるような面白さや楽しさをもっていたからであるというように考え」るべきではなく、イギリスが資本主義国として巨大な支配地域と富を築きあげ、政治・経済の優位性とそれを支える科学、技術、学問、思想、制度等々が、彼らの創出した文化財の文化的価値を高めていたということに注目する必要がある、と指摘しています。

    大変重要な視点だと思います。

    とはいえ、スポーツルールについてあれこれ考えることが、文化の多様性を考えることにつながることは実にいいことではないでしょうか。中村さんはスポーツルールの不思議をほかにもいくつかあげています。
    ・ラグビーのボールはなぜ楕円球か
    ・アメリカン・フットボールのタッチ・ダウンはなぜ6点なのか
    ・バレーボールはなぜ3回で相手コートにボールを返さなければならないのか
    ・陸上競技の三段跳びはなぜ三段跳びなのか、四段跳びや五段跳びではなぜいけないのか

    笑ってしまいそうですが、確かに、という疑問ですよね。

  • 2023.08.03

    「R16」から酷道・道路趣味へ

    本校のすぐ側を通る国道16号をとりあげ、「R16へのこだわり」と題してブログで2回書きました(7月27日、28日)。その続きというわけではないのですが、毎日新聞に『「酷道」にひかれて』という記事が掲載されていて(7月23日)、そうそう国道・酷道の本があったと、書棚から発掘しました。引き続き16号もでてきます。

    『ふしぎな国道』(佐藤健太郎、講談社現代新書、2014年)
    『国道者(こくどうもの)』(佐藤健太郎、新潮社、2015年)

    筆者の佐藤さんは、道路を面白がり興味を持つのはなぜか、鉄道ならまだわかるけどと、何度も聞かれたそうですが、「鉄道方面には全く何の興味もない」。ああ、そうですかと「鉄」としては苦笑せざるをえませんが、『ふしぎな』は「道路そのものを楽しむために書かれた国道マニアの入門書」とされ、国道の歴史や特徴のある国道などが紹介されています。その一節として「酷道趣味」があり、また「国道標識に魅せられて」などマニアックな内容も含まれています。

    では酷道って何? ということですが、毎日新聞の記事がわかりやすいです。

    幹線道路としてのイメージがある国道だが、道幅が5メートルに満たなかったり、崖の上を急カーブを繰り返しながら通ったり、木々に覆われ林道のようだったりする道もある。そんな悪路を人は「酷道(こくどう)」と呼ぶ。通行困難で、思わず「これはひどい」とため息をもらしそうな道だ。

    はい、青森県の竜飛岬にある車の通れない「階段国道」などは、旅行ガイドブックにも「名所」として掲載されよく知られています。

    佐藤さんによると「危険な都道府県道などには「吐道」(都道)、「獰道」(道道)、「腐道」(府道)、「険道」(県道)、「死道」(市道)、「苦道」(区道)、「損道」(村道)などという言葉も存在している」。ちょっと笑ってしまいますよね。
    そして「こうした酷道の愛好者は多く、道路趣味者の中でも最大勢力を誇っている」のだそうです。

    /
    この形の国道の号線の標識をマニアは親しみをこめて「おにぎり」と呼ぶそうです。うまいネーミングですねえ。

    「ROUTE」との英文表記も加えられますが中にはスペルが間違っているものもあり、それらを探すのもマニアの楽しみ? だとか。

    まさか、と疑ってしまいますが、『ふしぎな』に実例写真が何点か掲載されています。

    『国道者(こくどうもの)』は北海道から沖縄まで、特徴のある国道を「号線」に分けて紹介しています。

    「国道16号」については、首都圏を大きく回る国道で「東京環状」とも言われるものの、三浦半島の先端近く横須賀市の走水と東京湾を挟んですぐ対岸の千葉県・富津岬の間が海に隔てられていて、もちろん道路はなく、完全な環状になっていないことを指摘。この東京湾の道路が欠けている部分にかつて「東京湾口道路」を造ろうという計画があったこととの関連に触れます。

    東京湾の神奈川県側と千葉県側をつなぐ道路としては「東京湾アクアライン(トンネルと橋)」があるわけですが、それよりももっと東京湾の入り口に近いところにも道路橋をつくろうという計画でした。

    そうそう新聞記者時代に建設中のアクアラインを船で視察取材する機会があり、それとは別にもう一つ東京湾と横断する橋を造ろうという計画を知り、びっくりしたことを思い出しました。『国道者』によると、この「東京湾口道路」計画は事実上棚上げになったそうです。そうでしょうねえ。

    どちらの本も「へーっ」の連続で、あまり難しく考えず楽しく読めると思いますが、筆者の佐藤さんも、毎日新聞の記事でもふれていますが、酷道はかなり危険なところもあり、走る際には十分な準備と注意が必要ということでした。

  • 2023.08.02

    プリコジンの「乱」本能寺の「変」

    ウクライナに侵攻しているロシアの民間軍事会社ワグネルの創始者、プリゴジン氏がロシア・プーチン政権に対して反乱を起こした事件がテレビ報道などで「プリゴジンの乱」などと呼ばれているのがずっと気になっています。日本史では「乱」とか「変」とかおなじみですが、そもそも外国での出来事だし、誰が命名した?

    おりしも、これまでしつこく取り上げているNHKの大河ドラマ「どうする家康」は織田信長が明智光秀に討たれる「本能寺の変」が終わり、その時大阪・堺に滞在していた家康が少人数の部下とともに領国・三河に逃げ帰る必至の逃避行、いわゆる「神君伊賀越え」が30日放送の中心でした。

    日本史ではこの「本能寺の変」という名称は当然のごとくに使われ、「本能寺の乱」とか「本能寺の戦い」とか言われません。では「乱」と「変」、その違いは、ということが気になりだすとスルーできない性格。というわけでずばり

    『乱と変の日本史』(本郷和人、祥伝社新書、2019年)

    これまで何度も紹介してきた本郷さんの著作、何やら困った時の本郷さん、かしら。

    本郷さんは日本の歴史のなかで起きたさまざまな戦争・戦いの名称について

    「乱(例・承久の乱)」
    「変(例・本能寺の変)」
    「役(例・前九年の役)」
    「戦い(例・長篠の戦い)」
    「合戦(例・宝治合戦)」「陣(例・大阪の陣)」
    「騒動(例・霜月騒動)」

    などをあげています。(宝治合戦、霜月騒動はいずれも本郷さんのご専門、鎌倉時代の出来事でちょっとなじみがないかもしれません)

    この本で初めて知ったのですが、1221年(承久3年)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとして敗北した「承久の乱」は戦前は「承久の変」と呼ばれていたのだそうです。武士(鎌倉方)が朝廷に勝ったこと(上皇が流罪となった)を国民に広く知らせる必要はないという歴史観のもと、大した戦いではなかったという意味で「変」を使い、学校ではあまり教えなかったとも説明しています。

    この例をあげて本郷さんは「国全体を揺るがすような大きな戦いを「乱」、影響が限定的で規模の小さな戦いを「変」ととらえていいのではないか、非常に大きな歴史変動を引き起こす事案が「乱」、それほどでもないのが「変」、単発の戦いではなく数か月から数年かけて起きたひと続きの戦いであれば「乱」ととらえていいかもしません」と書いています。

    としつつも、「実は、何をもって「乱」「変」「陣」「役」「合戦」と言うか歴史学上の定義はない、学問的には決まったルールはない」「学術的に分類していくべきだが、学界ではそういう取り組みがなされてきていない」とし、「私(本郷さん)の感覚では、戦争がもっとも規模が大きく、次いで「役」「乱」「変」「戦い」と規模が小さくなっていくように思います」と結んでいます。

    辞書的には(三省堂国語辞典第八版)

    「乱」 戦争。騒動。内乱。「応仁の乱」
    「変」 事変。事件。「桜田門外の変」
    「役」 昔の、大きな戦い。「西南の役(=西南戦争)」

    などとあり、説明はないものの「乱」の方が「変」より戦いの規模が大きいようには読み取れますね。

    少なくとも、その戦い・争いを起こした当事者が「これは〇〇の乱だ」「これは〇〇の変だ」と自称、あるいは公言し、記録に残したということは日本史の中ではあまりないでしょう。その戦い・争いを後日、記録者あるいは研究者、歴史家が「〇〇の乱」とか「〇〇の変」とか呼び、場合によってはいろいろな呼び方が並び、例えば教科書に使われることなどによって、呼び方として残るべきものが残った、ということなのでしょう。なので「承久の変」が「承久の乱」に代わることもありうるわけです。

    さてそうなるとプリゴジンの乱、確かにこのように名付けるともっともらしく聞こえますが、プリゴジンの反乱でなぜだめなのか。本郷さんが書いている、単発の戦いではなく数か月から数年かけておきたら「乱」という見方をあてはめると、今のところプリゴジン陣営の軍事行動はあっというまに終わってしまっています(モスクワに向かったいう武装勢力はすぐに引き返しました)。このプリゴジン氏の動きが非常に大きな歴史変動を引き起こす事案なのかも現時点では見通せません。もしかしたら「プリゴジンの変」くらいかも。

    7月30日の毎日新聞朝刊では「ワグネル」の反乱、と書いています。プリコジン氏がワグネルのリーダーであることは間違いないわけですが、今回の反乱がプリコジン氏一人の強い意志なのか、組織としてのワグネルがどう関わっているのかによって、「反乱」のとらえ方が変わってきますね。

    いずれにしても、これ、外国のメディアの命名ではないでしょう。国内で誰かが最初に言い出したのでしょう。どこかのメディアか。メディアが言い出し使いだして定着するネーミングもあれば、消えていくものもあります。さあ、この「プリゴジンの乱」とうい名称が生き残るかどうか、そちらも注目です。

  • 2023.07.31

    サッカー代表チームの専属シェフ

    サッカー女子ワールドカップ(W杯)1次リーグで日本代表なでしこジャパンはきょう31日、スペインと対戦です。この日の朝日新聞の「天声人語」で女子サッカーは男子に比べて待遇面などで差がある現状が指摘されています。海外遠征でも女子チームはこれまで飛行機はエコノミークラスでの移動がほとんどで、今回のW杯のオーストラリア・ニュージーランドへの移動は初めてチャーター機が使われたとのこと。これはすでにニュースで聞いていましたが、加えて「専属シェフもいると聞いてほっとする」と書かれていました。よかったです。

    この専属シェフは西芳照さんで、お住まいの福島県の地元紙のネットニュースで確認しました。その西さんの著作があります。

    『サムライブルーの料理人 サッカー日本代表専属シェフの戦い』(西芳照、白水社、2011年)

    サブタイトルにもあるように、西さんは男子代表チームの専属シェフとして貢献してきました。

    福島県にあるナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」で総料理長をしていた西さんに代表チームの専属シェフを、という声がかかり2004年のW杯ドイツ大会アジア予選からチームに同行、W杯もドイツ大会、南アフリカ大会にシェフとして帯同し、選手たちとともに戦ったわけです。この本は南アフリカ大会の後の時点での記録です。

    選手が外国でも衛生面で安心して食事ができることは当然のことで、ほっとできるであろう和食の提供、また試合前、試合後のコンデションや疲労度などを配慮したメニューを考え、必要に応じて国内から食材を持ち込み、また現地で調達する。そんな苦労が語られています。本の後半は2010年のW杯南アフリカ大会の「日記」というスタイルで、毎日のメニューが紹介されています。

    長い期間一緒だった岡田武史監督(当時)や、中村俊輔、長谷部誠、中澤佑二各選手らとのやりとりなども、興味深いですよ。

    そんな西さんですが、地元紙の記事によると、昨年のW杯カタール大会で男子代表トップチームの専属シェフは引退、女子のなでしこジャパンへの同行は、昨年インドで開かれたW杯予選を兼ねたアジア・カップ以来2度目、ニュージーランドは食料品の持ち込み規制が厳しいため、現地での調達が増えそう、とのこと。

    なでしこジャパンはすでに1次リーグ突破を決めており、西さんのメニューもその後押しになっていることでしょう。

    サッカー代表チームの「裏方」の本をもう1冊。

    『通訳日記 ザックジャパン1397日の記録』(矢野大輔、文藝春秋、2014年)

    岡田武史監督の後、2010年~14年に男子代表チームの監督を務めたのがイタリア出身のアルベルト・ザッケローニさん。「ザック」の愛称で呼ばれました。その通訳を務めた方が自身の「日記」をもとにその「戦い」を振り返りました。ミーティングでの監督の話し、代表選手選考や個々の選手の評価など、チームの戦術にもかかわってくるので結構なまなましいところもあります。

    いずれにしても、代表チームは監督、選手だけでなく多くのスタッフによって支えられていることがわかります。

  • 2023.07.28

    ミュージシャンから派生してーーR16へのこだわり ②

    細野晴臣さん、大瀧詠一さんだけではない国道16号つながりのミュージシャンとして矢沢永吉さん、ユーミンの2人をあげている本を紹介しましたが、国道16号線を主題にした本をもう一冊。

    「国道16号線スタディーズ」(塚田修一・西田善行編、青弓社、2018年)

    国道16号線へのこだわりがさらにディープというか、ほとんど論文集です。社会学やメディアの研究者などがそれぞれの視点で首都圏郊外のさまざまな表情を描きだします。

    「狭山・入間」についてはこんな記述があります。

    「入間市でないところに入間、狭山市でないところに狭山の地名が散在する事態が残されている」
    そうなんです、私もかねてから疑問でした。

    筆者は「ここで目を向けるべきは、狭山市と入間市の間に、二つの市が誕生する以前から存在し続ける基地だろう」とし、1937年、入間川町(現・狭山市)と豊岡町(現・入間市)にまたがる土地が軍用地として買収され、大日本帝国陸軍航空士官学校となり、さらに在日アメリカ軍ジョンソン基地となり、現在の航空自衛隊入間基地へのつながっていくことから、説明していきます。

    その航空士官学校を要として豊岡町、入間川町と周辺7か村の合併構想があったが実現しないまま敗戦となり、ジョンソン基地をはさんで北東側に狭山市、南西側に入間市がそれぞれ誕生したのだそう。

    この歴史とは別に、本校にも関わるであろう国道16号線と基地に関することが書かれています。

    1911年に日本で最初に飛行場として「所沢飛行場」ができ「陸軍航空学校」も設定されます(これが今の航空公園の由来ですね)。その学校の分教場として「当時の入間郡元狭山村・宮寺村・東金子村・金子村にかけての一帯に建設された飛行場がある。その名は「陸軍狭山飛行場」、現在の入間基地とは別の場所に、もう一つの飛行場があった」

    あれあれ、本校周辺のなじみのある地名です。

    さらに「狭山飛行場があったのは、現在の入間市南西部、十六号線宮寺交差点や三井アウトレットパーク入間の西方、武蔵工業団地などが立地する一帯である」として、「入間市史」に収められている航空写真が掲載されています。そのこともあって、この地に入間市立狭山小学校があり、狭山ゴルフクラブがある、とされています。

    国土地理院の空中写真のデータベースで探すとありました。おおきな四角いスペースが広がっています。本校のすぐ北側に飛行場が広がっていたようです。


    写真は「国土地理院地理空間情報ライブラリー」より。同ライブラリーのデータによると1944年(昭19年)9月24日、陸軍によって撮影されています。
    下の写真は書き込みを入れてみました。赤い線に囲まれた四角のスペースが飛行場だと思われます。滑走路が写っていませんが、軍事施設なので当時、写真を加工したのでしょう。
    四角スペースの左下隅、楕円形で囲っているところに、兵舎あるいは格納庫のような建物がいくつも並んでいることがわかります。
    右上から大きく曲がって飛行場の下を左に伸びている線が現在の国道16号にあたる道路でしょう(矢印で示しています)
    ほぼ中央部分に三角形で示した場所が現在、東野高校があるところです。

  • 2023.07.27

    ミュージシャンから派生してーーR16へのこだわり ①

    ミュージシャンの細野晴臣さん、大瀧詠一さん、このお二人の住まい兼音楽スタジオは本校のすぐそばを通る国道16号線で結ばれていたことになり、お二人は何度もこの道路を走ったのでしょう。どちらの地域も本校スクールバスの運行範囲内で、国道16号線はスクールバスが毎日走っています(ただ細野さんが自宅で録音した「HOSONO HOUSE」が発売された1973年には本校はまだ開校していないのですが)。

    『国道16号線 日本を創った道』(柳瀬博一、新潮社、2020年)

    『国道16号線 日本を創った道』筆者の柳瀬さんはこの道路を「日本最強の郊外道路」であり「日本の文明や文化の誕生に重要な役割を果たしてきた」と言います。「そんな大げさな」、ではなく、古代から近現代までこの道(もちろん昔は国道ではないです)沿いに人が集まり行き交い、重要な商品流通路となり、軍隊の施設が集中したことなどが語られます。

    もちろん細野さん、大瀧さんのことも語られています。さらに、本校の通学圏からはちょっと離れてしまうのですが、この本では16号線から巣立った日本を代表するミュージシャンとして矢沢永吉さん、ユーミン・松任谷由実さんかとりあげられています。

    矢沢さんは1980年のアルバム「KAVACH」の中の1曲「レイニー・・ウエイ」で16号線をとりあげているそうですが、歌詞に登場するのは本牧と横須賀、ちょっと縁遠い? かも。

    ユーミンは出身が八王子なのはよく知られていて同市から本校に通う生徒もいますが、2006年のアルバム「A GIRL IN SUMMER」に16号線がタイトルに入った「哀しみのルート16」が収められていることが紹介されています。

    このアルバムは持っているかどうか自信はないのですが、調べてみるとベストアルバム「日本の恋と、ユーミンと。」に収録されているとのことなので、そちらで聴いているのはまちがいない。この本で歌詞の一部が引用されていますが、それを読んだら、メロディがすぐ浮かんできました。

    ただ、歌詞に「ルート16」とは出てくるものの、具体的な地名はでてきません。ということだからでもないのでしょうが、ルート16というのがこの国道16号線とは、この本を読むまでほとんど意識したことがありませんでした。すいません。

    まあ、中央自動車道(中央高速)を「中央フリーウエイ」にしてしまう人なのだがら、国道16号線をそのまま使わないでしょう、ルート16とし、さらに「Route16」と英語表記にしているところがいかにもユーミンですね(歌詞カードでのことなので歌ってしまえば同じですが)。聴く人に歌の舞台を自由に想像させることもねらっているのかもしれません。抽象的な歌詞ならば外国が舞台であってもかまわないわけです。

    学生時代、ユーミン初期の作品はリアルタイムで聴いていましたが、細野さんはベーシストなどとしてかなり重要な役割を果たしています。

    なお、この本は新潮文庫の最新刊でも発売されています。

    「Route16」ならぬ「Route66」

    そういえばで思い出しましたが、「Route66」というジャズのスタンダート曲があります。こちらはアメリカの国道。ユーミンはこの曲を意識したかな。

    歌の内容のトーンはだいぶ違いますが。「Route66」の方は「Get your kicks Route66」と繰り返し出てきます。ルート66を楽しもうぜ、ドライブを楽しもうぜ、といったところ。ユーミンの「Route16」はタイトルにあるように「哀しみ」です。失恋の歌かな。

    アメリカの「Route66」については、こんな本があります。

    『ルート66をゆく―――アメリカの「保守」を訪ねて』(松尾理也、新潮新書、2006年)

    筆者は産経新聞の記者、アメリカのほぼ中央部を横切るルート66(Route66)をめぐる優れたルポルタージュです。このルート66沿いの州、町はアメリカの中でも比較的保守層の多い、共和党の強い地域でトランプ大統領を生む原動力になったところでもあります。この本が出たころはもちろんトランプ大統領など誰も想像していなかったのですが。

  • 2023.07.26

    本校通学圏内から生まれた名曲 その2

    ミュージシャンの細野晴臣さんのソロアルバム「HOSONO HOUSE」(1973年)が録音されたのが狭山市にあった元米兵向け住宅だったわけですが、米兵向け住宅とミュージシャンとの関連で有名なのは大瀧詠一さんで、やはり「はっぴいえんど」のメンバーです。同じ米軍基地でも、こちらは横田基地周辺の米軍ハウスを自宅兼レコーディングスタジオにしていたということは私も学生時代の音楽雑誌で知っていました。

    『ぼくが出会った素晴らしきミュージシャンたち』(岩田由記夫、ウェイツ、2009年)

    音楽ライターのインタビューを交えた交遊録的な本ですが、その中では大瀧さんについて「福生のご隠居さんが業界及びファンたちの共通呼称というか、ニックネームであり、かつ自称でもある」と紹介されています。1948年生まれの大瀧さんはこの本の出版時点でも還暦くらい、「ご隠居」は失礼でしょうが、人気ミュージシャンが都心から離れたところに「あえて住んでいる」ということもあったのでしょう(住んでいる方、ごめんなさい)

    『東京23区外さんぽ』(泉麻人、平凡社、2018年)

    筆者の泉麻人さんは私とほぼ同世代で、東京で生まれ育った地域が近いこともあって親近感を持ち、かなりの著作を手に取ってきています。東京関連の本をたくさん出していますが、同書は「23区外」の市町村の「散歩エッセー」(はしがきより)で、本校通学範囲内の武蔵村山市、福生市、羽村市、青梅市などが出てきます。

    大瀧さんに関して何か所か出てきますが、スタジオが「福生45」と名付けられていたが「ぎりぎりのところで瑞穂町の領域」、瑞穂町図書館には地域資料の一つとして「大瀧詠一さんコーナー」があり大瀧さんのCDや関連書物が所蔵されているそうです。大瀧さんのお墓は羽村市にあるそうです。

    大瀧さんは2013年末に亡くなられていますが、「さらばシベリア鉄道」(太田裕美さん)「風立ちぬ」(松田聖子さん)「夢で逢えたら」(吉田美奈子さん)などの作品は一度は耳にしたことがあると思います。

    /
    大瀧さんの代表作がこの「A LONG VACATION」(1981年)。ファンの間では「ロンバケ」の愛称で呼ばれるそうです。「君は天然色」「カナリア諸島にて」など、後にCMソングとして使われた曲も多く、「さらばシベリア鉄道」は本人が歌っています。ミュージックテープ(カセットテープ)で購入、近年、CDで買い直しました。しかし、最初、何でカセットテープで買ったのか・・・

    「瑞穂町図書館」の公式ホームページはこちらから

    『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(村上春樹・吉本由美・都築響一、文藝春秋、2004年)

    村上春樹さんは説明不要ですね、エッセイスト・スタイリストの吉本由美さん、「えっこんな写真撮るの」といつも驚かせてくれる都築響一さんの3人のグループ名が「東京するめクラブ」。名古屋、熱海、ハワイ、江の島、サハリンなど、それぞれの興味の向くまま歩いて語る旅行記、この顔ぶれからして、おもしろくないわけがない。

    なんでこの本をここでとりあげたか。「地球のはぐれ方」というタイトル、「地球の歩き方」を意識してますよね、パロディと言っていいかも。そのあたりははっきりと書かれていませんが、「この本はガイドブックではない」と文中で繰り返されているので。

    と、えらそうに書いていますが、実は「地球の歩き方 埼玉」を買った後、書棚でこの「はぐれ方」が目に入り、「これってパロディ?」と気づいた次第です。

  • 2023.07.25

    本校通学圏内から生まれた名曲 その1

    今年の2学年の修学旅行はカナダ、北海道、沖縄の希望別3方面。事前準備としてたくさんの資料にあたって欲しいと思いますが、多くの人がまず手にとるのが旅行ガイドブックでしょう。たくさん発行されているガイドブックの中でよく知られたものの一つに「地球の歩き方」シリーズがありますよね。

    『地球の歩き方 埼玉』(2023~24)

    1979年の創刊以来、世界各地を紹介するガイドブックで100タイトル以上販売されているそうです。修学旅行先である「カナダ西部」はもちろん国内目的地の「北海道」「沖縄」もあります。そのシリーズで「埼玉」が先ごろ発刊され、書店で平積みされていたのでつい衝動買いしてしまいました。「埼玉」は初めてのことのようです。(「日本」というのも出ていてこれも話題になりました)

    本校所在の入間市に関しては、本校に隣接する「入間市博物館ALIT」や「旧黒須銀行」「ジョンソンタウン」などが紹介されています。

    驚いたのは「1973年の狭山市アメリカ村」というコラム。ミュージシャンの細野晴臣さんが1973年に発売したソロアルバム「HOSONO HOUSE」が狭山市の自宅でレコーディングされた、というエピソードでした。

    狭山市から入間市にかけて駐留米軍のジョンソン基地があり、入間市の「ジョンソンタウン」もそこからきているのですが、基地周辺の米兵向け、家族向けの住宅が駐留の撤退につれて空き家になっていき、そこに移り住む若者が増えていった。稲荷山公園周辺は「狭山アメリカ村」と呼ばれるようになり、細野さんも移り住み、その自宅で録音をしたのだそうです。

    後に発売されたCD版の解説には以下のように書かれています。

    「国道と緑深い丘の間にゆったりとした間隔で整然と並ぶ木造平屋建て壁には白いペンキが塗られ、その一角の光景は日本というよりアメリカの郊外のようだった。(中略)間取りは20畳ほどのリビング・ルームに6畳~12畳のベッド・ルームが2~3室、そしてキッチン、バス、トイレというのが標準だったように思う」

    「レコーディングにあたっては、リビング・ルームに16トラックのミキシング・コンソールが置かれ、演奏には8畳ほどのベッド・ルームが使われた。平均的な日本の家屋より広いとはいえ、機材や楽器やコードの束で、家の中は足の踏み場もないような状態だった」

    細野さんは、欧米の音楽、つまり主に英語の歌詞の音楽だったロックミュージックを日本にどう取り入れるか、日本語でロックになるのかと試行錯誤されていた時代に一つの答えを出した伝説的なバンド「はっぴいえんど」のメンバーで、その後、先ごろ相次いで亡くなった高橋幸宏さん、坂本龍一さんとYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を結成し、世界に知られるようになります。

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    細野さんの自宅で録音された「HOSONO HOUSE」(CD)
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    「はっぴいえんど」解散後に発売されたいわゆる企画・編集版のCD
  • 2023.07.22

    学級通信 彩々--1学期を終えて

    20日に1学期終業式があり今日21日から夏休みに入りました。終業式ではこの長い休みはきちんと計画をたて有意義に使って欲しいと話しました。早速合宿に向かう部活動もあり24日からは夏期講習も始まります。
    この区切りにあたって各学年、各クラスから生徒、保護者のみなさんあての「通信」が発行されています。内容についてはもちろん教員一人ひとりが工夫して書いているのですが、そのタイトルにも教員の願い、希望が込められています。他クラスの通信を見ていただくのは難しいですが、タイトルだけでも「思い」は伝わると考えますので、いくつかご紹介します。

    シンプルに

    まずシンプルに「〇〇クラス通信」「学級通信」というタイトルのものがあります。もちろん見出し、本文の「自分を、鍛える夏」(1-A6)「高校最後の夏、君たちはどう過ごすか」(3学年)に教員のメッセージが込められています。

    「2回目を頑張ることができなければ、、、」という見出しが目を引きました(1-S2)。担任自身が恩師から言われた「一つのことを3回やる時には2回目でベストを出すべきだ」ということばを引き、3学期頑張ればいいではなく、2学期こそ一番頑張ろう、と呼びかけています。なるほど。

    「漢字熟語」

    「漢字熟語」では「凡事徹底」(2-A8)「一期一会」(1-S1)「克己復礼」(1-A8)「獅子奮迅」(3-A2)「日々進化」(3-A6)「日々是好日」(3-S2、3-A3)などは、学級目標をタイトルにしていたり、担任の願いをストレートに反映しています。

    「後生可畏」(3-S1)、これは難しい。辞書ひいてしまいました。「こうせいかい」と読み、若い人はまだまだ可能性を秘めているので敬うべきだという意味だそうです。3年のクラスにふさわしいし、漢語の学習にもなりましたね。

    「邂逅」(2-A1)、「かいこう」はクラスでの初めての出会いを大切にしたいと考えてタイトルにつけたそうです。「東雲」(1-A3)、「しののめ」は夜明け前、東の空がわずかに明るくなるころ、「入学してきた皆さんにぴったり」とのこと。

    漢語ではありませんが「凛と咲く花のように」(2-A5)、雨や強い風にも負けずに咲き続けてる花になってほしい、同時に「私(担任)自身も凛とした担任を目指したい」。

    花では「さくら咲くまで」(3-A4)、来年春の進路決定が楽しみです。

    英語・外国語

    そして外国語のタイトルです。

    「Departures」(2-I1)は「出発、出国、旅立ち」、「Wings」(3-A5)「SPECIAL」(2-S1)、「Assist」(2-A7)、「Future」(進路指導部通信)などは、それぞれのクラス生徒の状況をふまえて、「向かっていく、はばたいて欲しい」という教員の願いが感じられます。

    「Butterfly Effect 蝶の小さな羽ばたきが、時に大きな嵐となる」(3-A7)、これも思わず調べてしまいました。小さな変化が別の場所で大きな影響を持つ現象をさすそうです。進路実現を目指す3年生へのメッセージ、エールですね。

    「Animato」(1-A7)「アニマート」、イタリア語で音楽を表現する時に使われることば「元気に、生き生きと」、「Gran Alegria」(2-A2)はスペイン語で「大歓声」、「静かで落ち着いた日常もあれば大歓声にわくときもある、そんな1年にしましょう」と呼びかけました。

    最後にこれ。
    「Where there is a will、there is a way」(1-A1)、「意志あるところに、道は開ける」。アメリカ大統領、リンカーンのことばだそうです。クラス通信にとどまらず、生徒みなさんに贈りたいことばですね。

    1学期終了、夏休みを前に発行された学級通信の数々(一部です)

  • 2023.07.20

    「極楽征夷大将軍」--祝 直木賞受賞

    20日の朝刊各紙などで伝えられていますが、第169回直木賞に垣根涼介さんの『極楽征夷大将軍』(文藝春秋)、永井紗耶子さんの『木挽町のあだ討ち』(新潮社)が選ばれたとのこと。「極楽」はつい先日読んだところなので(直木賞候補として発表される前です)、こちらだけ少し感想を。

    あらすじについては、以下、2紙の記事が簡潔にして十分かと。プロの記事なのであたり前ですが。

    <毎日新聞7月20日朝刊>
    「向上心も野心もなく、周囲から「極楽殿」とからかわれた尊氏がなぜ天下を取れたのか。数奇な人生を弟・直義、重臣・髙師直の視点から描いた」

    <朝日新聞7月20日朝刊>
    「受賞作は室町幕府の初代将軍、足利尊氏の半生を弟の直義と側近の髙師直の目から描いた歴史巨編。野心も信念もなく、周りから「極楽殿」と陰口をたたかれていた尊氏が、激動の南北朝期を生き抜いた謎に迫る」

    日本の歴史の中で異論のない三つの幕府、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府のトップが「征夷大将軍」という役職に任命される慣習があることは、いまさら説明の必要はないでしょう(これ以外にも鞆(広島県)に幕府があったといった説もありますが、とりあえずは教科書的にこの三つで)。

    それぞれの幕府の初代将軍、源頼朝、足利尊氏、徳川家康の3人を比べた時に、頼朝や家康の生涯は比較的わかりやすく、みずからがリーダーになるべく「野心」や「向上心」「信念」などを持って行動していたことがうかがえます。だからというわけではないでしょうが、それだけに小説、ドラマにもなりやすい。

    ところが尊氏はどうでしょうか。源氏の名門でありながらくすぶっていた足利氏でしたが、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の呼びかけに応じて挙兵し、活躍するあたりまではわりとわかりやすい。ところが、鎌倉幕府が倒れた後に後醍醐天皇政権と相いれなくなり、別の天皇を擁立して対立、後の南北朝対立が始まります。

    そこに、弟の直義、重臣の髙師直とその一族、もともと足利氏と関係が深く関東で力を持っていた上杉氏、さらには尊氏の子らが敵味方に分かれあるいは時に手を組むなどしてあちこちで戦い続ける。敵対していたはずの南朝とも一時的に和解してしまう。小説やドラマにはしにくいでしょう。

    歴史研究での尊氏と直義との関係については、戦後の中世史研究をリードした佐藤進一先生(故人)の、二人の役割分担についての画期的な論考があり、その後、批判も出てきていますが、いまでも、この佐藤先生の考え方は引用され続けています。

    大胆に解釈すると、尊氏は軍事面、直義が政治担当といったくくりで、学術用語として尊氏は人(武士)を従える「主従制的支配権」、直義が「統治権的支配権」を担ったと説明されます。乱暴に言い換えると尊氏が武士の「リーダー」としてほかの武士を従える立場、その武士たちの領地の争いなど政治的なことは直義が仕切る、といったところでしょうか。

    垣根さんの小説も、この考え方から大きく外れてはいない印象ですが、肝心なところはほとんど直義、髙師直が仕切っているようにも読めます。もっといえば、尊氏はほとんど「お飾り」。それについて尊氏本人に何の不満もなく、直義に感謝し続けているあたりが「極楽殿」なのでしょう。ただ、尊氏の不思議な魅力というか裏表のないキャラクターに心酔してしまう武士も描かれていて、そのあたりに「リーダー」としての尊氏の素養を描いているようにも読めました。

    ちょっと飛躍した読後感としては、おれがおれがで前面に出るリーダーより、むしろトップが何もしない方がうまくいく、といった、日本の歴史の中で結構あるパターンがここにもあてはまるのかな、とも思いました。

    朝日新聞にあるように「巨編」で、結構なページ数。ちょっと中だるみ感もありましたが、おもしろく読めました。

    垣根さんの歴史ものとしては『信長の原理』『光秀の定理』があり、どちらも読んでいるはずなのですが、内容はすぐに出てきません。タイトルからして面白そうですよね。後日機会があれば。

    尊氏、直義の兄弟が対立、それぞれに各地の勢力が加担し、全国で戦闘が続いた状態は当時の元号を用いた歴史用語で「観応の擾乱(じょうらん)」と呼ばれます。そのものズバリのタイトル『観応の擾乱 』(亀田俊和、中公新書、 2017年)。サブタイトルに「 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い」とあります。

    佐藤先生の著作としてはこれ。論文でなく一般向けですが、内容は高度ながら実に読みやすい。名著だと思います。学生時代に読んで最近、買い直して読み直しました。
    『日本の歴史 9 南北朝の動乱 』(中公文庫、1974年、改版2005年)