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  • 2023.07.06

    「自然」「もの」から歴史をみる その1

    歴史は人によってつくられる、というか人の営みの継続が歴史ということなので、人がなしえたことを探り、あきらかにしていくのが歴史家の仕事であることは言うまでもありません。ただ、「自然」や「もの」を切り口にする歴史もなかなか興味深いものがあります。面白く読んだ近刊を紹介します。

    「イワシとニシンの江戸時代--人と自然の関係史」(武井弘一・編、吉川弘文館、2022年)

    イワシ、ニシンはあの食べる魚です。それと江戸時代、なんのことかというと、どちらも江戸時代に肥料として大変重宝されました。とはいえ、養殖などができない江戸時代には、海で獲るしかなく、豊漁があれば不漁もある。農作業をする百姓にとっては死活問題でもあるわけで、ヒトともの(イワシやニシン)との関りが史料にもとづいて丁寧に語られています。

    江戸時代は商業が次第に発達していきますが、やはり農業、米作りが主産業、というか、幕府・大名の税金は米で取られたので、とにかく水田を増やす、米の生産量を増やすことにやっきになります。そのためにはよい肥料が必要です。糞尿や草木の肥料では量に限界があり、魚由来の肥料「魚肥」に頼ることになるわけです。逆にいえば、イワシやニシンという魚肥があったからこそ江戸時代の新田開発が可能になった、とも言えるでしょう。

    本書は、特に関連する史料がよく残っている加賀藩(石川県)の事例をその研究者が担当、また農業の歴史や流通経済の専門家らが分担して執筆しています。

    どのあたりの海で獲れたのか、どのような漁法(網の種類・変化など)で獲っていたのか、その後、どのように運ばれ、加工されて肥料となったのか、そして長い江戸時代を通じて、イワシだけではまかないきれなくなってニシンの需要が高まったいったことが紹介されています。

    例えば、ニシンが獲れるのは蝦夷地(北海道)なので、そこから日本海ルートで近畿地方などに運ばれてくるわけです。そのニシン漁には蝦夷地のアイヌの人たちが深くかかわっていたという大事な指摘もされています。

    イワシが古くから千葉県・九十九里浜などで多く獲られて肥料になっていたことは、千葉県内の博物館などで展示・紹介されているので予備知識はありました。また、北海道のニシンについても、北海道の歴史には欠かせない視点であることも理解はしていたつもりですが、魚肥がイワシからニシンにシフトし、それがどのように各地に広がっていったのか、やがてその役割を終え、近現代の肥料は化学肥料にとって代わることまでが、わかりやすくまとめられていて、大変勉強になりました。

    「今の農業は化学肥料に大きく依存し、その反面、従来からの魚肥や自然肥料が果たす役割は、しだいに小さくなっている。結局、江戸時代の百姓たちが喉から手が出るほど欲っしていたイワシやニシンは、数が減ったこともあり、かろうじて食用に供されている」とあり、イワシ、ニシンの歴史を通して、ヒトと自然との関わりを考えていきたいと編者は問題提起しています。

    イワシ、ニシンは時々食べますが、これからは味わいがかわりそうです。

    千葉県九十九里町にある「いわし資料館」のホームページ、こちらから

  • 2023.07.04

    本校はどう表現されてきたか その2

    7月3日の創立記念日にあたって、本校のキャンパス、校舎群などがどのように表現されてきたか、新聞記事のいくつかを紹介したのに続き、建築系の書籍から引用します。

    『学校建築の冒険』(INAX BOOKLET Vol.8 No.2 1988年)
    「江戸村や、映画のセットかと見まごうばかりの独特の環境が、しかし決して建築家の恣意的な独走ではなかったことは、ユーザーの誰からも不満の声があがっていないことでもわかる。設置者、建築家、ユーザーが互いの役割を認識しながら、それのみに止まらず、環境創造のデザインプロセスにどこまで関り合えるかを試した意欲的な作品である」

    「意欲的な作品」といった書き方が建築系ですね。

    『ポストモダン建築巡礼』(磯達雄・文、宮沢洋・イラスト、日経アーキテクチュア編、2011年)

    1975年~95年の間に建てられた、いわゆるポストモダン建築50の中に東野高校が選ばれ、写真イラスト付きで紹介されています。「カワイイ建築じゃダメかしら」というタイトル、ちょっとかわった視点での紹介記事です。取材者が本校を訪れてキャンパスを歩く、というルポ形式となっています。

    「小高い丘の上に位置するここ(旧食堂棟)からは、キャンパス全体が見渡せる。普通の学校なら、屏風のような校舎が視界を遮っているところだが、ここでは小さな家が立ち並ぶ集落のような光景が広がっている」

    このあたりは「集落」という言葉づかいもあって、木造建築、村といった従来の形容との共通点が感じられます。

    「カメラを持ってキャンパスを歩いていると、どこもかしこもシャッターを切りたくなる。そして、建物の中も外も居るのが楽しい」とあり、学校関係者としては嬉しい表現です。

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    さらに続きます。

    2000年代になってデザイン界で「カワイイ」という形容詞が注目されるようになり、「カワイイ建築」のキーワードは「スモール・スケール・センス」「家型」「こだわり装飾」「豊かな余白」などがあてはまるとし、「つまり東野高校はカワイイのである」

    うーん、ほめられているのでしょうが、なかなか難解ですね。

    「使える」と「カッコイイ」をその価値としてきた建築が、「カワイイ」へかじを切る。その始まりがこの年(1985年)であり、東野高校はその先駆けだったのだ、と結ばれます。

    単純にほめられるばかりではない例もあえてあげておきます。

    このブログでも何回かとりあげている建築史家、国際日本文化研究センター所長の井上章一さんの論考「しろうととしろうととの出会い」です。

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    「SPACE  MODULATOR  NO.68」(日本板硝子、1986年)
    東野高校を特集した雑誌で、本校キャンパスの紹介、写真グラフにあわせて何人もの建築家が本校建築への感想や批評を寄せています。井上さんもその一人です。

    「(東野高校の)建物の意匠は、歴史のなかで我々の脳裏にやきつけられているさまざまな形をくみあわせてつくられている。江戸の倉、なまこ壁、屋敷塀と門、いかにも田舎風の反り橋、イタリアの中世都市、教会、列柱のアーケード、等々である」

    なるほど、一言で特徴を言い表せない、という点ではやはり井上さんも同じです。

    「日本人の目で見れば、ほんらいの倉の腰をいろどるべきなまこ壁が上部にあしらわれているところなど、ちょっとあきれてしまう。池にかかる橋なども、どうかと思わざるをえない。悪口ついでにあえて言ってしまえば、フジヤマ・ゲイシャ風を好む外人の日本趣味が感じられる。擬和風建築といったところだろうか」
    「建築家たちのプロ意識からすれば、この学園はゲテモノであろう」

    いやいや手厳しい。しかし

    「しろうとくささとヘタさが、正々堂々とおさまっている。そして、この雄々しさは、訪問者をじゅうぶんに納得させる。じっさい、私などここしばらく建築鑑賞によってこれほど感銘をうけたことはない。友人たちにも、自信をもって、一見の価値があるところだと断言できる。プロの建築家たちには、こうした表現はのぞめない」

    けなして最後は持ち上げる。

    井上さんの批評のタイトルにある「しろうと」とは学園側(教職員)のことをさすのでしょうが、本校を設計・デザインしたアレグサンダーを「しろうと」と言ってしまうところが井上さんらしい。

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    この雑誌をたまたま手にしてページをめくっていて「あの井上章一が東野高校に見学に来たんだ」と驚きました。「狭山小学校ぞいの道をとおって訪れると、まず大講堂の姿が目にはいる」と書きだしています。

    本校の竣工・開校、雑誌の発行日から1985年~86年に来校していることになります。著作「霊柩車の誕生」「つくられた桂離宮神話」で注目され始めてはいましたが、この時は京都大人文科学研究所の助手でした。

    京都で新聞記者をしていた時に井上さんに取材をして強く印象に残りました。1987年のことで、今振り返ると、この東野高校訪問のすぐ後です。井上さんの本はずっとそれなりに読んできていますが、時を遡って、思わぬところで東野高校に縁があったのでした。

    朝日新聞の記事は、本校図書館に備えてある、朝日新聞のデータベースで検索し、探してもらいました。図書館での調べ学習などに活用しています。

    毎日新聞の記事についても記事データベースを活用しました。

    ここで紹介したものも含めて本校に関する書籍、雑誌などは本校図書館で収集、所蔵しています。

  • 2023.07.01

    創立記念日(7/3)によせてーー本校はどう表現されてきたか

    1984年7月3日、埼玉県の私立学校審議会で東野高校の設置が認可され、翌85年4月の開校が正式に決まりました。この7月3日を東野高校の創立記念日としています。

    他に類を見ない学校建築であり、開校直後から多くの建築雑誌などで特集が組まれ、紹介されました。開校から40年近くなった今でも、本校を訪ねてこられる方がみな驚かれる景観なのですが、全体の構成や校舎群について、ひとことで言い表すのが大変難しい。そこで第三者、建築の専門家らが本校の景観をどう表現したのか、新聞や雑誌の記事からひろってみました。

    開校した直後1985年4月6日朝日新聞夕刊

    「戦後最大の木造建築とされる体育館を中心に、低層一、二階の教室や講堂など二十余棟が、美しく立ち並ぶ。十一日に完工式を迎える新設校、埼玉県入間市、私立盈進学園東野高校。設計者が日本人ならずアメリカ人であったのも皮肉っぽいではないか」

    「元は茶畑だった広大な丘陵地六万六千平方メートルに、池があり、たいこ橋があり、緑があり、川越や倉敷の蔵造をほうふつとさせる建物が散在する。とにかく壮大な夢のキャンパスはできた。なまこ壁の青、手すりの赤。配色を押さえ気味に青によしの伝統を踏まえて見事だ。これから建築界に新しい論争が起こることを予感させる」

    1988年10月24日朝日新聞朝刊、 ユニークな学校建築を紹介する展覧会記事の一節
    「東野高は、なまこ壁の校舎に池を配して、明治初期の日本橋界わいといったイメージだ」

    1994年6月6日朝日新聞朝刊
    「校舎はすべて木造で、二階建ての民家のような教室が並ぶ。設計者のアメリカ人が小さな美しい村といった」

    1995年5月7日朝日新聞朝刊
    「衝撃的なデビューだった。一九八五春、茶畑が連なる狭山台に、切妻屋根にモノトーン調の建物群が姿を見せた。(略)随所に和風を取り入れたデザインもさることながら、片廊下型校舎という学校建築の常識をくつがえして斬新だった。骨太の柱に緑と白しっくいの大講堂。広場につづく正門は市松模様。町家風の教室群と赤い屋根をのせた木造の体育館。赤い屋根に目をつぶれば、大江戸のオープンセットと見まごうばかり」

    1997年9月18日、毎日新聞埼玉版の連載記事の一節
    「日本家屋の様式を取り入れた東野高校の校舎は、廊下を歩くと「コンコンコン」と柔らかな木の音がする。美しい村と呼ばれるキャンパスは初めて訪れる人を驚かせる」

    木造建築、なまこ壁、蔵造り、大江戸のオープンセット、日本風、日本橋界わい――などなど。たくさん特徴があり、私たちがひと言で言い表せない点は共通しています。

    私自身の経験からすると、取材の事前準備、そして記事を書く時には自分が書いた記事、ほかの記者が書いた記事、場合によって他の新聞記事も含めて参考にしますから、これらの記事には同じようなトーンが感じられます。(つづく

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    「第一の門」と「正門」を結ぶ玄関道には桜並木
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    「たいこ橋」の先の桜が満開に

    本校の歴史・沿革はこちらからどうぞ

    本校のキャンパス、施設についてはこちらをどうぞ

  • 2023.06.30

    外国語習得に必要なものは・・・

    朝日新聞6月27日朝刊のコラム「多事奏論」で稲垣康介記者がアスリート(スポーツ選手)の語学力について書いています。

    テニスの全仏オープン車いす部門の男子シングルスで優勝した17歳の小田凱人(ときと)選手の英語での優勝スピーチがすばらしかったそうです。小田選手は外国で暮らした経験はないのですが、テニスの先輩から英語だけは勉強するようにアドバイスを受けたのがきっかけで熱心に学習したそうです。世界でプレーしていくうえで英語が必要だということだったのでしょう。

    卓球の石川佳純さんは滑らかに中国語を話すのですが、卓球の強豪中学に入学した際出会ったのが中国人のコーチで、卓球上達のために中国語を習得しようと本気になったそうです。

    稲垣記者は「二人のアスリートに共通するのは、外国語の習得そのものが目的ではなく、自分が打ち込む競技のために必要なツール、つまり手段だと、とらえている点だ」と書いています。

    「英検週間」にあわせてあれこれ本を紹介した際に参照した『そもそも英語ってなに?』(里中哲彦、現代書館、2021年)に以下のようなくだりがあったことを思い出しました。里中さんは大手予備校で英語を教える、いわゆるカリスマ講師と言ってもいい方ですが、「外国語を身につけるにはどうしたらいいか」という質問に答える形でずばり言い切ります。「英語」はひろく「外国語」と置き換えても同じでしょう。

    「英語を学ぶのに特殊能力は要らないのです。伸びる人と伸びない人がいます。この差はどこから生じるのでしょうか。伸びない人は努力していない、ではどうして努力しないのか、それは切実な願望を持っていないからです。動機づけに失敗しているといってもよいでしょう」

    「いやがうえでも英語を使わなくてはならない状況にみずからの身をおけば、モチベーションが高まり、目標とする英語を手にすることができるようになります」

    「英語が話せるようになりたい、というあなたが目指すべき英語はただひとつ、自分にとって必要な英語を身につけることです。そして、それはまた「内容重視の英語」でなくてはなりません」

  • 2023.06.29

    ビートルズ来日の日 <6月29日>

    1966年6月29日、イギリスのロックバンド、ビートルズが来日しました。60年以上も前の話で、もはや「歴史」の一コマでしょう。先日読んでいた本がこの日のことに触れていて、そうかこんな時期(季節)に来たのかと思う一方で、楽しみにしていたのは、毎朝通勤時に聴いているラジオの「きょうは何の日」でとりあげられるかどうかでした。はい、ちゃんと紹介されていました。

    そのビートルズ、私自身が音楽を聴き続けてきたこれまでの人生(おおげさ!)の中ではいまだに現役ミュージシャンであり、その曲を聴き返すたびに新しい発見があります。ビートルズ関連の書籍も数十冊は読んでいるので(積読もありますが)、これといった本を選び出す自信はありません(この来日だけに特化した本もたくさんあります)。

    /ビートルズ博物館(英国リバプール)の年譜に日本ツアーの記述がありました
    ビートルズとしては結果的に最初で最後の来日になるのですが、日本滞在の3日間、日本武道館で5回のステージがありました。

    いちミュージシャンの来日がなんで歴史に残る日のように語られ続けられるのか、来日を前にして「武道館を使うのはけしからん」と公然と言い放つ人がいたり、警視庁が混乱を予想して警備本部を設け延べ3万5000人の警察官を動員したなど、ひとつの社会現象になったからでしょう。

    たまたま近くにあった、切り口のおもしろさがある本をとりあげます。

    「ビートルズは何を歌っているのか?」(朝日順子、シーディージャーナル、2018年)

    ビートルズの曲の歌詞について、英語としての特徴や文化的背景などをコラム風にとりあげています。体系だてて何かを主張する、という内容ではないので、私自身が付箋(アンダーライン)をつけたところを少し紹介します。

    ほどんどの英語の歌では、歌詞に韻が出てくる。なぜかというと、韻がアクセントになって「聴きやすい・覚えやすい・リズム感のある」曲ができるからだ。

    行の最後が押韻されるのが脚韻で、行の中間に出てくるのが中間韻、ビートルズの歌詞で中間韻を使用した代表的なものは“Hey Jude”だ。1行目の最後の「bad」と2行目の中頃の「sad」、2行目の最後の「better」と3行目の中頃の「let her」など、きれいな押韻構成になっている。このほかに“I’ve Just Seen A Face”や Lovely Rita”でもたくさんの韻が現れる。

    その“Hey Jude”、ポール・マッカートニーがジョン・レノソの息子ジュリアンを励ますために書いた曲ということはよく知られていますが、その励ましのフレーズ<let it out and let it in>、 <let it out>は“Let it all out”などとも言い、悲しんでいる人を慰める時などによく使う表現。怒りや悲しみなどの感情を「全部だしちゃえ」という意味。

    対する<let it in>は慣用句ではないけれど、“breath in, breath out”(息を吸ったり吐いたりする)のように、<let it out>と並べることで面白い効果を出している。人や人の感情を「受け入れろ」という意味じゃないかな、とも。

    なるほど。

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    /ビートルズ誕生の地、リバプールにあるビートルズ博物館

    リバプールの街角には若き日のジョン・レノンがたたずんでいました

    (写真はいずれも10年ほど前、友人とのビートルズ&サッカー&パブの旅で撮影したものです)

    ところどころにビートルズ歌詞クイズが織り込まれているのですが、これはかなりレベルが高いことを付け加えておきます。

    正直なところ、ビートルズがかなり好きで、ビートルズについてそれなりのことを知っていないと、おもしろさが伝わらないところもありそうです。ただ、200曲以上の多彩な楽曲を世に出して世界中のミュージシャンに影響を与え、社会現象でもあったビートルズだからこそ、こういう切り口の本も成り立ってしまうのでしょう。ビートルズ、まだまだ奥深いです。

    5月18日のこのブログでも英語の歌詞についてとりあげました。洋楽がストレートに英語学習の参考になると安易に言うつもりはありませんが、マイナスにはならないでしょう。好きなものが学習の手助けになるならそれに越したことはないですから。ビートルズ初期の傑作<I Saw Her Standing There>なんて、文法の例文そのものだと思いませんか。

    「きょうは何の日」ネタは5月9日の「ガリレオ裁判」でも使いました。

  • 2023.06.27

    「掘る」話――さらに古い時代へ

    土偶の縄文時代、さらに古い旧石器時代の石器など発掘に関わることを何回か書きましたが、おなじように「掘る」でもさらにずっとさかのぼった時代がターゲット、恐竜や古生物研究のために発掘をする人たちの本です。

    『恐竜まみれ 発掘現場は今日も命がけ』(小林快次、新潮社、2019年)。北海道むかわ町で、恐竜のほぼ全身の骨が揃った形で見つかった「むかわ竜」を発見・発掘した北海道大学の先生の著作です。

    アメリカ特にアラスカ州、カナダ、モンゴルの3か国と日本を行き来しながら1年の3分の1は野外のフィールド調査で恐竜化石を探し続けてきたという小林さん。

    「じつは発掘というのは、恐竜研究の一部にすぎない。だか結論を言えば、恐竜研究の醍醐味はここにある。自分の足と手、目をつかって発見をする、抜群の面白さだ。姿を消してしまった恐竜を研究する面白さは、恐竜そのものに挑むことにある。圧倒的に少ないデータを、自分の力で増やしていくのだ」という思いが、発掘を続ける原動力のようです。

    アラスカで巨大なグリズリーに出会ったり、一人用のテントを張りキャンプ生活となる砂漠での発掘は「命がけ」と言っても過言ではないのでしょう。「化石の調査でフィールドを歩いていると、ふと思うことがある。いつからこんな“探検家”のようなことをするようになったのだろう?」と自問しながらも「だがそのなかにしかない大きな快感もある」。

    北海道大学で勤め始めた小林さんのもとに、むかわ町の博物館の学芸員が訪ねてきたことが縁になって発掘が始まり、町も理解を示してくれておおがかりな作業となり、最終的に全長8メートル、頭から尻尾まで8割以上の骨が揃ったのです。

    少しの骨から全体像を考えるより、骨がより多く揃った方が全体像を正確にえがくことができるのは言うまでもありませんよね。8割以上もあれば「全身骨格」と呼んでいいようで、このような大型恐竜の全身骨格は日本初とのことで、「むかわ竜」と名付けられました。

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    むかわ町は人口約7400人。

    カムイサウルス・ジャポニクス(通称・むかわ竜)の全身化石(写真はいずれもむかわ町のホームページより)

    この小林さんは1971年生まれ、ほぼ一回り下1983年生まれの木村由莉さんの『もがいて、もがいて、古生物学者!! みんなが恐竜博士になれるわけじゃないから』(ブックマン社、2020年)は、「青春の全てを恐竜と古生物に捧げ、同級生たちに遅れて10年後にようやく仕事にありつけた古生物学者の、もがいて、もがいて、すすんだ道のはなし」(「プロローグ」より)なのですが、「むかわ竜」の小林さんも登場します。

    富山市での発掘にアルバイトで参加、福井県立博物館に勤務していた小林さんを紹介してもらい、かぶっていた恐竜の帽子をくるっとひっくり返し、駆け寄り、サインをしてもらったそうで、「すぐに憧れの存在になった」。

    「古生物学者になるには(進路アドバイス)」という章の「高校生へ編」では、恐竜の研究者になりたい、古生物学者になりたいという気持ちが高校生まで続いていたのなら、次の進路には地球科学系分野(地質学、岩石学、古生物学など)が学べる大学を選ぶのがいいだろう」と教えてくれます。

    随所にイラストやカットがはさみこまれ、またやさしく丁寧に書かれていて、恐竜や古生物に限らず、理系の研究者をめざす若い人向けのガイド的な内容にもなっているのですが、そこにとどまりません。

    「研究をするということ編」では、「研究は、教科書を読んだり人から教わったり経験を積むことで得られる「学び」に、「世界の誰も知らない新しいことを探究する」とう要素が加わってなりたつ。研究の世界では「学力」と「発想力」と「プレゼン力」が大切になる」と、見事に本質をとらえています。

    「なぞ」の1 「恐竜の体の色は?」

    少し驚いたのは、小林さんが「以前は絶対にわからないとされていた恐竜の色までわかるようになってきた」と、さらっと書いていることです。というのも、私は恐竜に限らず昔の生物が復元される、また図鑑などで紹介されるときに、体に何らかの色がついているのがずっと疑問のままでした。

    見つかるのは骨や歯の化石であって、生物の体(皮膚など)そのものが見つかっているわけではないのですから。もちろんその生物を見たヒトが絵を描いて残してくれるわけはないし、文字で伝えてくれているわけでもないからです。

    福井県立恐竜博物館の専門家が教えてくれます。(博物館の公式ホームページのQ&Aより)

    「一部の例外を除いて、今のところ恐竜の色はわかっていません。化石に色がわかるような証拠がほぼ残っていないためです。多くの復元画では、現在の爬虫類(はちゅうるい)や鳥類を参考にして恐竜の色を塗っています。以前は変温動物のイメージが強かったため、トカゲなどを参考にした地味な色合いにされることが多かったのですが、羽毛恐竜が発見されるようになると、鳥に近い鮮やかな色使いも増えました」

    うん、そうだろうと、ここまでで私はとまっていたのです。しかし小林さんの記述です。Q&Aには続きがありました。

    「例外として、近年、何種類かの羽毛恐竜では、羽毛の部分を顕微鏡で詳しく調べると、色のもととなる色素が入っていた小さな入れ物(メラノソーム)が残っており、その形などから部分的にその色が判明しました。(略)今後の研究によっては様々な恐竜の色がわかっていく可能性があります

    「おおっーー」、小林さんはこのことをいっているのですね。

    「羽毛恐竜アンキオルニスの生体復元」の図が同博物館のホームページに載っています。こちらからどうぞ

    「なぞ」の2 「恐竜王国 ニッポン」

    小林さんは以下のようにも書いています。

    「1億7000万年にわたって繁栄した恐竜の数はどのくらいになるのか、いま見つかっている恐竜はたったの1%に過ぎないかもしれない。偶然が積み重なって化石となった個体は非常に希少で、そのうち発掘されたものはさらに少ないからだ」

    「現在までに1000種類を少し超える恐竜に名前(学名)がついている。そのうち75%はたった六つの国から発見されていることはあまり知られていないだろう。アメリカ、カナダ、アルゼンチン、イギリス、中国、そしてモンゴル、つまり化石が出る国は極端に少ない」

    えっ、そうなの、という驚きです。小林さんは「この6か国に日本は入っていないが、日本には異常ともいえるほど恐竜ファンが多く、人気が根強いのはなぜだろう」と首をかしげます。

    まったく同感です。ちょっとネットで検索したら、全国各地で「恐竜展」的な催しが開かれています。東京・上野の国立科学博物館ではワンフロアまるまる恐竜に関する展示にあてられていますし、国内で数多くの貴重な恐竜化石が見つかっている福井県勝山市には「福井県立恐竜博物館」があります。

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    勝山市のホームページより
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    「福井県立恐竜博物館」(福井県公式観光サイトふくいドットコムより)

    例えば、東京の上野の森美術館ではこんな特別展も開催中。こちらから

    恐竜好きの子どもたちの中から小林さん、木村さんたちに続く研究者が育ち、また恐竜好きな人たちが研究環境を支援していけるといいですね。

  • 2023.06.26

    ノンフィクションの名作

    先日休刊した週刊朝日での後藤正治さんの連載をまとめた『クロスロードの記憶』(文藝春秋、2023年)が発行され、感慨深く読ませていだきました。

    ノンフィクション作家として40年を超えるキャリアを持つ後藤さんがこれまでの作品の登場人物について別の人物との関わりという形で振り返ります。人と人との関りというところから{クロスロード(交差点)」というタイトルになったようです。週刊朝日での連載も時々読んでいて、それぞれの回でとりあげられる人を対象とした後藤さんの作品を思い出しては再読したりしました。

    例えば、江夏豊投手と阪神で同僚だった川藤幸三選手。江夏投手については現役時代に一緒にプレーをした選手や取材した記者らから話を聴きまとめた「牙(きば)―江夏豊とその時代」(講談社、2002年)というすばらしい作品があります。もちろん川藤選手とのことも一章をさいて綴られています(「江夏の21球」を紹介する時(4月21日のこのブログ)に参照しようとしたらついつい読み返してしまいました)。

    「スカウト」(講談社、1998年)というプロ野球の名スカウトを追った作品、広島カープにスカウトとして30年間在籍した木庭教さんへの取材を重ね、木庭さんがどのような経緯でスカウトになったのか、スカウトとして出会った球児たちのことを聴きだしていきます。カープに入団した選手もいればうまくいかなかった例もでてきます。

    後藤さんは「クロスロード」で「スカウト」の取材について「お目当ての選手を見詰め、のんびりと野球観戦し、帰り道に喫茶店に立ち寄り、昔話に耳を傾け、雑談する。そんな日々を足かけ三年送った。退屈したことは一度もなかった。当初の心づもりでは一年だったのが三年に延びた。そんな日々が楽しかったからだと思う」と振り返っています。

    1964年の東京オリンピックで世界を魅了した体操選手ベラ・チャスラフスカに会いにチェコ・プラハに出かけ(「ベラ・チャスラフスカ 最も美しく」(文藝春秋、2004年)、「マラソン・ランナー」(文春新書、2003年)では君原健二、瀬古利彦、谷口浩美、有森裕子、高橋尚子選手らが登場します。「クロスロード」では「マラソン・ランナー」で取材した選手たちについて「いずれも豊かな内面の持ち主で、きちんと自己表現をする人たちだった」と評価しています。

    個人的な思い出も含めて……

    スポーツ分野では同志社大学ラグビー部の名指導者、岡仁詩さんをとりあげた「「ラグビー・ロマン―岡仁詩とリベラル水脈」があるのですが、岡さんとその教え子たちの章は週刊朝日で読み、すぐ「ラグビー・ロマン」を手にしました。

    私は学生時代、同志社大学ラグビーの全盛期に東京・国立競技場(オリンピックで新しくなる前の国立です)でその試合を観戦したこともあり(なぜだが東京の強豪大学を応援しないで同志社を応援しました。ひねくれていたんですね)、また京都で新聞記者をしていると、市役所などに同志社大学ラグビー部のOB、つまり岡さんの薫陶を受けた人が結構いて、ずっと気にはなっていただけに、「ラグビー・ロマン」は大変興味深く読みました。

    後藤さんはこのようなスポーツ分野に限らず、医療関係についての著作も多く、特に心臓移植、臓器移植についてはかなり早い時期から海外取材も積極的に行い、この分野のノンフィクションの先駆けとなる著作がいくつもあります。

    国内では1968年に札幌医大での国内初の心臓移植手術が刑事告発されたこともあってその後、心臓移植が行われない時期が続きました。臓器移植を選択せざるを得ない患者さんは外国で移植手術を待つことになるのですが、多額の費用がかかります。その支援のための寄附呼びかけなどがニュースとなり、そんな取材現場の京都市内の病院で後藤さんをお見かけすることがありました。取材対象を超えた担当の医師との信頼関係がはたからもうかがえたことが印象に残っています。

    後藤さんが著作を次々に発表するころから、ノンフィクション作品に筆者が「私」として登場することが多くなってきたように思います。「スカウト」のところでも触れたように、どのような場所でどういった流れで取材になったのか、取材相手の表情や口ぶりなども細かく書いていく。そして「私」の思いも遠慮なく書く。今ではノンフィクションでは当たり前の手法ではありますが、当時は「客観的でなければらない」という新聞記事の書き方とは異なっていたので、一連の著作が新鮮だったのでしょう。筆者の人がらが感じられたのです。

    後藤さんは「「復活」十の不死鳥伝説」(文藝春秋、2000年)で「大きな挫折と遭遇し、深い谷底にある時間を過ごし」たスポーツ選手十人を取り上げ、「人はどんな状況に置かれても立ちすくむことなどない。いつだってまた歩み始めることができる」と書いています。

    弧塁に刻む 自選エッセイ&ノンフィクション集」(1998年、三五館)ではそれまでの20年間を振り返り「結局、私は、<人生>を書きたかったのだと思う。それが私にとってのノンフィクションであり、それ以外のことには根本のところで興味を持つことはなかった」とし、野球やボクシングは「<人生>を描くために借りた土俵」と表現しています。

    甦る鼓動」(講談社、1991年)は肝臓移植を主に、実際の手術にあたる医師や「脳死」に関わる救急医療の現場、移植手術・医療にとって欠かせない免疫抑制剤開発にあたる研究者など、国内だけでなく海外にも足を運んで取材しています。

    後藤さんは「日本における移植外科は、その出発において非常に不幸なスタートを切った。すでに二十三年前になるひとつの臨床例が、いまだ翳をおびたものとして語り続けられていること自体、異様なことという他はない」と札幌医大の例に触れています。そのうえで、もともと医療問題の関心度も低かったのに長く取材をすることになった理由として「宿命的な困難を帯びた医学分野をあえて選んだ外科医たちの仕事に、いささか心ひかれるものを感じたから」と書いています。

    ここでも「人」です。やはり、人の生き方に対する興味というノンフィクションの原点が感じられます。

  • 2023.06.24

    沖縄と鉄道

    沖縄にかかわる鉄道の話です。またぞろ「鉄ちゃん」が出てきたかと叱られそうですが、沖縄にかつて「チンチン電車(路面電車)」や「軽便鉄道」で蒸気機関車が走っていたということは案外、知られていないのではないでしょうか。
    電車は戦前にバスに押されて廃止されたのですが、軽便鉄道は第二次世界大戦・太平洋戦争の沖縄での地上戦で壊滅的な打撃を受け、廃線となりました。ここでも沖縄戦・地上戦が沖縄の社会を大きく変えたのです。

    そして2003年、モノレール「ゆいレール」が開業、鉄道が復活するのです。「えっ、モノレールって鉄道なの?」、はい「鉄ちゃん」が解説します。

    まず2冊紹介します。共通する筆者、ゆたかはじめさんはペンネーム。東京高等裁判所長官を勤めた判事(裁判官)で定年退官後、沖縄に移住。子どものころから大の鉄道好きで、沖縄での鉄道の歴史を掘り起こして著書で紹介し、また、沖縄に鉄道を走らせようと著作や講演などを通じて提唱し続けました。
    『沖縄に電車が走る日』は2000年12月発行、「ゆいレール」が走り出す直前です。『沖縄・九州 鉄道チャンプルー』は2008年発行、九州の鉄道に詳しい人との共著です。

    路面電車が走り出したのは1914年(大正3年)、那覇と首里を結び、1917年に路線が延びて全長約7キロ、ところが路線バスが登場して電車はバスとの競争に負け1933年(昭和8年)に消えてしまいます。

    一方の「軽便鉄道」は正式には「沖縄県鉄道」(沖縄県営鉄道)といい、「けいびん」「けーびん」と呼ばれて親しまれたといいます。軽い、便利という文字の通り、本土で国鉄が造り走らせる幹線鉄道とは異なる法律によって、地方で安価に造り開業できる鉄道として次々とできたのが「軽便鉄道」でした(法律名から正式には「けいべん」と読みます)。多くの路線は線路幅が国鉄のものより狭く、車両も一回りも二回りも小さなものがほとんどでした。

    これを沖縄でも、ということで、路面電車と同じ1914年開業。那覇を中心に与那原線、嘉手納線、糸満線の3路線があり、蒸気機関車が客車や貨物を引き、のちにはガソリンカーも走ります。

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    那覇駅停車中の軽便鉄道の祝賀列車。普段はもっと編成が短い(1934年)
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    軽便鉄道、東風平(こちんだ)駅風景
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    那覇市街を走る電車
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    写真はいずれも「那覇市歴史博物館デジタルミュージアム」より

    『図説 沖縄の鉄道<改訂版>』(加賀芳英、ボーダーインク、2007年)から引きます。
    1944年(昭和19年)の空襲で県鉄道の那覇駅が焼失、このころは兵員輸送が中心となり、米軍の進攻が迫った1945年3月には運転休止となりました。戦後、あちこちでレールの残骸が見られ、横転した客車や錆びた機関車が放置されるがままだったようで、米軍の指示で鉄道復旧計画も立てられたものの道路整備が優先され、鉄道計画は消えてしまったようです。

    「この鉄道は、沖縄の地上戦で完全に破壊され、悲しく消えていきました。私が昭和五十五年ころ那覇に赴任していたとき、いろいろな方からお話を聞き、線路の跡を訪ねたりして知ったのです」。ゆたかさんは『チャンプルー』にこう書いています。

    共著者の桃坂さんはこう話します。

    「沖縄県営鉄道は営業ができなくなって廃止されたわけではない、地上戦という、地獄のような戦火に破壊されて消えていったのですから、厳密にいうと廃線跡ではありません。鉄道も、悲しい戦争の犠牲者なんですね。軽便鉄道の遺跡は戦跡です」と。

    そして「ゆいレール」

    ゆたかさんは、沖縄、特に那覇市内などの慢性的な交通渋滞の解消のために、沖縄に公共交通機関として鉄道、路面電車を走らせるべきだと言います。そして2003年、沖縄戦が終わっておおよそ半世紀後に「鉄道(ゆいレール)」が復活するわけです。

    その経緯について「ゆいレール」の公式ホームページから要約します。

    「沖縄県では陸上交通のすべてを道路に依存し、約8割を自動車による移動手段に頼っている。自動車の保有台数は急激に伸び、道路整備が追い付かず、中南部都市圏では慢性的な交通渋滞が発生している。唯一の公共交通機関であるバスは慢性的な交通渋滞で定時運行が難しく利用客が年々減少傾向にある。その解決策として、新しい公共交通機関が必要」

    ゆたかさんの問題意識はみな持っていたわけです。では、なぜ2本の鉄のレールによる鉄道でなく、モノレールだったのか(くどいようですがモノレールも鉄道です)。その点について、このホームページには明確な説明はありませんが、「道路整備と併せて、道路空間を有効利用できる都市モノレールの導入が必要」との書き方がヒントになりそうです。

    モノレールは道路の上に造られるので、あわせて道路の整備(改良)もできる。やはり圧倒的に利用されている自動車の利便性も高める必要性があるのでしょう。鉄のレールによる鉄道を一から作るとなると用地が必要で、ばく大な費用が想定されます。踏切を作ったら道路事情はさらに悪くなる、かといって高架鉄道にしたらなお費用がかかる、などの理由があげられるのでしょう。

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    「ゆいレール」路線図

    写真とも「ゆいレール」(沖縄都市モノレール)の公式ホームページより

    ともかくも、ゆいレールが開業しました。圧倒的な車社会に慣れている県民がモノレールをどのくらい利用するのかといった心配、また県民の多くが鉄道に乗った経験がないので切符の買い方がわからない、などといった失礼な話も都市伝説のように伝えられましたが、直近の財務分析をみると、コロナ禍による観光客激減があって赤字は解消できてはいないようですが、県民には定着しているのではないでしょうか。

    「鉄道」という字面からすると、コンクリートの上を走る(あるいはぶらさがる)モノレールが鉄道に分類されるのには違和感があるのは理解しますが、鉄道建設について定める法律では、モノレールも鉄道の一つとされています。「懸垂(けんすい)式鉄道」と「跨座(こざ)式鉄道」の二つのタイプに分類されます。

    /湘南モノレール(懸垂式)
    /多摩都市モノレール(跨座式)

    「懸垂式」は、車両の車体部分が軌道けたから垂れ下がっている(懸垂している)もので「湘南モノレール」「千葉都市モノレール」が代表例です。

    「跨座式」は、軌道けたをまたぐ(跨座している)タイプのものをいい、写真を見てもすぐにわかるように「ゆいレール」はこちらです。本校のスクールバス路線の一つ上北台駅がある「多摩都市モノレール」もこの「跨座式」です。

    余談として

    ゆたかさんは『チャンプルー』でかつての特急「なは号」を復活させようと呼びかけます。この「なは」は沖縄の県庁所在地の「那覇」です。九州と関西を結んで走る特急でしたが2008年3月になくなりました。鉄道のない沖縄・那覇の「なは」、そもそも九州から海をへだてている沖縄に列車が走れるわけがないうえ、その沖縄がアメリカに統治されていた時代にこの特急は走り出しました。地元新聞が特急名を公募して選ばれたそうですが、ゆたかさんは「沖縄の本土復帰を願い、当時の国鉄が精一杯の思いを込めて走らせた。当時外国だった都市の名前を採用した。こんな例は、世界にもないんじゃないですか」と書いています。

  • 2023.06.23

    駆けた曳いた持ち上げた――体育祭盛り上がりました

    体育祭が23日、本校総合グラウンドで行われました。学校ホームページの新着ニュースでもお伝えしていますが、梅雨の合間の日程で完全終息とはいえないコロナ禍、さらには熱中症対策と、さまざまな制約がありましたが、生徒たちは最後まで精一杯のプレーをみせてくれました。

    本校では新型コロナウイルス感染症対策の一環として、グラウンドに競技する選手のみ集まり、その様子は撮影・配信され教室でその映像を視聴するというハイブリッド形式でコロナ禍の中でも体育祭を続けてきました。

    今回は生徒全員ではないものの、分散型で生徒がグラウンドで応援することも可能にしました。クラスの仲間、先輩らが懸命にプレーする姿に盛んな声援を送っていました。

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    実行委員のみなさんが多方面で活躍していました
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    総合優勝した「緑団」団長は応援でも盛り上げてくれました
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    重い砂袋をより長時間持ちあげ続けることを競う「東野怪力王」は会場が沸きかえる競技種目の一つです

    閉会式では生徒たちに、直接の声援がみなの懸命さを後押ししていたとの感想を伝え、「行事はみんなで力をあわせてより良いものにしていくことが大事で、今日の成功体験を次に生かしていってください」とエールを送りました。

  • 2023.06.22

    沖縄「慰霊の日」にあたって

    6月23日は沖縄の「慰霊の日」です。第二次世界大戦で多くの犠牲者を出した地上戦・沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終結した時点として、沖縄県の条例でこの日が「慰霊の日」とされています。

    本校では今年度2年生の修学旅行は希望選択する3コースの中に沖縄(本島・石垣島)が含まれています(残る2コースはカナダ、北海道です)。沖縄コース希望の生徒は事前学習で戦争被害などについて学びますが、沖縄コースの参加生徒にかぎらず、沖縄にとって、そして私たち一人ひとりが忘れてはならない日であるこの「慰霊の日」をきっかけに改めて戦争のこと、その影響を強く受け続けている沖縄のことを考えたい。

    おもに琉球と呼ばれる時代の歴史、沖縄での戦いのこと、戦後アメリカ軍の統治下にあったこと、日本への復帰、いまだに数多く残る米軍基地・施設のことなど、たくさんの優れた研究書、体験談などの本があり、事前学習として手にとることもあるでしょう。個人ブログなので、自分の読書体験のなかから、少し異なった視点での著作を紹介します。

    「琉球切手を旅する」(与那原恵、中央公論新社、2022年)

    沖縄が第二次世界大戦後、米軍によって占領され、さらに日本が独立を取り戻した後の米軍施政下(統治下)の間、1948年7月から72年4月まで、普通切手、記念切手、航空切手など259種の琉球切手が発行されました。正直、これまで関心の外にありました。

    筆者の与那原さんの、沖縄から東京に移り住んでいた両親のもとに、沖縄の親戚、知人から手紙が届きます。「私(筆者)の目を引いたのは、沖縄から届く封筒に貼られた美しい切手でした。父が、切手は国ごとに作られていると教えてくれた」

    そうですよね。郵便事業は国ごとに行われるもので、その「料金」を示す切手はそれぞれの国の郵便事業ごとに用意される、きわめて当たり前のことですが、逆に、沖縄で独自の切手が発行されていた、つまり、沖縄は「外国」だったということを示してもいるわけです。

    与那原さんは沖縄を訪れるたびに、琉球切手を買い求めるようになります。
    「切手の図柄は戦争で失われた文化財や工芸品が多くあるが、そこに込められた思いはどんなものだったのか。大きなイベント開催のたびに記念切手が発行されるが、これも戦後沖縄社会史としてとらえれば、切手の意味がはっきりするかもしれない。琉球切手は戦後沖縄の証人ではないか、と思い始めた」と振り返ります。

    そして、琉球切手をコレクションしている人に出会い、さらに、切手の図柄をデザインした美術家の足跡を追い、インタビューを重ねていきます。

    /B円の表示が二重線で消され、その上にセント表示の数字が書き込まれています。あわただしく切り替えられ切手の発行が間に合わなかったのでしょう(那覇市歴史博物館デジタルミュージアムより)
    /発行されなかった記念切手

    1958年、それまで沖縄で使われていたB円という通貨がドルに切り替わります。切手はいうまでもなく、お金の代わりですから、切手それぞれに「金額」が入っています。通貨が切り替わるということは、その金額表示も当然かわるわけです。ドルが使われるようになるとドル、セントで表示された琉球切手が発行されます(写真上左

    これなどは、切手を通して沖縄社会の大きな変化がわかる端的な例ですが、それ以外にも戦争で焼失した守礼門が復元された際に記念切手が発行されたことなどもその好例でしょうし、また、郵便事業の労働組合がストライキで記念切手発行阻止活動をしたこともあったそうです。

    切手デザインにあしらわれた日の丸と星条旗をめぐって米軍の圧力があり、発行できなくなったことも指摘しています。沖縄の復帰運動を前に、沖縄の人たちの思いに米軍が神経質になっていたのだろうと筆者は推測します(写真上右)。切手一つから当時の沖縄の政治、社会情勢がうかがえるのです。

    1972年、沖縄返還で沖縄県となると、琉球切手は使えなくなります。本土で使われている切手を使うことになるわけです。

    切手を通しての沖縄戦後史でもあるのですが、随所に学ぶべき、忘れてはならない事柄があげられています。
    戦後、戸籍を作り直さなければならなかったのですが、沖縄では家族関係を証明する書類が戦争で失われ、また当事者の記憶があいまいだった事例も多く、臨時戸籍の整備には時間がかかったこと。
    人口が増えていくなかで米軍基地が次々と建設・拡大され、食料生産する農地が不足し、南米などへの海外移民事業が進められました。現地にも出かけた与那原さんは移民した人たちやその二世らに会い、こう書きます。

    「ハワイや南米に移民した沖縄人には、郷里の沖縄からの便りを楽しみにしていた、そこには、琉球切手が貼ってあったわけです」
    「そんな琉球切手は、こんなふうにつぶやいているのかもしれません。沖縄が米軍施政下だったころ、私たちは「言葉」を運んで、旅をしたのだよ、と」

    与那原さんは「私が琉球切手をテーマにするのなら、米軍施政下の沖縄社会を描くべきだと思いいたりました。戦後沖縄の足跡と人物をタテ糸に、琉球切手の図柄を描いた美術家たちをヨコ糸にして、琉球・沖縄の織物のように物語を織り上あげてみたい」という思いで、“琉球切手の旅” を歩きました。

    見事に織り上げてあると思います。昨年12月の発行ですが、今年読んだ本の中では、個人的にいまのところナンバーワンかと。

    酸素ボンベの郵便ポスト

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    琉球切手の写真を参照させていただいた那覇市歴史博物館のデジタルミュージアムには貴重な写真がたくさんあります。この写真もその一つ。「琉球切手を旅する」で教えてもらいました。博物館の写真の解説には「(酸素ボンベのポスト)戦後、無からスタートした沖縄の郵便業務。ポストにしても、米軍の酸素ボンベを利用していた。1962年頃には本来のポストが普及したものの、地方ではまだポスト不足の所も。/(1962年頃)」とあります。

    那覇市歴史博物館の公式ホームページはこちらから