04-2934-5292

MENU

BLOG校長ブログ

全ての記事

  • 2023.05.13

    やっぱり本屋さん

    朝日新聞のロングインタビュー(10日付)、ジュンク堂書店の福嶋聡さんの書店の役割についての話に感銘を受けました。

    著作権のことがあるので(朝日新聞のデジタル版では有料記事です)、あまり引用できませんし、書店の役割について多岐にわたって示唆に富んだ話なので、とても簡単にまとめられませんが、特に印象深かった点を。

    売れる本ばかり売っていては、「社会の閉塞に風穴をあけるような新しい本を発見することはできない」、「今ある社会の欲望や格差の増幅器にしかならない」と言い、多くの本を置ける大型書店は、社会の「変革器」であるべきと話しています。

    ネットでの書籍の購入については、ピンポイントで検索するので「世界が狭くなる」、それに対して書店、本屋では「知らなかったこと、予想もしなかったこと、嫌いなことが入ってくる。迷い込む体験ができる」ととらえています。

    この部分は、新聞での情報収集とインターネットでの情報収集はどう異なるのかという説明と共通していると感じました。インターネットは求める情報がわかっている時にそれを探すのには便利(ピンポイントでの検索)、新聞は一覧性という強みで、ページをめくりながら見出しを追うだけでも多様な情報に接することができる、やはり「知らなかったこと、予想もしなかったこと、そして嫌いなこと」も入ってくるわけです。

    新聞記者時代、学校にお邪魔して新聞について話をするとき、ネット情報と新聞を読むことの違いとして、インターネットは好きなものばかり食べる食事、新聞はいろいろな「おかず」のある幕の内弁当、定食、と喩えたりしました。好きなものばかり食べる、偏食はよくないですよ、と言いたいわけです。

    私自身も新聞などで紹介されていたり広告をみてこの本、と決めた時は、やはりネットで注文はしてしまいます。とはいえ、できるだけリアルで、書店に足を運ぶようにしてはきました。この記事、福嶋さんの話を読んで、その思いを強くしています。

    ジュンク堂書店さんについては……

    昭和の終わりの時期に京都で記者をしていた際、学生の街、個性的な書店・古書店がたくさんあった京都に大型書店のジュンク堂が出店するということで、当時の社長さんにインタビューしました(ホームページを拝見すると1988年、昭和63年に京都店開業、とあります)。
    その後、ジュンク堂が東京にも大型店を出し、店での本の並べ方・見せ方、棚のつくり方が独特で、またお客がゆっくりと本を探し、内容を確認できるよう店内にお客さんが自由に座れるイスを並べるといった試みなどが話題にもなり、足を運びました(今でももちろん出かけていますが)。
    ジュンク堂書店さんの公式ホームページはこちら

    「那覇の市場で古本屋 ひょっこり始めた〈ウララ〉の日々」(宇田智子、 ボーダーインク)

    このジュンク堂書店に勤めていて退職、沖縄・那覇の公設市場に隣接する場所に小さな古本屋を開いた筆者が、店を開くに至ったいきさつや沖縄の人たちとの交流などを語ります。購入記録は2013年8月、もちろん沖縄に出かけた際、立ち寄らせていただきました。

    ごくプライベートなことで

    本の街・神保町に出かけた時に立ち寄るようにしているのは東京堂書店。店員さんの目利きというのでしょうか、思わぬ本との出会いが本当に多いお店です。
    東京堂書店さんの公式ホームページはこちら

    もう1店、鉄道愛好家(鉄ちゃん)の“聖地”「書泉グランデ」。ホームページをみたら「趣味人専用」とありました。
    書泉グランデさんの公式ホームページはこちら

  • 2023.05.12

    「三方ヶ原の戦い」その2

    本郷和人さんが著作「天下人の軍事革新」でNHK大河ドラマで今まさにとりあげられている「三方ヶ原の戦い」についてどうみているかに触れましたが(11日付けブログ)、日本史の著作で本郷さんにひけをとらないヒット作を連発している磯田道史さんが「三方ヶ原の戦い」をどうみているかも紹介します。

    「徳川家康 弱者の戦略」(文春文庫)

    磯田さんは、三方ヶ原の戦いに先立ち、家康と武田信玄本隊がぶつかった「一言坂の戦い」から説き起こします。「このとき家康が狙ったのは、ヒット・エンド・ラン(もしくはアウェイ)、一撃を加えて素早く逃げる戦法でした。私はこの家康の戦略的判断は正しかったと思います。しかし、ヒット・エンド・ラン戦術は完全にはうまくいきませんでした」と評価します。

    その2か月後に起きたのが「三方ヶ原の戦い」。磯田さんは、この合戦について詳細を伝える一次史料(同時期の手紙など)はほとんど残っておらず、細部は二次的な史料である日記・軍記も参考に再構成するしかない、と断ったうえで、家康、信玄、さらに信長の応援部隊の兵の数を検討します。家康は、信長の「浜松城を出るな(籠城しろ)、援軍が着くまで野戦はするな」という指示に従わずに浜松城を出た、と続けます。

    この出撃に反対する家臣も多かったのに家康は「敵に背戸(裏庭)をみすみす通られたら沽券にかかわる」と叫んで出撃したと、後に家臣によって書かれた物語の内容を紹介。さらに「戦えない武将は信を失い、人が離れる」という戦国時代の気風があり、遠州(遠江、今の静岡県)が武田軍に蹂躙されているのを黙ってみていては遠州の統治はかなわないと、家康は考え、「一言坂の戦いでヒット・エンド・ランはある程度は成功していた、今度もできるという思いが家康にあった」と推測しています。

    そして磯田さんは「三方ヶ原の戦い」を以下のように総括します

    戦闘ではぼろ負けしたが、その割には、家康側は死活的なダメージは負わなかった。重要なのは、家康が戦う姿勢を見せたこと。戦うべきときに戦わないと、求心力が失われ、家臣たちの離反が始まるが、それが起きなかった。
    三方ヶ原の戦いは家康にとって生涯最大の危機だったが、大敗直後からすぐに善後策を実行している。このあたりに、のちの天下人、家康の真骨頂をみることができる。

    本のタイトルにある、家康の弱者の戦略ですね

    三方ヶ原の戦いに触れた本を紹介しましたが、もちろんHNKのドラマを宣伝するつもりはありません。ただ、研究者の難しい専門書、論文でなくても、気軽に手にとることができる新書でも歴史的事件の解釈には結構な違いがあり、筆者の個性もうかがえるということです。

    そしてやはり、ドラマも一段とおもしろくなりますよ。(もっとも、こういった本を読んでドラマをみて「うんちく」を傾けると、一緒にドラマを観る方にいやがられるかもしれませんが)

    筆者の磯田道史さんはテレビの歴史番組などでもおなじみ、本郷和人さん同様、わかりやすい歴史解説で日本史に興味・関心を持つ人を増やしていることは間違いないと思います。

    磯田さんの著作から

    本郷さんの著作と同様、かなり読んでいるので、一部を、やはりネット購入の履歴から

    ◆「武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 」(新潮新書、 2003年)
    本の紹介に、「国史研究史上、初めての発見! 「金沢藩士猪山家文書」という武家文書に、精巧な「家計簿」が完全な姿で遺されていた」などとあります。磯田さんがご自分で貴重な史料を見つけられた、それを幸運だったと冷ややかに受け止める人もいるかもしれませんが、磯田さんの一連の著作を読むと、史料に対するこだわりは半端ではなく、こまめに、いろいろなところに足を運んでいることがわかります。だからこそ「お宝」に遭遇できたのでしょう。映画化されました。こういった素材が映画になるのもすごい。

    ◆「日本史の内幕 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで」 (中公新書、 2017年)
    ◆「日本史を暴く 戦国の怪物から幕末の闇まで」 (中公新書 、2022年)
    「日本史エッセイ」との紹介文もあるようですが、一つひとつのエピソードが読みやすい長さでまとめられいます。「武士の家計簿」のところで触れたように、きちんと裏付けになる、あるいはならない史料を示して書かれているところはさすがです。

    ◆『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』 (NHK出版新書、 2017年)
    ◆『「司馬さん」を語る 菜の花忌シンポジウム』 (文春文庫、 2023年)
    司馬遼太郎さんの一連の時代、歴史小説については、その歴史解釈が「司馬史観」などとも呼ばれます。司馬さんの作品は亡くなられた後、現在でも幅広く読まれており、司馬さんは国民的作家とも言われ、また、その「司馬史観」で日本史を理解する人が多いと心配する歴史研究者もいます。では、磯田さんはどうなのか。
    「菜の花忌」は司馬さんの命日をこう呼びます。その名前をとって毎年のように、司馬さんゆかりの作家や研究者が司馬作品をとりあげたシンポジウムを開催していて、磯田さんも何度も登壇しています。そこでの発言も、磯田さんが司馬作品をどのようにとらえていたか、参考になります。

  • 2023.05.11

    「三方ヶ原の戦い」その1

    NHK大河ドラマ「どうする家康」は7日の放送で「三方ヶ原の戦い」が始まるところを描いていました。本郷和人さんの「天下人の軍事革新」(祥伝社新書)でこの「三方ヶ原の戦い」はどう描かれているか。なかなか興味深いのです。

    武田信玄の軍勢が迫ってくるなか、家康は浜松城で籠城しようとします。ところが信玄は浜松城を素通りしていく。家康は屈辱を覚えて怒りにまかせて城から出撃した、といった見方があります。また、信玄と戦わなかったら、それまで家康に協力していた周辺の領主たちが「家康は頼りにならない」と離れていってしまうことを危惧し、戦いに挑んだ、などとも言われてきました。7日の放送でもだいたいそのように描かれていました。

    これに対して本郷説はこうです。

    金ヶ崎の戦いで織田信長軍の背後から浅井長政軍が突然襲い掛かった時、信長は防戦など考えずに一目散に逃げた(これも大河ドラマで描かれていました)。軍隊にとって、背後はそれだけ無防備で、そこを突かれることは大きなリスク、との前提で、背後を攻めるチャンスが生まれると、戦国武将の本能として動いてしまう、家康も信玄が浜松城を素通りして背中を見せた時、「これなら勝てる」「今こそ勝機」と城を出たのではないか、と自説を展開します。

    そして「それこそ信玄の策でした。あえて背中を見せることで、家康を城の外へおびき出し、野戦に持ち込もうとした」と続けます。信玄も戦国武将ですから、戦国武将の本能は当然わかっていた。「三方ヶ原の戦い」の結果は14日の放送で詳しく触れられるでしょうが、歴史的事実なので「ネタばれ」にはなりません。家康は完敗します。信玄が一枚上手だったということですね。

    本郷さんはこの著作に限らず、新書というスタイルの著作でも、日本史研究の多数派に対してどんどん自説をぶつけます。

    例えば「長篠の戦い」。信長・家康連合軍が武田勝頼を破った合戦は信長・家康連合軍が圧倒的な数の鉄砲を使って武田の騎馬軍団を破ったといわれてきましたが、鉄砲隊を3グループに分けて入れ替わり休みなく撃ち続けたという説は最近では否定的な見方が多く、その鉄砲の数は実際どのくらいかだったについても意見が分かれています。

    この戦いについて本郷さんは、織田・家康連合軍は馬防柵、空堀、土塁で陣地を築いた。攻撃側(武田側)からすれば城攻めをするようなもので、攻撃は困難を極める。この、平地を要塞化する「野戦築城」はその後、戦国大名の戦いの主流になっていく。「鉄砲という武器を有効活用するために行った野戦築城にこそ、信長の天才性がある」と評価します。

    また、「現在、学会の主流は信長は特別な戦国大名ではないとの評価だが、私(本郷)は、信長が特別でなければ天下統一はない、と反論する」とも。そして信長の「特別」の一つとして、「信長は居城を次々に移した。武田信玄は躑躅(つづじ)ケ﨑館のまま。多くの戦国大名は領地を広げても本拠地は変えていない。それでは軍事面、特に兵站面から全国支配・戦力は難しいでしょう。私(本郷)が本気で全国統一を考えていた戦国大名は信長ただ一人だったと考える所以(ゆえん)」と続けます。

    さて、大河ドラマでこの後、「長篠の戦い」はどう描かれるのか。岡田准一・信長はどう「特別」になっていくのか、あるいはならないのか?

    本郷さんの著作から

    たくさん読んでいて網羅できないので、ネット購入の履歴で追えるものを。いずれにしても、東京大教授ですが文章は大変読みやすいです。だからこそ新書等で大人気なのでしょうけど(研究書は別ですよ)。ブックレビューなどを読むと「軽い」と揶揄する向きもあるようですが。

    <対談本がいくつか>
    ◆「日本史のミカタ」 (祥伝社新書)
    国際日本文化研究センター所長の井上章一さんとの対談。井上さんの日本史ものがおもしろいし、学会の常識? に遠慮なく物言う方なので、この2人が揃えば……といったところ。

    ◆「戦国武将の精神分析」 (宝島社新書)
    脳科学者の中野信子さんとの対談。 別の著作で本郷さんは、中野さんの話は大変勉強になった、と書いています。

    ◆「日本史の定説を疑う」 (宝島社新書)
    作家で日本史についての著作も多い井沢元彦さんとの対談

    <視点がユニーク>
    ◆「壬申の乱と関ヶ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか」 (祥伝社新書)
    確かに同じ場所で時を隔てて大きな合戦があった。その着想がいいですね。

    <読み比べ>
    ◆「承久の乱 日本史のターニングポイント」 (文春新書)
    大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のタイミングで、ほぼ同時期に出版されたのが
    ◆「承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱」 (坂井孝一、中公新書)
    鎌倉幕府に対する後鳥羽上皇の姿勢・考え方について二人の意見がかなり異なる点など、読み比べにはもってこい。

    <歴史学者の本音を吐露?>
    ◆「歴史学者という病 」(講談社現代新書)
    歴史研究者としての自分の歩みを振り返ります。上で紹介した著作とは毛色が異なります。学会の現状への懸念・反発や学校での日本史教育についても発言しています。

    <新書だけでなく>
    ◆「信長「歴史的人間」とは何か」(トランスビュー 、2019年)
    もちろん信長に関する著作はいくつかあるわけですが、単行本として1冊。

  • 2023.05.10

    「天下人」2題

    「天下人の軍事革新」(本郷和人、祥伝社新書)

    「天下人たちの文化戦略 科学の眼でみる桃山文化」(北野信彦、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

    /

    NHK大河ドラマの主人公が徳川家康ということで家康や戦国時代に関する本が書店にたくさんならんでいます。同時代にいわゆる「天下人」と呼ばれるのが織田信長、豊臣秀吉、そして家康なわけですが、「天下人」をタイトルに織り込んだ近刊2作が対照的でいろいろと考えさせられます。

    「軍事革新」の本郷さんは専門の鎌倉時代にとどまらず戦国時代に関する著作も多く、最近では、日本史研究で軍事面の研究が忌避される傾向にあったことに疑問を投げかけています。
    ここでも、合戦の物語などに出てくる兵士数については大名領国の経済力(米の収穫量や交易での利益など)からその数が適切かどうか分析、長期間の戦争に必要な兵站(兵士の食料など)も計算し、やはりこの3人の天下人がずば抜けていたと説きます。

    軍事力=兵士の数であり、それを動かす強制力、すなわち権力の発動が必要。また兵士を育成、保持する経済力も求められる。領地を広げていくなかで、それらを蓄え、組織も整備していった。

    それを意識して行ったのが信長、秀吉、家康――と明快で、「三人の天下人は武田信玄や上杉謙信らとは異次元の存在」と言い切ります(信玄や謙信を好きな方、すいません)。

    この天下人が武力・戦力だけでなく文化戦略にも秀でていて、「文化」で他の大名らを圧倒したというのが北野さんの著作。

    彼らが優れた芸術家を取り立て、あるいはスポンサーになったという点は従来から知られたところではありますが、ここでは、彼らが積極的に海外から物資や最先端と考えられた科学技術を取り込み、その政権の中で生かしていったことを「文化戦略」と位置付けています。

    北野さんは文化財の保存・修復の専門家で、例えば鉄砲玉の素材の分析からその素材を海外に求めていたこと、城や御殿を飾る「漆」や「金」の調達・技術導入にも東南アジアなどとの交易が関わっていた研究成果が紹介されていきます。

    もちろん、そういう海外との交易を可能にするのは天下人たちの軍事力・経済力(例えば交易のための港の確保や交易船の安全運航の確保など)で、文化戦略だけを切り離すことはできないわけですが、それにしても彼らが「文化」の力を理解していたからこそ、とは言えるのでしょう。

    本郷さんも「天下人となった後、軍事力と政治力、法律だけで支配すると政権は緊張感に包まれ、不安定化をもたらす。文化がなければ社会はあらあらしくなり、価値観を共有できない」と書いています。

    軍事力によって戦国時代を終わらせた天下人の役割は否定できませんし、文化だけで平和が維持できるというのはあまりに楽天的、ということは理解しますが、現代になぞらえても、「ソフトパワー(文化)」が「ハードパワー(軍事力、政治力)」の補完にとどまってしまうのは、ちょっと残念ですね。

    本郷さんのこの著作については、後日さらに。

  • 2023.05.09

    今日は何の日<9日> ガリレオ裁判

    出勤時に聞いているNHKラジオ番組で「きょうは何の日」というコーナーがあり、その日に過去、どんな出来事があったかを紹介してくれます。5月9日の放送では1983年のこの日、ローマ法王がガリレオに対する宗教裁判が誤りだったことを認め、謝罪した、とありました。

    科学と宗教との関係は大変難しいテーマですが、そのものすばりのタイトル「科学者はなぜ神を信じるのか」(三田一郎)という本が結構読まれているようです。私が読んだ版によると2018年6月初版、22年2月11刷となっています。宗教団体が絡むような本ではなく、科学書として定評のある「BLUE BACKS(ブルーバックス)」(講談社)の一冊で、シリーズのラインナップにはない分野で話題になりました(筆者自身が「ブルーバックスとしてはやや異色の趣向」と書いています)。

    ここではもちろん「科学者」の一人としてガリレオ(1564~1642)もとりあげられています。開発初期の望遠鏡で天体観測を行い、惑星・衛星の動きの観察などから地球が太陽の周囲を公転していると考えた方が合理的だとする論文(地動説)を発表したわけですが、地動説は聖書の記述と矛盾するといって批判する神学者が多数おり1633年、カトリック教会の異端審問(裁判)でガリレオは自身の著作を禁書とする処分を受け入れ、終身刑が言い渡されました(実際の投獄は免れたとのこと)。

    このガリレオ裁判について1979年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が誤りであったことを認め、真実を調査する委員会が設置され、裁判から350年後の1983年5月9日、法王がバチカンで開かれた集まりで謝罪しました。

    「科学者はなぜ神を信じるのか」の著者、三田一郎さんは素粒子物理学を専門とする博士でカトリック教会の助祭(教会の位階の一つ)でもあります。

    この謝罪について三田さんは同書で「この謝罪がなければ多くの科学者が教会を離れていったでしょう。それは私も同じです。科学に捧げてきた人生が、「異端」とされてしまうからです」と評価しています。

    「万物の創造主である神はなぜ宇宙をこのように創ったのか、それを知るには「数学」という言葉で書かれた「もう一つの聖書」を読まなければならない――ガリレオはそう考えていました」「コペルニクスやガリレオの発見は教会が説く神の教えに疑問符を投げかけはしましたが、彼ら自身は、神の存在を微塵も疑っていませんでした」。そんなガリレオが異端であってはいけない、というわけです。

    三田さんは同書の「はじめに」でこう書いています。
    「科学者のなかには、神の存在を信じている人が少なくありません。これはとても不思議なことです。神を否定するかのような研究をしている人たちがなぜ、神を信じることができるのでしょうか? この素朴な疑問について考えることが、本書のテーマです」
    そして、神との関わりが深い宇宙論の進歩に貢献してきたコペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルク、ディラック、ホーキングといった科学者たちが科学と神の関係をどのように考えていたかを綴っています。宇宙論の「歴史」を学ぶにもいい本です。

    「このように神という視点を持って科学を眺めることで、そもそも科学とは何かという問いについても、何らかの答えが見えてくるのではないかと思っています」と三田さん。
    私にはまだまだ答えは見えませんが、大変勉強になった1冊でした。

  • 2023.05.08

    学校公開実施中です――保護者対象です

    保護者のみなさまに、授業のようすを見ていただく学校公開が本日8日から行われています。10日までの3日間です。

    3日間とも9時~16時の間、どの授業をみていただいてもかまいせん。来校用のスクールバスダイヤなど、詳細はこちらをどうぞ

    一般の方の本校施設見学について―――6月に地域公開があります

    保護者に限らず一般の方に本校キャンパスを開放し、校内散策等をしていただく「地域公開」は6月4日(日)に予定しています。詳細については改めて学校ホームページでご案内します。

    受験生とその保護者のみなさんの授業見学について

    来春の本校入学試験受験を考えていらっしゃる中学生、その保護者のみなさまについては、オープンキャンパスや授業体験会などの催しを予定していますので、ご来校ください。催事も決まり次第、学校ホームページでご案内します。

  • 2023.05.06

    「江戸の宇宙論」

    江戸時代の人たちが宇宙をどのように考えていたのかというのも興味深い分野ではありますが、ここでは、江戸時代に、コペルニクスの地動説やケプラーの法則、ニュートン力学が日本にどのように伝えられ広まっていったのかがテーマです。江戸時代の洋学、近代科学の受容となると「解体新書」(1774年)が思い浮かびますが、『江戸の宇宙論』(池内了、集英社新書)を読むと、ほぼ同じ時期に思いがけない人たちが関わっていました。

    長崎通詞(通訳)の本木良永(1735~1794)はコペルニクスの地動説を日本において最初に明確に紹介した人物で、イギリス人の著作を翻訳。「太陽が中心にあってその周囲を回転する地球という描像の下で私たちの世界を太陽系宇宙として客観視する視点に到達した」と評価します。

    この写本を読んで地動説に魅せられたのが天才絵師、司馬江漢(1747~1818)、自らの著書で啓蒙活動を行ったことで、地動説、宇宙論を受け入れる人たちが少しずつ増えていったそう。

    同じころ、やはり長崎通詞だった志筑忠雄(1760~1806)は西洋の天文学・物理学入門の文献を翻訳。ケプラーの法則やニュートンの運動の三法則と万有引力の法則を数学的に理解した上で「引力、求心力、遠心力、重力、分子など多くの物理用語を生み出した、日本の物理学史の重要人物」と評価されています。

    この志筑の写本を読み、無限宇宙に思いを馳せたのが大阪の大名貸し業者の番頭、山片蟠桃(1748~1821)。蟠桃が示した宇宙像では、各恒星の周りに惑星が必ず生まれ、そこには人間が誕生していて、宇宙のあちこちに人間が存在することを当然のように述べているとのこと。

    「現在の私達の常識からいえば、生命が満ち溢れた宇宙像は当たり前だが200年も昔に、生命誕生の条件を想定し、原始的な生命体から複雑な生物へと進化した道筋を考え、ついには人間の誕生への至ることまで想像し得たことは、彼の思考が時代に先駆けて科学的であったことを意味する」と池内さん。

    現代のような印刷による書籍の大量発行ができなかった時代、さらに、蘭学、洋学そのものへの警戒心からいよいよ書籍として広まることが困難だったときに、知識がどのように広まっていったのか。写本、手渡しといったアナログの極みだったわけですが、逆にいうと知識、学びへの貪欲さがあったということなのでしょう。

    池内さんは続けます。
    「彼らの業績についてはこれまでの天文学史ではほとんど触れられてこなかった。おそらく彼らが学者ではなく、天文学を生業としない人たちだったからではないか。彼らの仕事は素人の楽しみ程度にしか映らなかったのだろう。しかし、視点を変えてみれば、気軽に科学の分野に遊び、そこで見つけた新概念を愉しみ、人々に知らせたい願う、そんな姿が見えてくる、それこそが本物の知の喜びなのではないだろうか」。

    彼らがどのように翻訳していったのか、その言葉の選び方などを池内さんは丁寧にわかりやすく解説しています。天文学史の復習にもなります。

  • 2023.05.02

    アメリカン・パイ

    韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が訪問先のアメリカでの晩餐会で「アメリカン・パイ」を歌って招待客を沸かせた、というニュースが伝えられています(4月29日毎日新聞朝刊)。この曲は1971年に発表され、よく聴いたので(当時はレコードです)、何でこの曲なのかと。

    韓国の新聞のウエブサイトなどによると、4月26日のホワイトハウスでの晩さん会で尹大統領とバイデン大統領が一緒に舞台に上がった。出席した来賓たちが歌をリクエストすると、尹大統領はマイクを握った。そして、ピアノの伴奏が流れると、尹大統領は「A long long time ago, I can still remember/how that music used to make me smile(ずっとずっと昔のこと 私は覚えている あの曲がどれほど私を笑顔にしてくれたかを)」と、1分間ほど「アメリカン・パイ」の冒頭部を熱唱した、とのこと。

    シンガーソングライターのドン・マクリーンによる「アメリカン・パイ」は、ロックンロールの大歌手だったバディ・ホリーが飛行機事故で亡くなった日を「音楽が死んだ日」と振り返る作品、と解説されています。

    そこからすると何でこの曲なのか、ではあるのですが、ウエブサイトの記事によると、この曲はバイデン大統領が2015年に亡くした長男が幼かったころ、一緒によく歌った曲なのだそう。バイデン大統領にとっての長男との思い出は、まさに「あの曲がどれほど私を笑顔にしてくれたか」だったかもしれません。

    毎日の記事には「喜ぶバイデン氏から肩を抱かれる一幕もあった」とあります。そこまで考えて尹大統領が選曲して歌ったとしたら、すごいですね。

    ちなみに、私にとっての「アメリカン・パイ」は1970年代のドン・マクリーンですが、マドンナが2000年にカバーしているそうです。尹大統領は1960年生まれ、ほぼ私と同世代なので、ドン・マクリーンですね。

    /
    「アメリカのパイを買って帰ろう 沖縄58号線の向こうへ」(駒沢敏器、2009年)

    歌のタイトル「パイ」はおそらくアップルパイのこと、歌詞では「Bye, bye, Miss American Pie」と出てきます。

    アップルパイはアメリカで誰もが好きな料理、「Pie」にはアメリカを象徴する、代表するという意味合いが込められているのでしょう。
    「アメリカのパイを買って帰ろう」は第二次大戦後、アメリカ統治下にあった沖縄(アメリカ世(ユー))をさまざまな切り口で描いており、アップルパイもとりあげられます。 「沖縄58号線」は沖縄本島を南北に貫く国道58号線のこと。この58号線の起点は鹿児島、そこから種子島、奄美大島、沖縄本島へ海を越える国道です。

  • 2023.05.01

    「読む」鉄道

    先日訃報が目にとまりました(毎日新聞4月21日朝刊)。
    小池滋さん、ディケンズなどの研究や翻訳をはじめとするイギリス文学の研究者で東京都立大、東京女子大などで教鞭をとった方ですが、私にとっては鉄道史に興味を持つきっかけを作ってくれた一人です。

    本棚から著作が次々と見つかりました。代表作とも言えるのが「英国鉄道物語」で1980年、毎日出版文化賞受賞。写真にある1冊「絵入り 鉄道世界旅行」の筆者紹介によると「19世紀英文学研究で知られるが、同時に、ただ汽車に乗って揺られているだけで満足という無類の鉄道好き。この二つが幸福な結婚をとげて名著『英国鉄道物語』が生まれた」とあります。

    いまでこそ鉄道ファン、いわゆる「鉄ちゃん」は市民権を得つつありますが、かつては「いい大人が」と揶揄される時代もありました。鉄道に乗ることそのものが楽しいと思えれば性別、年齢、職業は関係ないのですが、小池さんのような大学の先生の中にも鉄道ファンがいるということが、私に少しの「安心感」を与えてくれたのかもしれません。

    電車に乗るのが大好きという「乗り鉄」、写真が「撮り鉄」、さらには「模型鉄」などがよく知られていますが「歴史鉄」あるいは「読み鉄」はどうでしょう。ある路線がどのようないきさつで計画・敷設され、それによって沿線がどのように発展あるいは衰退したのかなどを、いろいろな本や資料を読んで知る。小池さんの著作を通じて、イギリスをはじめとする世界の鉄道事情、さらには鉄道を通じて地域の歴史が垣間見られる面白さを教えてもらったともいえそうです。
    鉄道にまで「教養」を持ち込むのかと叱られそうですが、路線の歴史を知ることで乗る楽しみも増えるのではないでしょうか。

    大学の先生と聞くとその文章は難しいと思われそうですが、国語学者で数々の辞典を編纂している中村明さんの「日本の作家 名表現辞典」に小池滋さんの作品も取り上げられています(鉄道ものではないエッセイですが)。そこでは「(小池滋さんの)随筆には、英国の心をよく知る人であることを思わせる、巧まざるユーモアがあり、独特の香気が漂う」と評されています。

    「歴史鉄」おすすめ

    /

    「鉄道忌避伝説の謎 汽車が来た町、来なかった町 」 (青木栄一、吉川弘文館、歴史文化ライブラリー)


    明治時代、急速に鉄道網が広がっていく中で、江戸時代に繫栄した街道筋の宿場町などが、鉄道ができることで商売に差しさわりがあると鉄道建設に反対した、その結果、多くの鉄道路線が街はずれを通ることになった、という話があちこちに残っています。筆者は丹念に資料を追い、それが正しいのか検証していきます。結論は、タイトルに「伝説」とあることから推測してください。

    「鉄道が変えた社寺参詣 初詣は鉄道とともに生まれ育った」 (平山昇、交通新聞社新書)
    国内の私鉄の多くが神社やお寺へのお参りへの「足」として発展したという歴史を振り返ります。鉄道側にとっても社寺側にとってもメリットがあったわけです。加えて今では多くの人が出かける初詣も、この鉄道の発達、鉄道会社の仕掛けがあって明治以降、急速に広がったということを明らかにします。初詣と聞くと相当古くからの伝統のように思いがちですが、そうではなかったのです。

  • 2023.04.27

    校内花盛り

    /
    /校内に散在する花壇や鉢で色あざやかな花が咲いています。

    環境創造委員会の生徒たちが、種まきから始まり日々丹念に世話をしています。