2024.06.18
太平洋戦争敗戦後に日本を占領した連合国軍は米軍、とみなが思ってしまっていることについて、論文『占領期日本と英連邦軍――イギリス部隊の撤退政策を中心に――』を発表した愛知県立大学の奥田泰広さんはこのように書いています。
「占領期日本がアメリカとの関係のみで考えられてきたのは故なきことではない」
「アメリカはその占領政策を実施するにあたって、ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)が最大の影響力を振るうことになるが、マッカーサーはその際に本国政府の影響力をかなりの程度払いのけただけでなく、日本占領に本来的な権限を持つはずの極東委員会や対日理事会の存在も無視していった」
「そして、実際の占領政策に携わるべき占領軍についても、アメリカ以外の軍事力を軍政の領域から追いやり、日本軍の武装解除をはじめとしたごく狭い領域に閉じ込めたのである」
「この結果、戦後日本においてBCOFの存在感は極小化されることになった」
BCOFが英連邦占領軍(British Common wealth Occupation Force)のことです。
そのBCOFに関するまとまった唯一の研究ともされる『英連邦軍の日本進駐と展開』(お茶の水書房、1997年)の筆者、千田武志さん自身は1997年、著書についてこんなふうに書いています。
「私が英連邦占領軍のことを知ったのは、昭和五十三(一九七八)年十一月に防衛庁戦史部の図書館を訪れて「呉進駐関係綴」などの資料を収集したさいのことです。この資料によって、中国、四国地方はアメリカ占領軍についで二十一年二月から英連邦占領軍によって占領されたことを知ったのでした」
「日本占領の特色は、連合国といいながら事実上アメリカ一国によって単独占領され、間接統治方式が採用されたと点にあると思いこんでいた私は、英連邦占領軍の存在におどろき、そして興味を持ちました」(社会経済史学会中国四国部会会報第13号、1997年7月)
多くの人がBCOFの存在を知らなかった、占領を経験した人も忘れていたのでしょう、楽しい経験ではなかったので忘れたいということもあるでしょう、また、あえて研究対象とする人もあまりいなかったということですかね。そして千田さんは呉市の市史編纂室に勤務しながら研究を進め、オーストラリア、ニュージーランドにも出かけて現地の資料館や公文書館などで資料を集めたそうです。
千田さんはこう結んでいます。
「これまでの英連邦占領軍の解明がほとんどなされていないという認識にたって、その形成、進駐、組織と活動、朝鮮戦争との関係、日本人との交友、撤退など、総合的に解明することにつとめました。これによって、かつての私のように、事実上、日本はアメリカ一国によって単独占領されたと考える人がいくらかでも少なくなることを願っています。特に、実際に進駐していた中国・四国地方の人にとって、英連邦占領軍は、けっして忘れられた軍隊であってはならないでしょう」(明らかな誤字もあり一部手直しをしています)
呉で英連邦占領軍(BCOF)のことを知り、少し調べてみようと思って、まずはインターネットでいくつかのキーワードで検索してみる、ということになります。例えばフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「イギリス連邦占領軍」で概略はほぼ把握できるし、写真も豊富に掲載されています。
フリー百科事典についてはいろいろな意見はあるでしょうが手掛かりとしては重宝します。「手掛かり」と書きました。きちんとした研究者が書かれている項目が多くなっていると感じますが、それでも、そのまま引用するにはやはり抵抗があります。幸い、以前と比べると脚注や参照文献や論文などが丁寧に紹介されるようになっているという印象を持っています。可能な限り原典にあたりたいと考えています。
BCOFについても、そのような手順を踏んでいくなかで奥田さんの論文にぶつかり、奥田さんが「これ」と言っていた千田さんの著作を取り寄せました。奥田さんの論文まではネット上での作業で「ほぼ無料」なわけですが、改めて千田さんの労作を手にとってみると、すばらしいお仕事をされたということを実感できます。
奥田さんの論文は大学の研究紀要で発表されたものです。「紀要」は大学の学部単位、博物館・美術館など研究施設が発行する、論文などを掲載する媒体(雑誌)で読者層も限られていますし、かつては、どの紀要にどういう論文が掲載されているのかを把握することも簡単ではなく、当然気軽に読むことも困難でした。
ところが最近はウエブサイトで電子版(多くはPDFで)を公開している例が多く、大変助かります。一昔前はおそらく国会図書館にでも行かないと読めなかったでしょう。このあたりは、インターネットの効用だと素直に評価はします。
「本を読む楽しさ」を伝えたいと書き続けているブログですが、迷路をたどるようにして思わぬ一冊にたどり着く「本との出会い」も楽しいことを知ってもらえれば嬉しいです
2024.06.17
太平洋戦争後の連合国による日本占領で米国と英連邦軍との間で占領・進駐地域をめぐってそれぞれの思惑があったであろうと研究者は指摘しているわけですが、千田武志さんの『英連邦軍の日本進駐と展開』(お茶の水書房、1997年)にはちょっとこんな気になる記述がありました。
「アメリカが原爆投下にたいする市民感情を考慮して広島・呉地区の占領をさけ、BCOFにゆだねようとしたのではないかという一部の疑問を否定することはできない。ただ、こうした説を裏付ける公式資料は、現在まで発見されていない」
「(英連邦軍側は)首都として重要な東京やかつて経済的な基盤を有していた神戸、大阪ではなく、地方の戦災地であり、とくに問題の多い原爆の地広島に進駐させられたのでは、威信を保つことも戦前からの経済的利益を確保することもできないと考えた」
言い方が適切かどうかわかりませんが、日本の敗戦を受けてどこの国が日本に一番乗りするか、終戦に向けて米軍は沖縄に上陸して占領し、本土に迫っていたわけですから、日本の降伏(8月15日)を受けて米軍トップのマッカーサーがいち早く8月30日には日本にやってきます。マッカーサー率いるアメリカ太平洋陸軍第8軍はまず東日本に進駐、西日本の占領はやや遅れ、呉に先遣隊が到着したのが9月26日、本体の到着が10月7日、中国地方・全域で進駐が完了したのは12月末になりました。
英連邦軍はいくつかの国の軍隊の総称ですからその内部は一枚岩ではなく、千田さんや奥田泰広さん(愛知県立大学准教授)の研究によるとオーストラリアが単独での軍派遣を主張してイギリスと対立する場面もあり、それが日本到着遅れの原因の一つでもあったようです。BCOFの進駐は終戦の年が明けた46年2月から5月にかけてで、同年末現在で総計37021人、イギリス人9806人、インド10853人、オーストラリア11918人、ニュージーランド4444人という、まさに「連邦軍」となりました。
連合国軍である以上、進駐するというBCOFの意向をマッカーサーもまったく無視することはできなかったでしょうし、一方で、列島全域を米軍が押えるとなると軍編成も大がかりになり当然費用もかかります。イギリスが大都市が含まれていないことに不満を持ったということにも触れました。米側が中国・四国地区という「地方」にBCOFを追いやったというあたりが一般的な見方かもしれませんが、米国・マッカーサー側が原爆投下地の広島を避けたのではという「説」には、やはりひっかかりが残ります。
そもそもBCOFが日本占領に加わることにこだわるのはなぜなのか。費用もかかるし、派遣される軍人が喜ぶとは思えませんよね。近代以前の戦争ならば戦勝国が敗戦国を占領して植民地にしてしまうなどということがあったわけですが、日本占領についてはいわゆる「間接統治」、日本の行政機構はそのまま生かし、そこに連合国軍側があれこれ指示をするというスタイルです。
『占領 1945~1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人』(ハワード・B・ショーンバーガー)の「おわりに」にこうまとめられています。
「占領初期の進歩的な民主化政策の背後には、アジアにおけるアメリカの利益を再び脅かすかもしれない日本の軍国主義を永遠に破壊しておこうという決意があった。アジアにおけるアメリカの利益に対する主要な脅威は、かつては日本であると定義されていた」
「ところが一九四七年には、日本から、ソ連と中国での共産主義運動に移っていた。アメリカの政策は、冷戦の中で日本をアメリカの同盟国とすることへ移行した」
日本が二度と道を誤らないように、アメリカやイギリスなどと同じ価値観のもとで民主主義国家に生まれ変わらせるという使命感が占領・進駐の原動力だったというのはあまりにきれいごとのように思えます(もちろんそういう理想を抱いてきた人もいたでしょうが)。もちろん植民地といったストレートな形での経済的恩恵ではなくても、占領・進駐で得られる有形無形の利益への期待はあるでしょうし、特にアメリカは、戦争中は手を結んだものの本来は相容れない社会主義国家である「ソビエト連邦」を十分意識しながらの日本占領だったという分析です。
2024.06.14
英占領軍(BCOF)についての唯一ともいえそうなまとまった研究書である千田武志さんの『英連邦軍の日本進駐と展開』(お茶の水書房、1997年)の内容に入っていきます。前回、呉市の「大和ミュージアム」内の呉の歴史を紹介するコーナーの展示で、広島地区も最初は米軍が進駐してきたが後に英連邦軍に変わったという記述があったわけですが、では英連邦軍はなぜ広島県、さらには中国・四国地方だったのかという点です。
米側は最初、英豪側に対して進駐地域として北海道、神戸・大阪と広島を提示したが、北海道はオーストラリア人やインド人に寒すぎるとして英豪側が断った、神戸・大阪については英連邦軍の規模では統治は不可能ということで、「気候温暖で環境のすぐれた広島県とその周辺地区を選択した」とされています。
その後、BCOFの進駐地域が中国・四国地方に拡大されるのですが、その理由についてこう分析しています。
「ソ連と中華民国の占領軍派遣が中止となったこと、復員、除隊が緊急事態となっていたアメリカが急速に占領軍を縮小せざるをえなくなったことなどからBCOFの占領業務地区の拡大へとつながったものと思われる」
一方で「東京への進駐は英連邦関係国すべての希望であったが、とくにイギリスにはそれが切実な問題であった」とも書いていて、占領地域決定にあたって米側・マッカーサーと英連邦軍にはそれぞれの思惑があり、両者の間でかけひき、緊張したやりとりがあったことが想像できます。
こんな証言もあります。
英連邦軍(空軍)の司令官として進駐、山口県・岩国に滞在した軍人の回顧録です。BCOFがどのような形で進駐するか決まっていない段階で来日し、米軍側との調整にあたります。
「マッカーサーおよび東京の彼の参謀たちとの温かい会談、また英連邦軍が日本へやってきたことへの彼らの歓迎ぶりからみると、われわれにはまずは広島県だけしか任せてもらえなかったのには驚いた」
「(オーストラリア軍総司令官の)ノースコット中将は、わが軍は全占領軍の三分の一にあたるといっても良いくらいだと指摘した。もう少し場所が欲しいというわれわれの要求は、連合国軍にくい込もうと圧力をかけるソヴィエトに対して米国が著しく態度を硬化させているのと相まって、早速結果が現れた。日本の主要部をなす島である本州の南西部全体と、四国という大きな島を割り当てられた」
「ノースコット中将は、日本海軍の呉軍港を英連邦占領軍の主力基地および軍港に使い、彼の司令部をそこに設置すると決定した」
少し古い著作ですが、アメリカ外交史、日本占領史の研究者が日本占領のキーパーソンとして8人を選び、その評伝という形で全体として日本占領を描くという形の研究書です。当然、マッカーサーが出てきます。
米国は日本への戦勝が確実になった段階でいち早く日本占領のプランを作成します。そこでは、連合国が協議する組織はできるであろうが「いかなる国際管理委員会においても、アメリカが卓越した影響力を行使することを想定していた。イギリス、中国、ソ連の役割はアメリカがそれらの国のために名目上設定したものにとどまっていた」
「戦争終結後、太平洋地域におけるアメリカの優越性は明らかであったから、日本の総督としてのマッカーサーの権限にとって重要な問題は、連合国による管理ではなく、ワシントンの政策立案者たちがどの程度介入してくるかであった」
奥田泰広さん(愛知県立大学准教授)が「マッカーサーは(中略)日本占領に本来的な権限を持つはずの極東委員会や対日理事会の存在も無視していった」と書いていましたが、マッカーサー個人の考えにとどまらず「無視」は米国の基本的な姿勢だったということですね。
そうなると米国、マッカーサー側がBCOFと協調しながらやっていこうという姿勢があったとは到底思えません。とはいうものの連合国という建前上、日本に進駐したいという英連邦軍をむげに扱うわけにもいきません。そこで、言い方は悪いですが「うるさいから影響の少ないところを担当させておけ」といった感じだったのではないでしょうか。
2024.06.13
太平洋戦争の終結後、広島県など中国・四国地方が英連邦軍(BCOF)によって占領されていたということに驚かされたわけですが、呉市にある「大和ミュージアム」(呉市海事歴史科学館)は呉の歴史についての展示も充実していて、「戦後の歩み」コーナーには英連邦軍についての説明がありました(「公式ガイドブック」から引用します)
「昭和20(1945)年10月7日1万9,500名にのぼるアメリカ占領軍が第11海軍航空廠内に上陸しました。その後中国、四国地方の占領は英連邦占領軍が担当することになり、昭和21(1946)年12月には3万7,010名に達しました」
当初は米軍による占領で途中から変わったということです。英連邦占領軍のために働く人のための注意事項や規則などが書かれた手帳などの写真が掲載されています(館内で現物が展示されていたはずです)。「上陸したオーストラリア占領軍(呉港)昭和21(1946)年2月14日 /アメリカ国立公文書館 所蔵)とクレジットのある写真も紹介されています(ここでも米国立公文書館です)
英連邦占領軍は徐々に兵員が撤退していき1950(昭和25)年5月19日には全面撤退が決定したものの、6月25日に朝鮮戦争が起きると撤退は延期され、新たに英連邦朝鮮派遣軍が進駐してくることになったとのこと。
この英連邦軍とマッカーサー率いる米軍との関係や英連邦軍とオーストラリア軍など、詳しく知りたくなります。そこで、英連邦軍の占領について調べはじめたのですが、これがけっこう難題というか、研究文献がなかなか見つからないのです。
そして『英連邦軍の日本進駐と展開』(千田武志、お茶の水書房、1997年)という書籍にたどりつきました。タイトルがそのものずばりであり、もっともまとまった研究のようです。
愛知県立大学の奥田泰広准教授が2020年に「愛知県立大学外国語学部紀要」で発表した論文『占領期日本と英連邦軍――イギリス部隊の撤退政策を中心に――』にはこうあります。
「現在の日本の学術界でBCOFを扱った業績は千田武志『英連邦軍の日本進駐と展開』のみであり、本稿もこの業績を出発点としている」
奥田さんはイギリス政治をご専門にされているようで、その研究者に「これだけ」と断言されてしまったらこれは読まないわけにはいきませんね。とはいえ、発行もかなり前なので古本で入手しました。
本格的な調査がまだ続けられているそうです
2024.06.11
広島県呉市に「大和ミュージアム」(呉市海事歴史科学館)があるのは旧日本海軍の戦艦「大和」が呉で建造されたからです。呉は戦前から旧海軍の基地として栄えた街で、市内や周辺に旧海軍の施設跡などが残っています。大和ミュージアムを訪れた機会にいくつかの施設を見学することができたのですが、戦艦「大和」についての新知識に劣らないくらい勉強になったことが他にもありました。
呉市に旧海軍の拠点である「鎮守府」が1889年(明治22)に置かれ、軍艦造船のための「呉海軍工廠」も設立されて街は発展しました。「大和」はこの海軍工廠で建造されました。鎮守府は太平洋戦争の敗戦によってなくなるのですが、その後、海上自衛隊の「呉地方総監部」として引き継がれ、構内には旧鎮守府の庁舎が残っています。現在も一部は使用されており、日時を限って一般公開もされています。
自衛隊の方が構内を案内してくれるのですが、その中に「日本海軍呉鎮守府電話総合交換所」という斜面を利用した半地下室のような施設がありました。文字通り電話交換所だという記録はあるものの、資料があまり残っていないので詳細は不明とのこと。その説明を聞いて掲示板を見て驚きました。
「戦後は、昭和21年2月以降中国四国地方は英連邦占領軍(British Common wealth Occupation Force(BCOF)が進駐し、呉通信工事局第一電話交換所とBCOF通信隊司令部として使用されていました」
自衛隊の方の案内でもふれられたようにも思えるのですが、とにかく「えっなに、英連邦軍?」とびっくりしました。
太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦で日本は占領されたわけですが、復習です。
「日本はポツダム宣言にもとづいて、連合国の占領下に置かれることになった。連合国の構成は、いちばん上に極東委員会があり、米、英、中、ソ、豪、蘭、仏、印、カナダ、ニュージーランド、フィリピンの一一ヵ国で構成された。のちにビルマ(現ミャンマー)、パキスタンが加わって一三ヵ国になる」(念のためですが「ソ」は「ソヴィエト連邦=ソ連」、豪はオーストラリア、蘭はオランダ、仏はフランス、印はインドです)
「極東委員会が占領政策を決定し、アメリカ政府を通じて連合国最高司令官に伝達される体制であった」
「この最高司令官の頭脳ともいうべきものが連合国最高司令官総司令部(GHQ)で、その手足とも言うべき第八軍の各軍政部などの地方軍政機構と日本政府を通じて日本国民を管理した」
連合国最高司令官がアメリカのマッカーサーで同時にアメリカ太平洋陸軍総司令官でもありその下に第八軍があったので
「連合国の占領といっても、実質的にはアメリカ政府の政策が日本を支配していた」
1945年9月2日の降伏文書の調印から52年4月28日の講和条約発効まで、日本は連合国に占領されていたわけですが、これをアメリカによる占領と一般的に理解されるのは、こういう組織構成からしてやむを得ないところでしょう。
このブログの「京都も占領されていた」(3月7日付)では、京都にも東京や他都市と同じように占領下に連合国軍が進駐していて、その司令官の宿舎や事務所として使われた建物がいくつも残っているということを、「恥ずかしながら京都で仕事をしていた時には知らなかった」と書きました。改めて確認すると京都に進駐してきたのは米軍でした。当然そうだろうと、この時点では疑いもしなかったし、今思うと、日本のどの都市にも米軍がやってきたと思い込んでいたわけです。
2024.06.10
米国の国立公文書館(「DC」と呼びます)は1934年に設立されています。日本の国立公文書館(「北の丸」と呼びます)の設立は1971年、この差はなんなのか、ということです。「北の丸」のウエブサイトに公文書館設立の前史としてこんな説明が載っています。
「我が国では、明治以来、各省の公文書はそれぞれの機関ごとに保存する方法をとってきました。しかし、戦後、公文書の散逸防止と公開のための施設の必要性についての認識が急速に高まり(略)」
でも、米国ではすでに戦前から公文書館があったわけですよね。「北の丸」では「公文書はそれぞれの機関ごとに保存する方法をとってきました」とさりげなく書いてありますが、ようするに各役所が自分たちのところで「抱えていた」ということです。もちろん日々の仕事を進めるうえで過去の例にあたるために直近の記録などは手元に置いておくのが合理的です。
しかし、「歴史資料として重要なもの」(「北の丸」のウエブサイト)、つまりある程度時間が経過したら役所ではなく公文書館で保管しましょうというのが基本的な考え方です。各役所も記録(書類)の保管場所を無尽蔵に持っているわけではありませんし、手放した方がいいはずです。
ここで問題になるのは「歴史資料として重要なもの」は何か、誰がどう判断するのかということです。役所などでは日々膨大な公文書が生み出されます。その中から何を重要なものとして選びだすのか、その専門家としてアーキビストという資格をつくり養成をしているのですが、役所にそもそもどういう記録(リスト)があるのかがわからなければ選びようがないという壁につきあたります。
そうなると役所が出してきたものを「いただく」しかありません。言い方が悪いのですが、役所が「都合が悪いので公開したくない」と言って抱えこんで(あるいは廃棄)しまえばどうしようもないわけです。それを防ぐためにはどうすればいいのか。公文書館なりアーキビストに強い権限を持たせるのが一つの方法です。
2022年8月、大統領を退任していたトランプ氏が退任時に国立公文書館に引き渡すよう法律で定められていた機密文書300件以上をトランプ氏の邸宅で保持していたと報じられました。公文書館がなかば強制的に約半数を回収し、さらにはFBI(連邦捜査局)も家宅捜索で書類を押収した、というのです。
もちろんトランプ氏と現政権との緊張関係など政治的な思惑が背景にあるのかもしれませんが、まさに米国の歴史そのものである大統領がどのように政策をつくりそれを実行したのか、その記録は当然のごとく公文書館に渡されるべきものだという理念があり、そのことを当然視していることがうかがえるニュースでした。
日本の役所が公文書を抱えこんでいるのではないかというのが私の思い込みならいいのですが、役所に公文書がある段階で市民が情報公開請求しても、そもそも公文書が存在するのかないのかすら回答しない例や公開しても真っ黒に塗りつぶして公開する例などを知るとどうでしょう。もちろん「今は見せられない」、時間がたって「公文書館」に移されてからなら見ることができると役所側が説明することは予想されますが、公文書そのものを改ざんすらしてしまう例など知ると残念ながら信頼することは難しいのです。
しつこくもう1点、重箱の隅をつつくようですが、そもそも公文書の定義が難しいということもあります。「DC」のウエブサイトが対象とするものについて「all documents and materials」としているのが気になります。「文書と資料」です。言葉として大変幅広い、ある意味何でもありとも言えそうです。実は歴史研究では「公文書」になる前の政策決定過程でのメモやメールも重要な資料です。「メモやメールは公文書ではない」という役所のコメントもよく聞きます。
日本の国立公文書館や地方の公文書館、文書館の役割を支える法律「公文書館法」(1987年制定)にはこうあります。
「第二条 この法律において「公文書等」とは、国又は地方公共団体が保管する公文書その他の記録(現用のものを除く。)をいう」
「その他の記録」をより幅広く解釈してくれることを願うばかりです。
米国の公文書館が素晴らしいと単純に賞賛するつもりはありませんが、公務員の、自分たちの仕事が歴史を作っているという意識、そのために後世に記録を残さなければならないという義務感、公文書は国民共有の財産であるとする理解、これらの点で諸外国と日本との差はなかなか埋められないのではと痛感します。
永久保存されている資料の内容について
135億枚の紙
725,000点以上の遺物
4億5000万フィート以上のフィルム、つまり約85,302マイル(地球をほぼ3.4周するのに十分な量)
4100万枚の写真
4,000万枚の航空写真
1,000万点の地図、チャート、建築・工学図面
330億件以上の電子記録(837テラバイト)
旧日本海軍の戦艦「大和」を捉えた米軍偵察機の写真は「4100万枚の写真」か「4000万枚の航空写真」の中にあるのでしょう。今回新発見の「大和」のカラーの動画は「4億5000万フィート以上のフィルム」の中にあったのでしょう。ウエブサイトをみるとこれらの資料を検索するためのシステムの改良が続けられていることがうかがえます。
2024.06.07
旧日本海軍の戦艦「大和」について長々と書いてきました。そのきっかけというかキーワードの一つが「米国立公文書館」でした。大分県の市民団体が、「大和」が米軍機から攻撃を受ける場面のカラー映像を米国立公文書館の資料の中から見つけたというニュースがあり、広島県呉市の大和ミュージアムの展示物の中にも「米国立公文書館 所蔵」とクレジットのある資料がいくつもありました。公文書館についても改めて考えさせられました。
日本国内にも「大和」関連の資料は残っていたでしょうが、「大和」の沈没、終戦の1945年からの時間経過の中で、これから「大和」に関する新しい資料がどれだけでてくるのか悲観的にならざるをえません。
太平洋戦争終結が見えてきた段階で軍関係者が敗戦で責任を問われることを避けるために膨大な関係資料を焼却処分するなどしたことはよく知られています。「大和」についても同様だったでしょう。戦争の勝者と敗者という違いはあるにしても、自分たちの国のことを調べるのに外国の記録に頼るところが多いというのは、なんとも複雑な思いです。その米国立公文書館のことを調べてみて驚いたのですが1934年に設立されています。そう、日米が太平洋戦争を戦っているときにもう存在していたのです。
とはいえ、まず「公文書館」とは何かから始めないといけないでしょう。「図書館」などに比べると一般的ななじみはないでしょうが日本にも「国立公文書館」があり、都道府県などの自治体単位で「公文書館」あるいは「文書館」などの名称で設置されている例もあります。
日本の国立公文書館のウエブサイトにはこうあります(この後、米国立公文書館と両方参照しますが組織名称が長くなるので日本のそれは「北の丸」と略します。東京千代田区の北の丸に本館があります。米国の国立公文書館はワシントンDCが本拠地なので「DC」と表記します)
「国立公文書館は、国の機関で作成された膨大な公文書の中から、歴史資料として重要なものを選んで保存し、一般に公開してご利用いただくための施設です。保存されている公文書は、日本の歩みを後世に伝えるための国民共有のかけがえのない財産です」
「これらの公文書を、より多くの方にご利用いただくために、私たち国立公文書館は、国民みんなに信頼され、親しまれる施設でありたいと考えます。公文書と国立公文書館を、“国民みんなのもの”と感じていただくことができるように努めます」(北の丸)
米国の国立公文書館(DC)も考え方は同じといっていいでしょう。
「国立公文書記録管理局 (NARA) は、国の記録保管機関です。米国連邦政府が業務を行う過程で作成されたすべての文書と資料のうち、法律上または歴史的理由から非常に重要であるため、永久に保管されるのは1%~ 3%のみです。これらの貴重な記録は保存されており、家族の歴史に関する手がかりが含まれているかどうかを確認したい場合、退役軍人の軍務を証明する必要がある場合、または興味のある歴史的なトピックを調査している場合などに利用できます」(米国立公文書館のウエブサイトの自動翻訳なのでちょっとこなれない表現になっています)
「米国連邦政府が業務を行う過程で作成されたすべての文書と資料」(DC)とあり、連邦政府には米軍も当然含まれます。さらに「業務」(原文はbusiness)とありピンとこないかもしれませんが、要するに軍の業務=戦争で作成された文書、資料ということになります。作戦立案のために集められた資料も含まれるでしょう。旧日本軍の戦艦「大和」に関する偵察機の写真も該当するでしょうし、業務=実際の戦闘、その経過(成果)を記録した「大和」撃沈のようすをとらえた動画、映像も「資料」という理解ですね。
ウエブサイト(DC)のトップページをみると「軍関係の記録はこちら」という目立つ入口(バナー)が設けられており、軍関係の記録は重要視されていることもうかがえます。また「家族の歴史に関する手がかり」という記述も目をひきます。
タイトルは「文書館」となっていますが日本国内で公文書館、文書館が少しずつできつつあった時期に、公文書館の必要性、そこで資料を扱うアーキビストの役割などについて諸外国の例を研究し、提言してきた研究者の著作です。少し古い発行ですが、国内の公文書館創設期の関係者の「熱気」も伝わってきます。こんなくだりがありました。
「この米国国立公文書館(ナショナル・アーカイブス・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ)は、アメリカ合衆国連邦政府の永久保存公文書を保管し一般の利用に供している世界最大の文書館で、議事堂にほど近いワシントン中心部に立つギリシャ神殿風の壮大な建物である」
「一九八四年の秋、私は文部省在外研究員として欧米の文書館の実状を調査するためにここを訪れた。文書館などというと、せいぜい一〇人かそこらの研究員か歴史愛好者が、ひっとりと古い文書に読みふけっている光景を想像しがちだが、なかなかどうして、老若男女じつにさまざまな人々が列をなして閲覧に詰めかけているというありさまなのであった」
「史料閲覧者の中で一番多いのは自分の先祖のことを調べる一般市民で、ジ二オロジスト(家系調査家)と呼ばれ、七、八割を占めるという」
「国民の大多数が北米大陸以外からの移民や奴隷を先祖に持つ人たちであるアメリカで、自分たちの“ルーツ”探しがこれほど盛んなのはよくわかるような気がするが、ヨーロッパでも事情はそんなに変わらないらしい」
一概に欧米と日本の「公文書館」「文書館」を比べてはいけないのでしょうが、現在の米国立公文書館のウエブサイトがあえて「家族の歴史に関する手がかり」と書く理由は十分にあり、また、米国民が歴史文書にこだわる背景もうかがえると受け止めました。
2024.06.06
広島県呉市の「大和ミュージアム」を見学して戦艦「大和」の技術的側面を強調していることに違和感もあったという個人的感想を書きました。「助け舟」というわけではありませんが『戦艦大和講義――私たちにとって太平洋戦争とは何か』(一ノ瀬俊也、人文書院、2015年)を再びとりあげます。
「あとがき」によると2011年、14年度に一ノ瀬さんが勤務先の埼玉大学で行った講義「近現代日本の政治と社会」の内容を改変・追加して書籍化したとのこと(一ノ瀬さんは現在埼玉大学教授)。
大和ミュージアムについてこう言及しています。
「資料館の目玉は、戦艦大和の精巧な一〇分の一模型です。同館の展示図録をみれば、展示の作り手側が大和を通じて訴えかけたいことは明白です」
「同書で大和は「技術の結晶」と称され、建造に投じられた技術、たとえば「生産管理システム」(工数制御方式などの科学的管理方法)は「戦後約十年で日本を世界一の造船国にし、トップクラスの生産大国になる礎」に、冷暖房や冷蔵技術など「弱電技術」は「戦後、弱電(家電)技術の基礎になった」と説明されます」
「私たちはこうした大和理解の仕方をすでに一九七〇年代の子ども図鑑でみてきました」
「技術の結晶」ととらえることは大和ミュージアムが初めてではないことに注意を促します。ところが「ものづくり大国、経済大国としての日本の地位や競争力は年々低下」していきます。そして「大和ミュージアムと一〇分の一大和はこうした状況に対応し、日本の技術力復興と繁栄持続を祈願すべく建造された神殿と神像であります」と位置付けます。
この「神殿と神像」という表現、ここだけ切り出すとなかなか難解なのですが、一ノ瀬さんは第一講「ガイダンス」でこう書いています。
「戦後日本の歴史を、人々がかつての戦争にいろんな<欲望>を投影してきた歴史としてとらえてみたいと思います。そのとき戦艦大和は、兵器でありながら、日本人が自分の欲望を満たしてもらうために、その時々の社会情勢に応じて<神>として祀りあげられる存在でした。こういうと「お前は何を言っているんだ」と思うでしょうが、まあ講義を聴いていくうちに何となく理解していただけると思います」
「大和ミュージアム」と「一〇分の一模型」はここでいうところの「時々の社会情勢に応じて<神>として祀り上げられ」た一例ということになるのでしょう。
『戦艦大和講義』では旧日本軍の「大和」の建造、沈没の話はもちろんですが、戦後にその「大和」がどのように語られていくのか、さらには「宇宙戦艦ヤマト」の映画が大ヒットしたのはなぜなのか、戦艦を擬人化するコンピュータゲームはどう生まれてきたのか、戦争を知らない世代がそれらをどう受け入れたのかなどにまでテーマを広げ語られます。重要な指摘もたくさん含まれており、戦後史として斬新な切り口ではないかと感じるところも多々ありました。
前に書きましたがこの著作を最初に読んだのは2015年、今回再読していて「あれ、大和ミュージアムのことも書いている」と「発見」しました。自分と同じような感想を持った人がいたと、ちょっと安心したという気持ちは正直ありましたが、その背景をミュージアム開館時の社会状況のなかできちんと押さえて説明している点は、あたり前ですが「さすが」ですね。
一ノ瀬さんのこの著作(大学の講義)に一貫しているのは、「大和」の乗組員をはじめとする戦争での犠牲者が戦後どのように忘れられていったのかという振り返りであり、さらに言えば「忘れようとしてきた」ことへの問いかけであり、いうまでもなく「忘れてはいけない」という呼びかけだと、私自身は読みました。共有すべき問題意識だと思います。
2024.06.04
旧日本軍の戦艦「大和」についてこのブログで書くきっかけには、初めて「大和」のカラー映像が見つかったことと広島県呉市の「大和ミュージアム」(呉市海事歴史科学館)とが結びついたことでした。その「大和ミュージアム」そのものの話になかなかたどりつきませんでした。「大和」の「沖縄特攻」についてのミュージアムでの紹介内容について「難しいところはあるだろうな」とも書きましたが、対照的だったのはミュージアムで「大和」の技術に焦点をあて強調していることでした。
引き続き「公式ガイドブック」(常設展示図録新装改訂版、2009年初版、2023年第10刷)より引用します。
「「大和」は、国力面におけるアメリカ側の“量”的優位に対し、日本が“質”で対抗しようとした艦であり、当時の最新技術の結晶と言えるものでした。その技術は日本の復興と高度成長を支え現代にも受け継がれています」
「応用された技術 呉海軍工廠第4船渠の近くにあった造船実験部は、戦後、鉄道技術研究所が開かれ、優れた旧海軍工廠技術者などが集められて、高速鉄道(新幹線)の研究や造船に関する実験などが行われていました。「大和」建造で培われた技術は造船だけでなく、鉄鋼や建設など様々な分野で現代にも受け継がれているのです」
館内を歩いていて「ここもそうか」という思いが消えませんでした。
私のような「鉄ちゃん」(鉄道ファン、鉄道愛好家)にはよく知られた、東海道新幹線は太平洋戦争前からあった弾丸列車構想を受け継ぎ、高速で列車(電車)を走らせるにあたって戦争中の兵器武器開発で培った技術がいかされた、応用されたといった話と重なりました。
科学技術の進歩と武器開発は表裏というか切り離せないものであることは原子力の利用(例えば発電所)と原爆の例をあげるまでもありません。人工衛星を打ち上げていると言っている近隣の国がありますが日本や米国は弾道ミサイルだと非難をしています。ロケットとして打ち上げて地球を回る軌道に乗せるという技術は共通ですから。新しい技術開発が武器に応用される、逆に武器兵器のために開発された技術・製品が後に社会生活で活かされる、どちらもあるわけですね。
そういった側面からは、当時としてはおそらく世界でも最先端の技術の結晶ともいえる「大和」の「遺産」がたくさんあることは間違いないでしょうし、否定するものではありませんが、あまりに強調するのもどうかという思いが消えませんでした。
「大和ミュージアム」の公式ウエブサイトはこちらから
2024.06.03
話はさかのぼるようですが、そもそもなぜ戦艦「大和」による「沖縄特攻」だったのか、です。太平洋戦争の末期、劣勢となった日本軍は戦局を挽回するために航空機によるアメリカ空母・戦艦などへの体当たり攻撃である「特攻」に踏み切りました。そして航空機だけにとどまらず、当時世界最大級といわれた戦艦「大和」も特攻に投入したわけです。
「戦艦「大和」のカラー映像 ③」(5月30日付)でふれた「アウト・レンジ」は相手の砲弾の届かないところから砲弾を飛ばせれば有利という考え方で、当時の米軍艦より砲弾の長い飛距離を得られる四六センチ砲が「大和」に装着されたわけですが、「体当たり」「特攻」はこの考え方とはかけ離れています。それだけ日本軍は追い込まれていたということなのですが、犠牲になった方たちのことを思うと簡単に納得できる話ではないですよね。
「大和ミュージアム」ではこのあたりにどうふれているのか。館内展示での印象はあまりないので『公式ガイドブック』(常設展示図録新装改訂版、2009年第10刷)から紹介します。まず「大和の生涯」というタイトルでの説明文です。
「昭和16(1941)年12月16日に竣工後、「大和」は連合艦隊旗艦として海軍作戦の指揮全般にあたりましたが、すでに主役の座は戦艦から航空機へと移っており、「大和」は支援任務が多くなります。戦争終局時には沖縄特攻作戦に出撃、最期を迎えました」
「沖縄特攻」の説明文です。
「昭和20(1945)年4月6日、沖縄に向け徳山を出航した「大和」以下の第二艦隊は翌7日、九州南西沖の海上においてアメリカ海軍空母機多数の攻撃を受けました。「大和」は応戦の末、多数の魚雷、爆弾の命中により、14時23分沈没しました」
このような展示説明とは別に「「大和」に乗っていた人々」という展示コーナーには「戦死者名簿」として出身都道府県別に犠牲者全員の名前が掲示されていて強い印象を受けました。「乗務員たちは沖縄特攻に際し、遺書・手紙・葉書などに家族への思いを託し出撃していきました」との説明文もあります。
「博物館」(大和ミュージアム)としての性格上、「沖縄特攻」を来館者にどう説明するのかはなかなか難しいとは思いますが、ここにあげた展示説明はどうでしょうか。「主役の座は戦艦から航空機へ移っており」と書かれていますが、このあたりはある程度の予備知識がないときちんと伝わらないでしょう。
補足というわけではありませんが、日本海軍史研究者でこの大和ミュージアム館長でもある戸髙一成さんの著作から考えます。
題名にあるように旧日本海軍の艦船による戦い(海戦)をたどっているのですが、ここでは太平洋戦争末期の章から。
「マリアナの攻防で艦隊を失った海軍は、ことの重大さに苦悩していた。もはや日米の戦力の差は決定的なものであり、通常の攻撃では、日本側に勝ち目はなくなっていたのである」
「では、何もない日本海軍に残された道は何であったか。それは天佑神助を当てにすることと、大和魂を持ち出すことだけだったのである」
「合理的な作戦がすべて破綻したとき、残っていた作戦が非合理であったことは、あるいは自然なことだったのかもしれない」
この「非合理な作戦」が戦艦による体当たり攻撃というわけです。
「艦隊は四月六日に出撃し、沖縄に向かって進撃したが、ほどなくその行動は敵潜水艦にキャッチされ、翌日の正午過ぎごろから延べ千機にのぼる敵艦載機の航空攻撃が艦隊に集中した。ついに十四時二十三分、多数の魚雷と爆弾が命中した「大和」は巨大なきのこ雲を噴き上げて爆発沈没した。九州坊ノ岬沖、北緯三〇度四三分、東経一二八度〇四分の地点だった」
ここでも、「大和」などの動きはすぐに米軍に知られたことが言及されています。
「特攻第二艦隊10隻のうち、無傷といえるのは「初霜」一隻のみであった。他の九隻の内、「大和」「矢矧」「霞」「浜風」「朝霜」の五隻が沈み、「雪風」「冬月」「涼月」「磯風」が損傷していた。「磯風」は損傷がひどく、「雪風」が砲撃で処分した」
「そして「大和」乗員三千三百三十二名の内、戦死者三千五十六名、救助されたのはわずか二百七十六名にすぎなかった。この数字は、海軍航空特攻全戦死者の数を上回るものであった。ここにおいて、輝ける帝国海軍の歴史は「大和」の沈没の巨大なきのこ雲とともに消え去ったのである」
このあたり戸高さんは事実関係を淡々と記述していますが、この「作戦」のありようについてはこんなくだりもあります。出撃にあたって司令部から艦隊に与えられた命令文の内容を紹介しながら
「この命令を起案したのが誰なのかはっきりしないが、この命令文が示すものは、この特攻艦隊の出撃が、「海軍の伝統を発揚」するために命ぜられたものである、ということであった」
「この作戦の目標は戦果ではなく、「日本海軍の栄光」の伝統発揚のためだったのである」
「日本海軍にとっては、海軍あって国家なしと言われても仕方のない文章である。海軍は、ただ「輝ける伝統」という幻を守るために多くの艦艇と人命を米軍の攻撃の前に差し出したのであろうか」