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BLOG校長ブログ

2024年の記事

  • 2024.05.31

    戦艦「大和」のカラー映像 ④

    戦艦「大和」を含む日本海軍の艦隊が米軍の攻撃で多大な被害を受けながら、それを日本国民に伝えるはずの「大本営発表」は明らかに事実とは異なる内容でした。『戦艦大和』(平間洋一、講談社選書メチエ、2003年)から引用しましたが、このあたりは別の著作でも紹介されています。

    『戦艦大和講義――私たちにとって太平洋戦争とは何か』(一ノ瀬俊也、人文書院、2015年)

    この著作は大変勉強になったので後でまた触れますが、まずこの「情報格差」のくだり。

    「国民の中には大和の特攻作戦の報に感激した人もいました」

    その一人として空想科学小説作家として知られた海野十三(うんの・じゅうざ)の日記を引用します。

    「海野十三は大本営発表を聞いて「水上艦隊の特攻隊はこれが初めて。特に戦艦の特攻隊とは、戦闘の壮観、激烈さが偲ばれ、武者ぶるいを禁じ得ない」と四月九日の日記に記していました。(略)彼のように大和の特攻を文字通り「一億総特攻のさきがけ」として感激した国民もいたのです」

    海野も被害者と言っていいのかもしれませんが、大本営発表のねらい通りに受け止めた人がいたということでしょう。

    「海野は「大和」という艦名を知りませんでした」
    「大和は最後まで国民に名前を公表されることもない寂しい最期を遂げました」
    「彼(海野)ら当時の日本人の大多数よりも、むしろ米軍の方が大和を知っていました」

    「戦艦「大和」のカラー映像 ③」(5月30日付)でふれたように、「大和」は建造段階から秘匿され、日本国民にはその名前すら知らされませんでした。その一方、米国は着々と情報を集め、撃沈後にはニューヨークタイムズの報道例のように「大和」が撃沈されたことが広く伝えられていました。

    『戦艦大和講義』では、この「大和」沈没の情報の扱い方についてまた異なったありようにも触れています。米軍が沖縄で配布した宣伝ビラを紹介しています。「琉球週報」と題字の付けられた新聞形式の宣伝ビラの現物図が掲載されていますが「戦艦大和撃沈」との見出しが読めます。ビラの本文では大和撃沈の様子をかなり正確に知らせ、「日本海軍には新式戦艦は一隻も無い」と結んでいるようです。ビラを読んだ沖縄の人たちの士気低下を狙ったわけです。

    米軍は新聞報道を通じて「大和」撃沈の戦果を米国民に知らせたわけですが、宣伝ビラという形で「大和」撃沈のことを知らない日本国民、沖縄の人たちにも伝えたという格好です。ここにも「情報」をどう扱うかという視点での日米の差が表れていると思います。

    では実際に日本国民は「大和」のことを、その「大和」が沈められたことを知らなかったのか。『戦艦大和講義』で一ノ瀬さんは作家・大佛次郎の四五年八月の日記を引いています。

    「巨艦大和は呉で修理して後沖縄沖で逆に敵巡の体当たりを受け(略)後尾に激突され沈んだと小川氏云う(略)」
    「朝刊に沖縄に敵艦隊に殴り込み巨艦先頭に体当たりしたという司令官伊藤中将大将に昇進せる旨発表あり、巨艦は大和のことか」

    そしてこう“分析・評価”しています。

    「内地の海軍軍人たちも案外口は軽かったようです」
    「彼ぐらいの著名作家ともなると、海軍や報道関係者を通じて「巨艦大和」の名と沈没の“実相”を知っているのです。ただし、あくまでも口づての噂なので、大きくゆがんで伝わったようですが」

    『戦艦大和講義』は2015年に発刊され、書き込みをみるとすぐに読んでいます。細部は忘れてしまいましたが、興味深い視点から「大和」そのもの、さらには戦後史をとらえていることが強く印象に残っていました。そして今回のカラー映像発見、大和ミュージアムで考えたことを受けて「ぜひ再読しなければ」とひっぱりだしました。

    最初読んだときは記憶に残らなかったのでしょう。この大本営発表のくだりに驚きました。そして注釈で『戦艦大和』(平間洋一)という本があることを知り、次にその『戦艦大和』を読んだというのが実情です。(このブログでの紹介の順序とは異なっています)

    このように同じ本(『戦艦大和講義』)でも読むタイミングによって読み方、理解がまったく違ってくること、これが読書の楽しみであり、また一冊の本をきっかけに関連本を知り、次々に読んでいって知見が増えること、これもうれしいことです。そのおかげでニューヨークタイムズの報道のことも知りえました。

  • 2024.05.30

    戦艦「大和」のカラー映像 ③

    旧日本海軍の戦艦「大和」の沈没はどう伝えられたのか。戦いの作戦を立てるための「情報」という切り口とは別に、広く国民に知らせるという「情報」という点でも日本とアメリカは対照的でした。『戦艦大和』(平間洋一、講談社選書メチエ、2003年)に、「大和」が沈んだ翌日4月8日の大本営海軍報道部の発表文が掲載されています。大本営は陸海軍を統括する軍の最高機関でここの名前で国民に向けて戦況を発表していました。

    この発表では「我方の収めたる戦果」として「撃沈、特設航空母艦二隻、戦艦一隻、艦種不詳六隻(以下略)」などとあります。「戦艦「大和」のカラー映像 ②」(5月28日付)で引用したように、米軍の損害は航空機数機のみでした。

    そして「我方の損害」は「沈没 戦艦一隻、巡洋艦一隻、駆逐艦三隻。」としています。「特別攻撃隊にして、右戦果以外、その戦果の確認せられざるもの尠(すく)なからず」ともあります。ここにある以上の戦果を得たといわんばかりです。引用していて、あぜんとします。

    そして新聞もこの発表をもとに大々的に伝えます。報道の根拠が大本営発表しかないのでやむを得ないわけですが、やはり新聞社で働いていた身としては忸怩たる思いが残ります。4月9日付けの「朝日新聞」の紙面が載っています。大きな見出しで「空母等十五隻撃沈」とあり、その横に「撃破十九隻」、すこし小さく「わが方も」とあり「五艦沈没」となっています。

    「敵に痛烈極まる猛攻撃を継続、敵をして応接に暇なきまでに壮絶な突撃を敢行した。その戦果は発表の如く、撃沈一五隻、撃破一九隻に上がり、さらに確認せざる戦果はきわめて多数で(略)この大攻撃により現地軍は敵艦船の轟撃沈を視認し、歓喜雀躍し士気大いに挙がり、猛反撃に転じており(略)」
    「戦艦をはじめとするわが水上部隊が、初めて特攻隊として敵戦艦群に斬り込みをかけ、戦艦以下五隻以上が敵と刺し違えて散ったのである。艦艇の数こそ少なけれ、我にとっては惜しむべき尊い損害である」

    一方で1945年4月8日付けの米紙「ニューヨークタイムズ」の紙面も掲載されています。「大和」が沈んだ地域を含めた九州から沖縄、台湾にかけての地図入りで「VICTORY IN PACIFIC」の見出し。

    「日本海軍最大の戦艦大和(四万五〇〇〇トン)と最新鋭の阿賀型軽巡洋艦、駆逐艦(複数)を、わが海軍航空部隊が撃沈したが、我が方の損害は七機であった。しかし、搭乗員の多くは救難部隊により救出されるであろう」

    負けた側と勝った側との発表が異なるということは、それはあるでしょうが、あまりの違いです。「大本営発表」が負けたことや損害はほとんど伝えないことがしばしばだったため、戦後、「大本営発表」という言葉そのものが都合の悪いことは言わない、あるいは意図的に異なった内容で発表するといった行為の代名詞のようにも使われました。とはいえ、やはり愕然とします。

    『戦艦大和』(平間洋一)に「秘密保持と呉市民」という一節があります。

    「四六センチ砲でアウト・レンジし、少数精鋭の艦隊で対米優位を確保しようと計画された大和の秘密が漏洩し、米国が大和に対抗して四六センチ砲搭載の戦艦を造ると大和の価値は半減する。このため、大和の秘密保持は対米優位にとって不可欠であり、少しでも長く秘密を保持できれば、それだけ優位を保持できる期間が長くなることから、神経質とも思われるほど、あらゆる方策が講じられた」

    まずは設計、建造から秘密保持となるわけですが、「戦艦という言葉なども極力避け、関係者の間では「A-一四〇号艦」「第一号艦」などと呼称していた」。物理的な秘匿としてドックの上に上屋を設けてトタン屋根で囲むなどしたようです。ようするに艦全体を覆ってしまったわけですね。

    とはいえ、海に出ないわけにはいきません。1940年8月に進水式がありました。『大和ミュージアム公式ガイドブック』によると

    「極秘に建造された「大和」の進水式では、軍楽隊の演奏も参加者からの拍手や万歳もなく、建造に関わった限られた人のみが立ち会うひそやかなものでした。この時、呉市内では例外的に早朝から偽装の海軍陸戦隊による市街戦演習がおこなわれて、市民の耳目をそちらにひきつけていました」

    ちなみに「大和」と命名されたのは進水式に先立つ1940年7月25日、39年3月に海軍が艦名として「大和」と「信濃」の候補をあげ、昭和天皇が「大和」を選んだとのこと。

    アウト・レンジとは

    引用の中で「四六センチ砲でアウト・レンジし」とのくだりがありました。ここでいう四六センチ砲は戦艦に搭載する砲弾を発射する主砲のサイズを表しています。この違いによって砲弾が届く距離が変わってきます。四六センチ砲で砲弾が40キロくらい先まで届くそうです。

    戦艦と戦艦との戦いで砲弾の撃ちあいになったと想定します。相手の砲弾の届かないところから砲弾を飛ばせれば、自分たちは安全です。当時、米軍の戦艦が装備していたのは四〇センチ砲だったので、その砲弾が届かないところに「大和」がいて、逆に「大和」から米戦艦に砲弾が届けば有利だという考え方がアウト・レンジです。敵の射程外から攻撃するのをアウト・レンジ戦法、などと呼びます。

    とはいえ、です。40キロ先まで届くといっても、40キロ先は地平線の向こうです。目標・標的は目視できませんよね。命中したかどうかはわからない、『戦艦大和』では「戦艦の艦載砲による射撃は水平線のかなたの移動する目標に対する間接射撃で、直接砲口を目標に向け狙って引き金を引くということはない」とあり、実際の手順がいろいろと説明されていますが、そもそもこの戦艦同士の砲戦という想定がどうだったのか、ということです。大和を沈めたのは米国の戦艦ではなく、航空機による爆撃であり、潜水艦からの魚雷攻撃でした。

  • 2024.05.29

    戦艦「大和」のカラー映像 ②

    旧海軍の戦艦「大和」を中心とする艦隊は1945年(昭和20年)、広島県・呉港を出航後いったん山口県・徳山港に入り4月6日、徳山港を出航、沖縄に向かったのですが翌7日には九州南西沖(宮崎県の沖合あたり)で米軍に「発見」され、航空機からの攻撃や魚雷攻撃を受け沈没します。これに先立つ3月28日の呉出航時には米軍偵察機の航空写真で「大和」が捉えられ、さらには徳山港を出たすぐ翌日に攻撃されていることから、大和の動きは米軍によって日々把握されていたと考えざるをえないのです。

    『戦艦大和』(平間洋一、講談社選書メチエ、2003年)

    少し古い著作ですが他の「大和」関連本でもよく引用されているようです。米軍の資料を丹念に集めて「大和をめぐる米海軍の情報活動」という1章を設け、筆者自身がこの章を「本書の大きな特長」と位置付けています。

    「米海軍情報部は無線傍受を駆使して大和の活動を追跡していた。(略)米海軍の大和の知識は、捕虜訊問、戦闘報告、航空写真、無線傍受情報などにより、次第に実物により近いものとなっていった」

    ここに航空写真が出てきます。1944年2月4日に南太平洋で米海兵隊の航空機が撮影した写真にはそれまで米軍が把握していた規模を大きく上回る戦艦が写っていたという一例が紹介されています。その写真から戦艦の大きさなどを分析し、そののちに別の資料も加わって米軍が「大和」の実像をつかんでいくようすがつづられています。

    ここで留意したいのは、この空撮写真の撮影日時が「大和」が沈められる1年以上も前のことで、さらに米軍が航空機撮影の写真を分析する組織をすでに持っていたという点です。

    「米海軍は一九四五年四月四日までには、この艦隊が航空機の護衛を受けて沖縄に向かって出撃することを薄々予想していた。翌五日には特別攻撃隊と呼ばれたこの艦隊が、六日朝には徳山で二万トンの給油を受け、八日未明には沖縄の東方海面に到着することまでわかった」
    「こうした正確な情報をもとに、米軍機は四月六日夕方には九州近海で日本艦隊を発見」

    この部分の記述については細かな注釈がつけられており、米国立公文書館や米海軍歴史センターなどの記録によるようです。ここでもアメリカの国立公文書館です。今回「大和」沈没時のカラー映像がみつかったのも同じ国立公文書館でした。

    このように米軍は「情報」を重視していたわけです。その点、旧日本軍はという話になるのですが、平間さんは「おわりに」で厳しく指摘しています。

    「外交暗号や海軍暗号が解読されていたことは知っていたが、クラーク教授の論文を読んで、個艦の通信文までことごとく解読されていたことに驚くとともに、これでは勝てるわけがないと痛感した」
    「日本海軍や陸軍では、攻撃を司る職域は重視され、優秀な人材が投入されたが、通信や情報、補給などは軽視され、資源も人材も投入されなかった」

    そして軍幹部を養成する海軍大学校での教育を紹介し

    「日本軍には、相手の通信を傍受するなどという行為は卑劣であり、神のご加護を受けている正義の軍隊が使うべき手段ではないとして、暗号解読や通信傍受などが軽視された。日本海軍は敵を知らず己を知らずに戦い、暗号解読を含む情報戦で完敗し、八月一五日を迎えたのであった」

    同書によります。

    「この海上特攻作戦における日本側の損害は、戦艦大和以下、軽巡矢矧・駆逐艦朝霜、浜風、霞、磯風が沈没し、二隻が大中破の被害を受け、戦死者は大和が三〇六三名(司令部を含む)、第二水雷戦隊九八一名、合計四〇四四名に達した。これらに対して米軍側の損害は爆撃機四、雷撃機三、戦闘機三機と、パイロット四名と搭乗員八名を失っただけであった」

  • 2024.05.28

    戦艦「大和」のカラー映像 ①

    太平洋戦争(第二次世界大戦)末期の1945(昭和20)年に旧日本海軍の戦艦「大和」が米軍機から攻撃を受ける場面のカラー映像が見つかったというニュースが先日、新聞各紙で報じられました。「大和」のカラー映像が確認されたのは初めてということです。このニュースを読んですぐに、広島県呉市の大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)で見た1枚の写真を思い浮かべました

    太平洋戦争の資料の収集保存にあたっている大分県の市民団体「豊の国宇佐市塾」がアメリカの国立公文書館で2013~14年に映像17点を入手、独自に分析したとのこと。米軍機から攻撃を受けて撃沈される「大和」の写真そのもの何点かあり、大和ミュージアムでももちろん展示紹介されています。今回はカラー映像だということが注目されたわけです。

    おさらいです。「大和」は1941年に建造された当時世界最大級の戦艦でしたが45年4月7日、特攻作戦で沖縄へ向かう途中、米軍の攻撃を受け、撃沈されました。広島県呉市の呉海軍工廠(こうしょう)で建造されたため、同市の「呉海事歴史科学館」には「大和」関連の資料展示が多く、「大和ミュージアム」と通称されています。というか、こちらの呼び方の方がよく知られいるるでしょう。

    「大和ミュージアム」の「常設展示図録 新装改訂版」(2009年初版、2023年第10刷)から引用します。

    「大和の生涯」
    昭和16(1941)年12月16日に竣工後、「大和」は連合艦隊旗艦として海軍作戦の指揮全般にあたりましたが、すでに主役の座は戦艦から航空機へと移っており、「大和」は支援任務が多くなります。戦争終局時には沖縄特攻作戦に出撃、最期を迎えました」

    「沖縄特攻」の説明です

    「昭和20(1945)年4月6日、沖縄に向け徳山を出航した「大和」以下の第二艦隊は翌7日、九州南西沖の海上においてアメリカ海軍空母機多数の攻撃を受けました。「大和」は応戦の末、多数の魚雷、爆弾の命中により、14時23分沈没しました」

    航空機による「特攻」、敵の戦艦などに航空機で体当たりする攻撃が知られていますが、同様に「船(戦艦)」で敵の船・戦艦に体当たりする作戦がたてられたということです。航空機の特攻で操縦士が生存するのはほぼ不可能なのと同じように、戦艦での特攻についても乗組員の多くが遺書を残して出航しました。

    さて、私が思い出したミュージアムの1枚の写真です。「公式ガイドブック」にも掲載されています。

    モノクロ写真にこんな説明が書かれていました。

    「呉における最後の「大和」の写真(写真は3月28日にアメリカ軍の偵察機が撮影したもの)/アメリカ国立公文書館 所蔵」(ミュージアムでの展示には「翌3月29日に徳山に向け呉を出航」との文言も入っています)

    空から撮った写真で呉の街が写り、その沖合に細長い船のような形が見えています。それが「大和」だと写真に赤の破線の丸印が書き加えられています。ここで注意したいのは3月28日という日付と「アメリカ国立公文書館所蔵」というところです。

    この写真のすぐ横に「大和」が沖縄に向かった航路や沈没した場所の地図があるのですが、呉を出航したのが3月28日と書かれています。私は何度も見比べてしまいました。そう、呉を出航する時にすでにアメリカ軍の偵察機が「大和」の姿を捉えていたのです。

    これより前の3月19日、呉はすでに米軍機による空襲を受けています。アメリカ軍の偵察機もあたり前のように飛んでいたのでしょう。それによって写真を撮られていたわけです。もちろんその写真だけで大和であることがすぐに判明したかどうかはわかりません。ただ、この写真を目にすると、大和をはじめとする艦隊の動きは米軍には筒抜けだったのではないか、パネルの前で考え込みました。

    そして今回のカラー映像発見のニュース、少し調べてみました。

    「大和」のカラー映像みつかる
    毎日新聞電子版(毎日Jp)の記事はこちらから

    読売新聞オンラインの記事はこちらから

  • 2024.05.27

    綿矢りささんの「京都」ーー番外として

    京都を代表する祭りの一つ「祇園祭」については綿矢りささんの『手のひらの京(みやこ)』(新潮文庫)でも出てきました。「鉄ちゃん」(鉄道ファン)としは、この祇園祭と鉄道との関りについてふれないわけにはいかない話題があります。ということで綿矢さん作品からは離れてしまいますが「番外」として。

    祇園祭にはいろいろな行事があり、そのハイライトとされるのが「山鉾」(山車)が市中心部を練り歩く山鉾巡行です。この山鉾、みな背が高いのです。写真でビルの高さと比べてみてください。ミニチュア(模型)が正確に縮小しているかは怪しいですが、イメージとしてはこんな感じです。

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    その山鉾ですが、かつて京都市内に市電が走っていたころ市電の架線にひっかかって危険なので、山鉾巡行の際にはいったん市電の架線を外していたという話を以前聞き、「そこまでやるか」といたく感心してことをおぼえています。もちろん電車は運休です。もっとも、綿矢さんが書いたように、バスも大渋滞で乗客が降ろされてしまうほどですから、架線があってもなくても市電だって渋滞で身動きが取れなかったでしょうが。

    ところが、この本で意外な事実を知りました。

    『近代京都と文化 「伝統」の再構築』(高木博志編、思文閣出版、2023年)

    京都大学人文科学研究所の研究報告集で、その中の1編「歴史を演じるーー祝祭とページェントの近代京都」(ジョン・ブリーン)によると、1912年(大正元年)、四条通りに路面電車を走らせることが都市計画の課題となるなか、京都府知事が突然、山鉾巡行の差し止めを命じたというのです。その理由としてあげられたのは、巡行の時間だけ路面電車の架線への送電を止めることは技術的に不可能で、山鉾巡行という「一私祭」のために「交通機関を休止する」ことはできないということだったようです。

    これに対して祭りを担う人たちは当然猛反発し、「京都日出新聞」も反対キャンペーンを展開、一例として同新聞に掲載された京都帝国大学教授のエッセイが紹介されています。そこでは、日本各地からだけでなく外国人も見物にやってくる、「祇園会は京都を中外に広告する大祭典」で、「山鉾巡行の禁止は祇園会の滅亡を意味し、祇園会の滅亡は京都の滅亡を意味するものである」などと書かれていたとのこと。

    山鉾巡行を「やめろ」と行った知事の政治センスの無さにもあきれますが、この反対論、言葉使いこそ古いですが今でもそのまま使えそうですね。

    架線をはずす作業はさすがに写真でしか見たことはありませんが、インターネット検索するとけっこうたくさん写真がでてきます。
    例えばこちら
    個人のホームページですが元教諭で教育委員会でもお仕事をしていた方のようです。

  • 2024.05.24

    綿矢りささんの「京都」③

    『手のひらの京(みやこ)』(新潮文庫)には、京都出身の綿矢りささんではないと小説では使わないであろう言葉も出てきます。

    そんなしってくさいこと、恥ずかしくて、ようでけへんわ。
    “しってくさい”とは、しらじらしいと似た意味の京都弁で、周りから褒めてもらったりするために自然ではないのにやり通すことだ。たとえばブランドもののバッグを、わざとロゴが見えるように持って見せびらかすような。大阪では身の程知らずにかっこつけする人間を“イキってる”と言って嫌うが、京都でも同じように“しってくさい”人間は陰で笑われる。

    この言葉は知らなかったです、それにしても大阪にも同じような行動をいう言葉があり、その言い方が異なるところが興味深いですね。東京ではどうでしょうか。

    最後に京都の季節の描写を

    京都に残暑なんてない、九月は夏真っ盛りと思っていた方が、精神的に楽である。京都の夏は六~九月、秋は十月だけ、十一月~三月と冬で、四~五月が春。このくらいの気持ちでいてこそ、色々あきらめがついて長く暮らせる。過ごしやすい季節はごく短い。

    京都のクリスマスは電飾もクリスマスツリーもささやかで、あまり煌(きら)びやかでははい。街全体が省エネ気味で、特別な日でも落ち着いた薄暗闇に溶け込むのを厭わない。巨大なクリスマスツリーを置き豪勢に飾っている京都駅以外のエリアには、すでに大晦日、正月の空気がひたひたと押し寄せている。

    巨大な駅ビルになってからの京都駅は雰囲気がかなり変わってはいるので、巨大なクリスマスツリーも似合いそう。ここに紹介されているような現物は見たことはありませんが。京都駅前には巨大な「ろうそく」があるのだからそれでいいじゃないかと突っ込みをいれたくなります。

    「巨大なろうそく?」、京都駅前の京都タワーですが建設時には反対意見も多く、できた後には「巨大なろうそくのよう、寺の多い京都にぴったり」と皮肉る声もあったと聞いたことがあります。(京都タワーの公式ホームページによると、「灯台」をイメージしたとあります。すいません茶化して)

    /
    /左奥、遠くに京都タワーが見えます。高い建物が制限されている京都の街ではやはり目立ちます。さて、灯台なのか「ろうそく」なのか。

    再び鷲田清一さんの『京都の平熱--哲学者の都市案内』(講談社、2007年)から。ちょっと長いですが一部略しながら。

    「京都駅に降り立って、まずはいやでも目に入るのが京都タワーだ。見たくなくても目に入る。京都の入り口、東本願寺を背にしているというので、蝋燭を「モダン」に象ったらしいが、この巨大なキッチュ、京都を訪れたひとたちをひどくとまどわせる」
    「中には温泉があり、展望台があって、どこかの田舎町に降り立ったという気分にはなっても、「みやび」とはほど遠い」

    「「そうだ 京都 行こう。」という口車に乗せられてやってきたものの、最初の光景がこれでは話にならない。古都は、「みやび」は、どこにある? これが、宗教と芸術と学問の都の玄関か?」

    「けれども不思議なもので、京都市民は新幹線で東京から戻ってきて、東山のトンネルを出て、鴨川が、そして夜空に浮かぶこの京都タワーが目に入ってくると、「ああ、帰ってきた」とほっとする。いや、ほっとするようになってしまったのである。じっさい、この「京都タワー」を歌詞に入れた小学校校歌が現にいくつかあるそうな」

    以前、京都が舞台の歌ばかりを集めたCDの話を書きました(4月8日、9日)。そこでもちょっと触れたのですが、そのCDに収められている『京都にさよなら』(叶正子)にはこんな歌詞があります。

    「やっぱり私も 誰かさんと同じように 失恋話をするでのでしょうね 雨にかすむ京都タワーは とってもきれい 悲しくなる程」

    1973年に行われた「第5回ポピュラーソングコンテスト」の入賞曲だそうです。京都タワーができたのは東京オリンピックが開催され東海道新幹線が開通した(京都にも駅ができました)1964年、10年くらいでこのように歌われるように“定着”した、ということでしょうか。

    余談ではありますが
    この「ポピュラーソングコンテスト」はヤマハ(ヤマハ音楽振興会)が行っていたアマチュアのオリジナル曲発表のイベントで、多くのシンガーソングライターがここからデビューしていきました。75年の第10回大会のグランプリが中島みゆきさんの『時代』です。そう聞くと思い出す方もいると思いますが、いかがでしょう。

  • 2024.05.23

    綿矢りささんの「京都」②

    綿矢りささんの京都を舞台にした自伝的な小説『手のひらの京(みやこ)』(新潮文庫)で描かれるリアル京都人、続けます。

    大文字の送り火について

    大文字焼きは祭りではなくお盆の儀式だ。観光客の増加により見る人が増えたが、祇園祭のようなエンターテインメント性は無い。地元の人間も夏の風物詩なのでとりあえず見に行くが、燃えているのをじっと見て、「火ィ点ける人が間違えて“大”を“犬”にせえへんかな」などと言って、十分ほど見たら家に帰ってお風呂に入る。

    京都で記者仕事をしていた時、大文字を「焼き」といったら京都の人は怒る、「送り火」だと先輩から言われました。また「大」の字だけでなく五か所で火がつけられるので「五山の送り火だ」とも。しかし京都人の綿矢さんはあっさりと「大文字焼き」と書いています。

    京都御苑から望む「大文字」。「大」の字は二つあって、この東山にある「大」とは別に、「左大文字」と呼ばれる「大」もあります。見た目が少し「小さい」です。この山には登山道があって誰でも登ることができます。8月16日の「送り火」の時は登山できませんが。ふもとの地域の方々が山に登り、火床に家内安全などの願いが書かれて奉納された護摩木が並べられ、火がつけられます。いわば火床という「点」がいくつもつらなって、遠くから見ると「線」になって「大」の字に見えるわけです。

    この「大」と「犬」について、「えっ、ここにもあった」と驚いた一致がありました。

    『京都の平熱 哲学者の都市案内』(鷲田清一、講談社、2007年)

    鷲田さんは京都生まれ、京都大学を卒業し大阪大学総長などを勤めた哲学者です。朝日新聞1面の連載「折々のことば」の筆者です。私が読んだ京都関連本の中でかなり強い印象が残っている一冊で、万城目さんや綿矢さんの小説について書こうと考えた時、再読したくなったのです。そうしたら「はじめに」にあたる「人生がぜんぶあったーーきょうと206番」にこう書かれてりました。

    「大文字の送り火の前日に集団で山に登って茂みに隠れ、当日大文字の火がつけられると同時にいっせいに懐中電灯をつけて「犬」文字にして市民を怒らせた学生たちがいた」

    「ええーっ」でした。もちろん論文ではないので、いつのことなのか出典は何かなどは書いてなく、鷲田さんを疑うわけではないのですが本当ですか、都市伝説なのではとまだ信じられません。ただ、記憶が明確ではないのですが、学生が大文字山に登ってボヤ騒ぎを起こしたという記事を書いたように覚えているのです。もちろん、送り火の日ではないです。そうだとしたら絶対忘れませんから。

    上記のように大文字山は登山道が整備されていて普段は誰でも登れます。この取材の時に登山そのものは京都の学生にとって恒例行事などと聞いたような気もするのです。京都大出身の万城目さんは小説で京都大のサークル青竜会が「大文字山にハイキング」と書いていますし。

    サブタイトルの「きょうと206番」とはですが、京都市バスの206番系統のこと。京都駅前を出て反時計回りに市街地の外周部をぐるっと一周して京都駅に戻ってくる路線です。その路線に沿って京都の街を語るという体裁になっています。最近の京都のバスは外国人観光客らで大混雑しオーバーツーリズムの象徴のように語られています。この206番はどうかしら(市バス路線図で確認すると現在でも206番系統はあるようです)

    『京都の平熱』の書き込みによると読んだのは2007年、調べたら講談社学術文庫に入っているようです(2013年)。

  • 2024.05.22

    綿矢りささんの「京都」①

    万城目学さんの小説がおもしろく、次々と読んでしまいました。きっかけは直木賞受賞作の『八月の御所グラウンド』だったのですが、その際、芥川賞作家の綿矢りささんも京都を舞台にした自伝的な小説を書いていると書きました(5月7日付)。万城目さんの作品が先になってしまい、京都から奈良(『鹿男あをによし』)、さらに大阪(『プリンセス・トヨトミ』)と舞台が移ったわけですが、綿矢作品で京都に戻ってきた形になります。

    『手のひらの京(みやこ)』(綿矢りさ、新潮文庫、2019年第3刷)

    早稲田大在学中に芥川賞を受賞した綿矢さんの名前くらいは知っていたのですが、有賀健さんの『京都 未完の産業都市のゆくえ』で、綿矢さんは京都で育ち、なおかつ京都を舞台にした自伝的な小説があると知りました。

    読み始めてすぐに、これは『細雪』だと思いました。『細雪』は谷崎潤一郎の代表作の一つの姉妹物語、舞台は同じ関西でも『細雪』は主に阪神間という違いはありますが。『手のひらの京』文庫本の解説によると、発表当初は「綿矢版『細雪』」などといった文学史的評価があったそうです。そこに踏み込むととても私では手に負えません。綿矢さんの自伝的小説ということなので、おそらく綿矢さんの体験、あるいは身近に感じていたのであろう京都人の「生態」、言葉が悪ければリアル京都人、京都人の本音みたいなことがでてくるところをピックアップします。

    近江舞子(滋賀県大津市)にバーベキューをしにいくことについての姉妹の会話

    「鴨川はバーベキュー禁止。近江舞子に行ってくる」
    「えらい遠出するんやなぁ」
    京都からあまり出ず、すべての用事を京都で済ませてしまうクセのついている京都人にとって、たとえ隣の県でも他県に出るとなると、遠出と感じる。

    近江舞子は琵琶湖を利用した水泳場で知られているようです。琵琶湖なので「海水浴場」ではありません。

    有賀さんの著作では、若い人たちが京都で暮らせないで滋賀県に引っ越してしまう、それが京都の人口減の要因の一つと分析されていましたが、滋賀県で「遠出」と言われてしまのは滋賀在住の人にとっては複雑な気持ちでしょう。

    万城目さんの『鴨川ホルモー』で京都大学のサークル「青竜会」が何をするのかわからずに友人と交わした会話、「大文字山に登ったり、琵琶湖にキャンプに行ったり、結構アウトドアっぽいことをするみたい」、そして実際に行ったのが「大文字山ハイキング、嵐山バーベキュー、比叡山ドライブ、琵琶湖キャンプ」

    場所と行事とに違いはありますが、バーベキュー、琵琶湖がでてきます。綿矢作品の姉妹は社会人、学校を出ても琵琶湖から離れられないのか。

    京都を代表する祭り、祇園祭についてのくだり

    歩道に影の少ない町、京都。高い建物が条例で建てられないため、また碁盤の目状の道の構図も関係しているのか、町を歩く人々は日傘で自分のための影を作らなくては逃げ場がないほど、日光にさらされている。

    京都の街の特徴と暑さを結びつける、実に的確な描写だと思います。

    「これから先は祇園祭開催による渋滞が続きます。お急ぎの方はこちらでお降りください」
    渋滞がはじまったので、四条からまだまだ遠い場所でバスを降り、綾香はため息をつきながら四条通りまで歩く決意をかためる。

    すでにオーバーツーリズムか。この作品の単行本発行は2016年で、この用語はまだ一般化していません。観光客がいなくても祇園祭は京都の人にとって重要な祭りなので混雑することは間違いないところ。

    同じく祇園祭で

    祇園祭はだれか連れといっしょに行ってこそ楽しいものだ。京都市民は大体七月初めごろからだれといっしょに行くかあたりをつけていて、運悪くあぶれたら大人しく家に引きこもる。

  • 2024.05.21

    はまった! 万城目作品 ⑤

    『プリンセス・トヨトミ』(万城目学、文春文庫、2011年初版、手元は2024年8刷)

    『別冊文藝春秋』で2008年~09年に連載され、2009年に単行本が発刊されています。この作品も映画化され(2011年公開)、すでに映画を見ているので今回改めて原作を読むのはどうなのかとも思ったのですが。というのも映画の出演者が中井貴一、堤真一、綾瀬はるかといったトップスター揃いでその印象が強く、小説を読んでいる最中も俳優さんの顔が常に浮かんできます。この小説に限らず映像を先に視た場合はほぼこうなります。それはそれで小説の読み方としておもしろいという意見もあるでしょう。

    さて、この小説ですがトヨトミは豊臣、豊臣秀吉、豊臣家のことで舞台は大阪です。プリンセスは王女でそのままの意味、1615年の大阪夏の陣で関白・豊臣秀吉の子の秀頼は大阪城を徳川家康ら幕府軍に攻められて自害、ここで豊臣家は滅びたというのが歴史的事実と言っていいでしょう。

    ところが、実は大阪の陣で豊臣家は滅びていない、生きのびた子孫がいたということがまずあります。歴史に材をとった小説として「実は滅びていない」という設定そのものには特別の驚きはありませんが、この万城目作品では、ずっと続いてきた豊臣家の生き残り、現在の当主が女性(中学生)で「プリンセス・女王」とされています。

    さらに、子孫がひっそりと暮らしていた、というのではなく、豊臣家の当主をいただき守り続ける「大阪国」が今も存在しているというのです。江戸幕府が滅びて明治になった混乱の中で大阪国と明治政府の間で「条約」が結ばれ、明治政府は大阪国を認める、さらには大阪国のために日本政府が補助金を出し続けることが約束され、ずっと続いてきたというのです。もちろん大阪国の存在は表にはでていませんが、万が一プリンセスに危機が及んだときは大阪国の住民、大阪で暮らす大半の男性が住民になっていて、一斉に立ち上がることがひそかに誓われている、という。

    何もなければプリンセスも大阪国もそのままなのですが、東京から国の会計検査院の調査官3人が大阪にやってくることからドラマが始まります。会計検査院は国の役所の一つで国の予算がきちんと使われているかを調査します。大阪府の会計を調べているうちに意味不明、使い途がわからない補助金に気づきます。これが「大阪国」に渡っている補助金なわけです。ここに切り込もうとする調査官、大阪国の危機に住民がたちあがります。

    ざっとこんなストーリーです。これまでさんざん書いてきた通り、登場人物の名前がストーリーを彩ります。調査官のチーフが松平、はい、徳川家康はもともと松平でしたね。大阪(豊臣方)と対抗する人物の名前としてぴったり、ストレートに徳川としたらさすがにね。その部下は鳥居、こちらも家康を支えた家臣の姓、対する大阪国側ですが、大阪国の総理大臣が真田幸一、大阪の陣で最後まで豊臣家に従った真田信繁(幸村)ですね。その側近が長曾我部、これも豊臣方だった武将の名前です。

    /大阪城。作品では当然ながらここが重要な舞台となります
    /秀吉を祀る豊国神社の秀吉像
    よく言われることですが、大阪では太閤(秀吉のこと)人気がいまだに根強い、対して家康は嫌われている、その背景には首都・東京への大阪の対抗意識がある。そのあたりを意識して舞台設定した小説といった読み方も可能でしょう。

    一方で歴史の中での敗者への同情ということもよく言われ、「実は死んでいない、生きのびている」という伝説が語られてもきました。

    平安時代末期の源氏と平氏の戦い、壇ノ浦合戦で平氏は滅びたことになっているのですが、実は子孫が人里離れた場所でひっそりと暮らしていたという平家(平氏)の「落人」「隠れ里」といった伝承、あるいは源頼朝によって討たれた弟の義経に同情するいわゆる「判官びいき」では、義経は奥州・平泉で死んでいない、東北奥地から蝦夷(北海道)に逃げ、さらには大陸に渡ったといった話し、これにはチンギス・ハーンの正体は義経だというところまで“発展”します。
    また近代でも西南戦争で鹿児島で自決した西郷隆盛についても生存説が語られつづけました。

    まあ、そこまで意識した小説というのは考えすぎではあるのでしょうが。

    文庫には「あとがきにかえて エッセイ」として万城目さんの「なんだ坂、こんな坂、ときどき大阪」が収録されています。

    ホルモー、御所グラウンドなど万城目さんには京都を舞台とした作品が目立つのですが、万城目さん自身は大阪の出身。通っていた小学校は大阪城の外堀と道路一本を隔てた場所にあったそうで、「秀頼の抜け道」というのがあったとのこと。

    「下駄箱がずらりと並ぶ昇降口のすぐそばに、地下へと続く階段があり、生徒はそこへの立ち入りを固く禁じられていた」
    「「これって豊臣秀頼が大阪城から逃げてくるときに使った抜け穴につながってんやで」と誰からともなくささやいた」

    そして
    「かように、子どもの自分から馴染みの深い大阪城、そして空堀商店街の二つを重点的に用い、作品を書き上げたわけだが、まあ、ずいぶん身近でまとめたものだ、と思わないでもない」
    「つまり、『プリンセス・トヨトミ』は私なりのふるさとを書いている、ということらしい」

  • 2024.05.20

    はまった! 万城目作品 ④

    『鹿男あをによし』(万城目学、幻冬舎文庫、2010年初版、手元は2018年18刷)でも、舞台の私立女子高校が平城京跡のすぐ隣にあるなど奈良の街の特長を巧みに活かしているのは「鴨川ホルモー」などと同様です。加えて古墳発掘や三角縁神獣鏡が重要な要素になるあたりも奈良ならでは。主人公の毎朝の習慣である散歩のくだりもなかなかいいです。

    「転害門の下では猫が三匹、寝そべっている。脇の立札に、この門は国宝であると書いてある。国宝に軒を借りるとはずいぶん贅沢な猫だ」
    「やがて大仏池の向こうに大仏殿の鴟尾(しび)が見えてきた。朝の白い空に、こがね色の鴟尾が静かに映えて美しい」
    「大仏殿の裏手には何もない原っぱがある。ここに越してきた日に散歩をしたときから、おれはこの人気ない場所が気に入っていた」

    そう東大寺・大仏殿の正面参道はいつでも観光客でにぎわっていますが、少し裏に回ると築地塀が続くひっそりとした、歩くと心落ちつく場所があります。小説の舞台としていいところをおさえているなと感心したくだりでした。

    「おれ」の勤務先の学校は平城京跡のすぐ隣、さすがに実在の学校ではないし、学校が建つような場所でもないのですが、ストーリーの展開上、この場所に意味があるのでこれはしょうがないか、と。

    『鹿男あをによし』の文中に「生徒たちがグラウンドと呼ぶ整地された広場がある。昼休みや放課後の部活動に、生徒たちがよく使う場所だ」というくだりがあります。このあたりをイメージしているのでしょうか。

    /東大寺・転害門。何回も火災に遭っている東大寺の伽藍の中で創建当時の姿を残しています
    /東大寺大仏殿。屋根の鴟尾(しび)が映えます
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