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BLOG校長ブログ

2024年の記事

  • 2024.02.20

    ポストモダンでキッチュ 東野高校建築論 ②

    「完成時はポストモダン・キッチュとみなされた」と五十嵐太郎さん(東北大学教授)に評された本校ですが、「モダン」の後にくるのが「ポストモダン」。『建築思想図鑑』(学芸出版社、2023年第1版第3刷)には「ポスト・モダニズム」という項目がたてられています。

    「モダニズムを乗り越えるため、「小さな物語」を志向した運動の総称」
    「モダニズムを乗り越える新しい建築をつくるため、古典様式の引用や折衷、過度な装飾などが用いられた、20世紀後半の建築に見られる傾向」

    もちろん、本校の設計にあたったクリストファー・アレグザンダー自身が「このデザインはポストモダンだ」と言ったわけではなく、他の建築家や研究者らがその特徴をとらえてポストモダンの建築と評価したわけです、
    例えば、このブログで昨年の創立記念日(7月3日)にあわせて「本校はどう表現されてきたか」を書きました。そこで紹介した本の中にこれがありました。

    『ポストモダン建築巡礼』(磯達雄・文、宮沢洋・イラスト、日経アーキテクチュア編、2011年)

    この「巡礼=訪問」先に東野高校が選ばれたということは、すなわち本校が「ポストモダン建築」と見られているということでしょう。こんなくだりがありました。

    「小高い丘の上に位置するここ(旧食堂棟)からは、キャンパス全体が見渡せる。普通の学校なら、屏風のような校舎が視界を遮っているところだが、ここでは小さな家が立ち並ぶ集落のような光景が広がっている」

    五十嵐さんが言う「群としての建築の配置構成が絶妙。地形とも絡み、身体で楽しめる空間」とも重なります。

    これとは別に建築史家、国際日本文化研究センター所長の井上章一さんの 論考「しろうととしろうととの出会い」(「SPACE  MODULATOR  NO.68」(日本板硝子、1986年)収録)も紹介しました。井上さんは開校直後に本校を見学しています。

    「(東野高校の)建物の意匠は、歴史のなかで我々の脳裏にやきつけられているさまざまな形をくみあわせてつくられている。江戸の倉、なまこ壁、屋敷塀と門、いかにも田舎風の反り橋、イタリアの中世都市、教会、列柱のアーケード、等々である」

    井上さんは論考のなかでモダンとかポストモダンとかの用語は使っていないのですが、どうでしょう、先の『建築思想図鑑』の「ポスト・モダニズム」の説明、「古典様式の引用や折衷、過度な装飾などが用いられた、20世紀後半の建築に見られる傾向」の好例とも言えてしまいそうです。


    東野高校キャンパスを空撮。「小さな家が立ち並ぶ集落のような光景が広がっている」「群としての建築の配置構成が絶妙」と評されたのですが、いかがでしょう。

    「地形とも絡み、身体で楽しめる空間」と五十嵐さん、この光景でしょうか。「なまこ壁、反り橋、列柱のアーケード」と井上さん。

  • 2024.02.19

    ポストモダンでキッチュ 東野高校建築論 ①

    東北大学で都市・建築デザイン学を教えていらっしゃる五十嵐太郎教授が先日、本校見学に来校されました。自身のX(旧ツイッター)に感想を書かれているのですが、短いながら(字数制限がありますからね)、本校の特徴をコンパクトにまとめていただいているようなので、紹介します。

    クリストファー・アレグザンダーの盈進学園東野高校を見学。群としての建築の配置構成が絶妙。地形とも絡み、身体で楽しめる空間。完成時はポストモダン・キッチュとみなされたが、40年が経ち、いつの建築かわからなくなったタイムレスな魅力を獲得。当時はめずらしい木造や参加型も、今は注目されるし

    Translated from Japanese by
    Tour of Christopher Alexander’s Higashino High School. The arrangement of the buildings as a group is exquisite. A space that is intertwined with the terrain and can be enjoyed with your body. When it was completed, it was considered post-modern kitsch, but 40 years later, it has acquired a timeless charm that makes it hard to tell when it was built. Wooden structures and participatory structures, which were rare at the time, are now attracting attention.

    失礼ながら少し補足します。

    クリストファー・アレグザンダーは本校を設計した建築家、オーストリア・ウィーンに生まれ英国・ケンブリッジ大学、米国ハーバード大学などで学び、カリフォルニア大学バークレー校教授などを務めました。「パターン・ランゲージ」を提唱したことで知られます。ではその「パターン・ランゲージ」って、ということになりますよね。

    『パターン・ランゲージ 創造的な未来をつくるための言語』(井庭崇・編著、慶応義塾大学出版会、2013年)

    「パターン・ランゲージ」研究の第一人者、慶応義塾大学教授、井庭崇先生の著書です。

    「パターン・ランゲージは、一九七〇年代に建築家クリストファー・アレグザンダーによって、住民参加型の町づくりを支援するために提唱された方法である。彼は町や建物に繰り返し現れる特徴を「パターン」と捉え、それを「ランゲージ」(言語)として記述・共有することを提案した。目指したのは、古きよき町や建物がもっている調和のとれた美しい「質」を、これからつくる町や建物においても実現することであった。そこで、そのための共通言語をつくり、住民たちがデザイン(設計)のプロセスに参加できるようにしようとしたのである」

    さらに詳細な説明が続くのですが、ここでは「住民参加型」という点を強調しておきます。本校開校時、どのようなキャンパスにするのかについてアレグザンダーと教職員が意見交換を重ねました。住民=教職員が学校作りに(デザインのプロセスに)参加した格好です。五十嵐教授が書いた「参加型」はこのことを指しているのでしょう。

    Xの引用に戻ります。順不同で「完成時はポストモダン・キッチュとみなされた」についてです。

    まず「ポストモダン」ですが、「ポスト=後」なのでモダンの後ということです、ではモダンとはということになりますが、建築の歴史で言われるのが「モダニズム建築」、モダニズムの言葉の意味そのものは「近代主義」ということになるのですが、ではどういう建築なのか。

    いくつかの辞書から説明が詳しかった『表現読解 国語辞典』(ベネッセ、2018年初版第16刷)で「モダニズム」についてこうありました。

    「既成の概念や伝統的権威を否定し、新しい価値や感覚を求める思想上・芸術上の風潮」
    「工芸・建築の分野では、機能主義的な立場から芸術と技術の統合をめざしたドイツの造形学校バウハウス」

    なかなか一言では難しそうですね。先に紹介した『日本の建築』(隈研吾、岩波新書、2023年)に頼りましょう。

    「モダニズム建築は新時代に出現した高層建築をも処理するユニヴァーサルなシステムをめざした」
    「モダニズム建築は、工業化社会が必要とする二つの建築、すなわち都市の高層建築と郊外の中産階級の住宅に対応する新様式建築として二〇世紀を席捲した」

    その後に続く建築様式が「ポストモダン」ということになるわけです。

  • 2024.02.17

    「マルハラ」知ってましたか

    「マルハラ」って知ってますか? 通勤途中に聴いているラジオでこんな話題がとりあげられていました。若い世代を研究しているコンサルタントがアナウンサーに問いかけていたのです。SNSなどでは若い人たちは句点(。マルです)をつけない、句点がついていると「冷たい」「叱られている」「怒っている」などと受け止められるそうです。そこが「ハラスメント」、よって「マルハラ」。だから若い人たちとSNSやメールでやりとりする人、会社では上司になるのでしょうが、気をつけましょう、という話しでした。

    私も知らなかったし、なんでも「ハラスメント」かと思わないでもなかったのですが、16日の朝日新聞1面コラム「天声人語」が同じ話題をとりあげていて驚いていたら、なんと今日17日の毎日新聞の1面コラム「余録」もこの話でした。

    両新聞ともにデジタル版でも有料記事なので長い引用はしませんが、天声人語によると「「句点なし」は他言語圏にも共通する傾向のようだ」というから意外です。叱られているような感じについて、天声人語では「圧」といった表現をしています。だた「。マル」がなぜ圧に感じられるのかはナゾなのですが、興味深い指摘もありました。

    「(以前)国語学者が、目上の人への手紙で句読点を使うと失礼になると説いた、読みやすいようにと指示する行為だからだ」

    なるほど、句読点はここで区切って読め、ここで文が終わるということを丁寧に教える記号ですよね、目上の人に向けてそれを使うのは、その目上の人がきちんと読めないだろう、その人の「読解力」を疑っている、ということになってしまうということですね。

    毎日新聞の余録はどうでしょう。

    「「。」(マル)が日本文に使われ始めたのは江戸時代前期だという。(略)一般に普及したのは明治以降だった」

    と歴史を教えてくれました。朝日を読んで調べなくてはと思っていたところなので助かりました。

    「ネット番組で注目され、メディアニュースや漫才コンビの爆笑問題が取り上げるなど話題を呼んでいる」

    私自身は普段あまり関心のない方面なので知らなかったわけです。新聞がとりげるころにはその話題はピークを過ぎている、などと揶揄されることもありますが、今回はどうでしょうか。

    余録が書くように、古文書には句読点などはないし、和歌や俳句は現代でもありません。そうそう表彰状や感謝状にも句読点がないことを思い出しました。本校の卒業証書授与式は3月5日、その準備として表彰状の文言の確認などが進む時期でもあります。

    もちろん表彰状などに「。」や「、」があるのは見た目美しくないというのが一番の理由でしょうが、表彰状などは読み上げるもの、目上とは限らないにしても、ありがたくいただく、そういった立場の人に読んでもらう以上「句読点は失礼になる」といった意味合いもあるのかしら、などと推測したりもしました。

  • 2024.02.16

    紙幣の聖徳太子 ③ 法隆寺がお札を発行

    この法隆寺と聖徳太子についての項のきっかけの一つが東野治之さんの『法隆寺と聖徳太子』(岩波書店)でしたが、その東野さんに『昭和の紙幣と法隆寺・正倉院の文化財』という論文があります(『文化財学報』第三十集に収録。奈良大学文学部文化財学科刊、2012年)

    1930年(昭和5)に発行された日本銀行の兌換券(紙幣)の百円と拾円(十円)のうち百円に聖徳太子の肖像が初めて使われ、正倉院宝物や法隆寺の宝物などもデザインに取り入れられていることを紹介しています。その際参考にされた図案は何だったのか、どのような出版物なのかを推定する論文です。

    「国家の威信が懸かる紙幣に、その国家が世界に誇るに足ると認識した文化遺産が採用されるのは極めて自然である。もっとも、そういう意向が働いたところで、実際に図案化されるには、その材料が手に入る形になっていなければならない」

    東野さんが意図したかはわかりませんが、日本銀行のウエブサイトいうところの「聖徳太子像がこれだけ多くの日本銀行券に採用された理由」の一つ「肖像を描くためのしっかりした材料があること」の検証にもなっています。

    紙幣になぜ聖徳太子なのかという点について、東野さんもやはり次のように書いています。

    「聖徳太子は紙幣肖像として初登場であったが、その背後で、大正年間の太子顕彰の動きや裕仁皇太子摂政という政情が影響したらしい」

    その聖徳太子の肖像の紙幣は戦後も作られました。日本銀行のウエブサイトの通り戦前、戦後を通じて紙幣に登場するのは聖徳太子だけ、戦後、占領軍(GHQ)が反対したうんぬんと出てきますが、東野さんの考察を見てみましょう。

    「敗戦後まで続いた聖徳太子の紙幣の特色は、そのデザインが、占領軍による紙幣図案の一新後も継続したことである。他の紙幣の図案はいずれも軍国主義的色彩を持つものとして、使用が許されてなかった」

    ここは日本銀行の説明と一緒です。続いて

    「百円紙幣(聖徳太子の肖像)の図案が継続したことに関しては、多分に生産上の便宜もあったかとは思われるが、聖徳太子の人物像が読み替え可能であり、敗戦後にもふさわしいと評価されたことも作用したと考えられる」

    「生産上の便宜」とは、戦後の混乱期で肖像のデザインを新しくする時間的余裕がなかったということでしょうか。聖徳太子の人物像の何をどう読み替えたのか、日銀総裁が「軍国主義者どころか平和主義者の代表である」と言ったかどうかはさておき、「平和国家」「文化国家」として新しい国をつくっていこうという戦後日本が聖徳太子の多面的な人物像の中から「文化」を見出した、といったあたりでしょうかね。

    さて、聖徳太子と紙幣という話で今回初めて知ったのは、太子ゆかりの寺・法隆寺が幕末に独自の紙幣を発行していたということです。東野治之さんの『法隆寺と聖徳太子』の中に「幕末の法隆寺とその紙幣」の一編があります。

    「法隆寺に関係する紙幣といえば、昭和に発行された聖徳太子肖像入りの高額札が、ゆかりの各種文化財を図案に取り込んでいて有名であるが、幕末に法隆寺そのものが発行した紙幣のあることは、一般にはほとんど知られていない。それには大きく分けて二種あり、いずれも法隆寺の子院である阿弥陀院と中院から発行されている」

    はい、確かに知りませんでした。

    「このような紙幣は、大名の発行した藩札や大商人の発行した私札などと同類で、十八世紀以来、主に西日本を中心に各地域で発行され流通していた」

    江戸時代も後半になって物流が活発になるにつれて、その取引にお金が必要になってくるわけですが、西日本で主に使われていた「銀」の代わりにお札が発行されたという説明です。もちろん信用できるところが作ったお札でなければ安心して使えません。そして近代になればお札を発行するのが政府であり日本銀行となるわけですが、江戸時代にはいろいろなお札が使われていた、その一つに法隆寺が作ったお札があった、とのこと。

    そのお札の写真も掲載されていますが、さすがに聖徳太子の肖像とか、法隆寺の建物とか文化財の図案などは印刷されておらず、金額や発行元などが書かれているだけです。法隆寺内にあった東照宮などの修理費用を調達するために発行されたと東野さんは述べています。

  • 2024.02.15

    紙幣の聖徳太子 ② 皇太子の摂政就任の時期にお目見え

    戦前戦後を通じて紙幣(日本銀行券)に一番多く登場したのが聖徳太子、その時代背景、理由などはやはり歴史研究のテーマとなります。

    『貨幣の日本史』(東野治之、朝日選書、1997年発刊、2004年3刷)

    再び東野さんに登場していただきます。富本銭、和同開珎から貨幣の歴史について綴っていますが、近代明治の紙幣発行については国産化・肖像画デザインのためにイタリアからお雇い外国人としてキョッソーネが招かれたことなどを紹介します。そして

    「大蔵省印刷局(紙幣寮の後身)は、紙幣に入れるにふさわしい人物を七人選び、閣議決定を経て、天皇の裁可を受けた」

    として日本武尊、武内宿禰、藤原鎌足、聖徳太子、和気清麻呂、坂上田村麻呂、菅原道真をあげています。

    「いずれも国家に勲功や業績があって、人々の尊敬を受けている、というのがその理由である」

    このうち日本武尊、聖徳太子、坂上田村麻呂を除く4人がまず登場し、聖徳太子は1930年(昭和5)に初めて使われることになります。(日本銀行のウエブサイトの一覧をみると坂上田村麻呂は結局使われなかったようです)

    『聖徳太子の歴史学 記憶と創造の一四〇〇年』(新川登亀男、講談社選書メチエ、2007年)

    このブログの「法隆寺と聖徳太子 ④ そして現代まで」(1月31日)で一度、とりあげた本です。聖徳太子の肖像が最初に使われた「乙百円券」の発行が始まった時期に注目します。

    「その紙幣肖像は、東京帝国大学教授で聖徳太子奉賛会理事の黒板勝美(一八七四~一九四六年)の意見により、摂政にふさわしく、かつ明治天皇に似せて考案されたという」

    「裕仁皇太子(のち昭和天皇)が摂政に就いたのも、ちょうど、この事業年であった。皇太子は、時に二〇歳であるから、偶然であったとも言えるが、「聖徳太子」の摂政就任も二〇歳であったと言われていた。やはり、単なる偶然の一致とは思えない」

    ここでいう「事業年」とは1921年(大正10)の「聖徳太子」千三百年遠忌事業のこと。聖徳太子が亡くなったとされる年から1300年後という区切り(遠忌)に皇族や政治家、歴史家らが太子を讃える集まり「聖徳太子奉賛会」をつくり、さまざまな行事を展開しました。それらが近代の新しい聖徳太子像が作られるきっかけ、原動力になったと多くの研究者が指摘しているようです。

    大正天皇が病気で天皇としての仕事ができなくなったために裕仁皇太子が摂政につくことになります。日本史で教わる関白・摂政の、あの摂政です。天皇が幼少のときなど、天皇に代わってその仕事をするのが摂政、古代の藤原氏をすぐに思い浮かべますが、近代になって復活するわけです。

    藤原氏は天皇家・皇族ではないので、裕仁皇太子が摂政になるにあたって、日本書紀では皇太子で摂政とされた聖徳太子が模範、モデルとされたとの見立てです。聖徳太子を讃える動きが近代の聖徳太子像を作り、摂政裕仁皇太子と重なるような形で国家の象徴ともいえる紙幣に太子の肖像が使われることになったと研究者は考えているわけです。

    /

    いずれも戦後発行された紙幣ですが、聖徳太子の肖像が一万円、五千円、千円、百円の紙幣で使われています(日本銀行のウエブサイトの教材用データからダウンロードしました)

  • 2024.02.14

    紙幣の聖徳太子 ① 最も多く登場

    今年2024年はお札(紙幣)のデザインが変わる年、一万円札に渋沢栄一、五千円札に津田梅子、千円札に北里柴三郎の肖像がデザインされるのですが、その作業にあたる専門家(技術者)がニュースでとりあげられたりしています。私の世代でお札の人物としてなじみ深いのが聖徳太子、日本銀行のウエブサイトによると、戦前戦後を通じてお札に肖像として最も多く登場したのが聖徳太子だったとのこと。ではなぜ聖徳太子なのか、ここでも聖徳太子にこだわります。

    まずは、紙幣(日本銀行券)を発行している日本銀行のウエブサイトから引用します。お札に登場した人物の一覧です
    (戦前)
    菅原道真(すがわらのみちざね)、和気清麻呂(わけのきよまろ)、武内宿禰(たけのうちのすくね)、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)、聖徳太子(しょうとくたいし)、日本武尊(やまとたけるのみこと)

    (戦後)
    二宮尊徳(にのみやそんとく)、岩倉具視(いわくらともみ)、高橋是清(たかはしこれきよ)、板垣退助(いたがきたいすけ)、聖徳太子、伊藤博文(いとうひろぶみ)、福沢諭吉(ふくざわゆきち)、新渡戸稲造(にとべいなぞう)、夏目漱石(なつめそうせき)、樋口一葉(ひぐちいちよう)、野口英世(のぐちひでよ)

    政府紙幣 神功皇后(じんぐうこうごう)、板垣退助

    戦前は実在が不確かな人物も混ざっていますが、戦前から戦後にかけての全体的な傾向としては「官」(政治家)から「民」(学者、文化人など)へと大きな流れがあると言えるでしょう。日本銀行ウエブサイトは続きます。

    日本のお札に最も多く登場した人物は?

    聖徳太子(しょうとくたいし)で、1930年(昭和5年)に発行が始まった「乙百円券」に初めて採用されて以来、「銀行券の顔」として最も多く登場(戦前2回、戦後5回)しています。また、登場回数もさることながら、C五千円券とC一万円券は、四半世紀以上にわたって発行され(戦後に発行された日本銀行券では、発行期間が最も長い)、長年、国民に親しまれました。このため、いつのまにか国民の間に、「聖徳太子は日本銀行券の代名詞」というイメージが浸透していったようです。

    さらに、聖徳太子像は、いずれも発行当時の最高額券に採用されたことから、「聖徳太子=高額のお札」というイメージもあるようです。もっとも、聖徳太子像を使わない日本銀行券が発行されてから長い年月が経過しているため、こうしたイメージは徐々に薄れつつあるかもしれません。

    そして「なぜ聖徳太子なのか」についても言及しています。

    ところで、聖徳太子像がこれだけ多くの日本銀行券に採用された理由は何でしょう? それは、(1)「十七条の憲法」を制定したり、仏教を保護したり、中国との国交回復や遣隋使の派遣により大陸文化を採り入れるなど、内外に数多くの業績を残したため、国民から敬愛され知名度も高いこと、(2)歴史上の事実を実証したり、肖像を描くためのしっかりした材料があること、が大きな理由のようです。

    なお、GHQ(連合国最高司令部)は1946年(昭和21年)、かつて日本政府が決定した「肖像に相応しい人物」について、「聖徳太子以外は、軍国主義的な色彩が強いため、肖像として使用することを認めない」としました。この時、聖徳太子についても議論があったようですが、当時の一萬田(いちまだ)日銀総裁はGHQに対し、「聖徳太子は『和を以って貴しとなす』と述べるなど、軍国主義者どころか平和主義者の代表である」と主張して、その存続についてGHQを押し切ったと言われています。

    「中国との国交回復」といった表現には苦心したあとがうかがえますが、いずれにしても日本銀行としては教科書に沿った、といったところでしょう。では研究者、歴史家はどうとらえているのかということです。

    *「政府紙幣」とあるのは、日本銀行が紙幣を発行する前に、政府が紙幣を発行していた時期があります。

    日本銀行ウエブサイト、紙幣についての説明はこちらから
    /
    日本銀行のウエブサイト、教材用データからダウンロードしました。もう1ページあり、より古い紙幣が紹介されていますが、次回に

    余談ではありますが
    この一覧表の4番目に「弐千円」(2000円)札がのっています。最近あまり手にとることがないので、高校生は知らないかもしれませんね。2000年に沖縄サミット(第26回主要国首脳会議)に合わせて発行されました。デザインされているのは沖縄・首里城の守礼門です。

  • 2024.02.13

    法隆寺はどう研究されてきたか ⑦ それでもエンタシス

    かつての奈良(大和路)を歩いた紀行として長く読み継がれてきた和辻哲郎、亀井勝一郎の本を紹介しましたが、では作家はということで、これなどはどうでしょう。

    『大和路・信濃路』(堀辰雄、新潮文庫、手元は2004年58刷改版)

    新潮文庫なので新潮社のホームページから堀辰雄のプロフィールを。

    堀辰雄(1904-1953) 東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頬』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『菜穂子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。

    この文庫本は、堀辰雄のエッセイと小品がいくつか集められている作品集です。解説によると、堀辰雄は1937年(昭和12)に初めて奈良県(大和)に旅をし、3度目の旅となる1941年、旅先から妻宛に書き綴った手紙をもとにして加筆したものが『大和路』の中の一編『十月』となり、その後も大和路を訪れて小品を書いたとのこと。(手紙という形で書いたのかもしれませんね)

    その『十月』にこんなくだりがありました。

    「いま、唐招提寺の松林のなかで、これを書いている。(略)いま、秋の日が一ぱい金堂や講堂にあたって、屋根瓦の上にも、丹の褪めかかった古い円柱にも、松の木の影が鮮やかに映っていた。それがたえず風にそよいでいる工合は、いうにいわれない爽やかさだ。此処こそは私たちのギリシアだ」(ちなみに工合は具合のことでしょう。原文のままです)

    ギリシャが出てきます、そして古い円柱にも注意してください。この唐招提寺について別のところでもふれています。

    「僕はきょうはもうこの位にして、此処を立ち去ろうと思いながら、最後にちょっとだけ人間の気まぐれを許して貰うように、円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った。そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲しみ込こんだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。」

    「太い柱の真んなかのエンタシスの工合」とでてきます。でも、法隆寺でなくて唐招提寺です。

    そういえばと思い出し、あわてて『法隆寺への精神史』(井上章一)をめくりました。ありました、ありました。

    著名な歴史家、林屋辰三郎(1914~1998)の中学校時代の授業の思い出を林屋へのインタビュー記録から引用しています。

    「唐招提寺の柱のエンタシスという膨らんだ箇所を、ギリシャの神殿建築と対比して説明していただいてね」

    これに対して井上さん

    「唐招提寺のエンタシスは、じっさいにはほとんどめだたない。おそらく、これは法隆寺のまちがいだろう。唐招提寺にギリシャを投影する場合は、金堂前部の列柱をことあげするのがふつうである」

    『明治の建築家 伊藤忠太 オスマン帝国をゆく』で筆者のジラルデッリ青木美由紀さんが、伊東忠太がギリシャでたどりついた結論として書いた「エンタシスは建築にとって普遍である」と書いていました。エンタシスを「柱のふくらみ」と定義すれば法隆寺にもある、唐招提寺にもある、それなら「普遍」といわれてもおかしくない。それがギリシャと結びつくかどうかは別問題ということですね。

    ただ、エンタシスをギリシャと結びつけることは「時代の産物でもあった」と井上章一さんが指摘していました。和辻哲郎の著作などを通じて多くの人がそういうものだと思っていた、中学生の林屋さんに話した先生も堀辰雄もその例外ではなかった、ということなのでしょう。

    『大和路』、ネットで読めます

    『大和路・信濃路』の新潮文庫ですが奥付けの「1955年発行、2004年58刷改版」をみてたまげました。超ロングセラーですね。この作品、インターネット上の「青空文庫」で全文読むことができます。無料です。「青空文庫」についてサイトではこう説明されています。

    青空文庫は、誰にでもアクセスできる自由な電子本を、図書館のようにインターネット上に集めようとする活動です。著作権の消滅した作品と、「自由に読んでもらってかまわない」とされたものを、テキストとXHTML(一部はHTML)形式に電子化した上で揃えています。

    ということなので、基本的にはボランティアの方々が作業をしてくれています。すばらしいことですね、ありがとうございます。


    唐招提寺。正面の建物が「金堂」です。堀辰雄は「いい秋日和」と書いています。うっすらと紅葉しています。堀辰雄もこんな景色をみたのでしょうか

  • 2024.02.09

    法隆寺はどう研究されてきたか ⑥ そしてエンタシス

    「法隆寺のエンタシスから遥かギリシャを思う」という「気分」は、学術的にはともかくとして根強いものがあるということがいくつかの著作でふれられており、それをたどってきました。そういえば「観光ガイドなんかはどうなのだろうか」との疑問がふとわいてきました。まずあえて古いガイドをひっぱりだしました。おおよそ半世紀前です。

    『別冊るるぶ愛蔵版3 奈良の旅』(1978年 日本交通公社出版事業局)

    旅行ガイドとしてすぐに思い浮かぶであろう『るるぶ』です。出版元として日本交通公社出版事業局とあります。若い人にはピンとこないかもしれませんが、日本交通公社は旅行業大手JTBの前身です。この奈良の旅編では「斑鳩」というくくりで法隆寺が紹介されています。その一部です。

    しかしながら、いま眼に見える中門には飛鳥時代の様式が伝えられている。下から三分の一ほどが最も強く張り出した胴張りをもったたくましい柱、ギリシャの神殿のエンタシスを思わせる手法である」

    なかなかうまい表現ですよね。ギリシャにストレートに結びつけてはいない、一方で、はるかギリシャを思い起こさずにはいられない書き方、法隆寺はそんなロマンをかきたてる場所なのだと伝えているわけです。もちろんこの項の筆者が「エンタシス説」の研究史を理解したうえで書いているのかどうかは不明です。

    では、最近の観光ガイドブックにはどう書かれているのでしょう。

    『るるぶ奈良 ’25』(JTBパブリッシング、2024年)

    同じ『るるぶ』の奈良編の最新版です。電子版で確認しました。やはり「斑鳩」というくくりで法隆寺が紹介されています。古い『るるぶ』では「中門」についてでしたが、ここでは「金堂」の説明文にこんなくだりがありました。(中門そのものが特筆されていませんでした)

    「西院伽藍の中心で、世界最古の木造建築。中央部が丸く膨らんだエンタシスの柱などに飛鳥様式を伝える」

    お見事、とひとりごとが出てしまいました。ギリシャこそ出てきませんが、柱の一部が膨らんでいるという意味での「エンタシス」という言葉をさりげなく使っています。そこは学術的に突っ込まれることはない。とはいえ、やはり「エンタシス」という単語で何やら「法隆寺は特別」感が出ているようにも読めてしまう、「エンタシス」という「言葉の魔力」を感じてしまったのですが、いかがでしょうか。


    法隆寺をお参りした際の写真を探しましたが、中門は撮っておらず、金堂も柱がわかるようなものはありませんでした。そうしたらこの写真が目にとまりました。金堂や塔をぐるりと取り巻く回廊です。中門から繋がってもいます。いかがでしょう、柱の中央部が膨らんでいますよね。

    余談ではありますが この価格差は?

    1978年発行の『るるぶ 奈良編』ですが、私自身はまだ学生、その時に購入してずっと持っていたわけではありません。場所は覚えていないのですが古書店で見つけました。かつて観光地がどのように紹介されていたのか、かつての人気スポットと最近の人気スポットは異なっているのかなどがわかると面白いなということで手を出しました。

    本を開くと、ところどころカラー写真が掲載されているものの大半がモノクロ写真。定価は1300円とあります。

    そして最新版です。『’25』とあるので、2025年、これから1年間先取りの内容といった意味合いなのでしょう。当然のごとくほとんどがカラー写真です。そしてなんと価格が1150円(税込)! おおよそ半世紀前より安価なのです。

    「1978年版」は「愛蔵版」とあるのでスペシャルということしょうから、今回あげた最新版と単純に比較していいのかは慎重にならなければいけませんが、「それにしても」ですよね。

    気づかれたでしょうか、1978年版には「定価」と書かれていました。最新版は「税込」です。そう、1978年に消費税はなかったんです。消費税は1989年(平成元年)に3%でスタートしました。

  • 2024.02.08

    法隆寺はどう研究されてきたか ⑤ 伊東忠太がギリシャで見たもの

    西欧への留学しか認めないという明治政府に逆らってまで、日本に西欧の影響が及んだあとを見つけようと中国、インド、トルコに調査旅行に出かけた伊東忠太。その足跡を追った『明治の建築家 伊藤忠太 オスマン帝国をゆく』(ジラルデッリ青木美由紀)を読んでみましょう。

    「忠太が東京帝国大学の助教授となった一八九九(明治三十二)年当時、教授昇進には三年間の欧米留学が不文律だった。日本文学や漢文学の分野でさえ、欧米に留学しなければ教授になれなかった時代。しかし打診されたときに、忠太が懇望したのは、西洋ではなく、東洋への留学だった」

    伊東忠太の「東洋への留学」のいきさつを押さえたうえで、筆者の青木さんは続けます。

    「法隆寺建築の源流はギリシャだ!」という自説を証明するため、単身乗り出した世界旅行の途上、八ヶ月半を過ごしたオスマン帝国で、何度も挫けそうになりながらも、明治の建築家が獲得しようとしたもの。それは、激動の政治状況のなかで、急務として確立を迫られた、当時の日本人としての世界観であり、それに基づいた建築観だったのではないか」

    青木さんの伊東への熱い思い、この著作を生んだ動機がうかがわれます。

    さて青木さんも当然、伊東忠太の論文「法隆寺建築論」に触れます。法隆寺にギリシャの影響が見られる、その証拠として忠太があげたのが「柱の仕様、また「唐草」とよばれる装飾文様」と紹介します。そうこの「柱の仕様」が「エンタシス」です。

    「忠太は、ギリシャ、というよりもエトルスクの神殿に注目し、これを法隆寺と比較した。だが、意気揚々と掲げられたこの説は、その後批判にあい、改稿されて、最終稿までにこの「法隆寺エトルスク説」はほとんど鳴りをひそめることになる」

    なるほど、それでも忠太は「ギリシャ」にこだわった。エンタシスだけではない、ということだったようです。忠太はギリシャの影響がトルコ、インド、中国を経て日本に及んだとの考えは変えず、留学調査旅行の行先としてトルコなどを選びました。

    なお、ここで「エトルスク」とありますが、井上さんの『法隆寺への精神史』では「エトラスカン寺院」と書かれています。原典までは確認できないので、青木本は表記のままとします。同書の注釈によると「エトルスク」は「現在のイタリア北西部に展開したギリシャ文明」とあります。

    忠太の許可された留学先は「中国、インド、トルコ」ですが、その留学期間を終えてトルコからギリシャに足を伸ばします。

    「アテネの古代ギリシャ建築を、忠太はどう見ただろう」

    青木さんが読者を引き込みます。神殿などを歩いてみた詳細なメモや図面が残っているそうです。いよいよ佳境に入ります。

    「エンタシスは建築にとって普遍である。これがはるばるアテネで忠太がたどりついた結論だった」

    えっ、ですよね。「普遍」ってことは、どこにでもあるということですよね、一般的には。

    「エンタシスを普遍と看做すことはそのまま、法隆寺をギリシャに繋ぐ、論拠のひとつを放棄することになる。その意味ではこの結論は、エンタシスとの決別とも言えるだろう」

    「エンタシスとの決別は、「東洋建築」が、西洋建築の常套の柱の研究では語れないという見極めに繋がった、といえば穿ち過ぎだろうか。エンタシスは普遍、との結論によって、忠太はいわば足枷から解放される。関心は、西洋と東洋の重層的な境界、という独特の発想へと転換するのだ」

    伊東忠太が論文で示した意見がおおよそ否定されたかといって伊東の業績が全否定されるわけではありません。どのような研究分野においてもしばしばあることですよね。いわば、伊東は自分の説を検証して謙虚に見直したという見方もできるでしょう。その結果、さらに研究の幅を広げ、深めることにつながったといったところか。

    青木さんの伊東への眼差しはあたたかいですね。

  • 2024.02.07

    法隆寺はどう研究されてきたか ④ 伊東忠太旅に出る

    『法隆寺への精神史』で筆者の井上章一さんはエンタシスの問題にとどまらず、法隆寺の伽藍(建物の配置)についても言及します。対称(シンメトリー)が特徴的な西欧建築と比べて法隆寺の伽藍は非対称になっていることを指摘するなど、この著作は実に奥が深いのですが、ここではエンタシス=ギリシア伝来説がその後どうなったかにとどめます。

    「法隆寺に、ギリシア建築からの影響を見る。これは、古代の日本に、ギリシア文明の感化を読みとることでもある。だが、こんな見方をおもしろがる感受性が、江戸時代より前にあったとは思いにくい。やはり、明治以降になってから、近代がもたらした感覚のひとつであろう。そして、それは今日、学界ではともかくとして、ひろく一般読書人にまで普及している」

    「エンタシス=ギリシア伝来説の真偽そのものは、不明である。現在では、わからないというしかない。これを問題にしても、徒労におわってしまいかねないことになる」

    「学界ではともかくとして」という表現でだいたいわかりますよね。聖徳太子はどういう人物であったのかについての歴史家・研究者のとらえ方と、信仰を通じて人々が抱く太子の人物像とのギャップと似たような状態であるようにも感じられます。

    井上さんのさまざまな指摘の中でここは押さえておきたいという点があります。隈研吾さんと同様、井上さんも和辻哲郎の名をあげます。

    「和辻哲郎。一九一〇年代から二〇世紀のなかばにかけて、活躍した倫理学者である。日本文化史に関する著述でも、よく知られている」
    「その和辻に、『古寺巡礼』(一九一九、大正八年)という著書がある。(略)和辻はこの本で、大和の古美術を、芸術的な鑑賞眼で情熱的に語っている」

    「『古寺巡礼』の特徴は、大和の古美術とギリシア古典の類似をうたいあげたところにある」
    「だが、とにかくこの『古寺巡礼』という本は、よく売れた。現在でも、岩波文庫に収録され、読みつがれている。奈良の寺々を鑑賞するさいの、古典的な書物になりおおせているといってよい」

    井上さんがいうところの「学界はともかくとして、ひろく一般読書人にまで普及している」原動力の一つが和辻のこの本、ということでしょう。

    「奈良の寺々を鑑賞するさいの、古典的な書物」とされています、はい、私も何度も読み返しています。同じような「古典」としては、『大和古寺風物詩』(亀井勝一郎、新潮文庫など)が知られていますよね。1953年刊行なので『古寺巡礼』よりはかなり後ですが。

    さて、とうの伊東忠太は「法隆寺建築論」発表のあとどうしたのか、ということです。

    隈さんはこう書きます。
    「(伊東とタウトは)日本とギリシャをつなぐ中間項を探る旅にでた。伊東は、留学先はヨーロッパしか認めないという当時の明治政府の方針に反して、中国、インド、トルコへと旅し、さらにアジアへの調査旅行を敢行した」

    では伊東はその旅で何を見てきたのか、その跡を丹念にたどった研究本があります。

    『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ジラルデッリ青木美由紀、ウェッジ、2016年2刷)

    トルコ・イスタンブルで研究生活を送る筆者が現地の資料をもとに、伊東の旅を「再現」します。伊東という人物について

    「明治時代、建築を研究するためだけに世界を一周した、酔狂な男」

    おおっ、「反逆者」(隈研吾さん)「開拓者」(井上章一さん)に続いてここでは「酔狂な男」です。