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BLOG校長ブログ

2024年の記事

  • 2024.02.14

    紙幣の聖徳太子 ① 最も多く登場

    今年2024年はお札(紙幣)のデザインが変わる年、一万円札に渋沢栄一、五千円札に津田梅子、千円札に北里柴三郎の肖像がデザインされるのですが、その作業にあたる専門家(技術者)がニュースでとりあげられたりしています。私の世代でお札の人物としてなじみ深いのが聖徳太子、日本銀行のウエブサイトによると、戦前戦後を通じてお札に肖像として最も多く登場したのが聖徳太子だったとのこと。ではなぜ聖徳太子なのか、ここでも聖徳太子にこだわります。

    まずは、紙幣(日本銀行券)を発行している日本銀行のウエブサイトから引用します。お札に登場した人物の一覧です
    (戦前)
    菅原道真(すがわらのみちざね)、和気清麻呂(わけのきよまろ)、武内宿禰(たけのうちのすくね)、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)、聖徳太子(しょうとくたいし)、日本武尊(やまとたけるのみこと)

    (戦後)
    二宮尊徳(にのみやそんとく)、岩倉具視(いわくらともみ)、高橋是清(たかはしこれきよ)、板垣退助(いたがきたいすけ)、聖徳太子、伊藤博文(いとうひろぶみ)、福沢諭吉(ふくざわゆきち)、新渡戸稲造(にとべいなぞう)、夏目漱石(なつめそうせき)、樋口一葉(ひぐちいちよう)、野口英世(のぐちひでよ)

    政府紙幣 神功皇后(じんぐうこうごう)、板垣退助

    戦前は実在が不確かな人物も混ざっていますが、戦前から戦後にかけての全体的な傾向としては「官」(政治家)から「民」(学者、文化人など)へと大きな流れがあると言えるでしょう。日本銀行ウエブサイトは続きます。

    日本のお札に最も多く登場した人物は?

    聖徳太子(しょうとくたいし)で、1930年(昭和5年)に発行が始まった「乙百円券」に初めて採用されて以来、「銀行券の顔」として最も多く登場(戦前2回、戦後5回)しています。また、登場回数もさることながら、C五千円券とC一万円券は、四半世紀以上にわたって発行され(戦後に発行された日本銀行券では、発行期間が最も長い)、長年、国民に親しまれました。このため、いつのまにか国民の間に、「聖徳太子は日本銀行券の代名詞」というイメージが浸透していったようです。

    さらに、聖徳太子像は、いずれも発行当時の最高額券に採用されたことから、「聖徳太子=高額のお札」というイメージもあるようです。もっとも、聖徳太子像を使わない日本銀行券が発行されてから長い年月が経過しているため、こうしたイメージは徐々に薄れつつあるかもしれません。

    そして「なぜ聖徳太子なのか」についても言及しています。

    ところで、聖徳太子像がこれだけ多くの日本銀行券に採用された理由は何でしょう? それは、(1)「十七条の憲法」を制定したり、仏教を保護したり、中国との国交回復や遣隋使の派遣により大陸文化を採り入れるなど、内外に数多くの業績を残したため、国民から敬愛され知名度も高いこと、(2)歴史上の事実を実証したり、肖像を描くためのしっかりした材料があること、が大きな理由のようです。

    なお、GHQ(連合国最高司令部)は1946年(昭和21年)、かつて日本政府が決定した「肖像に相応しい人物」について、「聖徳太子以外は、軍国主義的な色彩が強いため、肖像として使用することを認めない」としました。この時、聖徳太子についても議論があったようですが、当時の一萬田(いちまだ)日銀総裁はGHQに対し、「聖徳太子は『和を以って貴しとなす』と述べるなど、軍国主義者どころか平和主義者の代表である」と主張して、その存続についてGHQを押し切ったと言われています。

    「中国との国交回復」といった表現には苦心したあとがうかがえますが、いずれにしても日本銀行としては教科書に沿った、といったところでしょう。では研究者、歴史家はどうとらえているのかということです。

    *「政府紙幣」とあるのは、日本銀行が紙幣を発行する前に、政府が紙幣を発行していた時期があります。

    日本銀行ウエブサイト、紙幣についての説明はこちらから
    /
    日本銀行のウエブサイト、教材用データからダウンロードしました。もう1ページあり、より古い紙幣が紹介されていますが、次回に

    余談ではありますが
    この一覧表の4番目に「弐千円」(2000円)札がのっています。最近あまり手にとることがないので、高校生は知らないかもしれませんね。2000年に沖縄サミット(第26回主要国首脳会議)に合わせて発行されました。デザインされているのは沖縄・首里城の守礼門です。

  • 2024.02.13

    法隆寺はどう研究されてきたか ⑦ それでもエンタシス

    かつての奈良(大和路)を歩いた紀行として長く読み継がれてきた和辻哲郎、亀井勝一郎の本を紹介しましたが、では作家はということで、これなどはどうでしょう。

    『大和路・信濃路』(堀辰雄、新潮文庫、手元は2004年58刷改版)

    新潮文庫なので新潮社のホームページから堀辰雄のプロフィールを。

    堀辰雄(1904-1953) 東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頬』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『菜穂子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。

    この文庫本は、堀辰雄のエッセイと小品がいくつか集められている作品集です。解説によると、堀辰雄は1937年(昭和12)に初めて奈良県(大和)に旅をし、3度目の旅となる1941年、旅先から妻宛に書き綴った手紙をもとにして加筆したものが『大和路』の中の一編『十月』となり、その後も大和路を訪れて小品を書いたとのこと。(手紙という形で書いたのかもしれませんね)

    その『十月』にこんなくだりがありました。

    「いま、唐招提寺の松林のなかで、これを書いている。(略)いま、秋の日が一ぱい金堂や講堂にあたって、屋根瓦の上にも、丹の褪めかかった古い円柱にも、松の木の影が鮮やかに映っていた。それがたえず風にそよいでいる工合は、いうにいわれない爽やかさだ。此処こそは私たちのギリシアだ」(ちなみに工合は具合のことでしょう。原文のままです)

    ギリシャが出てきます、そして古い円柱にも注意してください。この唐招提寺について別のところでもふれています。

    「僕はきょうはもうこの位にして、此処を立ち去ろうと思いながら、最後にちょっとだけ人間の気まぐれを許して貰うように、円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った。そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲しみ込こんだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。」

    「太い柱の真んなかのエンタシスの工合」とでてきます。でも、法隆寺でなくて唐招提寺です。

    そういえばと思い出し、あわてて『法隆寺への精神史』(井上章一)をめくりました。ありました、ありました。

    著名な歴史家、林屋辰三郎(1914~1998)の中学校時代の授業の思い出を林屋へのインタビュー記録から引用しています。

    「唐招提寺の柱のエンタシスという膨らんだ箇所を、ギリシャの神殿建築と対比して説明していただいてね」

    これに対して井上さん

    「唐招提寺のエンタシスは、じっさいにはほとんどめだたない。おそらく、これは法隆寺のまちがいだろう。唐招提寺にギリシャを投影する場合は、金堂前部の列柱をことあげするのがふつうである」

    『明治の建築家 伊藤忠太 オスマン帝国をゆく』で筆者のジラルデッリ青木美由紀さんが、伊東忠太がギリシャでたどりついた結論として書いた「エンタシスは建築にとって普遍である」と書いていました。エンタシスを「柱のふくらみ」と定義すれば法隆寺にもある、唐招提寺にもある、それなら「普遍」といわれてもおかしくない。それがギリシャと結びつくかどうかは別問題ということですね。

    ただ、エンタシスをギリシャと結びつけることは「時代の産物でもあった」と井上章一さんが指摘していました。和辻哲郎の著作などを通じて多くの人がそういうものだと思っていた、中学生の林屋さんに話した先生も堀辰雄もその例外ではなかった、ということなのでしょう。

    『大和路』、ネットで読めます

    『大和路・信濃路』の新潮文庫ですが奥付けの「1955年発行、2004年58刷改版」をみてたまげました。超ロングセラーですね。この作品、インターネット上の「青空文庫」で全文読むことができます。無料です。「青空文庫」についてサイトではこう説明されています。

    青空文庫は、誰にでもアクセスできる自由な電子本を、図書館のようにインターネット上に集めようとする活動です。著作権の消滅した作品と、「自由に読んでもらってかまわない」とされたものを、テキストとXHTML(一部はHTML)形式に電子化した上で揃えています。

    ということなので、基本的にはボランティアの方々が作業をしてくれています。すばらしいことですね、ありがとうございます。


    唐招提寺。正面の建物が「金堂」です。堀辰雄は「いい秋日和」と書いています。うっすらと紅葉しています。堀辰雄もこんな景色をみたのでしょうか

  • 2024.02.09

    法隆寺はどう研究されてきたか ⑥ そしてエンタシス

    「法隆寺のエンタシスから遥かギリシャを思う」という「気分」は、学術的にはともかくとして根強いものがあるということがいくつかの著作でふれられており、それをたどってきました。そういえば「観光ガイドなんかはどうなのだろうか」との疑問がふとわいてきました。まずあえて古いガイドをひっぱりだしました。おおよそ半世紀前です。

    『別冊るるぶ愛蔵版3 奈良の旅』(1978年 日本交通公社出版事業局)

    旅行ガイドとしてすぐに思い浮かぶであろう『るるぶ』です。出版元として日本交通公社出版事業局とあります。若い人にはピンとこないかもしれませんが、日本交通公社は旅行業大手JTBの前身です。この奈良の旅編では「斑鳩」というくくりで法隆寺が紹介されています。その一部です。

    しかしながら、いま眼に見える中門には飛鳥時代の様式が伝えられている。下から三分の一ほどが最も強く張り出した胴張りをもったたくましい柱、ギリシャの神殿のエンタシスを思わせる手法である」

    なかなかうまい表現ですよね。ギリシャにストレートに結びつけてはいない、一方で、はるかギリシャを思い起こさずにはいられない書き方、法隆寺はそんなロマンをかきたてる場所なのだと伝えているわけです。もちろんこの項の筆者が「エンタシス説」の研究史を理解したうえで書いているのかどうかは不明です。

    では、最近の観光ガイドブックにはどう書かれているのでしょう。

    『るるぶ奈良 ’25』(JTBパブリッシング、2024年)

    同じ『るるぶ』の奈良編の最新版です。電子版で確認しました。やはり「斑鳩」というくくりで法隆寺が紹介されています。古い『るるぶ』では「中門」についてでしたが、ここでは「金堂」の説明文にこんなくだりがありました。(中門そのものが特筆されていませんでした)

    「西院伽藍の中心で、世界最古の木造建築。中央部が丸く膨らんだエンタシスの柱などに飛鳥様式を伝える」

    お見事、とひとりごとが出てしまいました。ギリシャこそ出てきませんが、柱の一部が膨らんでいるという意味での「エンタシス」という言葉をさりげなく使っています。そこは学術的に突っ込まれることはない。とはいえ、やはり「エンタシス」という単語で何やら「法隆寺は特別」感が出ているようにも読めてしまう、「エンタシス」という「言葉の魔力」を感じてしまったのですが、いかがでしょうか。


    法隆寺をお参りした際の写真を探しましたが、中門は撮っておらず、金堂も柱がわかるようなものはありませんでした。そうしたらこの写真が目にとまりました。金堂や塔をぐるりと取り巻く回廊です。中門から繋がってもいます。いかがでしょう、柱の中央部が膨らんでいますよね。

    余談ではありますが この価格差は?

    1978年発行の『るるぶ 奈良編』ですが、私自身はまだ学生、その時に購入してずっと持っていたわけではありません。場所は覚えていないのですが古書店で見つけました。かつて観光地がどのように紹介されていたのか、かつての人気スポットと最近の人気スポットは異なっているのかなどがわかると面白いなということで手を出しました。

    本を開くと、ところどころカラー写真が掲載されているものの大半がモノクロ写真。定価は1300円とあります。

    そして最新版です。『’25』とあるので、2025年、これから1年間先取りの内容といった意味合いなのでしょう。当然のごとくほとんどがカラー写真です。そしてなんと価格が1150円(税込)! おおよそ半世紀前より安価なのです。

    「1978年版」は「愛蔵版」とあるのでスペシャルということしょうから、今回あげた最新版と単純に比較していいのかは慎重にならなければいけませんが、「それにしても」ですよね。

    気づかれたでしょうか、1978年版には「定価」と書かれていました。最新版は「税込」です。そう、1978年に消費税はなかったんです。消費税は1989年(平成元年)に3%でスタートしました。

  • 2024.02.08

    法隆寺はどう研究されてきたか ⑤ 伊東忠太がギリシャで見たもの

    西欧への留学しか認めないという明治政府に逆らってまで、日本に西欧の影響が及んだあとを見つけようと中国、インド、トルコに調査旅行に出かけた伊東忠太。その足跡を追った『明治の建築家 伊藤忠太 オスマン帝国をゆく』(ジラルデッリ青木美由紀)を読んでみましょう。

    「忠太が東京帝国大学の助教授となった一八九九(明治三十二)年当時、教授昇進には三年間の欧米留学が不文律だった。日本文学や漢文学の分野でさえ、欧米に留学しなければ教授になれなかった時代。しかし打診されたときに、忠太が懇望したのは、西洋ではなく、東洋への留学だった」

    伊東忠太の「東洋への留学」のいきさつを押さえたうえで、筆者の青木さんは続けます。

    「法隆寺建築の源流はギリシャだ!」という自説を証明するため、単身乗り出した世界旅行の途上、八ヶ月半を過ごしたオスマン帝国で、何度も挫けそうになりながらも、明治の建築家が獲得しようとしたもの。それは、激動の政治状況のなかで、急務として確立を迫られた、当時の日本人としての世界観であり、それに基づいた建築観だったのではないか」

    青木さんの伊東への熱い思い、この著作を生んだ動機がうかがわれます。

    さて青木さんも当然、伊東忠太の論文「法隆寺建築論」に触れます。法隆寺にギリシャの影響が見られる、その証拠として忠太があげたのが「柱の仕様、また「唐草」とよばれる装飾文様」と紹介します。そうこの「柱の仕様」が「エンタシス」です。

    「忠太は、ギリシャ、というよりもエトルスクの神殿に注目し、これを法隆寺と比較した。だが、意気揚々と掲げられたこの説は、その後批判にあい、改稿されて、最終稿までにこの「法隆寺エトルスク説」はほとんど鳴りをひそめることになる」

    なるほど、それでも忠太は「ギリシャ」にこだわった。エンタシスだけではない、ということだったようです。忠太はギリシャの影響がトルコ、インド、中国を経て日本に及んだとの考えは変えず、留学調査旅行の行先としてトルコなどを選びました。

    なお、ここで「エトルスク」とありますが、井上さんの『法隆寺への精神史』では「エトラスカン寺院」と書かれています。原典までは確認できないので、青木本は表記のままとします。同書の注釈によると「エトルスク」は「現在のイタリア北西部に展開したギリシャ文明」とあります。

    忠太の許可された留学先は「中国、インド、トルコ」ですが、その留学期間を終えてトルコからギリシャに足を伸ばします。

    「アテネの古代ギリシャ建築を、忠太はどう見ただろう」

    青木さんが読者を引き込みます。神殿などを歩いてみた詳細なメモや図面が残っているそうです。いよいよ佳境に入ります。

    「エンタシスは建築にとって普遍である。これがはるばるアテネで忠太がたどりついた結論だった」

    えっ、ですよね。「普遍」ってことは、どこにでもあるということですよね、一般的には。

    「エンタシスを普遍と看做すことはそのまま、法隆寺をギリシャに繋ぐ、論拠のひとつを放棄することになる。その意味ではこの結論は、エンタシスとの決別とも言えるだろう」

    「エンタシスとの決別は、「東洋建築」が、西洋建築の常套の柱の研究では語れないという見極めに繋がった、といえば穿ち過ぎだろうか。エンタシスは普遍、との結論によって、忠太はいわば足枷から解放される。関心は、西洋と東洋の重層的な境界、という独特の発想へと転換するのだ」

    伊東忠太が論文で示した意見がおおよそ否定されたかといって伊東の業績が全否定されるわけではありません。どのような研究分野においてもしばしばあることですよね。いわば、伊東は自分の説を検証して謙虚に見直したという見方もできるでしょう。その結果、さらに研究の幅を広げ、深めることにつながったといったところか。

    青木さんの伊東への眼差しはあたたかいですね。

  • 2024.02.07

    法隆寺はどう研究されてきたか ④ 伊東忠太旅に出る

    『法隆寺への精神史』で筆者の井上章一さんはエンタシスの問題にとどまらず、法隆寺の伽藍(建物の配置)についても言及します。対称(シンメトリー)が特徴的な西欧建築と比べて法隆寺の伽藍は非対称になっていることを指摘するなど、この著作は実に奥が深いのですが、ここではエンタシス=ギリシア伝来説がその後どうなったかにとどめます。

    「法隆寺に、ギリシア建築からの影響を見る。これは、古代の日本に、ギリシア文明の感化を読みとることでもある。だが、こんな見方をおもしろがる感受性が、江戸時代より前にあったとは思いにくい。やはり、明治以降になってから、近代がもたらした感覚のひとつであろう。そして、それは今日、学界ではともかくとして、ひろく一般読書人にまで普及している」

    「エンタシス=ギリシア伝来説の真偽そのものは、不明である。現在では、わからないというしかない。これを問題にしても、徒労におわってしまいかねないことになる」

    「学界ではともかくとして」という表現でだいたいわかりますよね。聖徳太子はどういう人物であったのかについての歴史家・研究者のとらえ方と、信仰を通じて人々が抱く太子の人物像とのギャップと似たような状態であるようにも感じられます。

    井上さんのさまざまな指摘の中でここは押さえておきたいという点があります。隈研吾さんと同様、井上さんも和辻哲郎の名をあげます。

    「和辻哲郎。一九一〇年代から二〇世紀のなかばにかけて、活躍した倫理学者である。日本文化史に関する著述でも、よく知られている」
    「その和辻に、『古寺巡礼』(一九一九、大正八年)という著書がある。(略)和辻はこの本で、大和の古美術を、芸術的な鑑賞眼で情熱的に語っている」

    「『古寺巡礼』の特徴は、大和の古美術とギリシア古典の類似をうたいあげたところにある」
    「だが、とにかくこの『古寺巡礼』という本は、よく売れた。現在でも、岩波文庫に収録され、読みつがれている。奈良の寺々を鑑賞するさいの、古典的な書物になりおおせているといってよい」

    井上さんがいうところの「学界はともかくとして、ひろく一般読書人にまで普及している」原動力の一つが和辻のこの本、ということでしょう。

    「奈良の寺々を鑑賞するさいの、古典的な書物」とされています、はい、私も何度も読み返しています。同じような「古典」としては、『大和古寺風物詩』(亀井勝一郎、新潮文庫など)が知られていますよね。1953年刊行なので『古寺巡礼』よりはかなり後ですが。

    さて、とうの伊東忠太は「法隆寺建築論」発表のあとどうしたのか、ということです。

    隈さんはこう書きます。
    「(伊東とタウトは)日本とギリシャをつなぐ中間項を探る旅にでた。伊東は、留学先はヨーロッパしか認めないという当時の明治政府の方針に反して、中国、インド、トルコへと旅し、さらにアジアへの調査旅行を敢行した」

    では伊東はその旅で何を見てきたのか、その跡を丹念にたどった研究本があります。

    『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ジラルデッリ青木美由紀、ウェッジ、2016年2刷)

    トルコ・イスタンブルで研究生活を送る筆者が現地の資料をもとに、伊東の旅を「再現」します。伊東という人物について

    「明治時代、建築を研究するためだけに世界を一周した、酔狂な男」

    おおっ、「反逆者」(隈研吾さん)「開拓者」(井上章一さん)に続いてここでは「酔狂な男」です。

  • 2024.02.06

    雪かきをして生徒を迎えました

    6日は前日からの大雪で交通機関の乱れなどが予想されたため、生徒の登校を1時間遅らせました。キャンパスはすっかり雪化粧、生徒たちを迎えいつも通りの授業環境を整えるため、朝から教職員総出で優先場所を選んでの除雪作業にあたりました。ごくろうさまでした。

    /FVB(多目的施設)は朝には雪が落ちて赤い屋根が見えましたが、前面の芝生は真っ白です
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    総合(人工芝)グラウンドも積雪。融けて使えるようになるには少し時間がかかるかもしれません
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    生徒の登校を前に教職員が手分けして雪かき。中央広場は短時間での除雪は難しいですが、教室間移動など生徒の動線となる「通路」を確保しました

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    少し早めに登校してきた生徒が教室周りの雪かきを手伝ってくれました。ありがとう

  • 2024.02.05

    法隆寺はどう研究されてきたか ③

    さて、法隆寺についてこの本をとりあげないわけにはいかないと書いた、井上章一さんの『法隆寺への精神史』(弘文堂、1994年)です。当然のことながら伊東忠太をとりあげています。

    「いっぱんに、伊東忠太は、日本建築史学の開拓者として知られる。東京帝大で本格的に建築史を研究しだしたのは、伊東だということになっている。法隆寺の研究についても同様に、パイオニアあつかいされている。「法隆寺の発見者」などとさえ、しばしばいわれているのである」
    「法隆寺のふくらんだ柱に、ギリシアの影響を読みとる、これも一般的には、伊東の創見だとされている」

    伊東忠太について隈研吾さんは「反逆者」、井上章一さんは「開拓者」さらには「パイオニア」、もちろん意味は異なりますが、型破りというか一筋縄ではいかない、なかなかの人物なのだろうと感じさせる表現ですね。

    そしてX(旧ツイッター)で東京大学が伝える「伊東忠太が1893年に発表した「法隆寺建築論」」ですが、井上さんの著書から引きます。

    「伊東は、「法隆寺建築論」と題した論文を、学会誌である「建築雑誌」に発表した。そして、このなかで、ギリシアのエンタシスが大和の法隆寺につたわったと主張している」

    なるほど。しかし井上さんは続けます。

    「にもかかわらず、あえて書く。エンタシス=ギリシア伝来説を、伊東の創見でかたづけてしまうのは正確でない、と」
    「おおざっぱな表現になるが、それは時代の産物でもあった。一九世紀末になら、とうぜんひねりだされるであろうはずの着想だったのである」

    さらには

    「ギリシアと日本のあいだには、「東西交渉」があった。そのために、法隆寺にもエンタシスができたという」
    「「東西交渉」の経過をしめす証拠は、なにもない。ただ、法隆寺の柱と「希臘の所謂エンタシス」が、同じ形になっているというだけである。そこから伊東は、「歴史的眼孔」によって、ギリシア文明の伝播を読みとった。まあ、思いついたということだろう」

    いやいや手厳しい、「思いつき」です。隈研吾さんは「伊東は何の具体的根拠を示さずに突如、このエンタシス説を発表した」と書いていましたが、井上さんはよりストレートです。

    余談ではありますが

    井上さんは、『つくられた桂離宮神話』(1986年)、この『法隆寺への精神史』(1994年)について「同じパターンの探求」などなかば自虐的な言い方をしていますが、従来にない視点、切り口がが高く評価されました。このような著作をまとめるのには、過去に発表された膨大な資料(著作、論文、雑誌など)を探し集め読み込まなくてはなりません。

    かなり以前のことですが、都内の国立国会図書館で井上さんをお見かけしたことがあります。京都で取材させていただいたことがあったので気づいたのですが、閲覧受付で次から次へと本を出してもらって(一度に書架から出してもらう冊数が限られていました)、内容をチェックしながら必要なところをどんどんコピーしていました。

    今のようにデータベースにアクセスしてキーワードを打ち込み、本や雑誌を検索するという時代ではありません。図書カードを1枚1枚めくって、自分のテーマにあっていそうな本や雑誌、論文をかたっぱしからチェックするしか方法がなかったはずです。

    井上さんの研究拠点は京都にある国際日本文化センターです。あたり前かもしれませんが、東京に出てきて(あるいは都内での仕事の合間に)ああこういう地道な努力をするんだと、いたく感心したことをおぼえています。

  • 2024.02.02

    法隆寺はどう研究されてきたか ②

    著名なお寺である法隆寺についての論文など学術的な考察はたくさんあると思いますが、私のような「本を読むことが楽しい」レベルでどうこう言えるものでもないでしょう。ただ、これまで読んだ中で、法隆寺ならこれはとりあげないわけにはいかないと思います。またかと言われそうですが井上章一さん(国際日本文化研究センター所長)です。約30年前、井上さん初期の論考です(発刊時は同センター助教授となっています)。

    『法隆寺への精神史』(弘文堂、1994年)

    隈研吾さんが『日本の建築』(岩波新書)のなかで「珍説」と書いたエンタシス説についてです。井上さんも当然、触れています。

    「法隆寺にある丸柱は、はるか西方のギリシアにルーツがある。なかほどがふくらんだエンタシスの形状は、ギリシア神殿の建築様式に由来する。日本には、飛鳥時代の昔から、西方ヘレニズムの文化がとどいていた」
    「私が、こう教わったのは、中学生のときである。凡庸な反応ではあるが、やはり感心させられた。そんな古いころから、文化の伝播はあったのか。歴史って、おもしろいもんだなと、ひきつけられたことをおぼえている」

    「大学の建築史では、この話をいっさいおしえないのである。建築史の授業も、建築史の教科書も、エンタシス伝来説には、まったく言及しなかった」
    「あるとき、ひとりの博学な先輩に、その理由をたずねたことがある。すると、こんな返事がかえってきた。
    「お前、いまだにあんな話を信じとるんか。あほやなあ。あんなもん、ウソにきまってるやないか。あれは、お話、子供むきのお話や」」

    (隈研吾さんは『日本の建築』で「ギリシャ」と表記、井上さんは「ギリシア」と書いています。キーボードうち間違い、変換ミスではありません)

    京ことばでしょうか、井上さんの思い出と先輩とのやりとりが面白かったので長く引用しました。もちろん、井上さんはこの先輩が言ったから「そうなんですか」では終わらずに調べ、著作にしたわけです。

    「法隆寺とギリシアは、エンタシスでつながっていてほしい。私は、そんな希望をもっていた。では、いったいどこの誰が、私の脳裏にそんな思いをすりこんでいったのか。その洗脳を可能にした文化的背景に、興味がわいてくる」

    「私はこの本で、法隆寺論の歴史的な変化を追いかけた。法隆寺を語る、その語り方がうつりかわっていく過程を、追跡した」
    「法隆寺そのものに興味があったわけではない。法隆寺を語り論じたひとびとの脳裏には、どのような観念があったのか。そして、その観念は、時代とともにどういった変容をとげたのか。私はそういう精神史に、関心をよせていた。『法隆寺への精神史』と題したのも、そのためである」

    法隆寺の歴史を語るのではなく、人々が法隆寺をどうとらえてきたのか、その移り変わりを探る、井上さんの『つくられた桂離宮神話』(1986年)も同じような切り口です。井上さんがこんなふうに書いています。

    「『つくられた桂離宮神話』は、批評にまつわる言論の、その様式史をさぐった仕事である。桂離宮解釈は、時代とともに、どううつりかわってきたか。また、なぜ、そのように変化をとげてきたのか。以上のようなことを、さぐっている」

    「一九九四(平成六)年には、『法隆寺への精神史』を上梓した。現在は、安土城に関する本を執筆しているところである。いずれも、法隆寺や安土城そのものを論じる研究ではない。それらの建築にまつわる言及が、時代によってねじまげられていく様子を、えがいてきた。基本的には、同じパターンの探求が、テーマだけかえながら、つづいている」
    (『つくられた桂離宮神話』学術文庫版あとがき。再録した『学問をしばるもの』より引用)

  • 2024.02.01

    法隆寺はどう研究されてきたか ①

    法隆寺と聖徳太子について書いてきましたが、そもそもの発端は法隆寺金堂の火災が文化財防火デー(1月26日)制定のきっかけになったことでした。その際、インターネットで「文化財防火デー」を検索していたら思わぬものが上位に出てきました。X(旧ツイッター)の東京大学の公式アカウントが防火デーについて触れていました。

    この公式アカウント、「東京大学の取り組み、活動状況をお知らせします」というねらいだそう。もちろん、大学としての情報発信はいいことなので、その取り組みがどうこうではありません。ただ、なぜ防火デーで、という驚きです。引用します。

    今日、1月26日は文化財防火デー。75年前の1949年1月26日、法隆寺金堂で発生した火災によって貴重な壁画が焼損したことを機に定められました。世界最古の現存木造建築である法隆寺を建築学的に考察した研究が、のちに東京帝大教授となる伊東忠太が1893年に発表した「法隆寺建築論」です。

    前段は防火デーの説明なので特段のことはないのですが、驚きは、後半に伊東忠太がでてくることです。伊東は日本の建築史を語るうえでふれないわけにはいかない重要人物です。例えば「Architecture」の訳語「建築」を提唱し定着させたのは伊東とされています。伊東が東京帝大に入学した時は「造家学科」であり、後に「建築学科」になります。

    伊東が手掛けた代表的な建築物としては京都・平安神宮や東京・築地本願寺などがよく知られています。

    この伊東が法隆寺と深い関係にあることはまちがいありません。ただ、字数に限りのあるXなのでやむを得ないとは思いますが、この書き方はちょっと中途半端かと。なぜなら、ということをここから書いていきます。

    法隆寺と伊東とのかかわりについては取り上げたい著作があります。いくつか紹介していきます。

    まずは導入としてこれ。つい最近発刊されたばかり。建築史のコンパクトなまとめが書かれていて、建築史で欠かせない人物、当然のごとく伊東がでてきます。

    『日本の建築』(隈研吾、岩波新書、2023年)

    2021年の東京でのオリンピック・パラリンピックの主会場となった国立競技場を設計した隈研吾さんの著作です。近代・明治にヨーロッパなどから入ってきたいわゆる西洋建築とそれ以前からある国内の建築様式が並行する建築史を紹介する中で、伊東忠太をとりあげています。

    「東大建築学科で教鞭をとっていた僕の立場からひと言付け加えさせてもらえば、お雇い外国人のジョサイア・コンドル(一八五二~一九二〇)を中心とする、西欧建築の教育機関としてスタートした工部大学校(後の東京大学)建築学科には、伊東忠太(一八六七~一九五四)という反逆者がいた」

    「伊東は法隆寺が日本最古の寺院建築であることを実証的に示し、さらに法隆寺の柱の中心部の膨らみが、古代ギリシャ建築のエンタシスに由来するという説を唱えて(一八九三)、建築界を超えた広い反響を得た。伊東は何の具体的根拠も示さずに突如、このエンタシス説を発表した。にもかかわらず、人々はこの珍説に飛びついたのである。武田五一に通じる京都の和辻哲郎の『古寺巡礼』(一九一九)で紹介されたことで、伊東の珍説は専門家を超えて、人々を興奮させた」

    教鞭をとっていた、とありますが、東大建築学科で学んだ隈さんにとって伊東は大先輩でもあります。

    伊東についての、簡潔にして的確なまとめだと思いますが、このエンタシス説がどう評価されたかが書かれていません。まあ「珍説」と書いてあることで推測してくだい、ということか。それならば、もっとストレートに書かれた本を次に取り上げなくてはなりませんね。

    余談ではありますが

    その1
    隈研吾さんの作品となると、どうしても国立競技場がでてきますが、最近では母校の新校舎を設計し、話題になりました。神奈川県鎌倉市にある栄光学園(中学・高校)です。公式ホームページで校舎を紹介しています。こちらから

    その2
    隈さんが「武田五一に通じる・・・」と、さらっと書かれていて、ちょっと嬉しくなりました。
    武田五一(1872~1938)は関西を中心に活動した建築家で、「関西建築界の父」などと呼ばれることがあるとか。私がかつて仕事をしていた毎日新聞社の京都支局のビルが武田の設計で1928年(昭和3)に建てられました。京都市登録有形文化財に指定されています。新聞社の支局は現在別の場所に移転し、元のビルはそのままギャラリー・レストラン・フリースペース(「アートコンプレックス1928」と呼ばれています)などとして活用されています。
    「だからどうした」ではありますが。

    京都府観光連盟の公式サイト「京都府観光ガイド」で「アートコンプレックス1928」として建物の由来などが紹介されています。
    こちらから

  • 2024.01.31

    法隆寺と聖徳太子 ④ そして現代まで

    「聖徳太子はいなかった、架空の人物である」との説を展開した『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館、1999年)ですが、筆者の大山誠一さんが「多くの方のご批判を受けることであろう」と書くように、そのまま広く受け入れられたわけではありません。『法隆寺と聖徳太子』(東野治之)だけでなく、大山さんの本の後に発刊された別の著作もとりあげます。

    『聖徳太子の歴史学 記憶と創造の一四〇〇年』(新川登亀男、講談社選書メチエ、2007年)

    「貴方は、聖徳太子がいたと思いますか。それとも、いなかったと思いますか」
    こんな質問を受けることがあると書き出し
    「この質問は、言うまでもなく、最近の「聖徳太子はいなかった」説を踏まえたものであり、まるで踏み絵のように差し出されてくる。歴史への関心の多くが、このような事実探しにあること、そして、やはり、「聖徳太子」がそれに値する存在であることをあらためて思い知らされる」

    と続けます。大山さんの名前や著作名は出てきません。まとめにあたる「終章」ではこんな表現で出てきます。

    「二〇世紀末には、「専門学者」による「聖徳太子はいなかった」説が登場してくる。これはセンセーショナルな新説として、各方面から注目の的になった」

    前後の文脈があるので微妙な書き方ではありますが「センセーショナル」とか「各方面」とかの言葉つかいがちょっとひっかかりはします。
    「法隆寺と聖徳太子 ③」(1月30日)で『<聖徳太子>の誕生』を読んだとき、私自身も衝撃を受けた、と書きましたが、まさに「センセーショナル」に巻き込まれたわけですね。 

    さて新川さんの著作です。

    「現在の私たちが記憶している「聖徳太子」は、『日本書紀』にその原像(事実とはかぎらない)の大半がある。それは、小学校以来、くりかえし学習する「聖徳太子」でもあろう。逆にいえば、この『日本書紀』の「聖徳太子」から自由になることは容易でないのである。

    慎重な言い回しですね。新川さんは「信仰と事実の区別は容易ではない」との前提で、大山さんが言うところの「長い聖徳太子信仰の重み」を解き明かそうとします。太子の死後から中世、そして近代まで、聖徳太子が信仰の対象としてどう位置付けられ変わってきたのか、それによって形作られた聖徳太子像を描きだします。

    印象的なのは、それが近代、さらには現代にまで続いているとの指摘です。

    西洋に追いつけ追い越せの明治時代、欧米の列強と並ぶために必要な憲法制定ですが「日本には古くは憲法十七条があるではないか」、木造建築では世界最古級の法隆寺もある、「けっして西洋に後れをとっていない、欧米に負けていない」ということを主張したい人たちによって聖徳太子像がつくられていった、というように読めました。そして現代へ。

    「聖徳太子」における中国との「対等」外交、憲法十七条の「和」の精神、「大化の改新」を準備した「新しい政治」「ゆるんだ政治の立て直し」、そして「調和の美」と木造建築の「最古」を示す法隆寺などは、少なくとも用語レベルにおいて、あるいは模様替えしたコンテクストのもとで、すべて戦後へと受け継がれている。むしろ、国民的教養・知識となった。

    21世紀になってから開かれた、聖徳太子関連のある展覧会をとりあげ新川さんはこう紹介しています。

    戦後憲法の精神である「戦争」放棄と「平和」希求、そして「和」の精神が「聖徳太子」に仮託されていた

    もちろん「和」が大事だということに異論をはさみようはないわけですが、それを千年以上も前から提唱していた政治家(太子)がいた、すばらしいことだという「自賛」につなげる、あるいは中国(大陸)と「対等」外交を実行した政治家がいたという点で現代の外交を批判する、そういった思惑に聖徳太子が結び付けられ、聖徳太子像が維持されていくーーそこまで深読みするかといわれそうですが、どうでしょうか。

    いずれにしても、研究が進むことで人物像が書き換えられていく、これは避けられないことであり、そもそも歴史研究者・歴史家の役割でもあります。聖徳太子もその例外ではない、ということでしょう。まとめとしては、ちょっと陳腐ですかね。