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  • 2023.12.22

    47都道府県の武将が揃う力作

    歴史小説・時代小説家としてこのところ一番注目されている作家でしょう。今村祥吾さんの最新刊、面白く読ませていただきました。

    『戦国武将伝 東日本編・西日本編』(今村祥吾、PHP研究所、2023年)

    2022年『塞王の楯』で直木賞を受賞した今村さんですが、本屋さんの応援でも知られています。街の書店を残したいという思いから廃業の危機にあった書店の経営を引き受け、また「今村翔吾のまつり旅」と称して全国47都道府県の本屋さんなどをめぐるツアーを行いました。「自宅に帰ることなく全国をワゴン車で巡り」(公式ホームページより)、118泊119日で完走したそうです。

    その今村さんの最新作がこの『戦国武将伝』です。特徴的なのは「東日本編」「西日本編」の2冊がセットとなっていること。「まつり旅」ではないですが、47都道府県から1人ずつ戦国武将をとりあげて短編小説に仕立てています。その短編が上下に分かれてまとめられています。

    新聞広告だったと思いますが、今村作品はこれまでもいろいろと読んでいることもあってすぐに購入しました。47都道府県といっても、例えば合戦の舞台としての地名、あるいは著名な戦国武将、大名とすぐに結びつかない都道府県があります。それだけに、あえて前知識なしで読み始めました。

    例えば東日本編、北海道は蠣崎慶広、青森県は津軽為信、「蠣崎氏」「津軽氏」は知られた「家」ですが、個々の武将となるとちょっと、といったところ。岩手県の北信愛、秋田県の矢島満安などは初めて聞く名前でした。西日本編は戦国時代のありようとして比較的「知名度」のある大名、武将が多いような印象でしたが、それでも大分県・戸次道雪、香川県・十河存保などは新鮮でした。

    それぞれの小編ではいわゆる大名のふるまいに限らず、大名とその子どもたち、あるいは部下とのつながりなどが描かれます。むしろ、そのような「周辺」の人物が主人公といった作品もあります。そんな工夫があるので同じような話にはなりません。というか、同じようにしないのが作者としての力量なわけですが。

    もちろん、徳川家康(東京都の「枠」です)、織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信なども「忘れずに」登場します。これらの人物については数多くの小説が書かれてきたわけで、「いまさら」と思わせない新しさが必要ですし、ましてや短編です。ある意味こちらこそ作者の腕のみせどころかもしれませんね。

    印象的だった編をいくつか。

    滋賀県・石田三成のタイトルが「四杯目の茶」。滋賀の寺に預けられていた三成が寺を訪れた豊臣秀吉に気に入られるきっかけになったと語られてきた、三杯の茶。のどが渇いているだろうから最初はぬるい、薄い茶を出す、だんだん茶を濃くしていくという、あれです。実は四杯目があった、という想定です。

    広島県・毛利元就の「十五の矢」。元就が子どもたちが協力して毛利家を盛り立てていくことを教え諭すために、矢1本では容易く折れてしまうが3本が束になったらという、これも有名な「あれ」ですね。これが「十五本」、ややっ、という感じですね。

    鹿児島県・島津義弘の「怪しく陽気な者たちと」では、実質的な主人公は井戸又右衛門という伊賀・山城に勢力があった筒井家の家臣。それがなぜ島津、という意外性が面白い。関ヶ原合戦に西軍として加わりながらほとんど戦わずに戦線離脱して鹿児島に逃げ帰る島津義弘の話はこれもいくつかの傑作小説となっているのですが、こんな切り口があるのかといたく感心させられました。

    今村さんの公式ホームページはこちら

  • 2023.12.21

    さよなら「トロリーバス」 ③

    トロリーバスについて長々と説明を書いてきました。もちろん(自慢話か)この2路線とも乗ったことはあるのですが(というより書いたようにこれに乗らないと「立山黒部アルペンルート」は楽しめない)、自分史としては東京都内でもかつてトロリーバスが走っていたことをうっすらと覚えているだけに、感慨深いニュースだったということもあります。

    『都営交通100年のあゆみ』(東京都交通局発行、2011年)

    「(東京都)交通局は、こうした都電や都バスの整備に加えて、電車のように電気を動力源として道路上を走る「トロリーバス」を導入しました。(略)1952(昭和27)年5月20日に上野公園ー今井間で開通したのが最初で、1958(昭和33)年までに4つの路線が開業し、101から104までの系統番号を付けました」

    「トロリーバスは都電より建設費が安く、電気で走るのでバスのように軽油に依存しないという利点があります」

    レールを敷かなくていいので建設費が抑えられるということでしょうか。

    『あゆみ』には1967年6月現在での「電車案内図」が掲載されていて、「無軌条電車」として池袋駅前からは3系統がのびています。これです、当時住んでいた家から一番近かった繁華街が池袋でした。今の池袋駅東口、西武デパートやパルコのある側には都電の駅があり、トロリーバスも走っていたのです。

    「しかし、バスに比べて収容能力は大きいものの路線の設定が柔軟でなく、架線などのトロリーバスに電気を供給する設備を維持する必要があったことから、その後トロリーバスは廃止され、通常のバスによる運行となっていきます」

    ちょっと奥歯にものがはさまったような、苦しい表現のような気がするのですが。別のところにはこう書かれています。

    「昭和30年代後半になるとマイカーが急速に普及し、交通渋滞が都内各地で起こるようになりました。トロリーバスにとっては、とても走りづらい時代に突入します」

    「同じ道路を走る仲間でありながら、モータリゼーションの波に呑まれてしまったトロリーバス。(略)トロリーバスはわずか16年で東京から姿を消しました」

    『日本のトロリーバス』(吉川文夫、電気車研究会・発行、1994年)には東京だけでなく、かつては京都市、名古屋市、川崎市、大阪市、横浜市にもトロリーバスが走っていた歴史が紹介されています。東京については以下のように書かれています。

    「トロリーバスの表定速度は、自動車交通の波に押されて年々低下していく。(略)収支も昭和32年度(1957)からは赤字に転落、財政再建計画のなかで、路面電車とともにトロリーバスも廃止の方針が打ち出され、昭和42~43年(1967~68)にかけて全系統が廃止、バス化されていった」

    表定速度とは停留所での停車時間も含めての時速といった業界用語で、1952年の開業時16キロだったものが67年には12.3キロになったとされています。つまり、自動車が増えて渋滞に巻き込まれ、トロリーバスに乗っての移動に時間がかかるようになってきた、そうなると利用者は減っていくという悪循環です。引用にあるように、各都市で路面電車が次々と廃止になっていくのとまったく同じ理由だったということです。

    路面電車は最近になって脱炭素化の流れで見直されつつありますが、「鉄ちゃん」として忸怩たる思い、正直いって時すでに遅し、何を今さらという気がします。というのも、路面電車がヨーロッパの各都市で今も活躍しているのと同様にトロリーバスもヨーロッパでは結構残っているのです。

    ただ、路面電車とは異なり、電気で自走できるバスが登場しつつある今、わざわざ保守に手間のかかる架線を張ってまでトロリーバスを走らせるのは、これは現実的ではないでしょう。そういう交通機関もあったと歴史の1ページに刻まれるということですね。

    余談ではありますが

    「関電トンネルトロリーバス」とあり、また『日本のトロリーバス』の企画者というところでもふれましたが、こちらのバス路線の運営主体は関西電力です。いわゆる「バス会社」ではないところから路線の由来を示していますよね。一方で今回ニュースになった立山トンネルを走るトロリーバスやケーブルカーなどを運行しているのは「立山黒部貫光株式会社」という会社です。「貫光」です、「観光」の変換ミスではありませんよ。同社のウエブサイトで社名の由来について説明しています。

    「貫光」の「貫」とは時間を、「光」とは宇宙空間、大自然を意味する。日本国土の中央に横たわる中部山岳立山連峰の大障壁を貫いて、富山県と長野県とを結ぶことにより、日本海側と太平洋側との偏差を正して国土の立体的発展をはかり、もって地方自治の振興に寄与せんとする

    会社創業者の考えだったそうです。

    「立山黒部アルペンルート」を移動すると、長いトンネルを抜けた先で一気に視界が広がり、たっぷりの水を溜めたダム湖(タイミングがあえば豪快な放水)や万年雪の残る高地などの絶景が広がります。確かに大山脈を「貫いた」その先に「光」を体感することができた旅を思いだしました。

    東京都内を走ったトロリーバスについて
    「新宿歴史博物館 データベース 写真で見る新宿」、「明治通りを走るトロリーバス」のタイトルがある写真です。こちらから

  • 2023.12.20

    さよなら「トロリーバス」 ②

    日本で唯一残っていたトロリーバスが1年後になくなるというニュース。「鉄ちゃん」として? こういう著書を持っています。というか、こういう本もあるんですね。

    『日本のトロリーバス』(吉川文夫、電気車研究会・発行、1994年)

    筆者の吉川さんには鉄道関連の著書がたくさんりますが、この本については「企画者=関西電力株式会社」とあるところがキモ。関西圏に電気を送るため、難工事の末に完成した黒部ダムを造ったのが関西電力、そのダム建設のための資材運搬などを目的にトンネルが掘られ、ダム完成後に観光用の関電トンネル路線として活かされトロリーバスを走らせたわけです。この黒部ダムの建設については映画「黒部の太陽」がよく知られています。

    ということで、この本では関電トンネル路線のトロリーバスを中心に、そのメカニズムなどが細かく紹介されており、立山トンネル路線開業前の発行ということもあって

    「立山トンネル内を走るトンネルバスはディーゼル車で運行されているが、トンネル内の排気問題や、自然環境保護の意味もあって、平成8年(1996)以降、トロリーバス化されることになった。開通すれば関電トンネルトロリーバスの弟分ができることになる」

    はい、そして「兄貴分」が先に電気バスに変わり、「弟分」が残っていたわけですね。

    『全国フシギ乗り物ツアー』(二村高史・宮田幸治=著、山海堂、2005年)

    変わった鉄道を紹介するマニアックな本です。「立山黒部アルペンルートに唯一生き残ったトロリーバス」という見出しで、この時点ではまだ残っていた2路線が紹介されています。

    「「なんだ、この本はバスも取り上げるのか」と言われそうだが、トロリーバスは鉄道事業法に基づいて運行されており、正式な名称は「無軌条電車」。少なくとも法律ではれっきとした鉄道に分類されているのだ」

    「さよなら「トロリーバス」①」で引用した新聞記事にもありました。無軌条つまりレールがないということですね。『日本のトロリーバス』では一般的なバスや鉄道との違いについて、構造など細かいところまで触れられていますが、こちらの『フシギ』では

    「トロリーバスだが、外観も内装もバスとほぼ同じ。それでも、外観で目につくところといえばナンバープレートがついていないこと。一般道を通ることがないので不要なわけだ」

    「鉄でできたレールを走る電車は、架線から受けた電気をレールに流す。しかしゴムタイヤのトロリーバスは、2本ある架線の一方をプラス、他方をマイナスとする」

    このくらい知っておけば十分ですかね。

    「黒部ダム」の公式ウエブサイトではトロリーバスの歴史がわかりやすくまとめられています。こちらから

  • 2023.12.19

    さよなら「トロリーバス」 ①

    国内最後のトロリーバスが廃止されるというニュースが先日の朝刊各紙に掲載されていました。「トロリーバス」と聞いても、ピンとこない人が多数派でしょう。相変わらず「鉄ネタ、交通ネタ」とあきれられそうですが、交通政策という視点で考えさせられるところもあるかと。

    日本経済新聞のウエブ版から引用します。

    富山、長野両県をケーブルカーやバスで結ぶ「立山黒部アルペンルート」を運営する立山黒部貫光(富山市)は11日、国内で唯一のトロリーバスの運行事業を2024年12月1日で廃止する予定だと発表した。交換が必要な部品の調達が困難になったため。

    トロリーバスは、架線からの電気で走る仕組みで、鉄道の一種「無軌条電車」に分類される。今後は架線を使わない電気バスを導入する。

    立山黒部アルペンルートのバスは、立山トンネルの室堂―大観峰間の約3.7キロを約10分で結んでいる。現在8台が稼働し、1996年の運行開始から累計1920万人以上が利用している。

    アルペンルートでは、関西電力のトンネルでもトロリーバスが走っていたが、2019年に電気バスに切り替わり、立山トンネルのバスが国内唯一となっていた。

    アルペンルートは4〜11月に営業。電気バスへの転換は25年4月からとなる。

    「立山黒部アルペンルート」は長野県と富山県の境に連なる標高3000mメートルクラスの山々を貫く観光ルート。自然保護の観点から車が入れず、その代わりにロープウエイやケーブルカーなどを乗り継ぐのがその特徴で、トロリーバスもその一つでした。

    かつてはこのルートにトロリーバスが2路線あり、長野県側からルート途中の黒部ダムまでを結ぶ関西電力の路線(関電トンネルトロリーバス)は記事にあるようにすでに電気バスに転換。富山市側の立山トンネルを走るトロリーバス路線が残っていたわけです。

    トロリーバスを一言でいってしまえば電車とバスを合わせたようなもの、でしょうか。外見はバスそのもの、ただ屋根からポール(棒状のもの)が伸びています。鉄道の架線と同じように道路の上に架線が張られていて、このポールを通して架線から電気をとり、バス車内のモーターが回って動くということです。

    関電トンネルのトロリーバスの開業が1964年、前の東京オリンピックの年で立山トンネルの路線がトロリーバスになったのが1996年からで、その前はディーゼルエンジンのバスが走っていたようです。その立山トンネル路線は全線がトンネル内、関電トンネル路線もほとんどがトンネル内を走ります。立山トンネル内ではディーゼルエンジンバスの排気ガス対策で苦労したようです。そうなると別の仕組みで走るバス、ということになります。

    電気で走るバスとなると電気自動車、いわゆるEVのバス版をイメージしますが、両路線の開業時はまだ一般的ではなく、例えば車載のバッテリー(蓄電器)など今の水準から到底実用的ではなかった、それで電気は外(架線)からとるトロリーバスという選択になったのでしょう。

    そして関電トンネル路線が先に電気バスになり、立山トンネル路線に国内で唯一トロリーバスが走っていたのですが、部品の交換など支障が出てくるのはやむを得ないところ。運営会社の「お知らせ」によると「車両の更新期にあたり」、記事では「交換が必要な部品の調達が困難になったため」、電気バスに置き換えることになったというわけです。

  • 2023.12.18

    「いっしょに読もう!新聞コンクール」

    「日本新聞博物館(ニュースパーク、NEWSPARK)」を久しぶりに訪ねました。日刊新聞発祥の地である横浜に2000年に開館した施設で、常設展示では新聞の歴史や新聞ができるまでがわかりやすく紹介されており、また、学校での新聞活用のお手伝いなどもしています。博物館を運営している日本新聞協会主催の「第14回「いっしょに読もう!新聞コンクール」の表彰式があったばかりで、受賞作品も紹介されていました。

    コンクールの募集要項にはこうあります。
    このコンクールは、新聞を読むことで(1)社会への関心の広がりを促す、(2)社会の課題への「気付き」を促す、(3)家族・友だちとのコミュニケーションを促す、(4)考えを深める姿勢を促す、(5)考えをまとめて表現する力を培う――ことを目的としています。また、コンクールを通じて(1)新聞の面白さ、大切さを知ってほしい、(2)新聞を好きになってほしい――という願いも込めています。

    かつてお世話になった新聞協会の方が博物館館長をされていて、いろいろとお話をうかがうことができました。コンクールも今年で14回目、私も新聞社在籍時は審査にあたったこともあったのですが、今回の応募点数は約6万点、2番目に多かったとのことで、何よりでした。

    さらに、高校生部門で最優秀賞に選ばれたのが埼玉県内の高校1年生の女子生徒さんで、その生徒さんのこと、その生徒さんを指導した先生のことなどを詳しくお聞きすることができました。

    小学生部門、中学生部門の最優秀賞作品もすばらしく、若い人たちが新聞を手に取り、社会に関心を持つようになることを頼もしいと感じた一方で、残念ながら「新聞離れ」はすすみ、ジャーナリズムを学ぶ大学生が減っていることなどの話もしました。

    新聞社で仕事をしていたからという立場を超えて、フェイクニュースなどのように誤った(あるいは意図的に誤った)情報が氾濫している中を生きていく若い人たちには情報を選別できる力を身につけてもらいたい。そのために学校現場で何ができるのか、引き続き考えて続けていきます。

    コンクール受賞作品の紹介はこちらから

    日本新聞博物館(ニュースパーク)についてはこちらを

  • 2023.12.16

    無着成恭さんのささやかな思い出

    無着成恭(むちゃく・せいきょう)さんが今夏亡くなり、無着さんが長年回答者を務めたTBSラジオ「全国こども電話相談室」の元アナウンサーの方が先日、毎日新聞紙上で思い出を語っていました。無着さんには千葉のお寺の住職をされていた時に取材させていただいたことがあり、その時の記事の切り抜きが実家の資料の中から同じようなタイミングで見つかりました。これも何かのご縁かと。

    訃報から無着さんの経歴を簡単にまとめます

    1927年(昭和2)山形県の寺に生まれ、赴任した同県内の中学校で子どもたちが生活のありのままを作文に書く教育「生活綴方(つづりかた)」を実践。その生徒たちの詩や作文を収めた学級文集「山びこ学校」がベストセラーになりました。

    その後、明星(みょうじょう)学園(東京)で教諭や教頭を務め、「全国こども電話相談室」の回答者を約30年続けました。1987年、千葉県香取郡にある福泉寺の住職になり、大分県国東市のお寺に移った後、また福泉寺に戻って暮らしていたそうです。

    新聞切り抜きの日付を見ると1991年1月20日、東北地方向けの紙面で「ふるさと人」と題し、東北出身で今は東北を離れている著名人に故郷について語ってもらうという連載記事、東京本社の何人かの記者で分担して取材しました。そのお一人として山形出身の無着さんを千葉の福泉寺に訪ねたわけです。記事そのものを見ていただくのが簡単なのですが、著作権もあるし、また、今読み返しては拙い原稿ですので少しだけ引用しながら。

    無着さんがわざわざ選んだ福泉寺は成田空港(当時は新東京国際空港という呼び方が一般的で記事にもそう書いてあります)のすぐ近く。このころはまだ、開港時のいきさつから空港への反対運動が続いていました。記事にはこうあります。

    「周辺には「上空を飛ぶ飛行機の音で雲の様子が分かり、それで天気を占う」人たちが暮らしている。檀家の中には空港の拡張工事で自分の土地を手放したものかどうか悩む人もいる」

    「あえて檀家が数十戸の寺を選んだ。「大きな寺は葬式と法事で毎日が過ぎていく」からで、各地から子供たちが寺を訪れ「無着先生」の話を聞き、座禅を組んで帰っていく」

    さらっと書いてしまっているのですが、今思うと、成田空港のことを無着さんはどう考えていたのでしょうか、それがこのお寺を選んだこととどう関係するのか、そういう生々しい取材趣旨ではなかったと言ってしまえばそれまでですが、取材したこちらの問題意識が足りなかったですかね。

    「へーっ」と思い、記事にした後もずっと忘れられないことがあります。山形県は県内の水がすべて最上川に集まると無着さんが話したことです。

    もちろん最上川には支流はあるのですが、山形県域に降った雨はすべてが最終的には最上川に集まる、という言い方がわかりやすいかもしれません。一つの川が地域の生活のあり方や文化を、さらには県民性みたいなものまで形つくっていくということを無着さんは言いたかったのだろうと理解しました。そう「母なる川」みたいな。そういう視点もあるのだ、ということが新鮮でした。

    後年、その最上川を船で川下りしたこともあり、山形県に行くたびにこの話を思い出します。

    「(山形の)人々は山の向こうには何があるのだろうと思いながら暮らしてきた、という。それに比べて千葉は、海と二つの大河による県境に囲まれ、一年中青野菜がある」

    山形の人に叱られてしまいそうですね。念のためですが「二つの大河」は利根川と江戸川です。めぐりあわせでしょうか、この後その千葉で3年間仕事をすることになります。

    つけたしで

    無着さんはお寺の生まれ、珍しい姓ですよね。そういえばと突然思い出しました。奈良・興福寺にある鎌倉時代の仏師・運慶の最高傑作の一つとされる「無著像」。インドで仏教教学を学び広めた兄弟の一人とされる彫刻(仏像)で国宝に指定され、日本史資料集などで目にしたこともあると思います(兄弟のもう一人は「世親像」)。年に何回か特別公開されるたびにお参りにいくようにしているのですが、都度その何とも言えない表情に心うたれます。

    その「むちゃく」だ、ここに縁がある姓に違いないと嬉しくなったものの、よく確認したら、無着さんは「着」の字で「ちゃく」、興福寺は「無著」、「著」で「じゃく」(濁点がついている)、うーん、早とちりか、いやいや、仏教つながり、きっと何らかの理由があるに違いないと勝手に考えています。

    奈良・興福寺のホームページで「無著像」が紹介されています。こちらから

  • 2023.12.15

    家康話も大団円 ④

    豊臣秀吉、徳川家康は死後、名前はそれぞれながら「神」とされたわけですが、神となった武士は他にもけっこういるのです。

    『神になった武士 平将門から西郷隆盛まで』(高野信治、吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2022年)

    全国にある神社に祀られている神(祭神)を調べ、その中に武士から神になった例がどのくらいあるかを示します。高野さんは、武士の祭神を見つける、あるいはそれを定義するのはなかなか難しいと言います。

    「神とは死後も記憶され続け、現生の人びとと何らかの交流(その象徴は禍福の招来)をなす存在であり、狭義の神道的な神のみならず、仏教的なホトケや民俗信仰の対象となる存在であることが挙げられる。とくに前近代の神仏習合的な神のあり方から、仏教的祭祀も視野に入れる必要がある。しかし、ここでは、明治初期の神仏分離を前提に、神社などに祀られた祭神を対象とする」

    そのうえで、古代から現代までに神に祀られた武士の総人数は2431人、そのうち、一か所でのみ祭祀されている武士が2112人で「圧倒的に多い」

    「武士として祀られた一番古い人物は、伊勢平氏の祖とされ、甥の平将門に襲撃された平国香(略)、武士とした祀られた最も新しい人物については、西郷隆盛と考えている」

    そして、一番多くの神社で祀られている武士は誰か、はい、徳川家康、神様(祭神)なので「東照大権現」と呼んだほうがいいかしら。祭神数として623件、44都道府県に広がっているそうで、全国至るところに東照大権現を祭神とする神社などがあるということですね。

    すぐに思い浮かぶのは家康が最初に埋葬された静岡・久能山東照宮、日光、東京・上野にも東照宮はありますよね。この東照宮ですが、「将軍や幕府が正式に許可した東照宮は、全体の数からすれば少数」とのことで、「独自の勧請(私勧請)の事例が多い」そう。将軍家との縁戚関係にある大名らが、将軍家・幕府と良好な関係を保つため、というか、幕府にいい顔をみせたいがため、自分の領国内に東照宮をおいた、つまり自分の領国内に「東照大権現」を勧請した、招いて敬ったということですね。

    このように東照宮はたくさんつくられたわけですが、各地でそれぞれ事情が異なること、また上下関係や系列があるわけではないので現在、東照宮がどのくらいあるのか、残っているのかは十分に把握できていないようです。

    群馬県太田市世良田は徳川家発祥の地といわれ、世良田東照宮があります。今夏再訪して宝物館を見学した際、東照宮一覧のような展示がありましたが、この623という数字から思い出すと、ずっと少なかったようです。

    余談ではありますが

    「一番古い平国香を襲撃した平将門」とある平将門ですが十世紀に関東の地で、一族の内紛をきっかけに地方政庁を襲うなどして新皇と名乗った武士です。その将門を祀る神社として有名なのが「神田明神」、意外と知られてないかも。

    この高野さんの著書で紹介されている、家康に次いで祀られている例が多い武士はというと秀吉、織田信長、いやいや、加藤清正だそう。家康に比べると祭神数153件でぐっと少ないですが。ちなみに秀吉(豊国大明神)は36件でランクでは11番目とされています。

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    静岡の久能山東照宮です。門の上部屋根の下にある「扁額」には「東照大権現」と祀られている祭神の名前が記されています(青い部分、小さくてすいません)

    日光・東照宮です

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    今夏、外国人観光客でにぎわっていました。

  • 2023.12.14

    家康話も大団円 ③

    NHK大河ドラマ「どうする家康」で寺島しのぶさんがナレーションをつとめていますが、家康を紹介する時に「われらが神の君」と言っているのが気になってはいました。いかがでしょう。

    その「神の君」「神君」、つまり家康は死後神様になった、神様として崇められたということで、そのように整えられたことは歴史的にまちがってはいないわけです。とはいえ、ドラマのナレーションとして生きている家康をこう呼ぶことはどうかと思ってはいたのですが、17日の最終回のタイトルは「神の君へ」、寺島さんは三代将軍家光の乳母春日局役で出演、幼い家光に祖父家康の生涯を語り聞かせるという場面があるとか。そこでは家康のことを「神の君」とたたえるのでしょうから、ナレーションと一致する、ということのようです。

    それはさておき、そもそも家康を神様として崇めるようになったことについてです。江戸時代、幕府が諸大名さらには農民らを統治するうえで、幕府の創始者・家康を神としてたたえ崇める、ということなわけですが、どういう経緯でそうなったのか。
    少し前の発刊ですが、こんな本があります。

    『神君家康の誕生 東照宮と権現様』(曽根原理、吉川弘文館・歴史文化ライブラリー、2008年)

    日本での「神」と聞くとまず「日本書紀」や「古事記」などに出てくる神を思い浮かべます。

    「神々の優れた働きを認めた日本人であったが、実在の人間を神とみなしたのは、さほど古いことではない」
    「古代から中世にかけては、物語の主人公(最後は神になる浦島太郎など)や、世に恨みを残して死んだ怨霊(菅原道真など)、そして天皇を生きた神とみなす観念を除けば、人間が神になるという概念は皆無に等しかった」

    「日本人の神に対する意識が大きく転換したのは、中世末期から近世初期にかけての時期である。豊臣秀吉を祀った豊国大明神、徳川家康を祀った東照大権現が出現し、その後、各地の藩祖から、特別な活動をした庶民にまで神格化が広がった」

    「神君家康」の登場は、日本の文化史、宗教史の中でも注意を払われる出来事ということになります。

    前述の『新説 徳川家康』(野村玄、光文社新書、2023年)では家康が秀吉の遺言にかなりこだわったことが強調されていると紹介しましたが、この『神君家康の誕生』でも、神になるにあたって家康は秀吉をかなり意識していた、ということが述べられています。

    秀吉の神号、つまり神様としての名前は「豊国大明神」とされました。しかし豊臣家は大阪の陣で滅亡してしまいます。

    「現代の目では、権力者一族の滅亡でしかない。しかし同時代の人々の目には、<秀吉神>の敗北と受け取られたはずである」
    「秀吉の試みは、家康に大きな教訓を残した。強力な守護神となれず、孤立して滅びていく神の姿を、家康は間近に見た。徳川の神は、では、どうすれば子孫を守りきれるだろうか」

    神になることによって、その「力」で子孫が反映することが目的なのに、秀吉神はそれができなかった。ではどうすればいいのかと家康は悩んだはずだ、ということですね。

    「神の子孫とされた天皇は、神号や神階をコントロールする。秀吉神を「豊国大明神」と名付け、「正一位」を与えたのは朝廷であり天皇であった。だが、天皇家の神もその他の神々も、秀吉神を助けなかった。新たな神は、従来の神々を超えた力が必要であることを、家康は意識せざるを得なかっただろう」

    家康が遺言で、遺体の埋葬や葬式の場所などについて指示をしたことはよく知られていて、自らは「八州」(関東地方のことでしょう)の鎮守神になる、と話したとの史料もあるようです。ただ、どういう「神」か、ましてや神の名についてまでは指示していないようです。

    家康の死後、家康側近の僧侶らの間で、神の名として「権現」を使うか「明神」を使うかという論争が起きます。「明神」は秀吉神に使われたことから、「権現」派が「子孫が滅亡した豊国大明神の例を見よ」と言ったとの記録もあるようですが、曽根原さんは俗説にすぎない、秀忠が熟慮を経て決断した、徳川家が信仰する仏教との関係などから「権現」が選ばれたと推測しています。

    秀吉に「学んだ」家康が神号にまで考えが及んでいたのかどうか不明ですが、「<秀吉神>の敗北」ということが「俗説」であったとしても、結果的には、家康の、秀吉と同じようになったら困るという心配は避けられたということになるのかと。

    さて「大権現」にとどまらず「神君」とも呼ばれたことについてです。

    寛永五年(一六二八)の家康十三回忌についての記録に「皇考神君ノ十三周忌」とあり、寛文十年(一六七〇)完成の歴史書『本朝通鑑』でも見られ、五代将軍綱吉の時代に作成された書の中で、家康は「大神君」と記されている、などと紹介されています。

    さらに曽根原さんは
    「「神」はもちろん東照権現という神であり、一方「君」は通常天子を指す。家康を天皇と同格以上とみなしていたことが、呼称からもうかがえるのである」

    としています。
    「神君がナレーションとしてどうなのか」といった個人の感想とかの話ではなく、江戸時代の幕府と朝廷との関係、近世の「王権」について考えるうえでの手掛かりの一つでもあるという視点には、はっとさせられました。

  • 2023.12.12

    家康話も大団円 ②

    関ヶ原合戦を終えて徳川家康は征夷大将軍になったものの、すぐに息子の秀忠に将軍職を譲ります。徳川が着々と力をつけていくのを豊臣秀頼の大阪方は悔しい思いで見ているしかないのですが、一方で、大阪方にとっての「強み」は秀頼が日々成長していくこと、いわば「これから」の人、対して家康は老いていく一方、家康は豊臣と戦うことと同じように「老い」とも戦わなくてはならないわけです。

    将軍職は徳川家が継いでいく、徳川がこの国を治めるという姿勢を見せる一方で、気になるならば豊臣・大阪方をもっと早くに完全に潰すことが可能だったろうに、結果的に大阪の陣は約10年も後になった。幸い家康は長生きをしたからよかったものの、けっこう危うい選択ではなかったか。このあたりは、これまでにも研究者がいろいろと考えてきました。

    豊臣・大阪方もまだまだ力を持っており、正面からぶつかるのにはリスクが大きい、じわじわと力を削いでいけばいいと考えていたというあたりが最大公約数的な見方であり、この徳川・豊臣が並び立つ状態を「二重公儀体制」と呼ぶ研究もあり、共存する体制で構わないと考えた大名が多かった、とうの家康さえそれを許容していたといった見方すらあります。

    『新説 徳川家康 後半生の戦略と決断』(光文社新書、2023年)で著者の野村さんは秀吉死後の家康の行動を縛ったものとして秀吉の遺言を強調します。一般的には、家康は秀吉が死んだあと、その遺言を無視して行動を起こして天下人になったと理解されるのですが、野村さんはこう書きます。

    「家康は年寄衆(前田や毛利、上杉など)・奉行衆(石田三成など)との間での起請文を破ることがあったものの(約束を破ることはあったものの)、秀吉の遺言は忠実に守り、家康にとっての重要な政治的行動の時期は全て秀吉の遺言と照らし合わせて決定されていた。そのような姿勢が諸大名からの信望をつなぎとめ、また決定的な失敗を回避してきた要因であろう」

    では大阪の陣の時期=重要な政治的行動の時期に関する秀吉の遺言は、ということです。

    「生前の秀吉は家康に、秀頼が十五歳から二十歳になるまでの間、天下を治める器量があると見込んだならば、秀頼に天下を返してほしいと述べていた」

    つまり、秀吉の願いは、自分の死後は家康に天下を「預ける」が、いずれは豊臣家に天下を還してほしいということですね。秀頼がリーダーとしてふさわしいかどうかを見て判断してと言っているわけですが、秀吉の本音は言うまでもないでしょう。

    この「十五歳から二十歳になるまでの間」は、数え年・満年齢で計算すると慶長十二年(一六〇七)・慶長十三年(一六〇八)から慶長十七年(一六一二)・慶長十八年(一六一三)。大阪の陣は慶長十九年(一六一四)のことです。

    もちろん、この年限はたまたま偶然かもしれませんが、秀吉恩顧の大名がまだまだ残り力を持っていただけに、その秀吉の遺言を守る家康とい姿勢が重要だったという指摘はなかなか説得力があるとも思いますが、どうでしょう。

    そして迎える「大阪の陣」、追い詰められた秀頼は自害して豊臣家は滅びるわけですが、野村さんは「家康は秀頼の殺害までは考えていなかったようである」と指摘します。

    「家康にとっては秀忠の器量を示す場として大阪の両陣が何としても必要であり、秀頼の敗北が決定的となれば秀頼に対する秀忠の優位は動かず、天下人としての秀忠は安泰となるから、家康は秀頼の殺害までは要さないと判断していたものと思われる」

    秀忠は関ヶ原合戦に間に合わず、武将として戦いで成果をあげたことがない、将軍として諸大名を率いていくにはやはり強い武将という実績が必要と家康は考えた。その実績を残す最後のチャンスが大阪の陣、ということですね。野村さんが「秀吉の器量を示す」というのはこのことでしょう。大阪の陣で豊臣家を滅ぼせば、まずその後、大きな戦いは起きないことが予想されますから(つまり武将としのて強さを見せる機会がない)

    しかし結果は家康の望んだものとは違ったわけで、どうしてそうなったのか。むしろ強硬策を主張したのは息子、二代将軍の秀忠のほうで
    「やはり家康は最後まで秀吉の遺命を気にし、自らは手を下せなかったのではないかと思われてならない」
    従来「非情」とか「冷酷」とか思われがちだった家康だけに、この解釈はどうでしょうか。

    「本書は、いろいろな意味で、従来の徳川家康の評伝と相当異なる内容になっていると思う」
    と書く野村さん。

    家康が好きか嫌いか、「江戸時代」を日本の歴史のなかでどう位置付けるかはいったん置いておき、約二百六十年間もの「平和」な時代の基礎を築いた政治家・家康についての研究は十分に意味のあることは間違いないわけで、今後も新しい家康像が描かれていくのでしょう。

  • 2023.12.11

    家康話も大団円 ①

    今年しつこく取り上げてきたNHK大河ドラマ「どうする家康」も来る17日が最終回。このブログで少し書いた関ヶ原合戦以降、徳川家康が征夷大将軍になり、大阪の陣にいたるまで、つまりドラマの最終盤を迎えるにあたって新しい本はないかと考えていた時、タイトルの副題にひかれて読んでみました。いや、なかなかおもしろかったです。

    『新説 徳川家康 後半生の戦略と決断』(野村玄、光文社新書、2023年)

    そもそも後半生はどこから、ということになるわけですが、幕府を開いてそれを確固としたものにするという家康の仕事から逆算していくと、これはなかなか難しいですよね。やはり、豊臣秀吉の死あたりということでこの著作も始まります。そうなると時間軸としては結構長い(ページ数もなかなかの量です)。加えて、そこにも新しい見方が盛りだくさんで、ちょっとはぶくにはもったいない。ドラマが終わろうとしているのに家康が若返りますがご勘弁を。

    「一次史料」にもとづくことを強調していて、数多くの大名・武将間の書状(手紙)が紹介されます。

    例えば家康率いる軍勢の奥州・会津攻めです。会津にいる上杉景勝に京・大阪に出てくるよう求めたのに言うことを聞かない、ということで兵を進めます。この最中に石田三成がいわば留守となった関西で家康打倒を掲げて挙兵し、結果的に関ヶ原合戦につながることから、家康の会津攻めがどこまで本気だったのか、三成をその気にさせる陽動作戦ではなかったかといった見方もされました。小説だったら知謀家・家康といった設定で、こちらの方がドラマチックですよね。

    野村さんは意外な史実に注目します。家康の会津攻めは源頼朝の行動をなぞったのではないか、というのです。

    この家康の時代から400年以上前になります。平氏を破った後に頼朝はその勢いで奥州(東北地方)に大軍勢を送り込み、平泉の一大勢力藤原氏を滅ぼします。その後に征夷大将軍となり鎌倉幕府を開くということになります。

    家康が鎌倉幕府の公式記録といえる『吾妻鏡』を愛読し、政治を進めるうえで参考にしていたことはよく知られています。東国に勢力を持った源氏の長・頼朝が奥州合戦を経て征夷大将軍になったという流れに家康は自らを重ねた、同じように東国(江戸)を基盤とし、徳川も源氏、奥州会津に位置する上杉を抑えこんで征夷大将軍になる、幕府を開く、家康がこういうプランを思い描いていたというのです。

    どうでしょう、なかなか興味深い見方ではないでしょうか。この後、その会津攻めを取りやめて西に反転するために豊臣系大名を納得させる、あの「小山評定」などのあたりの家康や三成の動きについても考察しているのですが、もう小山評定でもないでの、少し急ぎます。

    関ヶ原合戦そのものについても、家康側(東軍)と三成側(西軍)の主力がぶつかったのはこれまでいわれてきている地名「関ヶ原」だが、西軍の大谷吉継が陣取ったのは少し西よりの史料にも出てくる地名で「山中」といわれる場所、大谷陣の南側松尾山にいた小早川秀秋が山を降りて9月15日の未明、大谷軍とぶつかった、「山中」は主力同士がぶつかった場所(いわゆる関ヶ原)からはかなりの距離があり、家康や三成の本陣からは見通せない場所だった。別の戦いがあった、と言ってもいい。
    その後大谷軍を破った小早川軍が「山中」から「関ヶ原」に移動して同日午前7時ごろから東軍方に合流、大阪方を押し崩す戦況だったとします。「戦いは二段階あった」、そして「関ヶ原・山中の戦いと呼ぶべきだ」と提唱するところは、まさに「新説」です。

    そうなると小早川秀秋が戦いの様子を見ていて結果的に東軍に加わったといった見立てはそもそもありえないことになります。

    「従来の軍記物などに基づいて描かれてきた戦闘の様相とはかなり異なった、徳川方による一気呵成の総掛かり戦であったことがうかがわれよう」

    もちろん他の研究者が賛同するのか反論するのかはわかりませんが、なかなか説得力がありました。とはいえ、ドラマ「どうする家康」での関ヶ原合戦より前にこの本が発刊されていたら(もちろん気づいて読んだらですが)、このブログの関ヶ原のくだりも内容が濃いものになったのにと恨み言も少々。