2023.11.24
「久しぶりの鉄分」などと銘打って、新幹線本から鉄道に関する最近のニュースを絡めていくつかの本を紹介しましたが、アラカルトでもう少し。「こんな本まである」というところを選んではみました。(鉄道関連でいっきに掲載すればよかったのですが、「関ヶ原の戦い」がドラマ放送にあわせて割り込んでしまった形です)
戦前の弾丸列車計画を東海道新幹線のルーツと位置付けて歴史をたどるところは「正攻法」ではありますが、文化の視点という側面から大阪万博やディスカバージャパンなどのイベント、観光キャンペーンとの関係なとに触れる一方、新幹線騒音の公害訴訟など社会問題にも目配りをしています。
書き込みを見ると読んだのは2011年、どんなところにアンダーラインを引いているか確認してみると
「大正年間にかけて広軌改築計画はたびたび持ち上がったものの、狭軌のままで路線網の拡大をはかる政友会系の政権に交代するたびに否定された。政友会は地方有力者の支持拡大のため、幹線の輸送力強化よりもローカル線建設に力を入れていたからである」
おお、「政治と鉄道」「ゲージ(軌間)問題」がここにもでてきています。
「開業からまだ1年経たないこの時期、新幹線は地盤の固まっていない箇所では徐行しており、200キロで走行できる区間は限られていた」(「ひかり」で東京~新大阪間が4時間かかったのはそのため)
へえー、そうだったんだ、といった感じですが、意地悪く言うと、そんな「危ない」状態で開業してよかったのかと。やっぱり東京オリンピック(1964年)に間に合わせるのが第一だったのでしょうね。
「東海道新幹線の工事費が1キロあたり7億円強で済んだのに対し、上越新幹線は1キロあたり60億円(総工費1兆7000億円)と、石油危機によるインフレを経て2・4倍になった卸売物価を計算に入れても3倍以上となっていた」
正直、読んで強い印象が残ったような記憶はないのですが、いまざっと目次などを確認すると、押さえるべきところはきちんと押さえていますね。
そう、初めての新幹線、東海道新幹線は「夢の超特急」などと呼ばれたんですよね。その新幹線の技術面を担った人物にスポットをあてます。戦争中の軍隊の技術者が貢献したことはよく知られています。
2冊並べてみて筆者は同じ、出版元も文藝春秋社、タイトルもなんとなく似ている、いやな予感・・・改めて文庫本を確認したら、この『超高速に挑む』を改題、加筆した、とありました。また、やってしまいましたね。
島秀雄は、『超高速に挑む』でも当然取り上げられている、新幹線を語るうえで、いや国鉄の歴史を語るうえでも欠かせない人物であることは、「鉄ちゃん」なら知っていてあたりまえ、という方です。
国鉄のエンジニアとして蒸気機関車の設計から湘南電車、ビジネス特急こだま、新幹線列車の誕生にかかわり、国鉄を辞めた後は宇宙開発事業団(NASDA)の初代理事長としてロケット開発にも携わりました。
2023.11.23
アメリカにパンダが初めて贈られた時の中国は「中華民国」、第二次大戦を経て、国のありかたや外国との付き合い方については全く異なる中華人民共和国が成立しても「パンダ外交」は引き継がれ、さらには拡大していきます。日本に初めてパンダがやってくるのは1972年、カンカン、ランランと名付けられたつがいでした。この年に「日中国交正常化」がなった、その友好のシンボルとしてのパンダでした。
『中国パンダ外交史』(家永真幸、講談社選書メチエ、2022年)には興味深い話が続きます。
カンカン、ランランの「来日」で日本でも大ブームが起きるのですが、これ以前から、中国に対してパンダをいただけないかという要請が伝えられていた。ところが、国交正常化に慎重だった首相がいる限りは出さない、というのが中国の答えだったそうです。これまた「へーっ」ですね。
パンダがやってきて大ブームになったのは確かなのですが、その土壌がすでに日本国内にあった、それを中国はよく見ていた、そして、首相が代わり、国交正常化を受けてパンダが日本に贈られたわけです。まさに「パンダ外交」ですね。
さて、中国の習近平国家主席がアメリカでパンダについて発言した記事に「パンダの新たな貸与」との文言があり、家永さんの著作の引用にも「繁殖協力のための協定」とか「返還」とかの文言があります。
野生のパンダは中国のごく一部地域でのみ生息しています。その可愛さが人気であるのはもちろんながら、希少価値が「外交」につながるわけです。しかし、中国でも生息数は限られており、野生動物保護のための国際条約(いわゆるワシントン条約)でジャイアントパンダは「絶滅のおそれのある種」に指定され、国際取引が激しく規制されるようになったので、中国政府も外国へのパンダ贈呈ができなくなります。
そこで考え出されたのが、パンダの「貸与」でした。レンタルですね。引用します。
「入手困難となったパンダをワシントン条約に抵触しない形で中国国外に連れだすために編み出されたのが、いわば「お金を払ってパンダを借りる」方法だった。研究の名目でパンダを三~六ヵ月程度の短期間借り受ける代わりに、借り主は中国側にパンダの保全研究活動に必要な金銭・技術・施設設備など、各方面で援助する」
とはいえ、ちょっと無理があるように感じられますよね。やはり野生動物保護団体から強い反対を受けたとのこと。そこで別の考え方が出てくるのです。
「ブリーディング・ローン(繁殖貸与)」制度である。この制度の趣旨は野生動物の捕獲は最小限に留め、動物園間での動物の貸し借りにより繁殖を行って、将来的に持続可能な飼育展示を実現することだ」
そして、10年程度の長期貸与が「パンダの繁殖生理の解明や実際の繁殖に有効」という研究者の意見が大勢となり、贈与でなく貸与が主流になっていきます。
「パンダを借り受ける際に借り主が中国側に支払うのは、年間一〇〇万ドル程度(日本円で一億円前後)が通例となった」
「中国にしてみればパンダ・レンタルは、安定的に巨額の外貨をもたらすビジネスになった。(略)レンタル方式による中国の新たなパンダ外交は、ビジネスであると同時に外交政策でもあるという、ハイブリッドな性質を獲得したといえるだろう」
この結果、先に紹介したように現在、中国国外で飼育されているパンダの総数は60頭ほどになっているわけです。日本は多い方ではないでしょうか。
レンタル方式に変わっても中国国外にパンダを出すこと、どの国に出すかは中国政府のさじ加減次第、そこが「パンダ外交」ともいわゆるゆえんで、そのやりかたへの心理的抵抗を持つ人もいるでしょう。しかし、家永さんはきちんとおさえています。
「「パンダ外交」が中国の巧妙な罠であるかのように紹介されることがある。しかし、本書がこれまで見てきたとおり、パンダ外交はそもそも、外国がそれを熱心に欲しがったからこそ生まれた中国の外交戦術である」
「筆者の見た限りでは、これまでパンダが中国の「外交カード」として大きな役割を果たした形跡はない。中国と外交交渉を行うどの国も、パンダ欲しさにその他の国益を譲歩するほど純朴ではない」
そして以下のようにまとめます。
「かつての中国のパンダ外交は、国際社会からの要求をその時々の対外宣伝戦術に巧みに応用した、ある意味で受動的な産物であった」
「近年の動向からは、より能動的にパンダ外交を展開していこうという中国政府や企業の意欲が見てとれる。パンダ外交は、中国政府自身がパンダの「ありがたみ」を積極的に肯定・発信し、それを外交戦略上重要な国々との関係強化に利用していくという、また新たな局面に入りつつある」
アメリカでの習近平国家主席の発言には、この「外交戦略上重要な国々との関係強化に利用」するというねらいが込められているのかどうか。政府与党である公明党・山口那津男代表のパンダ貸与の要請に中国政府がどう応えるのか、朝日新聞の23日付朝刊によると、山口代表と会談した中国共産党の幹部は前向きに検討する意向を示したそうです。どう具体化するのか注目です。
東京・上野動物園の「ジャイアントパンダ情報サイト」 こちらから
和歌山アドベンチャーワールドのパンダについてはこちらを
2023.11.22
先日アメリカ・サンフランシスコで開かれたAPEC首脳会談関連のニュースの中で、思わずニンマリとする記事がありました。バイデン米大統領と習近平中国国家主席との会談などが大きく報じられる中だったので、気づかなかった方も多いかと。
習近平氏、米国との「パンダ外交」継続の意向 「友好の使者」
中国の習近平国家主席は15日、訪問先の米西部カリフォルニア州サンフランシスコで出席した夕食会のスピーチで「中国はジャイアントパンダの保護に関する米国との協力を継続する用意がある」と述べた。AP通信が報じた。米国では近年、パンダの新たな貸与がないまま中国への返還が相次いでおり、米国の動物園からパンダがいなくなる可能性が指摘されていた。習氏は米中友好の印として「パンダ外交」を継続する意向を示した形だ。
習氏は15日にバイデン米大統領と会談し、国防当局間の対話を再開させるなど、両国関係を安定化させることで一致している。AP通信によると、習氏はパンダを「中米両国民の友好の使者」と表現。「カリフォルニアの人々の期待に応え、友好関係を深めるために最善を尽くす」と述べた。中国が米国に新しいパンダを貸与することを示唆したものとみられている。
記事を読んだ後、「積読」の山の中からうまい具合にこの本が見つかりました。
こういう本があるんですよ。タイトルにひかれて購入したままでした。筆者の家永さんは東京女子大学の准教授。これに先立っての本格的な研究書『国宝の政治史 「中国」の故宮とパンダ』(東京大学出版会、2017年)もあることを知り購入しましたが(これから読みます)、この講談社の「メチエ」シリーズはけっこう硬派、重いテーマも一般向けにわかりやすく書かれているものが多く、この『パンダ』も知らなかったことが満載、勉強になりました。例えば
「二〇二二年四月現在、中国は一八ヵ国二二の動物園と繁殖協力のための協定を結び、パンダのペアを貸し出している。(略)中国国外で飼育されているパンダの総数は、出産や返還により増減するが、概ね六〇頭ほどになる」
「外交史」なので、野生種が中国でしか生息しないパンダ(ジャイアントパンダ)が世界に知られるようになったきっかけから始まります。生きたままのパンダが初めて中国国外に出たのが第二次大戦前の1938年、行先はアメリカだったとのこと。知りませんでした。そしてアメリカで「パンダブーム」が起きたのだそう。
それを受けて中国はパンダの「価値」に気づき、その「利用」を考えるようになる、それを「パンダ外交」と称するわけです。
日本でパンダといえば、トットちゃん、黒柳徹子さん抜きにには語れませんよね。
「彼女は一九七二年のパンダ・ブーム以前から各種メディアでこの動物を紹介し、パンダの知名度向上に貢献してきた」
黒柳さんは、小学校低学年のときカメラマンの叔父がアメリカからパンダのぬいぐるみをお土産に買って帰ったのがパンダとの最初の出会いだったと回想しているそうで、家永さんは、このぬいぐるみは、このアメリカでのパンダブームの最中に製造されたものと考えて間違いない、と推測しています。
「つまり、黒柳は戦前からのパンダ・ファンであるだけでなく、世界初のパンダ・ブームに巻き込まれた一人なのだ。パンダをめぐる歴史の生き証人といえよう」
ここまで書いていたら今日22日(水)の朝日新聞朝刊にびっくりする記事が載っていました。
同日から中国を訪問する公明党の山口那津男代表が、中国政府に対して新たなジャイアントパンダの貸与を要請するのだそうです。パンダを借りたいという声が各地から上がっていて、実現できるようにお願いしてくる、との談話も載っています。
2023.11.21
関ヶ原合戦での「問い鉄砲」の有無はおいておくとして、小早川秀秋はどうして東軍についたのか、これは知りたいところではありますが、秀秋の心の内がわからない以上、永遠の謎といってもいいのでしょう。合戦が具体的にどのように行われたのかは、関ヶ原合戦に限らず、信ぴょう性の高い史料が残らないという点では宿命的であり、限界があります。
笠谷和比古さんも書いているように、豊臣政権から徳川政権に移っていく中でこの関ヶ原合戦をどう位置付けるかという視点・分析が何より重要だということは忘れないようにしたいですね。東軍vs西軍、勝った方が天下を取るといった構図はゲームのようにわかりやすく、受け入れられやすいだけに、心したいところ。
そういった点で気になったのは大河ドラマ「どうする家康」で戦いに勝った徳川方の武将たちが「これで天下をとった」的な物言いをしていたことです。敗れたのは石田三成とその仲間たち、豊臣秀頼は大阪城で健在です。20日の放送では家康が関ヶ原は終わっていない、豊臣系の大名たちの内輪もめだ、といった趣旨の発言で臣下をたしなめるシーンはありましたが。
もちろんこの3年後に家康は征夷大将軍になり、いわゆる江戸幕府を開くので、関ヶ原合戦が大きな転機となったことは間違いないのですが、江戸幕府ができた以降も豊臣の威光はなかなか衰えず、江戸幕府と大阪の政権が両立する「二重公儀体制」といった説を提唱する研究者もいるくらいです。
だからこそ家康は関ヶ原で東軍として戦った豊臣恩顧の大名の力を少しずつ削いでいき、ついには大阪の陣で豊臣体制を完全につぶすわけです。天下はもう少し先、大河ドラマももう少し続きます。
関ヶ原の戦いをまったく異なった角度から分析した興味深い本もあります。
「関ヶ原の戦い(2)小山評定はあったのか②」でも少しとりあげた本ですが、「決算書」とあるように、戦いにどのくらいの費用がかかったのか、勝敗によって勝者がどのくらいの利を得たのか、敗者はどれだけのものを失ったのかをまとめています。
もちろん通貨で経済が動く時代ではないので、必要とされた米、その価格などで考えていくことになります。当時の史料から兵士1人あたり1日5合の米が必要だったと割り出し、東軍、西軍が動いたほぼ3か月間で動員された兵士の数をかけていくと両軍で50億円以上の兵糧米が消費された、としています。
戦いの後、勝った東軍の豊臣恩顧の大名ともとからの徳川の家臣たちは新しい領地を与えられさらに加増(収入が増える)されます。その原資は敗れた西軍の大名諸将から取り上げた土地です。
「その時代の日本全体での武士の年収が一八五〇万石、七四〇〇億円ほどだと考えると、そのうち三六・二%、二六八五億二四〇〇万円が敗者から勝者に移動したわけである。関ヶ原合戦が、敗者と勝者のその後の運命にあまりに大きな影響を及ぼしたことは火を見るよりも明らかだろう」
さてその「決戦」があった関ケ原ですが、最近のドラマ関連の番組などで古戦場を紹介する際に「岐阜関ケ原古戦場記念館」という立派な施設が出てきます。「えっ、そんな施設ができたんだ」というのが率直な感想でした。
私が関ヶ原を訪れたのは2012年、簡素な資料館があるぐらいで、そこで地図などをいただき、石田三成はじめ島津、小西、大谷勢の陣跡などをのんびりと歩いて回りました。途中すれ違った小学生たぢが「こんにちは」と見知らぬおじさんに笑顔で挨拶してくれたのがなんとも嬉しかったことを今でもよく覚えています。
記念館は2020年オープン、ウエブサイトを見るとなかなか充実しているようで、改めて訪れれば新しい発見もあるでしょうが、なかなか。迷いながら歩いたから見えたものもあったはず、と自分に言い訳しておきます。
岐阜関ケ原古戦場記念館の公式ホームページはこちらから
2023.11.20
関ヶ原合戦で徳川家康率いる東軍側が、小早川秀秋の参戦を促すために小早川陣営にあえて銃撃したという「問い鉄砲」ですが、事実ではないという見解が学界では受け入れられつつあると渡邊大門さんは書いています。では関ヶ原研究をリードしてきた笠谷和比古さんはどうでしょう。
まず『関ヶ原合戦』です。
「ついに家康は意を決して、小早川隊に向けて誘導の銃(「問い鉄砲」)を放たせた。この無謀とも見える策は、しかしながらみごとに奏功し、若い秀秋は動転して老臣らの言に耳を傾けるいとまもなく全軍に叛撃を指令した」
特に史料についての注釈はありません。結構はっきりと「問い鉄砲」を肯定しています。
その後に刊行された『論争』ではどうか。
「小早川隊が逡巡して動かなかったことは、徳川系の史料だけでなく、小早川の裏切りの仲介をした黒田長政の黒田家の『黒田家譜』にも明記されている」
小早川軍は開戦直後から東軍側で戦ったわけではないという前提で、小早川軍側で鉄砲の射撃音のようなものが聞こえたため、それを確かめようとした小早川軍の使いに徳川方の武士が「誤射」だったと説明した、という話が載っている物語を紹介し、こちらの方が当時の状況にあっているという「心証を得る」としたうえで、
「そのような誤射の体裁を装うという抑制された形での警告射撃であったのだけれど、後世、家康側からの警告射撃に促されて秀秋が進撃したという話が独り歩きすることによって、家康の鉄砲部隊が松尾山山頂めがけて一斉発砲(いわゆる、つるべ撃ち)したという華々しい話への肥大化していったものであろう」
いかがでしょう。少し自説を修正しているようにも読めますが。
秀秋が「家康が怒っている」と怖くなったので事前の約束通り東軍に加わることにしたという説明なのでしょうか、それにしても東軍が勝つという見極めがあってのことでしょう。東軍が負けるなら家康が怒っていようがいまいが関係ないわけですから。
一方で「この無謀とも見える策は、しかしながらみごとに奏功」と笠谷さんが書くように、家康にとっての「問い鉄砲」はかなり危険な「賭け」ですよね、怒った小早川が西軍についてしまうことだって想定されるわけですから。家康がそんな危ないことをするかという疑問もあります。
豊臣家の人間である秀秋がなぜ東軍についたのか、それはどの時点か、ということが関ヶ原合戦の全体像を考えるうえではより重要です。秀秋の東軍参加は、笠谷さんが指摘する「合戦は豊臣政権の内部分裂の所産」の象徴的な例になるし、そのように持っていった徳川側の「政治力」のたまものではないか。
小早川がどちらにつくかわからないままの危ない状態で家康が勝負をかけたのかどうかという論点もありますね。そのあたりを考え出すと、そもそも徳川軍の主力であった秀忠率いる本隊が関ヶ原に到着しないうちに豊臣恩顧の大名武将を主戦力として戦わざるを得なかった、ある意味アクシデントといってもいいような戦いだったので、徳川と小早川とが事前にある程度の話はしていたものの家康が100%小早川を信頼していたかはそれはあやしいですよね。
桐野さんはこう書いています。
決戦が始まってから秀秋が逡巡していたのは西軍と東軍のどちらにつくか迷っていたからというのが従来の通説だった。だがむしろ、本来は東軍についていたはずなのに、関白職という恩賞をぶら下げられて、秀秋に一瞬の迷いが生じた。つまり、東軍から日和見にぶれたとみるべきではなかろうか。秀秋の一時的なぶれがほどなく旧態に戻ったとき、小早川勢は松尾山を下ったのである」
2023.11.18
NHK大河ドラマ「どうする家康」の12日放送第43話、タイトルはまさに「関ヶ原の戦い」、合戦シーンはそれなりにありましたが、比較的淡々と描き、むしろ敗れてのちに捕まった石田三成と家康が対面する場面がクライマックスのようだったこと、西軍の総大将なのに大阪城を出なかった毛利輝元に対して、秀頼生母の淀殿が敗戦をなじって叩いてしまったのにも、驚きました。(合戦後の幕府誕生が明日19日の放送のようなので急ぎます)
さて「関ヶ原の戦い ①」で紹介して論点のうち「合戦は早期に終結したのか、問い鉄砲はなかったのか」に注目して12日の放送を見ました。合戦にどのくらいの時間がかかったのか(戦いは何時ごろに終わったのか)は放送でははっきりとしませんでしたが、家康は合戦の当初は後方にいて戦いの推移をみて中央部に進み出たという、あまり意見の相違のないとことはきちんと描かれていました。いすれにしても、この合戦の時間、問い鉄砲についての論点は、小早川秀秋がどう動いたかがカギとなります。
秀秋は結局は徳川方、東軍として戦い、勝敗の行方を大きく左右したとされてきました。ただ、いつ東軍に協力することを決めたのか、少し離れた山の上に陣を敷き、東軍西軍どちらが有利かを見極めたうえでどちらにつくかを決めた「日和見」、優柔不断な武将、秀吉の親族なので西軍につくのが当然ながら東軍についたのだから裏切りとか、散々に言われてきました。
白峰旬さんは『関ヶ原合戦の真実』で「小早川秀秋が裏切ったのは開戦と同時だった―――当日午前中は傍観していたというのは間違い」と断言します。
「通説では当日の正午頃まで秀秋は去就をあきらかにしておらず、石田三成方を裏切って大谷吉継隊を攻撃したのは正午頃としているが、これは同時代の一次史料では全く確認できず、一次史料による根拠がある話ではない。よって、この点については、軍記物などによって後世につくられたフィクションであると考えられる」
として、開戦と同時に小早川秀秋などが裏切ったために敵(西軍)は敗軍になったと書かれている書状を紹介しています。
さて「問い鉄砲」です。関ヶ原合戦を伝えるなかで「小山評定」と並んでドラマチックなエピソードとして伝えられてきました。東西両軍の衝突が膠着状態になり、東軍に味方すると事前に約束していた小早川軍がいっこうに動かない、これにいら立った家康が小早川軍に向けて鉄砲を撃たせた。これにあわてふためいて動転した小早川軍が山を降り、東軍として戦いに加わったというストーリーです。
これだけ聞くと、小早川秀秋はトホホの人、なんとも情けない人のようにとらえられてしまい、かなり気の毒ですよね。いずれにしても「問い鉄砲」は、秀秋はしばらく様子見をしてから東軍に加わることを決めた、あるいは東軍に味方すると約束しながらなかなか実行できなかった人、という見方が前提になっているエピソードです。
ドラマ「どうする家康」では小早川陣営に向かって鉄砲と撃つという「問い鉄砲」はありませんでした。家康本人・本陣が後方から戦いの中心部に進み出てきたのを知った小早川秀秋が自らの決断で西軍の大谷軍を攻める指示を出したように描かれていました。「どうする家康」での小早川秀秋は結構凛々しい若者として描かれていたので、決断できないトホホの人では整合性がとれないということだったのかもしれません。
「問い鉄砲」についても白峰さんは明確です。開戦と同時に東軍として戦ったのだから問い鉄砲はありえないという話ではあるのですが、やはり一次史料について言及します。
「この「問鉄砲」(表記のままです)の話は、関ヶ原合戦当日の状況を伝える同時代の一次史料には記載がなく、後世の編纂史料にしか記載が見られないという点のほか、「問鉄砲」の話の内容自体にいろいろなバリエーションがあり、話の内容が一定していない」
「江戸時代前期に成立した編纂史料には「問鉄砲」に関する記載がなく、江戸時代中期~幕末にかけて成立した編纂史料に「問鉄砲」に関する記載が見られることがわかる。このことは「問鉄砲」の話が江戸時代中期に創作されたものであることを強く示唆している」
渡邊大門さんは『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』で以下のように「判定」しています。
「(問鉄砲については)一次史料には、明確な記述はない。しかしこのエピソードは脈々と受け継がれ、今や関ヶ原合戦に関する小説、テレビドラマなどではすっかりおなじみのシーンとされる一つである」
「ところが近年になって、白峰旬氏が「問鉄砲はなかった」ことを証明し、学界にも広く受け入れられつつある(白峰:二〇一四)」
2023.11.17
笠谷和比古さんが『論争 関ヶ原合戦』(新潮選書、2022年)で「小山評定」を描かなかった例としてあげた映画『関ヶ原』は2017年制作公開。司馬遼太郎原作『関ヶ原』の映画化作品です。司馬の原作をチェックしました。
確認した文庫本は1980年発行の15刷、作品そのものは1964年~66年に週刊誌で連載されています。「小山評定」のくだりは文庫本中巻、ちょうど真ん中あたりに出てきます。
「すべては、あすである。あす、豊臣家の諸大名がことごとく参集したうえで西上の意見を盛り上げるべきであった。それには、工作が要る。」
「家康は、あす、この小山でひらかれる諸侯会議こそ徳川家盛衰のわかれみちであるとみていた」
そして家康は近臣を呼び、会議で自らがまず発言するが、その後に最初に声をあげる役目が大事だと説き、福島正則の名前をあげます。そして黒田長政が福島正則を口説くことになり、黒田が福島を説得するやりとりや当日の「評定」の様子を細かく描いています。
文庫本でも3巻になるほどの大作ですから、原作をすべて映像化できるわけではありません。映画のシナリオつくりの段階で、この「小山評定」をめぐる論争をどの程度考慮したかはわかりません。劇場でこの映画見ているのですが、恥ずかしながらこの「小山評定」が描かれていたかどうかは覚えていません。
ちなみにこの映画での石田三成役は岡田准一さん、NHKの「どうする家康」では織田信長役でしたね。
この後の関ヶ原の地での「決戦」に比べると、小山でのできごとにさほどこだわる必要はないのではとの指摘も受けそうですが、関ヶ原合戦の全体像をつかむうえで、小山でのできごとは結構重要な位置づけだと思います。
関ヶ原合戦というと徳川勢と豊臣勢が正面からぶつかり、どちらが天下をとるかという意味合いで「天下分け目の合戦」などと呼ばれてきたわけです。しかし、大河ドラマもきちんとおさえていましたが、徳川勢といってもかなりの部分がいわゆる「豊臣恩顧」の大名諸将です。豊臣秀吉に育てられ秀吉のために戦ってきた武将たち、そんな武将たちが、「豊臣」相手で戦うでしょうか、秀吉はもういないにしても子の秀頼がいるわけです。
家康としては相手は豊臣でなく、毛利であり、石田でなければならない、秀頼が戦場に出てきてもらったら困る、そういう悩みを抱えながら、上杉攻めをやめて西に向かおうとする、そのターニングポイントが小山なわけです。ここで失敗したら、徳川もけっこう危ない。だからこそ、この小山をうまく乗り切った、「さすが家康」ということで、後の世にドラマチックな「物語」がつくられたのでしょう。
このあたりについて笠谷さんは『論争 関ヶ原合戦』で以下のように書いています。
「従来の関ヶ原論は、それを豊臣政権から徳川政権への転換をもたらした事件として捉え、同合戦における東軍の勝利を以て家康の覇権の確立と、その後二六〇年余にわたる徳川政権の盤石の基を築いた画期として理解してきた」
「これに対して筆者(笠谷)は(略)同合戦において最も多くの果実を得たのは徳川勢ではなく、家康に同盟して東軍として戦った豊臣系武将たちであった事実を踏まえて、同合戦はむしろ豊臣政権の内部分裂の所産であり、それに家康の天下取りの野望が複合したものとして位置づけるべきものであるとした」
また、『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』(PHP新書、2019年)で渡邊大門さんは今後の関ヶ原合戦の研究の方向性に言及しています。
「関ヶ原合戦については、当日の戦いの重要性もさることながら、今後は豊臣政権の問題として捉え、政治過程および諸大名の動向を精緻に探ることが、問題の本質に迫るカギになると思われる」
2023.11.16
「関ヶ原合戦」前夜の名場面として描かれてきた「小山評定」はなかったとする白峰旬さん。『新解釈 関ヶ原合戦の真実』(宮帯出版社、2014年))では以下のように書いています。
「小山評定は非常に有名な場面であり、これまで関ヶ原合戦の歴史ドラマでは一番の見せ場としてくりかえし放映されてきた。(略)ところが、江戸時代の軍記物など後世の編纂資料で、小山評定がまるで見てきたかのように雄弁に記述されているのに対して、同時代の一次史料では、小山評定について直接言及したものは皆無なのである
ここでいう一次史料は書状(手紙)と考えていいでしょう。そして、これまでの通説で取り上げられている書状は評定があったことに直接触れているわけではなく、その前後の動きを記しているだけなので
「小山評定の実存性を明確に立証する一次史料が発見されていない現段階では、いわゆる小山評定は江戸時代の軍記物やその他の編纂資料が作り出した想像の産物」
とバッサリです。
これに対して近年の関ヶ原合戦研究の第一人者と言っていいでしょう、笠谷和比古さんの見方はどうなのか。「小山評定はあったのか①」で紹介した雑誌でも笠谷さんは小山評定について書いているのですが、ここではご自身の著作から。
学術文庫版は2015年発刊の第6刷を2016年に読んでいる私自身の記録があり、もちろん小山評定についても書かれているのですが、より近著から引きます。
「論争」とあるように、笠谷さんの説への反論をとりあげ、自身で再反論している内容になっているので、こちらの方が「小山評定はなかった」説と比べた時に整理ができているように思います。
小山の評定については、近年、その存在を疑う議論が広く行われたために、関ヶ原関係の歴史叙述においても、また歴史ドラマ(先年制作された東宝映画『関ヶ原』など)においても小山の評定の描写を避ける傾向が見られるが、これは重大な誤りであり、小山の評定は紛れもなく実在の事件である。その根拠は以下の通り。
として3通の書状(手紙)を紹介しています。この書状のうち1通は白峰さんが触れていない書状で、この書状が論文で発表された時期は白峰本の発刊時と微妙なタイミングなので、白峰さんがいうところの「新たな一次史料」にあたるのかどうかはわかりません。ただ、その書状の内容は小山で何らかの相談があったことを示しているだけで、評定という言葉はもちろん使われていませんし、ましてや福島正則の発言は確かめようもありません。
笠谷さんは
浅野幸長ら武将たちが小山に参集して家康と共に作戦会議を催していたこと、会津攻めを暫時停止して、三成方西軍との対決を優先して、駿河国から西に領地を有する豊臣系武将たちが反転西上していったことなどが事実であったことが確認される
と「小山評定」という言葉は使わず、何らかの集まりはあったのだろうとしています。
このお二人の見方の違いについては山本博文さんが以下のようにまとめています。
「小山評定」については真偽が疑われている(白峰旬『関ヶ原合戦の真実』)。しかし、会津攻めは豊臣「公儀」の軍事行動であるから合議の必要はないが、家康が三成の挙兵に対して新しい方針を出す場合、諸部署の了解を取り付ける必要があったから、こうした会議が開かれた蓋然性は高い(笠谷和比古『徳川家康』)
お二人を含めて関ヶ原合戦についての研究史はこちらがわかりやすいかと。
「(戦後になって)本格的に関ヶ原合戦を研究として取り上げたのは、笠谷和比古氏である。(略)これまでは合戦のにみ目が向けられがちだったが、笠谷氏の研究により関ヶ原合戦が政治的な問題として分析されるようになった」
「さらに、白峰旬氏の『新「関ヶ原合戦」論 定説を覆す史上最大の戦いの真実』(二〇一一)、「『関ケ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』(二〇一四)が刊行され、これまでの二次史料に基づいた誤りが正されるようになった。白峰氏は現在も、関ケ原に関する学術論文を次々と公表している」
どちらをとるのか、なかなか悩ましいところではありますね。ただ、私自身は白峰さんの本を読んだ時に結構驚き、感心したこともあったので、大河ドラマを見ていて「へーっ、描くんだ、思い切ったな」という感想は持ちました。その点NHKは、笠谷さんのいうところの、「最近の歴史ドラマは小山の描写を避ける傾向」に従わなかったわけですね。
2023.11.15
NHKの大河ドラマ「どうする家康」をまたとりあげます。「しつこい」と叱られそうですが、いよいよ終盤というか、ようやくというか「関ヶ原合戦」、5日は「天下分け目」、12日は「関ヶ原の戦い」のタイトルで、戦い前夜から戦い当日、戦後処理までを描きました。ドラマのクライマックスとも言える「関ケ原」、合戦そのものの勝敗ははっきりとしていて、また、これによって家康が天下人となったと説明されるのでよく知られているわけですが、近年、新説も出てきて、なかなかにぎやかです。
「石田襲撃事件」
「直江状は偽書なのか」
「小山の評定はなかったのか」
「関ケ原が決戦場となった理由は? 本当の決戦地は」
「合戦は早期に終結したのか、問い鉄砲はなかったのか」
このうち、朝鮮半島から戻ってきた大名武将たちが石田三成を恨み、京都・伏見の三成屋敷を襲撃したものの、家康の取りなしで戦いにならないですんだ「石田襲撃事件」、上杉景勝の腹心、直江兼続が家康に送った書状(手紙)いわゆる「直江状」については大河ドラマで描かれていましたが、このあたりこだわっているとなかなか先に進みません。
「小山の評定」は5日放送のハイライトでした。会津(福島県)の上杉を討つために徳川勢が下野(しもつけ、今の栃木県)まで進んだところで、石田三成が近畿地方で挙兵したとの報告が届き、「さあどうする」。家康に従ってきた大名諸将の多くが豊臣家に恩顧のある(秀吉に見いだされ取り立てられて出世した)武将たちだったので、家康は「自分に従わず、ここから離れて(三成側について)も構わない」と太っ腹なところを見せるわけです。
その大名諸将を集めたとされる場所が下野・小山の地、「評定」は一般的には戦略などを議論することで、このまま会津・上杉に向かうか軍勢を返して西に向かい三成と戦うかを決める場、ということで「評定」と言われてきました。
小説では、事前に豊臣恩顧の有力大名、福島正則を引き込んで真っ先に声をあげるよう根回しをしておいた、その通りに福島正則が「家康に味方する」と声をあげ、賛同意見が相次ぎ、流れができてしまう、といったパターンが多いようです。
これは小説、ドラマに限らず、関ケ原に関する本でも同じような傾向にあります。例えば
「家康は、二十五日に従軍してきた諸将を集めて、下野小山城(栃木県小山市)で急きょ評定を開き、諸将の旗印を鮮明にさせる作戦に出た」
「家康の巧妙さは、正則を説得する役を同じ豊臣系大名である黒田長政に依頼したことである」
「小山評定は案の定、最初は誰も重い口を開こうとはしなかった。やがて福島正則が立って、「秀頼様のためには、三成を討つことこそ肝要である。そのために今回は是非家康公にお味方したい」と言った」
このくだりについて、どのような史料によるのかの記述はありません。
もう一冊。
「家康の着陣とともに、宇都宮に在陣していた秀忠はじめ諸将も小山にきて、軍評定が開かれた。これが有名な小山評定である」
「小山評定が開かれた日にちについては、二十四日と二十五日の二説がある。(略)最近では二十五日説が採られているようだ(『新訂 徳川家康文書の研究』中巻ほか)
大河ドラマではまず家康が力強く語って諸大名が感銘を受けたかのように描かれていました。そして福島正則が力強く発言していました。
これに対して「そもそも小山評定はなかった」という新説が出されました。
白峰さんの指摘は多岐に渡るのですが、小山評定については
小山評定の内容は非常に感動的なストーリーであり、関ケ原合戦に至る経過の中で最もよく知られた名場面として知られている。関ケ原合戦の歴史ドラマでは、静まり返った評定の場で、福島正則が家康に味方することを大見えをきって真っ先に発言するくだりでは、視聴者の感動を呼び起こす一つのクライマックスといってもよいだろう
と紹介してうえで、「歴史的事実ではない、江戸時代に誕生した「小山評定」」と明快に否定しています。
(白峰説の詳しい紹介は次回)
*「関ケ原」の表記ですが、「ケ」が大きい字だったり、小さい「ヶ」だったり、けっこうまちまちです。関ケ原古戦場記念館は大きい「ケ」で表記されています。書名はそのままとします。
2023.11.13
歌手の大橋純子さんの訃報がテレビニュースでも伝えられ、12日朝刊各紙に掲載されていました。毎日新聞1面のコラム「余録」でも取り上げていました。どうしても硬いテーマとなりがちな余禄なので、珍しい。
大橋さんが北海道夕張市の出身ということは初めて知りました。「余録」によると
「沈む故郷を元気づけようと大橋さんは2007年3月、北海道出身の歌手有志と市内で開いた無料コンサートに参加した。売り上げを同市への寄付にあてようと、カバーアルバムも発売した」
とあります。
そうだったんだ、ということでそのカバーアルバム、実家のCDの山の中からうまく見つけ出すことができました。「Terra」というタイトル、ラテン語で大地、陸地、地球といった意味。通勤途中の車の中で聴きなおしました。
大橋さんのボーカルをいかそうということでしょう、アレンジはジャズ、ボサノバといった色合いながらも、アコスティックギター中心の抑えめの伴奏をバックに、大橋さんの伸びやかな声が素晴らしい。
先年、夕張市を訪れました。「余録」にもありますが、炭鉱の町夕張はすべての鉱山が閉山し、その後の「町おこし」としてリゾート開発に力を入れますがうまくいきません。戦後の産業構造の変化、過疎化、リゾート開発の破綻など、近年の社会が抱える諸問題が凝縮しているかのような地域です。そんな夕張の町を思い出しながら耳を傾けました。
カバーアルバムということで、他のアーチストの曲を歌っているわけです。「時代」「地上の星」は中島ゆみき、「季節の中で」「大空と大地の中で」は松山千春、「ワインレッドの心」「恋の予感」が玉置浩二と続き、あれあれ、なんか北海道出身の人ばかりだよと気づきました。あわててCDのパッケージを見直すと、大橋さんからのメッセージが書かれています。
「生まれ育った大地とそこに暮らす人々の悲しみの声が聞こえます。私が歌うことで、少しでもその声がやすらかで元気になりますように、そして笑顔が戻りますように、祈りを込めて。
そしてドリカムの「未来予想図Ⅱ」「LOVE LOVE LOVE」、ボーカルの吉田美和さんは調べると北海道池田町出身、もう間違いない。「プリズム」はYUKIさんの曲で函館市出身、そして「HOWEVER」、GLAYのヒット曲、そうメンバーは函館市出身です。
記事の「無料コンサート」云々では、そこまで読み取れなかった。おそるおそるこのCD発売時の紹介をウエブで検索したら、「大橋純子が同じ北海道出身のアーティストや歌手が残した名曲をカバー」とありました。脱力です、ファンなら知っててあたりまえの話なんですね。何回も聴いているCDですが、これまで気づかなかったことに気づいた、ということで良しとします。
ちなみにこの「Terra」、シリーズとして「Terra2」「Terra3」も出ているようです。
ただ、大橋さんだけでなく松山千春さんや玉置浩二さん、ドリカムの吉田美和さんの歌声には、松山さんが歌うところの「果てしない大空と広い大地」が感じられます。そう「Terra」、大地です。北海道の修学旅行で生徒たちが大地の声を感じ取れたら素敵だなと願っています。