2023.10.10
「戦国秘史」という「そそられる」題名がついていて、また新書でもあるのでつい手が出てしまいますよね。もちろん筆者が藤田達生さんということが決定打ではあるのですが。
このブログ「環伊勢湾戦争」の①②(8月25日、26日)でふれましたが、徳川家康と豊臣秀吉が唯一直接対決した「小牧長久手の戦い」については「環伊勢湾戦争」と呼ぶべきだと提唱している研究グループの中心がこの藤田さんです。
「環伊勢湾戦争」という新しい視点が興味深かったのですが、この『秘伝』でも織田信長が今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」(永禄3年、1560年)について
「尾張時代の信長は、津島や熱田といった流通拠点の維持に腐心した。これは伊勢湾支配を構想していたからであろう」
とし、その伊勢湾に臨む知多半島への進出しようと動いた今川義元と衝突することになる、そこから桶狭間の戦いは「知多半島の争奪戦」と位置付けています。
それだけ伊勢湾が当時の列島の流通の重要拠点であったとの見方で、それが後に登場人物は変わりながらの「環伊勢湾戦争」(小牧長久手の戦い)にもつながっていくというとらえ方ですね。
またかい、と言われそうですが、NHK大河ドラマ「どうする家康」で「本能寺の変」の直後に家康が堺から三河にやっとの思いで逃げ帰る、いわゆる「神君伊賀越え」がとりあげられていました。ドラマのその回の題も「伊賀を越えろ」でした。
とはいえ、この逃走ルートには従来からいくつかの説があって、藤田さんはルートにあたる地域の治安状況、つまりは家康の逃走を助けたとされる「伊賀の忍者」あるいはそれと並び称される「甲賀の忍者」の実態などの研究をもとに、「甲賀越えの方が合理的理解だと考えている」とします。当時の国名としては近江、その中の甲賀郡を家康一行は主に通ったという説ですが、「近江越え」ではなく、この忍者のイメージから「伊賀越え」に対して「甲賀越え」という言い方になります。
ではなぜ「伊賀越え」と後世伝わったのか。江戸時代になって「戦い」がなくなり、その能力を発揮する機会を失い勢いのなくなった伊賀勢(忍者)が、「自分たちの祖先は家康を助けるのにこんなにも働いた」ということをアピールしようとしたのだろうと藤田さんは推測しています。
このほかにも本能寺の変の原因の一つのして近年注目されている、四国の取り扱いを巡って信長が明智光秀の考え方、要望を無視する指示命令をして、立場をなくした光秀が行動に出たという説、その裏付けともされる古文書(手紙)がどのようないきさつで発見され、解読されたのかなど、興味深い話が盛りだくさんなのですが、大河ドラマでつい先日とりあげられたところに関してもう一つだけ。
1590年(天正18年)、秀吉軍(家康も加わっています)が小田原に北条氏を攻めて降伏させます。この後に家康は江戸に移ります。秀吉が家康に江戸に行けと命令していましたね。
藤田さんは「通説のように天下統一の完成を北条氏が敗退した天正十八年とすることは明らかな誤り」と主張します。というのも、藤田さんはこう述べます。
「天下統一とは、城割・検地などの仕置きを通じて「日本六十余州」の収公を完了し、天皇の代行として関白が国土領有権を掌握することだった。決して、戦争を通じて反抗する戦国大名がいなくなることを意味するのではない」
そして
「秀吉が奥州再仕置を終え、諸大名に対して全国の御前帳と郡絵図を調進させた天正十九年に求めるべきなのである」
と唱えます。単に「戦闘」が終わっただけでなく、その後に税制度などの統治体制が共通のものになって初めて「統一」と言えるということ、経済の視点も重要だということですね。
2023.10.07
ノーベル賞ばなしの本筋から少し離れてしまいますが、『精神と物質』(立花隆・利根川進、文藝春秋、1990年)の中で、利根川さんへのインタビューについて立花さんはこう書いています。
「分子生物学や免疫学の参考書を山ほど買いこんで、予備知識をたくわえた上で、ボストンに利根川さんをたずね、延べ二十時間にわたるインタビューをして戻ってきた」
「利根川さんのところには、ノーベル賞受賞後、日本のジャーナリズムがわっと押しかけ、いまもインタビューの申し込みが山のようにある。しかし、どのインタビューも、同じような初歩的な質問と応答で終わっている」
立花さんが2021年に亡くなった後の追悼記事で文藝春秋の方だったと記憶しているのですが、この取材のことを振り返っていて、利根川さんは当初、また日本からの取材、「初歩的な質問」に答えるのかといった姿勢だった、ところが立花さんが次々と突っ込んだ質問をしてくるので、利根川さんも熱が入り、長時間のインタビューになったそうです。
そんな背景もあったのでしょう、インタビューの終わりのところでは、生物とは何か、科学はどこまで万能か、唯物論か唯心論かといったかなり哲学的な問いについての、緊張感のあるやりとりも収められています。
さらに
利根川「ぼくは脳の中で起こっている現象を自然科学の方法論で研究することによって、人間の行動や精神活動を説明するのに有効な法則を導き出すことができると確信しています」
立花「人文科学というのは、だいたいが現象そのものに興味を持っているんであって、必ずしも、その原理的探究に関心があるわけじゃないですからね」
利根川「ぼくはね、いずああいう学問はみんな、結局は脳の研究に向かうと思います。逆にいうと、脳の生物学が進んで認識、思考、記憶、行動、性格形成の原理が科学的にわかってくれば、ああいう学問の内容は大いに変わると思います。それがどうなっているかよくわからないから、現象を現象のまま扱う学問が発達してきたんです」
立花「そうすると、いわゆる超越的なものには、ぜんぜん関心がない」
利根川「関心はありますが、非常に強い疑心を持って対処します。神のようなものが存在するとは思っていない」
ここまで踏み込んだ質問をするのかと驚き、かつ感心しますが、立花さんの関心はやはりこのあたりあったのでしょう。本のタイトルが『精神と物質』であり、副題として「分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか」とあるのですから。
ここでの発言の通り、利根川さんはノーベル賞受賞後、その受賞理由となった研究とはかなり異なる分野である「脳」の研究を主としていきます。
手元の本の書き込みをみると最初に読んだのが1990年8月なので発行直後、2021年8月にも再読しています。同年4月に立花さんは亡くなったのですが、その時に読み直した形ですかね。
田中角栄元総理の金脈追及やロッキード事件・裁判取材などでジャーナリストとして高い評価を得た立花さんですが、科学分野の取材でも『宇宙からの帰還』(1983年)『脳死』(1986年)『サル学の現在』(1991年)など素晴らしい仕事を残しています。この『精神と物質』もまちがいなく代表作の一つだと思います。
2023.10.06
ノーベル賞昔話で、かつての仲間の話になってしまいましたが、私自身がノーベル賞取材に「かすった」のは1987年、京都支局在籍時の利根川進さんの生理学・医学賞受賞です。日本人の生理学・医学賞受賞はこれが初めてでした。
ちなみにこの時のこの賞の受賞者は利根川さん一人でした。各賞とも人数枠3名で選ばれるケースが圧倒的に多い。どの研究分野でも多数の研究者が「競争」しており、その中から3人が選ばれているわけです。ところが利根川さんは単独受賞、その研究分野がそもそも独創的で、加えて他の追従を許さない成果をあげた、ということでもあります。
利根川さんは京都大卒業ということで、支局内は色めき立ったのですが、受賞時はアメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)教授でいらした。なので、京都で受賞時に「直接」取材をしたわけではなく(なので「かすった」のです)、後日、利根川さんが大学の同窓生の集まりで帰国し、そこで取材する機会がありました。
利根川さんの受賞で日本人のノーベル賞自然科学分野での受賞者は計5人に、うち第1号の湯川秀樹、続く朝永振一郎、福井謙一、そしてこの利根川さんの4人が京都大学の出身、残る1人の江崎玲於奈さんが東京大出身でした。
東京大に対して対抗意識の強い京都大関係者のみならず関西の人たちには「京都大学の自由な学風が独創的な研究を生み、それがノーベル賞受賞に結び付いている」みたいな思いがあり、それを当事者の口(つまり利根川さん)から言わせたいといった雰囲気がありました。取材する私にとって「尋ねないわけにはいかない」プレッシャーにもなったわけです。
ところが利根川さん、笑いながら「たかだが数人のことでどこが多いとか、全然科学的じゃないよ」と一蹴。記憶があいまいなのですが、「京都大すごいと言わせたいんだろう」とこちらの狙いはお見通しとばかりに、ざっくばらんに返答してきたような気もします。
つまり5人しか母数がないうちの4人が(京都大として)一致したところで、統計学の考え方からすると多いとはいえない、母数がもっと多くないとということですね。
世界トップクラスの科学者に科学的じゃないと言われては、これはもう「恐れ入りました」しかありませんよね。
利根川さんの研究、その意義についてはこの本をあげたい。というのも、インタビュアーが立花隆さんだからです。
利根川さんの受賞後、立花さんが取材をして月刊の文藝春秋に連載したものをまとめています。
利根川さんは京都大理学部の時に、急速に研究が進んでいた分子生物学に興味を持ち、その分野の研究をしたいと考えたのですが、国内では十分な研究体制を持つところが限られていた。結局、京都大学の研究所に入ったものの、恩師の勧めでアメリカに留学します。
「周囲を見れば、分子生物学をやっている人はみんなアメリカで勉強してきた人たちばかりでしょう。自分も本格的に分子生物学をやるためには、絶対アメリカに行かなきゃだめだと思っていました」
留学先のアメリカ、さらにはヨーロッパと、よりよい研究環境を求め学校や研究所を移り続けて研究を続けた利根川さんにとって、大学学部の4年間が自身の研究にどれだけの影響を与えたのか、大胆にいってしまえば、「京都を、日本を飛び出した、京都大学の学風が影響したところなどない」と考えていたのではないか、ただそう言ってしまうと身もふたもないので、「科学的じゃない」というちょっと茶化したような答えで「かわした」のではないかと、思い返しています。
2023.10.05
福井謙一さん同様に「その人誰?」というケースでは2002年に福井さんと同じ化学賞を受賞した田中耕一さんがあげられるでしょう。たまたまこのノーベル賞が発表される時期の少し前に毎日新聞の同人と会う機会があり、今となっての思い出話として(もう時効?)、田中さん受賞時の大慌て状況が話題になりました。
最近ではノーベル賞候補者が事前にあちこちで予想され、また報道されたりもしますが、このころはまだそんな時代ではありませんでした。受賞者を決める選考委員会は徹底した秘密主義で(これは今でもそうですが)、記者はいろいろな分野の研究者に会って、いわば研究者仲間から「あの人のあの研究はすごいよ」と聞き出します。多くの人から名前があがった研究者がメディア各社の中での「候補者」となり、事前に研究内容や経歴などを調べておくわけです。写真も関係先から入手しておきます。
この事前調査も近年はインターネットなどが使えるようになりましたが、かつては、学術雑誌で論文を探したりといったアナログで作業をしていました。田中さんはそういう候補者リストには入っていなかったわけです。これはどの報道機関もほとんど同じだったと思います。
田中さんは島津製作所の研究職ではありましたがいち会社員、このことも珍しかったのですが、同社は京都市内に本社があるので、もちろん取材陣はそこに殺到します。ところが会社にとっても寝耳に水、準備ができていないので「記者会見は夜8時から」。研究業績などはそこで話を聴くことになるのですが、ご本人の写真さえない状態、さあどうする、ということです。
ここに新聞社の事情があります。本社のある東京や大阪から離れた地域で配られる新聞は、本社印刷工場から新聞販売店まで送る時間がかかるので、記事の締め切り時間がかなり早いのです。その締切時間が頭をよぎっての記者会見時間、その後に原稿執筆と紙面レイアウト作業、「間に合うのか」と、編集局内は次第に険悪な空気に包まれていきます。
その同人はノーベル賞取材陣の責任者の立場、「今でも思い出したくない」と苦笑していました。
福井謙一さんの話に戻りますが、福井さんの受賞で報道陣が福井邸に殺到するのが午後10時過ぎ、田中さんのケースよりもさらに切羽詰まった事態で、自分が当事者だったらと思うと、やはりぞっとします。
まったく個人的なことですが、田中さんのことを改めて調べていたら、なんと自分より年下、受賞時43歳、まだ現役で研究を続けているそうです。山中さんも50歳で受賞しました。功成り名遂げて受賞、という印象の強いノーベル賞のなかで若いうちに受賞するということは、それだけ独創的、画期的な研究ということになりますか。
その好例が生物の教科書でおなじみ、DNAの二重らせん構造の発見で分子生物学を大きく進展させ1962年に生理学・医学賞を受賞したジェームズ・ワトソン(アメリカ)は受賞時34歳、共同研究者のフランシス・クリック(イギリス)が46歳。
余談ですがノーベル賞につながった、2人が1953年「Nature」誌に投稿掲載された論文(タイトルは「Molecular Structure of Nucleic Acids: A Structure for Deoxyribose Nucleic Acid」)はたったの2ページだった、というのはよく知られています。
2023.10.04
福井謙一さんがノーベル化学賞受賞の知らせを聞いた1981年10月19日、妻の友栄さんは著書『ひたすら』(講談社、2007年)で「こちらには事前に何の連絡もない」と明かします。テレビの速報と新聞社からの問い合わせの電話から「騒動」が始まるわけです。友栄さんの勧めで着物に着替えた謙一さんは午後10時過ぎから京都大学に近い自宅で何十人もの記者と対応することになります。昼間なら大学と連絡をとって、大学構内で記者会見、となるのでしょうが、何しろ夜のことです。
「外国では、この十年間程、受賞ライン(またはホットライン)に近いという噂を知らせてくださる方もたくさんいた。数年来、夫は夫なりに十月はなんとなく落ち着けない日々もあったが、月日は音もなく過ぎていった」
と明かしてはいます。
「午後十時半頃には、家中に人が溢れかえり、廊下も人々で殺気立ち、最初は写真を貸してほしいと依頼していた記者も、そのうちわれ先に家探しの状態となり、断りなくアルバムごと持ち出している」
いくらおめでたい話といえども、そこまでやるかと他人事のように批判はできますが・・・
息子さんが駆けつけてきて記者から感想を聞かれたところ
「僕はテロップ(ニュース速報のことでしょうね)を見て、京大の福井謙一というと親父ひとりしかいないかなあと思って、ともかく飛んできたんですよ」
と返事をしたそうです。
授賞式のあったストックホルムではこんな秘話? も。
夫(福井謙一さん)は、午前中ノーベル財団に賞金受領に出かけたが、受領書にサインした後、この時に頂戴した小切手を持ち帰るのを忘れ、財団の方が、あわてて追いかけてくださったらしい。(略)
私も、夫ならさもありなんと、しばらく笑いがとまらない。
福井さんは京都大学を定年でお辞めになった後、同じ京都にある国立大学の京都工芸繊維大学の学長になります。
この時期、国立大学は入学試験制度改革で大揺れ、福井さんは学長として工芸繊維大学のみならず近畿地区の大学のとりまとめ役をせざるを得なくなるのですが、大学入試制度は、およそ学術研究とはかけ離れた利害調整を求められます。記者会見などではいつも難しそうな表情でした。「こんなことやりたくないんだろうな」と勝手に想像してもいました。
学長を退いた後、京都市内に新たに開設された「財団法人基礎化学研究所」の所長に就任、研究所を訪ねてインタビューさせていただきました。ご自身がまさにそうであったように、すぐに新しい技術や製品に結び付くことばかりを追い求めるのではなく、基礎研究が重要ということをくりかえし強調していました。
などと大層なことを書いていますが、まだまだ国内でも数少なかったノーベル賞の研究者に、ぺえぺえの記者が1対1で会ったのですから、とにかく緊張したことが忘れられません。(この時点で自然科学分野で福井さんが4人目、ご存命だったのは江崎玲於奈さんだけ)
「財団法人基礎化学研究所」は現在「京都大学福井謙一記念研究センター」となっています。公式ホームページはこちらから
2023.10.03
今年のノーベル生理学・医学賞の受賞者2名が2日、発表されました。海外の研究者の場合、あまり大きなニュースにはならないことが多いのですが、今回の受賞は新型コロナウイルスのワクチン開発につながった研究で、受賞理由として「世界中で130億回以上接種され、何百万人の命を救った」と讃えられただけに、新聞、テレビは大々的に報じています。
今週は各賞が順番に発表されていきます。ノーベル賞に関する本はそれはたくさんあるわけで、ここでは“変化球”も交えてノーベル賞にまつわる個人的昔話を。
ノーベル賞を受賞した日本人は、アメリカ国籍を取得した人も含めて2022年までで28人。日本人だからというくくりもどうかと思いますが、1981年、日本人6人目、化学賞を初めて受賞したのが福井謙一さん(1918年~ 1998年)です。
受賞時、京都大学工学部の教授でした。ノーベル賞候補としてはほとんどノーマークで、受賞の一報が流れてきて取材陣は騒然、勤務先からして当然京都支局が取材の最前線になるのですが、京都大学の教職員名簿で住所を確認して自宅に向かう、各新聞社とも同様で、福井邸は大混乱になったようです。それこそ取材記者が福井さんに向かって「先生はどんな研究をされているのですか」と一から質問するようなレベルだったわけです。
この福井さん受賞は私が京都支局で勤務する少し前のこと、その経験者が「あの時はさ・・・」と「伝説」のように語っていたのを漏れ聞いていたわけですが、福井夫人の福井友栄(ともえ)さんが授賞が伝えられた日の様子をなまなましく、かつユーモアいっぱいに振り返ったエッセイなどをまとめた著作があります。「伝説」を裏付けています。
発行年をみると、福井さんが亡くなられてから後のことですね、まあそうでしょう。ただ、88年以降に、京都で発行されていた文芸誌に掲載されたエッセイも含まれてはいます。
10月19日の午後10時前、最近の賞の発表時間からするとかなり遅い時間ですが、娘さんとテレビでアクション映画を視ている時に、「京大教授、福井謙一氏ノーベル賞受賞」というニュース速報が流れる。
その時、福井謙一さんは電話でずっと話しこんでいて、その電話の相手は東京の新聞社、受賞の情報を得たものの、「(福井さんの)名前の綴りが違っていたので確かめてきたらしい」。
えーっ、驚きですよね。報道もかなり不確かな情報からスタートしたわけですね。そして、十分な準備がなかったことも間違いないでしょう。
2023.10.02
毎日新聞9月23日付「今週の本棚」(書評欄)で『平治の乱の謎を解く』(桃崎有一郎、文春新書)が取り上げられていました。評者は藻谷浩介さん(日本総合研究所主席研究員)、「ぜひ皆さまもお読みになって、重厚な思惟により先入観を論理的に排していく、現代史学の醍醐味を堪能いただきたい」と“絶賛”していました。このブログでもこの本を紹介しました(9月7日付「この夏の乱読 その①」)。もちろん藻谷さんのすばらしい「評」の足元にも及ばす、こんな読み方をしたわけでもありませんが、やはり一冊の本を同じように共感を持って読んでいる人がいるのは嬉しいものです。
前置きが長くなりました。藻谷さんの毎日新聞でのコラムなどは以前から読んでいて勉強になるのですが、この書評の後に「そうそう買っておいてまだ読んでいなかった」藻谷さんの本を思い出し、遅まきながら読みました。
『世界まちかど地政学 90カ国弾丸旅行記』 (毎日新聞出版、 2018年)という著書もある藻谷さん、海外114 か国を私費で訪問し、平成大合併前には国内約3200の市町村をすべて訪れたそうです。そういった経験に裏打ちされたエコノミストとして地域振興や人口問題を取材研究し、たくさんの提言をしてきて注目されている方ではあります。
『日本の進む道』の全体のトーンとしては超ベストセラー『バカの壁』(新潮新書)の筆者で解剖学者(東京大学名誉教諭)の養老さんに、藻谷さんがアベノミクスや止まらない円安、人口減少と過疎化、移民問題などについて具体的なデータを示しながら、「どう思いますか」「解決できるでしょうか」と突っ込みます。それに対して養老さんの答えは・・・
というのも山林や湖沼を除いた面積で人口を割った「可住地人口密度」で比較すると、中国は1平方キロメートル当たり180人なのに、過疎地の代表とされる島根県はその3倍の600人近くある、都道府県で「可住地人口密度」が一番低いのは北海道で250人くらいなのに、フランスの300人とあまり変わらず、「土地が瘦せているうえに日照も少ないイギリスだと、ロンドンを入れても150人。北海道の方かよほど“密”です」。
藻谷さんは「日本は降水量が多くて土が肥えているために、そもそも他国よりも面積当たりの人口支持力がたかいのです。そのため、田舎でさらに人口が減っても、諸外国よりはまだまだ人の密度が高く市場性も生産力も高い状況にある。それなのにその田舎を捨てて、1平方キロメートルあたり1万人が詰め込まれている東京に集まってきています」と問題提起するのです。
間違いなく起きるといわれる南海トラフ地震、さらには首都圏直下型の大地震、富士山の噴火などの大災害についての危機感がまだまだ足りない、揺れや火災、津波などへの備えの意識は少しずつ高まってきてはいるが、大都市での震災によって引き起こされるライフラインの停止への対応や震災後の復興などはほとんど考えられていない、どころか「考えようとしない」、それはなぜなのか、と二人の議論が進みます。
養老さんの結論には正直、「えっ」と驚く読者も多いかもしれません。私自身も、「わからないでもないが、そこまで言い切ってしまっていいですか」という感想を持ちました。
文脈で読まないと誤解されそうな「断言」にもなりそうなので、あえて書きませんが、養老さんは「非常に狭い日常が現実になっていて、そこに出てこない問題は「おれは知らない」となってしまう。だから私は、「地震待ちだ」と言っているわけです。「俺の食い物がない」という現実に直面しないと、本気で自分で考えようとしませんから」
「僕は小学校2年生で終戦を迎えて、それまでの常識が180度変わりました。僕は組織や国の言うことを信じてはいけないと身に染みてわかっています」などと話しています。
「若い人が自殺するというのはヘンですよ。でも、日本人は、生きていることがどういうことかが、わからなくなってしまったのでしょうね」
「死を避けるということはものすごくわかりやすいけれど、生きるとはどういうことかということは単純に定義できないので、言ってみれば生のほうをどんどん削っても大丈夫みたいな感覚があるのではないか」
藻谷「命を保つことは考えているけれど、人間としての「生」を全うさせることへの配慮がなくなった、ということなのですね」
養老「そう。考え方のうえでそちらが主流になってきています」
2023.09.30
2年生の今から大学進学への意識を高めてもらおうという大学説明会が30日、開かれました。「大学で何をどう学ぶのか」といった生徒の疑問に答えてもらうため、大学から講師をお招きして、生徒はそれぞれ関心のある大学、学部に分かれて話を聴きました。
本校卒業の大学生7名も来校、「座談会」形式で、高校とは異なる大学での学びやキャンパスライフなどについて話してくれました。在校生はみな熱心にメモをとっていました。大いに参考になったようです。
本校ではサッカー部に所属、さらに体育祭実行委員長を務めたことで教員に憧れを持ち、教員免許取得を目指している1年生、同じく教員を目指す女子大2年生も来てくれました。
外国語学部に進み、すでに5か月間タイに留学した経験を持つ2年生、オーストラリア留学予定の観光学部1年生は本校の3年生6月の英語検定で2級を取得、それが大学進学・大学での留学への大きな弾みになったそうです。
このように大学で自分の夢をかなえるために頑張っている先輩の姿を目の当たりにすることが、在校生にとって何よりの刺激になると感じました。わざわざ来校してくれた卒業生に感謝です。
2023.09.29
さて、①の冒頭で書いたように、前田三夫さん、小倉全由さんの対談『高校野球監督論』(双葉社、2023年)には「東京から「大谷翔平」が生まれない理由」といった章があるのですが、その大谷選手、花巻東高のときからお二人は当然、知っています。
もちろん、大谷選手は高校時代からずば抜けた選手だったわけですが、成長過程だった大谷選手をどう使うかは監督にとって難しいところだと声を揃えます。
「(東京では)即戦力として使える投手を起用するケースが多くならざるを得ない。つまり、大谷のような選手を、試合で使いながら育てるだけの土壌が東京にはないんです」(小倉)
「指導者の立場では、判断に迷うところだよね。甲子園に出るには、コントロール、球のキレ、フィールディングと完成度の高い、バランスの取れた投手を起用したくなる」(前田)
何しろ東京は7試合勝ち抜かなくてはならない激戦区、一人の投手ではなかなか大変なのはもちろん、継投策をとるにしても2人目、3人目の投手にも同じタイプを求めがちだそうです。
そのほか、おもわずうなづき、膝を打つコメントをいくつか。
「甲子園にいってからの選手たちの思いは一つ、「優勝する」だった。「優勝できるかもしれない」ではなく、「棚からぼたもち」の発想でもなかった。「狙って優勝を獲りにいく」という気持ちで試合に臨まないと、優勝旗は獲れないものだと、私は強く思った」(前田)
「(甲子園は)選手には必ず目指してほしい場所、指導者を成長させてくれる場所。この二つに尽きるかな。(略)チームは生きものだから、出場する選手が違えば野球も変わる。私自身、毎回新鮮な気持ちで甲子園に行っていた」(前田)
やはりみな「甲子園」に魅入られるのですね。選手たちの強い気持ちが好勝負を生み、ファンを引き付けるということでしょう。
「(昔は練習を3日休んだら、その遅れを取り戻すのに1週間かかるなどと言われたが、科学的な証明はないとして)自分からしてみれば、「練習をやらせたいがための、指導者側の理屈」だけのような気がするんです」(小倉)
「まったく同感だね。監督からそれを聞いた上級生が下級生に言い聞かせて、下級生が上級生になったときに、また下級生に言い聞かせる・・・まさに悪しき慣例になっているけれども、令和になった今は完全に断ち切らないといけない話だよね」(前田)
学校のクラブ活動で休養日を設けることが推奨されるようになってきていますが、その追い風になる合理的な考え方ですね。でも、「いい選手が揃っている強豪校の余裕、うちはまだまだそんな段階ではない」なんていう声が聞こえてきそうではありますが。
「中学時代に野球をやっていて優秀な成績を残したからスカウトして、高校の野球部に入れるんじゃない。運動能力の高い中学生をスカウトして、高校で野球をやらせて潜在的に持っていた素質を開花させる、この方法もありなんですよね」(小倉)
「小学生の段階ではできればひと通りのスポーツを子どもに経験させて、そのうえで野球の能力を伸ばすということをするのが理想なんだけどね」(前田)
このあたりは、野球に限らず、多くの競技の指導者が指摘するところですよね。
ここ、「指導者」をそのまま「教員」に置き換えられるし、当然「大人」にも置き換えられます。学校部活動の指導者のあるべき姿であり、教員が顧問として指導者になる意味やその価値、重要性も語られていると感じました。
2023.09.28
タイトルがそのものズバリ、確か新聞の書籍広告でみて、やはり気にはなり、「なぜ東京の学校が大阪の学校に勝てないのか」とか「東京から「大谷翔平」が生まれない理由」といった章にそそられ、手にとってみました。
監督論といっても技術論や練習方法等を書いているわけではありません。
筆者の前田さんは現在、帝京高校(東京)の名誉監督、帝京高校野球部を率いて甲子園春のセンバツに14回、夏の選手権に12回出場、夏2回、春1回優勝しています。
小倉さんは日大三高(東京)の監督を今年3月に勇退、これまでに関東一高(東京)を率いてセンバツ準優勝、母校の日大三高で2001年夏全国制覇、11年夏に2度目の優勝を果たしています。
このお二人が、高校、大学でのプレイヤーを経て高校野球の指導に関わるようになったいきさつや、それぞれが東京のライバル校としてしのぎをけずった歴史などを語り合います。
また、それぞれが育ててプロ野球などで活躍した選手たちの高校時代を振り返ってもいます。ただ、このごろはあまりプロ野球を見ないのでそのエピソードの面白さは伝えられそうもないので、印象に残ったところを紹介します。
「東(東京の東大会)でも、西でも、たとえシードで2回戦から出場したとしても、東京を勝ち抜いて甲子園に出場するには7連勝しなければならない。7試合すべて勝つためには、大会期間中はずっとチーム力を心身ともに高いレベルで維持しなくてはならないから、かなり難しいことなんです」(前田)
改めて言われると、やはり東京は学校も多く、予選は大激戦区、これがそもそもの原点と言えそうです。最初にあげた大阪との比較、大谷翔平選手の話につながっていきます。
小倉さんも「関東の人間は勝負に対する執念深さに欠けているのに対して、関西は「関東の人間には負けてたまるか」という強い気持ちを持っている。これって関東の人間からするとわからない感覚かもしれませんね」と応えます。
野球とは直接関係はありませんが、東京で生まれ育ち、社会人になってから関西でも少し暮らし、仕事をした経験からすると、なんとも複雑な気持ちで読みました。(関西と書きましたが、細かくいうと京都です。京都=関西とくくると、京都の人はなかなか微妙なわけですが、一般的には京都も関西ですので)