2023.08.30
佐賀県の吉野ケ里遺跡でこれまで発掘されなかった石棺墓(せっかんぼ)の内部調査が行われ、新聞やテレビで久しぶりに「邪馬台国」が話題になりました。研究を大きく進展させる発見はなかったようですが、9月には未発掘エリアの調査が再開されるそうです。それに触発されたわけではないのですが、卑弥呼、邪馬台国に関する近刊が書評で話題になっていたので、「復習」も兼ねて手にとりました。
この本で主に論じられるのは奈良県桜井市の纏向遺跡です。筆者の寺沢さんは国内の考古学研究をリードしてきた「橿原考古学研究所」に長く勤務し、現在は纏向遺跡の発掘調査、遺跡保存、研究成果の発信を目的とする「桜井市纒向学研究センター」の所長を務めています。
と聞くと、卑弥呼や邪馬台国に関心のある人は、邪馬台国があったのは今の奈良県内とする、いわゆる「大和説」の論者の一人か、それならばあまり新味はないのでは、と判断してしまいそうですが、一概にはそうとも言えず、ぐんぐん引き込まれる内容です。
中国の史料「魏志倭人伝」によって、2~3世紀に日本列島に「邪馬台国」という「国(クニ)」があったとされ、さらに、いくつもの「国(クニ)」が争い、やがて卑弥呼と呼ばれる女王がたてられて国々がまとまった、とされるわけです。(国、クニの表記そのものが現代のいわゆる「国民国家」とは規模や成り立ちなどが異なるので、どう定義し表記するかも研究者によって異なり、それ自体が論争の一つになっています)
この卑弥呼から中国大陸にあった「魏」の国に使者が送られて交流が生まれたことから、中国の史料に当時の列島の様子が書き残されることになったわけです。
このころの列島の「国」のありようを記した「文字資料」「記録」は現在のところ日本にはなく、いわば中国の史料に頼らざるを得ないうえ、その記述も簡単な内容なので、その内容だけでは「邪馬台国」が列島のどのあたりあったのかがはっきりとしないまま、古くは江戸時代から「邪馬台国」はここだ、というたくさんの説が提唱されてきました。
大きくは九州北部にあったとする「九州説」、今の奈良県内にあったとする「大和説」が有力とされています。その「大和説」にしても、大きなくくりであって、当時の「国」の人口はせいぜい数万人規模、一口に奈良県内といっても、ではその県内のどのあたりかでまた意見が異なってくるわけです。
寺沢さんは土器の編年から古墳の作られた年代を精緻に検討し、さらには古墳の副葬品などを比較し、文献も参照しながら論を進めます。私が簡単に要約できるような内容ではないのですが、「中国の史書のどこを紐解いても、卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは明記されていない。確実なのは倭の女王、倭国女王ということだ」と注意を促します。
つまり「卑弥呼は邪馬台国の女王だと考えるから、九州の「一女酋」にすぎないとか、邪馬台国はもともと奈良盆地の覇者であり、しだいに畿内全域から西日本への連合を拡大し、ついには列島の覇者(ヤマト王権)へと成長したなどといった誤った発想を生むことになる」と、従来の「九州説」も「大和説」も否定します。
争っていた国々が争いをやめるために女王をたて、その女王のもとでまとまった。その王権の都が置かれたのが纏向遺跡の場所であり、邪馬台国は都が置かれた場所(国名)でしかないと主張しています。
このあたりはかなり丁寧に読み込んでいただく必要があるかと思いますが、寺沢さんは、国が乱れているときに国々が戦いによってそれを解決しようとするのではなく、一人の女王をともにたてることで解決しようとしことを「強調したい」と言っています。
魏志倭人伝で「共立」と書かれている「ともにたてる」、それは「壮大な政治的談合(合同)を重ねた結論」であり、「政治・経済の世界ではしばしばマイナスイメージとして語られてきた「談合」とか「根回し」が、二一世紀の国際社会における課題や解決する最も平和的手段であるようにも思える」と。なるほど。
2023.08.26
安部龍太郎さんの『家康はなぜ乱世の覇者となれたのか』(NHK出版、2022年)では、「小牧長久手の戦い」を「環伊勢湾戦争」と呼ぶべきだという研究が紹介されているわけですが、その理由の一つとして、序盤戦ともいえる長久手での戦いにとどまらない衝突が各地であったことがあげられています。
例えば
・紀州(現在の和歌山)の反豊臣秀吉勢力の大阪方面への進出・武力衝突
・関東で家康と同盟した北条氏が秀吉方の佐竹氏勢力と衝突
・尾張(現在の愛知県)での「蟹江城合戦」
などです。
そして「最終的には(織田)信雄の本国である伊勢を脅かすという秀吉の策が功を奏し、(略)信雄は家康に相談することもなく秀吉と和睦してしまいます。(略)家康は、長久手での局地戦では赫奕(かくえき)たる勝利を収めましたが、秀吉との外交戦に敗れたと言えるかもしれません」とまとめています。
HNKの大河ドラマ「どうする家康」では局地戦で勝ったところまでが放送済み、手放しで喜んでいるわけではない家康と重臣の石川数正の姿で思わせぶりに放送が終わっているので、「その後」の秀吉の「外交戦」「したたかさ」は27日の放送で描かれるのでしょう。
「家康・信雄は、兵を挙げた動機とされる秀吉の影響力を十分に削りとることや、信雄が天下人になることを達成できていない。したがって、四月九日の会戦では徳川・信雄の勝利であったが、戦役としては秀吉が勝利したと考えるのが妥当なのかもしれない」
では、これまで家康側が勝ったとされてきたのはなぜなのか。
「(江戸時代になってから)関ケ原の戦いに参加できなかった譜代大名や旗本たちが、「天下分け目の戦い」で活躍できなかったことを面白く思わなかったため、彼らの先祖らが活躍した小牧・長久手の戦いで家康が勝利したことが、秀吉に家康を特別な存在と認めさせ、それがのちに将軍の地位に繋がったとする話を創出・喧伝したためではないかと言われている」という研究を紹介しています。
このブログでも何回も取り上げている磯田道史さんの『徳川家康弱者の戦略』(文春新書、2023年)。
「兵力的には秀吉側の優位は歴然」の状況下で家康側は局地戦に持ち込んだ、「快勝ではあったが、楽勝ではなかった」。その後「(秀吉側は)局地戦には敗れたものの、秀吉の圧倒的な優勢は変わりません。その圧迫に耐えられず、(略)織田信雄は秀吉に和議を願いでます。すでに秀吉に占領されていた伊賀と南伊勢を失い、人質も差し出します」、「両者(家康と秀吉)の緊張関係はまだ続きます」
(この磯田さんの著作についても6月10日のこのブログ「長篠の戦い その3」でも紹介しています)
同じく再出の『戦国15大合戦の真相--武将たちはどう戦ったか』(鈴木眞哉、平凡社新書、2003年)。通説に遠慮なく異論をはさむ鈴木さんの著作をつい引いてしまいたくなります。「小牧・長久手の戦い」についても変わりありません。
「長久手の戦いは、家康一代の戦歴のなかでも、珍しいほどの快勝といえる。一般には、家康は大変な戦さ上手だったように考えられているが、これもまた<家康神話>にすぎない」と最初から痛快です。
そして「この戦いの過程をよく見ると、相手方が信じ難いようなミスを重ねていることが明らかである。相手チームのエラーに乗じての大勝だったといえなくもない」。これでは家康ファンは納得できないか。
そして「家康側は一つの戦闘(battle)を制したまでで、戦争(war)に勝ったわけではないからである。実際、総合的な力の差は、歴然としており、一戦闘の勝利くらいで埋まるものではなかった」とまとめています。
江戸時代に「日本外史」を著した頼山陽が、秀吉と争ったこの戦いこそ、家康天下取りの節目だったと主張したことをあげ、「(江戸時代は)家康の<偉業>をたたえようという傾向が強かった。こうしてつくられた<家康神話>がいまだに生きながらえていて、プロの学者にまで影響を及ぼしているのである」と、いやはやバッサリです。
なにしろ、「小牧・長久手の戦い」をとりあげた章のタイトルが「御用史観の舞台裏」ですから。
2023.08.25
タイトルの「環伊勢湾戦争」、何のことというのが一般的な受け止めでしょう。このブログで何度もとりあげているNHK大河ドラマ「どうする家康」で、家康と豊臣秀吉が唯一直接戦った、いわゆる「小牧長久手の戦い」が2回にわたって描かれていました。少し首をひねる場面もあり(ドラマなので割り切って観てはいますが)、例によっていくつかの著作をひっぱりだして確認していたところ、この「小牧長久手の戦い」を「環伊勢湾戦争」と呼ぼうという研究があることがわかりました。
直木賞受賞作家の安部さんが新聞連載で家康の伝記を書いており、大河ドラマ放送に先立って家康について改めて書いた著作です。
「三重大学教授の藤田達生さんが編者となり、織豊期研究会所属の研究者たちが二冊の研究書で、この戦いについて論じています。この諸研究では、小牧・長久手の戦いを「環伊勢湾戦争」と呼ぶべきだと提唱しています。伊勢湾を挟んだ対岸の地である伊勢を舞台とする戦いも、この戦争の一部であったとするためで、論者によっては、関ケ原の戦いと同様、この「環伊勢湾戦争」も「天下分け目の戦い」であったと主張しています。
少し説明がいりますよね。
なかなか刺激的なタイトルですが、家康の生涯で大きな区切りとなった戦いや事件をとりあげ、その事実関係には江戸幕府ができた後に家康を持ち上げるための創作などがかなり混ざっていることを指摘し、まとめた本です。
編者の渡邊さんをはじめ、とりあげる項目ごとに異なった研究者が執筆していますが、「どうする家康」の時代考証を担当している方や近年、関ケ原合戦で従来と大きく異なる見解を著して注目されている研究者などが顔を揃えており、決して「怪しい」本ではありあません。
その中の一つの章は「小牧・長久手の戦いで家康は負けたのか?」。
あれあれ、ドラマをご覧になった方は、家康軍は戦いすんで祝杯をあげていたよね、と疑問に思うタイトルですよね。
1584年(天正12年)、本能寺で織田信長が倒れてから2年、後継者として争うであろうとみられていた豊臣秀吉と徳川家康が直接対決することになるわけです。もっとも家康は信長の子、織田信雄(のぶかつ)と組み、形の上では信雄が大将となるのですが、実質は秀吉と家康の戦いです。
さて、その『家康伝説の嘘』の一章です。
ドラマでも描かれましたが秀吉側の有力武将が討たれたことなどから、徳川・織田連合軍がこの戦いを制したと言われたきたものの、「近年、この戦いについては多くの研究がなされ、見直しが進んでいる」と、研究状況が紹介されます。
その「多くの研究」では、「小牧・長久手」という地名にあるような、その場所でのひとつの戦いにとどまらず、「全国規模の戦役であったとの認識が主流となっている」。
そして「研究者によっては、秀吉が天下人となることを決定づけた全国的大規模戦争であったとし、徳川家康が天下を獲ることを決定づけた関ケ原の戦いと同様な、天下分け目の戦いであったと主張する者もいる」と続きます。
はい、ここで安部さんの書き方は近年の研究動向を踏まえたていることがわかります。
安部さんの著作は書き込みによると2022年11月に読んでいるのですが、「環伊勢湾戦争」という呼び方についてはスルーしていました。今回見直してみて、なるほどと感心した次第です。
2023.08.24
1学期の終業式で「新しい戦前にしてはいけない、この夏は戦争、平和を考える夏にしてほしい」と生徒たちに話をしたのですが、そもそもはテレビでおなじみのタモリさんが昨年末、テレビ番組で「2023年はどういう年になると思うか」と尋ねられ、「新しい戦前になるのではないか」と答えたという話がネットなどで話題になったことがきっかけでもありました。この夏、あちこちで「新しい戦前」という言葉を目にします。
8月3日毎日新聞朝刊のオピニオン面「司馬遼太郎氏生誕100年」特集で、片山杜秀さん(慶応大学教授)が、日露戦争を描いた司馬作品「坂の上の雲」にふれ、「今や「新しい戦前」という言葉が聞かれるようになった。(略)日本は「戦前」を受け入れるモードに入っている。まさに「危機の時代」だ。「坂の上の雲」を「危機の時代の小説」として読む現代的な意義はそこにある」と語っています。
この夏の宿題①、②で紹介した加藤陽子さんが作家の奥泉光さんと対談した『この国の戦争--太平洋戦争をどう読むか』(河出新書、2022年)で奥泉さんはこう書いています。
「永遠に戦争のない世界。日本国憲法にも響くこの理想は、人類が苦難の末に獲得した理念であり、失ってはならないが、日本が新たな「戦前」のただなかにあるのはまちがいなく、「戦後」を継続するためにも、「戦前」体制の整備は喫緊の課題となるだろう。(中略)いま求められるべきは、昭和とは違う「戦前」、戦争をしないための「戦前」の構築である」
片山さんは同じ毎日新聞の記事で語っています。
「明治はある意味、戦争の期間を除けば常に「戦前」だった。「坂の上の雲」は、明治国家が戦争に備える「戦前小説」としても読めるのではないか」としたうえで、「日本が上り坂の時代に、どう外交をして、どう軍備を備えて、それでかろうじて勝てたということを学べば、下り坂の今の日本に、戦争ができるなんて思えないはずだ」
戦前、1930年代から何を学ぶかについて「国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない夢を疑似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現れないとも限らないとの危惧であり教訓です」とし、「戦前期の陸軍のような政治勢力が再び現れるかもしれないなどというつもりは全くありません」としながらも、現代における政治システムの機能不全の例として衆議院議員選挙制度と投票率の低迷をあげ、「若い人々には、自らが国民の希望の星だとの自覚を持ち、理系も文系も区別なく、必死になって歴史、とくに日本近現代史を勉強してもらいたいものです」と呼びかけています。
2023.08.23
1930年代の外交・軍事を専門とされている加藤陽子さんの著作『戦争の日本近現代史 征韓論から太平洋戦争まで』(講談社現代新書、2002年)では、日清戦争が終わり、続く日露戦争の開戦にいたるまでの時期については、また違った状況があったと説明しています。
「日本政府の側が日露開戦へとキャンペーンのごときものを張って、国民を積極的に開戦へと導いたあとはみられません」「国際的な環境が、戦争への道を自然に導くものであったことが指摘できます」
そして「日露戦争をいつ始めるかという決定は、軍備完整の状況、戦費調達の見込み、国際環境などから周到になされていたことがわかります」とも。
その後の第一次世界大戦、満州事変、日中戦争と論を進めていきます。
詳しくはぜひ読んでいただきたいのですが、「満州事変の前後ほど、国民全体の事変への受け止め方が、関東軍の発する言葉と一体化していた時期はなかったように思います」とし、「日本を正とし、中国を悪とする、二分法の論理」「条約=法を守る日本、法を守らない中国」「戦争をおこなうためのエネルギーの供給源は、まさに国際法にのっとって正しく行動してきた者が不当な扱いを受けたという、きわめて強い怒りの感情でした」などとあります。あれあれ、何やら日清戦争の時の対比の論理とよく似ていませんか。
その日中戦争は宣戦布告のない「戦争」なので、「賠償金も、新たな土地の割譲も望めない戦争に、どうやって国民の士気を集中させればよいのでしょうか。政府はここで深いジレンマに立たされることになります」。
そして「国民が心から受けとめられる戦争目的を、どのように設定していったのでしょうか」と問いを投げかけ、中国の民族主義の否定、東アジアの民族を超えた地域的連帯の必要性を訴え、中国の国民政府を援助する英米の帝国主義国家も打倒されねばならないという、あのいまわしいスローガンの数々がでてくるわけです。
念のためですが、この著作は、国民が戦争をやむをえないと受け止め、あるいは積極的に求めたりするようになる何かがあったはずという問題意識で書かれているので、それぞれの戦争での具体的な戦闘内容や市民がどのように犠牲になったのかなどは、あまり書かれていません。
加藤さんが神奈川県内の私立中高一貫校の歴史部の生徒に、太平洋戦争にいたる近現代史について「授業」をした、その記録です。以下、『選んだ』と書きます。
実はこちらを先に読んで、その後に『戦争の日本近現代史 征韓論から太平洋戦争まで』(以下『近現代史』とします)を読んだのだと思うのですが、今回、2冊を続けて読み返してみて、『選んだ』の内容は『近現代史』にそったものでした。タイトルの「それでも日本人は戦争を選んだ」には少し疑問も持っていたのですが、『近現代史』の主題である「為政者と国民」という切り口からすると、タイトルは加藤さんの視点そのものずばりということが確認でき、すこしほっとしました。
歴史部の生徒の反応も素晴らしいですし、正直高校生にしては出来すぎ、と思わないでもないですが、加藤さんが『近現代史』で書いた内容を高校生にもわかりやすく授業をしていることに、ただただ敬服しました。高校生相手だから難しいところは避けて、ということはなく、内容は『近現代史』とそん色のないものです。
「ある意味2001年時点のアメリカと、1937年時点の日本とが、同じ感覚で目の前の戦争を見ている」と生徒たちをひきつけます。「歴史の面白さの神髄は、このような比較と相対化にあるといえます」とも。現代と歴史を結び付けて考える大事な視点を中高校生に教えています。
このくだりを読んでどうしても考えてしまうのが、ロシアのウクライナ侵攻です。宣戦布告をしたからといって戦争を正当化するつもりは毛頭ありませんが、ロシアは宣戦布告すらなくウクライナに侵攻し、その行為を正当化するためでしょう、特殊軍事作戦と称しています。
2023.08.22
この夏も、広島、長崎で原爆投下による犠牲者を悼み、太平洋戦争の終結の日を迎えました。1学期終業式で生徒のみなさんには、夏は戦争について、平和について考えてほしいという話をしました。そこでは、テレビでもおなじみのタモリさんの、今年が新しい戦前になるかもしれない、という発言を紹介しました。保護者のみなさまにお配りしている「東野便り2号」でもとりあげました。
もちろん「新しい戦前」にしてはいけないと話し、戦争について、平和について考えらもらうことを、いわば夏休みの「宿題」としたのですが、自分自身も改めてこのことに向き合うために、太平洋戦争のまさに戦前、1930年代の外交・軍事を専門とされている加藤陽子さんの著作を再読しました。
『戦争の日本近現代史 征韓論から太平洋戦争まで』(以下『戦争の』と略します)では、為政者や国民が、いかなる歴史的経緯と論理の筋道によって、だから戦争にうったえなければならない、だから戦争はやむをえないという感覚までを持つようになったのか、そういった国民の視覚や観点や感覚をかたちづくった論理とは何なのかという切り口から日本の近代を振り返ってみる、という主題が提示されます。
ここで注意したいのは「国民」が入っていることです。単純に軍人や一部の政治家が危機を煽り、国民はそれに引きずられて戦争に「巻き込まれていった」ということではなく、国民も「戦争をやむをえないと受け止め」、「あるいは積極的に求めたりするようになる」何かがあったはず、という問題意識です。
幕末の攘夷論が大きな力となってできたはずの明治新政府がその「攘夷」、つまり外国を排撃することができないという「矛盾」あるいは「負の遺産」が、新政府に大胆な施策をとらせ、人々のあいだに対外的危機に敏感な近代的政治意識を急速に浸透させていった、というところから始まります。
例えば自由民権運動の一般的な印象からすると、いわゆる民権派は平和主義者と考えがちですが、「日本の自由民権運動は、最初から国権論的な動機づけをもっていたがゆえに、広く支持を獲得できたといえるでしょう」とあり、まずここではっとさせられます。加藤さんは民権派の主張が掲載された新聞などを参照しながら「列強に対峙するための軍拡については、為政者と民権派のあいだに、基本的な対立は生じようはなかったはずだ」ととらえています。
明治期の陸軍のリーダーだった山形有朋の、日本と朝鮮半島・中国大陸との関りでの戦略観には、伊藤博文が帝国憲法作成にあたって指導を受けたウィーン大学のシュタイン教授の影響が非常に強いことに注意を促します。開設された国会では軍事費を増強させたい政府と民権派が激しく対立したように従来語られてきましたが、「軍事費そのものをめぐる部分では、基本的な対立がなかったとみなせます。日清戦争を軍事的に可能とする軍事予算は、着実に獲得されてゆきました」
その日清戦争、軍事戦略的な論点だけでなく、「為政者や国民にとって避けられない戦争だと自覚されるには、いま一歩別の媒介物が必要であった」と、冒頭であげた本書の主題による問いかけがでてきます。そして加藤さんは「内政改革に熱心な日本、それを拒絶する清国という、きわめて単純な対比の論理が加わりました。これは、国民が戦争を理解する上で、軍事戦略論から説く利益線論よりは、有力な論理の筋道を提供していったはず」ととらえます。(軍事戦略論から説く利益線論は山形有朋が提案した考え方です)
そして「文明と野蛮の戦争という、非常にわかりやすい構図を明示された国民は、近代となって初めての本格的な対外戦争を熱心に受け入れ」たのです。(つづく)
「東野便り2号」はこちらから。PDFファイルです
2023.08.17
明日18日は生徒の登校日です。朝、普段通りの始業となります。
太鼓橋からFVB(Future View Base)に向かう通路脇に植えられた1000本のひまわりが満開となっています。
2023.08.10
「埼玉県吹奏楽コンクール高等学校Bの部」県大会が8日、さいたま市文化センターで行われ、東野高校吹奏楽部は金賞に輝き、西関東大会に出場することになりました。おめでとうございます。
くわしくは、クラブブログをどうぞ。こちらから
私のいる部屋は吹奏楽部が主な練習場所としている音楽室から少し離れていて、「生」の音を聴くことがなかなかできないのですが、パート練習で教室から漏れ聴こえてくる音色に、ああ学校だなあと心温まる思いがします。音楽があるキャンパスっていいなといつも感じています。
さて8月17日まで登下校用のスクールバスは運休で事務室は閉室、学校の代表電話も留守番電話になります。
個人的にもお休みをいただくので、このブログも1週間ほど、お休みをいただきます。
2023.08.10
さだまさしさんの作品『甲子園』は、さださん関連の本をきっかけに、発表の1983年から40年後の今年、私にとっての「新曲」となりました。この思わぬところでの出会いという曲が、さださんについてはまだあるのです。そのひとつは『償い』です。
2007年初版、購入した版は第31刷という大ベストセラーです。「爆笑」となっていますが、法廷で判決文を淡々と読み上げるだけと思われる裁判官が被告に向かって結構生々しいコメントや意見を発言している、そんな事例を集めた本です。その冒頭に紹介されているのが、裁判官の「君たちは、さだまさしの償いという唄を聴いたことがあるだろうか」という説諭です。
『償い』は、交通事故の加害者が毎月の給料を割いて被害者の遺族にお金を送りつづけたという内容の歌で、裁判官は傷害致死罪で起訴された少年2人の被告に反省の様子が見られないことからこの問いかけをしたのです。こう続けます。
「この唄の、せめて歌詞だけでも読めば、なぜ君たちの反省の弁が、人の心を打たないかわかるだろう」
この裁判、説諭は2002年のことで、新聞でも異例のこととして取り上げられました。
さださんの1982年発表のソロ7枚目『夢の轍』(ゆめのわだち)に収められた曲です。しつこいようですが就職したばかりの時期でこの『償い』も発表時には聴いていません。この判決のニュースで「さだまさしにそんな曲があったんだ」と知ったのです。実際にあった話を歌にしたそうで、今でも聴くと胸がしめつけられます。
もう1曲は『風に立つライオン』です。
アフリカ・ケニアで医療にあたる青年医師がモデルの作品、日本に残した恋人から結婚を知らされる手紙への返信という形で、アフリカでのくらしのこと、患者とのふれあい、日本への思いなどを語るという内容です。楽曲は1987年発表。
その時の新聞記事にはこうあります。
女子生徒は「自分の好きなことをしようという青年、彼女と離れたことは可哀そうだが、女の人も男の人の人生を見守っていてあげて偉い」と解説してくれました。
この時はすぐにCDを購入して聴いたと思います。
その後さださんは被災地などでチャリティコンサートを積極的に行うのですが、へき地医療や災害現場での復旧活動にあたる人を支援する組織や人たちを支援する団体をつくります。その団体名が「風に立つライオン基金」。
さださんにはすばらしい曲がたくさんありますが、いろいろな意味で、『風に立つライオン』はさださんの代表作の一つだと思います。思わぬところではありましたが、出会えてよかった楽曲の一つです。
「風に立つライオン基金」の公式ホームページはこちら
説諭で『償い』をとりあげた裁判官、『裁判官の爆笑お言葉集』でも説明されていますが、法律にのっとって淡々と進められるのが裁判、裁判官の個性が感じられる場面は少ない、いやむしろあってはいけないと多くの人が考えていると思います。私自身新聞記者をしていて法廷での取材経験はありますが、この本に出てくるような裁判官の「生の声」を聴いた記憶はありません。
でも裁判官だって、法廷での被告人の態度とかに一言いいたくなることは絶対にあるはず、それをずっと我慢しているのだろうと推測します。この本は、実はそうでない、裁判官の「生の声」が結構聞けるんだよ、ということをとりあげたことが新鮮だったのでしょう。
市民から選ばれた人が裁判官になる裁判員裁判制度が導入され、司法(裁判)を身近にしなければならないというのが近年の司法の使命の一つになっているなかで、裁判官が市民に届く言葉で語ることも重要になってきていると考える裁判官が増えているのかもしれません。考えすぎでしょうか。
「甲子園、野球の歌 その1」(8月8日)で、さださんの『甲子園』が収められているアルバム「風のおもかげ」についても書きました。改めてCDの歌詞カードめくっていたら『祈り』という曲にこんなくだりがありました。
「この町がかつて 燃え尽きた季節に / 私たちは誓った 繰り返すまじと」
さだまさしさんは長崎の出身です。きのう8月9日、長崎に原爆が投下され78年がたちました。
2023.08.10
さだまさしさんの作品『甲子園』のことを知り、すぐにその曲が収録されているCDアルバム「風のおもかげ」を購入しました。この1曲を聴くだけならネットでダウンロードできるし、その方が安価と若い人には笑われそうです。
CDどころかレコードから音楽にふれてきた世代としては、楽曲がパッケージ、ひとつの「かたまり」として表現される形を大事にしたい、こだわりたいと考えています。「アルバム」というのですから、どういうテーマ、コンセプトで曲を作り、あるいは選び、どういう順番で並べるのかというのも、ミュージシャンの「表現」なわけです。まことに年寄りのこだわりではありますが。
おかげで、アルバム「風のおもかげ」で『甲子園』以外にも魅力的な曲に出会えました。これって、ネット通販で必要な書籍をピンポイントで購入するのもやむを得ないものの、書店内を歩いて棚をながめることで思いもよらぬ本で出合える、ということと同じですね。
さださんが野球を題材にした曲には『二軍選手』という曲があります。
1989年発表のソロ14枚目『夢の吹く頃』に収録されています。カズレーザーさんも『うらさだ』(小学館文庫、2023年)で触れていますが、こちらは知っていました。
売れない歌手(僕)とプロ野球二軍選手(彼)との友情、二人とも飛躍(歌のヒット、1軍定着)のチャンスは生かすことができなかったが、僕は小さな酒場で歌い続けている、彼はバッティングピッチャーとして投げ続けている、歌が好きだから、野球が好きだから、といった内容です。こちらもスリーフィンガーのギターが主伴奏、『甲子園』に雰囲気は似た曲です。
さださんが尊敬し影響を受けたサイモンとガーファンクルの名曲「ボクサー」(1969年)を意識して作られた曲だと思います。
『甲子園』の歌の舞台になっているのは喫茶店ですが、店内のテレビで野球中継を流しているわけです。最近の喫茶店ではちょっと考えられないので、若い人たちにはピンとこないかもしれませんね。
スポーツバーなどにサポーターが集まって観戦・応援することになぞらえたらとも思いましたが、こちらは積極的に「観る」、みんなで「観て盛り上がる」ことが主目的。
ところが喫茶店のテレビで流れる野球放送は「なんとなく見ている」「時々目に入る」ですね。見ない人もいるわけです。アルバム発表の1983年は昭和58年、昭和の終わりが近づいていました。