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  • 2023.09.15

    この夏の「一気読み」 その②

    この夏「一気読み」したなかでお薦めの一冊、北欧デンマークを舞台とした警察小説『特捜部Q』シリーズ、最新作「カールの罪状」の本の帯には「シリーズ完結目前」とあり、複雑な気持ちで読み進みました。

    そして「訳者あとがき」によると「いよいよ次はシリーズ最終作」、えっ、「作者はすでに執筆に入っており、年内にも刊行予定だという」とも。そうなるとまた1、2年楽しみに待つことになります。

    言い忘れましたが、当然のごとく、原作はデンマーク語で書かれていて、同国に隣接して歴史的にも関係の深いドイツ語に訳されたものを、日本語に訳してくれているわけです。翻訳の方はドイツ文学がご専門のようです。いやはや、ありがとうございます。

    シリーズ各作品のコンパクトな案内は早川書房のこちらがよさそうです。こちらから

    ちなみに特捜部Qシリーズは「ポケミス」と親しまれる早川書房の新書サイズの推理冒険小説のラインナップの一つとして順次刊行されてきました。ビニールカバーがかかっていて、本のページ紙が少し黄色がかっているのが特徴です。「その①」に書いたようにシリーズのほとんどが上下二段組の長編、ポケミスでの発刊の後に順次、早川書房の文庫本でも刊行されているようで、上下巻に分かれているタイトルもあります。

    早川書房のホームページでチェックすると、文庫版の解説者が北上冬樹、恩田陸、堂場瞬一などすごい顔ぶれ、おもわず「ずるい」、さすがに「解説」だけのために改めて購入するまではいたりませんが、こちらはリアルタイムで読んできたんだからと、ちょっと自慢しておきます。

    /
    『特捜部Q』シリーズ、これだとちょっと分厚さが伝わりにくいでしょうか
    /ヴァランダー警部シリーズ。ミステリを並べている書棚ですが、満杯状態なので手前に文庫本、奥に単行本

    同じようにシリーズで次々に読んだという作品は、北欧でもデンマークのお隣、スウェーデンの推理作家、ヘニング・マンケルのヴァランダー警部シリーズ。こちらは田舎町の中年刑事です。

    シリーズスタートの『殺人者の顔』が1991年、『リガの犬たち』 (1992年)、『白い雌ライオン』 (1993年)、『笑う男』 (1994年)、『目くらましの道』(1995年)、『五番目の女』 (1996年)、『背後の足音』 (1997年)、『ファイアーウォール』  (1998年)、『霜の降りる前に』 (2002年)と続きます。いずれも創元推理文庫、『特捜部Q』と比べると、比較的立て続けに出ていますね。

    どの作を最初に読んだのかもうわからないのですが、書評でしょうか、何かでこのシリーズのことを知って手に取ったところ、とにかく面白くて、次々にシリーズを読みあさりました。何冊かには読了の書き込みがあり2013年に立て続けに読んだようです。作品の発表時からみると、「出会い」は遅かったようです。ただ、それだけ『特捜部Q』のように次作を長い時間またなくてよかったわけです。

    作者はすでに故人なので、未発表作品が見つからない限り、もうシリーズの新作を楽しむことはできないと勝手に思っていたところ、今回ブログを書くのに出版社のホームページを見ていたら、どうもこの後の作品があるよう。シリーズ最終作は2020年発売らしい、即買いです。うれしい。

    創元推理文庫を出している東京創元社の公式ホームページはこちらから

  • 2023.09.14

    この夏の「一気読み」 その①

    自分自身が読んできた本を紹介することが中心のこのブログですが、近ごろは歴史関連の本が多くなっています。自身のレパートリーの中の主流であるのは確かなのですが、楽しんで読むための本も(歴史本が楽しくないとは言いませんが)、それなりには読んでいます。ただ、なかなか紹介しにくいということはあります。

    面白くて夢中になって読んだ本について「徹夜必至」とか「一気読み」とかいいますよね。さすがにこのごろは徹夜までして読む体力はないですが、この夏の「一気読み」の筆頭はこれ。

    『特捜部Q カールの罪状』(ユッシ・エーズラ・オールスン、早川書房、2023年)

    「特捜部Q」シリーズの最新作第9弾。2段組537ページの長編ですが、陳腐な言い方ながら「読みだしたら止まらない、ページをめくる手がとまらない」

    早川書房のホームページから引きます。

    「世界40ヵ国以上で刊行され、累計2400部を突破しているデンマークの警察小説〈特捜部Q〉シリーズは、日本における北欧ミステリブームをけん引してきたシリーズです」

    第一弾『特捜部Q  檻の中の女』の発刊が2011年。コペンハーゲン警察本部に勤務するベテラン刑事のカール・マーク警部が迷宮入り(未解決事件)の捜査にあたる特捜部に配属されます。特捜といえば聞こえがいいですが、ようするに厄介払い、左遷人事。地下の刑事部屋で古い未解決事件の書類と格闘する日々が始まります。シリア人の助手アサド、その「アサドに負けぬほどの変わり種(第2弾『特捜部Q ―キジ殺し―』のあとがきより)ローセ(女性です)ら部下は個性的と言えばこれまた聞こえがいいが、要するに変人ばかり。

    警察小説では特定の時代を設定せずに捜査にあたる刑事たちを描く、というスタイルもよくありますし、また、刑事たちの私生活にはあえてふれない、というパターンも多いなか、このシリーズでは刑事、捜査官たちは「成長」し、あるいは年老いていきます。

    カール・マーク警部はシリーズ当初期、家庭はほぼ崩壊状態、シリーズが進むにつれて新しいパートナーと出会い、第9作では子どももできていました。アサドもシリアの圧政下で苦しんでいた家族を呼び寄せるなど、部下たちの生活も大きく変わります。

    また舞台となるデンマーク、北欧の社会が描かれ、当然、捜査方法も近代化されていきます。第9作ではなんとコロナ禍がデンマーク社会を襲い、警察の捜査体制も大きな制約を受けることになります。

    だらだらと本筋の周辺の話しばかり書いていますが、はい、ミステリーなので粗筋やましてや終盤の展開などは紹介しないのがマナーでしょう。加えてこの手のシリーズ本をお薦めするのはすごく難しい。何しろ9作目、「1作目からどうぞ」とはなかなか言えません。

    もちろん、最新作から読んでも、それまでの展開を知らなければわからない、といったことはなく、シリーズ各作品ともに独立して読める内容になっているのは、エンタテイメントとして当然ではあります。

    私自身は1作目から読み始めることができ、新作を「まだかな、そろそかな」と楽しみに読み継いでこれたことは幸運でした。

  • 2023.09.12

    「地元再発見」の旅行ガイドブック

    このブログ「本校通学圏内から生まれた名曲 その1」(7月25日)でガイドブック『地球の歩き方 埼玉(2023~24)』を紹介しました。世界各地をとりあげている著名なガイドブックですが、そのシリーズの一つとして「埼玉」が発刊され思わず買ってしまったという話でした。

    この『地球の歩き方』シリーズについて朝日新聞の9月8日、9日に特集記事が載っていました。出版不況と言われ、雑誌・書籍の売り上げがどんどん減ってきている状況に追い打ちをかけたのがコロナ禍。旅行に出かける人が激減し、旅行ガイドブックも売り上げが大幅に減ります。

    そんな苦境にどう向き合ったのか、特集のタイトルは「V字回復」、「まだまだやれることはあるのでは」という好例として記事にしたのでしょうが、なるほどと思った点を少し。

    『地球の歩き方 東京』が結構な反響を呼んだことから、国内版を次々と手がけます。京都、沖縄、北海道と、このあたりはまあ定番というか理解できるのですが、千葉や埼玉が出るわけです。そう、ここで私自身も目に止まったわけです。「東京・多摩地域」というのも出ているそうです。本校通学圏ですね、要チェック!

    これら国内版を購入した読者の反響から編集部の方たちは、以下のようなことに気づいた、と記事にあります。

    「ガイド本は本来、知らない土地を知るために買うものだが、地球の歩き方の場合、『地元愛』で買われている。土地の歴史やコラムや口コミが充実し、地元を再発見する読者が多いのだ」

    はい、私も『地球の歩き方 埼玉』の「コラム」で旧米軍住宅でレコーディングした細野晴臣さんを「再発見」することができたわけです。

    さらに心強く励まされたのは以下です。

    旅行先の情報取得手段は間違いなくスマホに変わりつつあるのが現状でデジタル化は当然の課題としながらも、編集部のスタッフは「紙」の強みにも気づかされたとあります。

    「詳細なガイド本はときに約1千ページもある。画面をスクロールしては到底見切れないが、ぱらぱらとめくって目にとまったところが旅情をそそる」と記者は書き、「ネット検索や対話型人工知能(AI)の回答では得られない良さではないか」とのコメントが続きます。

    『地球の歩き方』の公式ホームページはこちらから

  • 2023.09.10

    盈華祭ご来校のお礼ーー吹奏楽部は西関東大会出場

    10日(日)は東野高校の第38回盈華祭(文化祭)、保護者のみなさま、卒業生、そして中学生のみなさん、たくさんのお客さんにおいでいただきました。ありがとうございました。

    盈華祭のようすは学校ホームページでもお伝えしていますのでご覧ください。こちらから

    台風による大雨で事前準備の予定が変更になるなか、生徒たちはきちんとこの日の一般公開に間に合わせてくれました。そして生徒一人ひとりが素敵な笑顔と元気なあいさつでお客様を迎えてくれたことを、何よりもうれしく思いました。

    さて、文化祭ということで吹奏楽部のステージを期待されたお客様も多かったことと思いますが、この日は舞台にあがることができませんでした。というのも、この夏、吹奏楽コンクールの地区大会、県大会ともに金賞をいただき出場を決めた西関東大会の開催日がちょうど同じ10日となってしまったのです。

    できれば学校からもたくさんの教職員が応援に駆け付けるところなのですが、盈華祭でそれもままならず、学校代表として北村陽子参与(前校長先生)に出張していただきました。北村参与から写真が届いています。

    西関東大会の結果発表は10日の夕方とのこと。文化祭のあとかたづけをしながら、それを待っているところです。

  • 2023.09.08

    この夏の乱読 その②

    この夏、大変興味深く読ませていただいた1冊、『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』の筆者、桃崎有一郎さんは1978年生まれ、歴史学界でおいくつぐらいまでが新進とか若手の研究者とか言われるのかはわかりません。この本の帯には「気鋭の学者」とありますが。すでに意欲的な著作を次々と出しています。

    これまでの著書のうち

    『平安京はいらなかった――古代の夢を喰らう中世』(吉川弘文館、2016年)
    『「京都」の誕生--武士が造った戦乱の都』(文藝春秋、2020年)
    『京都を壊した天皇、護った武士--「一二〇〇年の都」の謎を解く』(NHK出版、2020年)
    『室町の覇者 足利義満』(ちくま新書、2020年)

    は購入記録があるのですが、書棚から “発掘” できたのはうち2冊。いつもながら整理の必要性を痛感しつつ。

    どうですか、どの本もタイトルが絶妙で刺激的でそそられませんか。「平安京はいらない? どうして」とか「京都を壊したのは乱暴な武士だろう」と突っ込みたくなりますよね。

    『平安京はいらなかった――古代の夢を喰らう中世』(吉川弘文館、2016年)

    平安京やそれに先立つ平城京、藤原京などは、教科書や資料集などにある通り、宮殿・内裏を置いて道路が碁盤目状に造られ、家々が立ち並んでいたという光景を想像してしまいがちですが、それはあくまでも理想的な姿。平安京は早い段階から街中を左右に分けたうちの「右京」は低湿地で住居地には向いていないことから衰退し、対照的に「左京」側は鴨川の東側、碁盤目状の外側に街が広がっていきます。

    一方、戦乱や火事で焼けた後の市街地は御所周辺の「上京」といくつかの道路でつながった「下京」に二分されたことも近年の研究で明らかになってきているし、さらには豊臣秀吉が市街地を「御土居」と呼ばれる土塁で囲むなどの大改造をしたこともよく知られているわけです。

    桃崎さんは、
    「平安京が、造営当初から一貫して実用性を欠き、未完成で、そもそも過大(オーバーサイズ)な都市であった」
    「その設計思想では理念が優先し、実用性は二の次であり、平安京はいわば “住むための都市” や “都市民が使うための都市” ではなかった」
    「それは最初から “秩序を見せる都市” であり、つまり “秩序を目に見える形で人々が演じる都市” 」
    ととらえ、「要するに劇場として造られた都市であった」とまとめます。

    『「京都」の誕生--武士が造った戦乱の都』は手元で確認できないのですが、『平安京はいらなかった』のあとがきで桃崎さんは「古代末期に無用の長物という烙印を押された平安京は、中世に入って真に “劇場都市” として甦り、活用されてゆく。そして、これまで現代京都の出発点となった中世京都は天皇・公家・町人の都市と信じられていたが、中世京都を真に築きあげたのは武家政権であったと、私は見通している」とあります。この「見通し」によって書かれたのでしょう。

    室町幕府三代将軍、足利義満については、天皇の地位を奪おうとしたという説(皇位簒奪)が『室町の王権 足利義満の王権簒奪計画』(今谷明、中公新書、1990年)で紹介され、話題になりました。

    桃崎さんは「実は今、その説を信じる歴史学者は皆無に近い」とまで書いています。今谷さんの著作の発刊後に反論がたくさん出てきたことは知っていますが「皆無」と言われるとさすがに・・・。とはいえ「さらに研究が進んだ結果、義満が天皇家との融合を図っていた証拠が見つかり、皇族化を狙っていた可能性が見えてきた」「義満像も室町幕府像も、大きく書き換えられつつある」そうです。

    本書はそこに切り込んでいくわけですが、簒奪か皇族化は置いておいても、義満と相対した天皇がいるわけで、その後円融天皇の「日記の全容を、本書は初めて一般向けにお目にかける。そこには皇位についての、天皇と義満の二人きりの、密室での密談が記録されていた」とも。このあたりの書きっぷり、『平治の乱の謎を解く』に通じるところもあるような。

    前後しますが「平安京」からみで大変ユニークな視点で書かれた本があります(ユニークとのくくりは筆者に失礼かもしれませんが)。

    『平安京のニオイ』 (安田政彦、吉川弘文館・歴史文化ライブラリー、2007年)

    もちろん歴史学が「平安京」のニオイを再現できるわけではなく(化学者でも無理ですが)、さまざまな文献や史料からニオイに関する部分を集めて、考察します。

    平安京ということで貴族社会が思い浮かび、貴族、特に女性の雅(みやび)、麗しき香りと連想していきそうですが、いやいやそうではない、現実は、という話しです。どうでしょうか、想像がつきますか。

    桃崎さんが「理念が優先し、実用性は二の次」「住むための都市ではなかった」と指摘していることを、別の角度から考察、主張している、という言い方もできるでしょう。

    少し前の刊行ですが、桃崎さんの話を書いていて、この勉強になった著作を思い出しました。

  • 2023.09.07

    この夏の乱読 その①

    長かった夏休み、ゆっくりと読書のできる貴重な時期だとも思えるのですが、いかがでしたか。私の机周辺に読み終えた本が何冊かあり、強い印象が残っているもの、とにかくリラックスできたものなどなど紹介したい本がある一方で、購入したはいいもののページを開けていない本(積読!)がその何倍も。とほほ、ですね。

    まずは1冊。

    『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』(桃崎有一郎、文春新書、2023年)

    このブログで「プリゴジンの乱」との呼ばれ方について書く準備をしていたころ(ブログは8月2日)に手に取りました。参考にしようとの目論見もなきにしもあらずでしたが、筆者の桃崎さんは個人的に注目している研究者で、これまでも結構刺激的な著作を楽しんできました。その桃崎さんの新しい著書ということで読み、やはり期待を裏切らない面白さでした。

    タイトルに「乱読」とありますが、いろいろ読んだ、という意味で、平治の「乱」にひっかけてわけではありません。念のため。辞書では「乱読」に「濫読」の漢字をあててもいます。こちらの方がいいかも。

    平治の乱(起きたのは1159年、平治元年)について「日本史年表 第5版」(歴史学研究会編、岩波書店、2017年)には以下のようにあります。

    「藤原信頼・源義朝ら、院御所を襲い、上皇を内裏に移して天皇とともに幽閉する。信西(藤原通憲)自殺する。平清盛、信頼・義朝らを破り、信頼を斬る(平治の乱)」

    桃崎さん自身は「そもそも知名度が低い。学校では保元の乱とセットで暗記させられただけ」と自虐的に切り出し、「保元の乱で勝ち残った勢力が、内輪もめを起こした。政権を主導する信西に対して、廷臣の藤原信頼と武士の源義朝が不満を抱き、反乱を起こした。しかし、官軍の平清盛に撃破され、清盛が武士の生存競争の最終勝者となった」と「あらすじ」をまとめています。年表の「硬い」表現を「翻訳」したような感じですね。

    「平治の乱」は桃崎さんもあげている「保元の乱」とセットで「保元・平治の乱」などとも呼ばれ、日本史の流れの中では、摂関政治・院政と続いた古代中世から平氏・源氏の武士勢力が政治の中心に深く関わるようになり、次の中世・武士の時代を招くきっかけとなった事件、といったところでしょう。

    では、桃崎さん自身が「ロマンに満ちた謎もない。<本能寺の変で信長暗殺を企画した黒幕は誰か?>とか、<邪馬台国はどこにあったのか?>といったような、歴史本や歴史番組の花形には遠く及ばない」という「平治の乱」を、桃崎さんはなぜ一冊の本で書くのか、という話になってしまいますよね。

    ここまで思わせぶりに書いてから本の内容に触れていく、というのが本来なのでしょうが、本の帯に「誰が首謀者で、誰が隠蔽したのか? 日本史を転換させた謎だらけの大事件」とあります。さらには素晴らしい読書家で歴史関連の著作も多い出口治明さん(立命館アジア太平洋大学学長)の推薦文「息づまる迫力で進んでいく。ミステリのように面白い」がついています。

    そう、良質な推理小説を読んでいるような展開で、首謀者、隠蔽した人をここで書いてしまったら、ミステリの本を紹介する際のルール違反(犯人が誰かは書かない、アリバイ崩しなどのタネ明かしはしない)と同じことになってしまう、と考えた次第。

    もちろん単なる読み物ではなく、平治の乱の持つ意味、歴史的位置づけについては、研究者としてきっちりと押さえて著述していることは書いておきます。

  • 2023.09.05

    久しぶりの「邪馬台国」 その④

    「邪馬台国」の所在地は九州か近畿・現在の奈良県かといった論争とは違った角度から「纏向遺跡」(奈良県桜井市)の重要性を指摘した『卑弥呼とヤマト王権』(寺沢薫、中公選書=中央公論新社、2023年)。その寺沢さんの恩師である森浩一さん(同志社大学教授、故人)は、邪馬台国の所在地は九州にあったとするのですが、その勢力が後に近畿に移ったとする「東遷論」を主張していました。

    『倭人伝、古事記の正体』(足立倫行、朝日新書、2012年)に、森さんが亡くなる少し前のインタビューが掲載されています。
    筆者でノンフィクション作家の足立さんが、北部九州勢力が3世紀に主力を近畿に移してヤマト政権を形成した、という「東遷論」について質問します。森さんは「約50年前に『古代史講座』第3巻(学生社)を刊行した頃(1962年)から考えていました」と答えています。

    「東遷論」は九州か畿内かという考えの折衷案ではありません。足立さんは続編とも言える『血脈の日本古代史』(ベスト新書、2015年)で「3世紀代に倭国の権力の中心が北九州から畿内の大和盆地に移動したことは巨大古墳出現で明らかなので、その権力移動を何時、そして誰と捉えるか」といった課題に答える有力仮説の一つが「東遷論」だとしています。

    目を引いたのは森さんの、インタビューでの「纏向遺跡」についての評価です。

    纏向遺跡の発掘調査で大型建物群の遺構が発見され、「「卑弥呼の宮殿か」と取り沙汰されました」という質問に対して
    「僕はその発掘で畿内説が有利になったとは毛頭思わない」
    「学者なら、纏向の地で最初期の宮殿遺構が発掘されたとなると、まず考えるのは、記・紀に書かれた宮殿のはずです」(記=古事記、紀=日本書紀)
    いやはや、手厳しいというか、明快な意見ではあります。

    1980年代、京都で新聞記者をしていた時に同志社大学教授だった森さんに取材する機会がありましたが、話し出したらとまらないといった感じ、とにかくエネルギッシュな人という強い印象が残っています。一方で、ご一緒した他紙の考古学に詳しい記者の方とのつっこんだやり取りを傍らで聴いていて、まだまだ勉強が足りないと痛感もした思い出があります。

    ちょっと本筋からはずれますが森浩一さんの著作をいくつか

    『巨大古墳の世紀』(岩波新書、1981年)
    『天皇陵古墳への招待』(筑摩書房、2011年)

    「天皇陵古墳はぼくの終生の研究テーマである」(『天皇陵古墳への招待』より)という森さんには天皇陵に関する著作はたくんありますが、書棚からこの2冊を見つけました。

    岩波新書はさすがにちょっと古いかな。『天皇陵古墳への招待』については、このブログ「久しぶりの「邪馬台国」 その③」で紹介した『森浩一の古代史・考古学』のなかの「森浩一入門--いま読める10冊」で「天皇陵古墳を、あくまで考古学資料として扱い、現代の天皇陵古墳研究のベースとなる一冊」と紹介されています。

    森さんが幅広い分野に関心を持ち研究していることがうかがわれる1冊。

    『この国のすがたと歴史』(2005年、朝日新聞社)

    中世史研究に大きな足跡を残した網野善彦さんとの対談本。専門分野は異なるものの日本文化の特質や列島の地域ごとの特色、交流などについてそれぞれの学識を惜しみなく披露して縦横無尽に語り合っています。

  • 2023.09.04

    久しぶりの「邪馬台国」 その③

    これまでも邪馬台国に関する研究者の著作や松本清張の小説も読んでいるのですが、改めて「九州説」「大和説」を整理するために書棚からひっぱりだしました。

    『珍説・奇説の邪馬台国』(岩田一平、講談社、2000年)

    少し古い本ですが、筆者は朝日新聞で長く考古学を取材した方です。邪馬台国はここだ、というさまざまな説をとりあげ、その説を提唱している人に会い、現地を歩きます。

    纏向遺跡に関連しては「大和・纏向説」としてとりあげられています。『卑弥呼とヤマト王権』の筆者、寺沢薫さんの名前はでてきませんが。このほか「九州」では「宇佐・別府説」「筑後山門説」「鹿児島県阿久根市説」「福岡県甘木市説」があげられています。

    あれれ、「吉野ヶ里」がでてきません。こちらについては「各説」の一つではなく、「第1部 邪馬台国論争早わかり」で「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国なのか」として特記されています。いわば、別格のような形なのですが、「いまでは吉野ケ里遺跡は「魏志倭人伝」に登場する女王国連合傘下の某国の都というのが、おおかたの見方だ」と否定的です。

    「吉野ケ里」派の方々は怒りそうですが、「珍説・奇説」に入れられなかっただけよかったか。何しろ「ジャワ島説」や「新潟説」なども出てくるのですから。あらら、そうなると「大和・纏向説」はそれらと同列、「珍説・奇説」になってしまう。

    いうまでもなく寺沢さんの主張、著作が「珍説・奇説」あるいは「奇書」の類であるわけはありません。寺沢さんの『卑弥呼とヤマト王権』の各所に出てくる研究の蓄積、史料・資料への向き合い方は丁寧ですし、また論争になっている同じ研究者への敬意もうかがえる一流の研究者です。というのも、寺沢さんが纏向遺跡に関わるきっかけにところで触れていますが、寺沢さんの恩師は戦後の考古学界をリードしたひとり、森浩一さん(同志社大学教授、故人)ということからも、寺沢さんの学問への向き合い方は間違いないものと思います。

    その森浩一さんの没後に交友のあった方々が寄せた文章や森さんの研究業績などをまとめた『森浩一の古代史・考古学』(深萱真穂・『歴史読本』編集部、KADOKAWA、2014年)という本で、で寺沢さんは以下のように書いています。

    「森浩一先生は邪馬台国九州説(福岡県南部~熊本県北部)に立つ。だから私は恩師とは対立軸にある存在ということになる。しかし私は、学生時代から先生の反ヤマト史観の影響をつぶさに受けた。邪馬台国の所在地こそ対峙するものの、その権力系譜や実体という本質的な問題に関しては、先生とは極めて近しい存在にあるものと思っている」とし、森さんから研究者として影響を受けたことを振り返っています。

  • 2023.09.01

    久しぶりの「邪馬台国」 その②

    『卑弥呼とヤマト王権』(中公選書=中央公論新社、2023年)の筆者、寺沢薫さんが所長を務める「桜井市纒向学研究センター」のホームページ内の「纒向遺跡ってどんな遺跡?」には、「纒向遺跡は、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは西の九州の諸遺跡群に対する邪馬台国(やまたいこく)候補地として全国的にも著名な遺跡」とあります。

    遺跡としての特徴として、「発生期古墳が日本で最初に築かれている」「農耕具が殆ど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多い」ことから日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも目されています」と説明されています。

    このくらいの広さだろうと想定される地域の面積にしてまだ2%ほどしか発掘調査されていないとのことなので、今後、決定的な発掘成果が得られるかもしれません。

    「纏向遺跡」と卑弥呼の墓とみる研究者が多い箸墓(はしはか)古墳(矢印)は近接しています

    桜井市纒向学研究センターのホームページはこちら

    一方「九州説」でも、九州のいろいろな遺跡などが「邪馬台国」の所在地と言われるのですが、その一つが佐賀の「吉野ヶ里遺跡」ということになるでしょうか。

    先日の新しい発掘の成果を披露する見学会の案内が佐賀県のホームページに掲載されています。

    吉野ヶ里遺跡“謎のエリア”で発見された石棺墓を特別公開します!

    佐賀県では、令和4年度から国営吉野ヶ里歴史公園内にある日吉神社境内地跡の発掘調査を行い、本年で2年目を迎えます。令和5年度の調査で、石蓋に「×」などの線刻が施された邪馬台国時代につくられたと考えられる石棺墓1基が発見されました。この石棺墓は、内部の掘り下げや記録作成を終え、6月14日に一旦調査を完了したところです。この石棺墓を、下記のとおり、2日間、発掘調査現場にて特別公開します。ぜひこの機会に全国的に話題となった石棺墓をご覧ください。

    どうでしょう、「邪馬台国時代につくられた」と慎重に書いていますが、自治体として大事にしたい遺跡であることがひしひしと伝わってきますね。

    地元紙の佐賀新聞の記事です(ウエブ版です)

    <吉野ケ里遺跡・石棺墓調査>「世紀の発見」なかったが…吉野ケ里再び脚光 9月の未発掘エリア調査に期待も

    「吉野ケ里遺跡で『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国を思わせる大環濠集落発見、と報じられて34年。邪馬台国時代の石棺墓(せっかんぼ)の内部を調査すると佐賀県が発表し、全国から再び注目を集めた。14日までの発掘調査では「世紀の発見」はなかったものの、吉野ケ里の存在感を改めて示した。」

    「緊急会見した山口祥義知事は「副葬品がなかったのが極めて残念」と悔しがった。ただ、かつての「吉野ケ里フィーバー」を想像させるほどの報道陣が詰めかけ、インターネットでも話題になった」

    「長年続く邪馬台国の所在地論争を決定づけるものが出るのではないかという期待感から、多くの考古学ファンが注目した」
    「今回の調査で論争に終止符を打つことはない」と現場説明会でくぎを刺すほどだった。
    「まだ4割は掘られていない。9月に再開する未発掘エリア調査への期待を口にする」

    うーん、地元はやはり「九州説」ですかね。

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    吉野ケ里遺跡(公園)にはこれまで2度、訪れています。写真は直近?の2017年時、大きくは変わっていないと思いますが。

    発掘結果を踏まえて建物群が復元され、その建物の一つの中に等身大の人形が並び、この遺跡がしめす「国(クニ)」の政治の様子が展示されていました(写真上)。もちろん「邪馬台国」と直接結びつけているわけではありませんが、けっこう踏み込んだ再現だと感じました。

    写真左下、中央奥の高層の建物の周囲に竪穴式住居が並びます。

    印象に残ったことの一つは、建物群の周囲に深い濠・溝が廻らされていて、さらに頑丈な木の柵も廻らされていたことです(写真右下)。これが佐賀新聞の記事にある「大環濠集落」なわけですが、思った以上のスケール感。言うまでもなく「敵」の襲撃を防ぐためのものなのでしょうが、ずっとあとの時代の「城」を思わせるようなものものしいものでした。

    吉野ケ里遺跡は歴史公園になっていて、公式ホームページにはバーチャルツアーも用意されているようです。こちらからどうぞ

  • 2023.08.30

    久しぶりの「邪馬台国」 その①

    佐賀県の吉野ケ里遺跡でこれまで発掘されなかった石棺墓(せっかんぼ)の内部調査が行われ、新聞やテレビで久しぶりに「邪馬台国」が話題になりました。研究を大きく進展させる発見はなかったようですが、9月には未発掘エリアの調査が再開されるそうです。それに触発されたわけではないのですが、卑弥呼、邪馬台国に関する近刊が書評で話題になっていたので、「復習」も兼ねて手にとりました。

    『卑弥呼とヤマト王権』(寺沢薫、中公選書=中央公論新社、2023年)

    この本で主に論じられるのは奈良県桜井市の纏向遺跡です。筆者の寺沢さんは国内の考古学研究をリードしてきた「橿原考古学研究所」に長く勤務し、現在は纏向遺跡の発掘調査、遺跡保存、研究成果の発信を目的とする「桜井市纒向学研究センター」の所長を務めています。

    と聞くと、卑弥呼や邪馬台国に関心のある人は、邪馬台国があったのは今の奈良県内とする、いわゆる「大和説」の論者の一人か、それならばあまり新味はないのでは、と判断してしまいそうですが、一概にはそうとも言えず、ぐんぐん引き込まれる内容です。

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    纏向遺跡は発掘調査で大型建物がいくつもあったことが明らかになり、その柱が復元されています
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    少し復習を。

    中国の史料「魏志倭人伝」によって、2~3世紀に日本列島に「邪馬台国」という「国(クニ)」があったとされ、さらに、いくつもの「国(クニ)」が争い、やがて卑弥呼と呼ばれる女王がたてられて国々がまとまった、とされるわけです。(国、クニの表記そのものが現代のいわゆる「国民国家」とは規模や成り立ちなどが異なるので、どう定義し表記するかも研究者によって異なり、それ自体が論争の一つになっています)

    この卑弥呼から中国大陸にあった「魏」の国に使者が送られて交流が生まれたことから、中国の史料に当時の列島の様子が書き残されることになったわけです。

    このころの列島の「国」のありようを記した「文字資料」「記録」は現在のところ日本にはなく、いわば中国の史料に頼らざるを得ないうえ、その記述も簡単な内容なので、その内容だけでは「邪馬台国」が列島のどのあたりあったのかがはっきりとしないまま、古くは江戸時代から「邪馬台国」はここだ、というたくさんの説が提唱されてきました。

    大きくは九州北部にあったとする「九州説」、今の奈良県内にあったとする「大和説」が有力とされています。その「大和説」にしても、大きなくくりであって、当時の「国」の人口はせいぜい数万人規模、一口に奈良県内といっても、ではその県内のどのあたりかでまた意見が異なってくるわけです。

    寺沢さんは土器の編年から古墳の作られた年代を精緻に検討し、さらには古墳の副葬品などを比較し、文献も参照しながら論を進めます。私が簡単に要約できるような内容ではないのですが、「中国の史書のどこを紐解いても、卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは明記されていない。確実なのは倭の女王、倭国女王ということだ」と注意を促します。

    つまり「卑弥呼は邪馬台国の女王だと考えるから、九州の「一女酋」にすぎないとか、邪馬台国はもともと奈良盆地の覇者であり、しだいに畿内全域から西日本への連合を拡大し、ついには列島の覇者(ヤマト王権)へと成長したなどといった誤った発想を生むことになる」と、従来の「九州説」も「大和説」も否定します。

    争っていた国々が争いをやめるために女王をたて、その女王のもとでまとまった。その王権の都が置かれたのが纏向遺跡の場所であり、邪馬台国は都が置かれた場所(国名)でしかないと主張しています。

    /纏向遺跡の解説。「ヤマト王権はじまりの地」と慎重な言い回しです。描かれている人物は卑弥呼?
    /纏向遺跡のすぐ側にある箸墓(はしはか)古墳。卑弥呼の墓とみる研究者も多い

    このあたりはかなり丁寧に読み込んでいただく必要があるかと思いますが、寺沢さんは、国が乱れているときに国々が戦いによってそれを解決しようとするのではなく、一人の女王をともにたてることで解決しようとしことを「強調したい」と言っています。

    魏志倭人伝で「共立」と書かれている「ともにたてる」、それは「壮大な政治的談合(合同)を重ねた結論」であり、「政治・経済の世界ではしばしばマイナスイメージとして語られてきた「談合」とか「根回し」が、二一世紀の国際社会における課題や解決する最も平和的手段であるようにも思える」と。なるほど。