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BLOG校長ブログ

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  • 2023.05.19

    「板碑」って知ってますか

    学校がある埼玉県がタイトルについている本はやはり気になります。歴史教科書で知られる山川出版社からでもあり、資料にもなりそうなので購入しました。

    「日本史のなかの埼玉県」(水口由紀子編、山川出版社)

    パラパラとめくっていて目にとまったのが「ついに発見! 板碑の一大生産地 全国一位の二万七〇〇〇基」というコラムでした。

    何年か前、東京・上野の「東京国立博物館(東博)」の「平成館1階 考古展示室」だったか、「板碑」の現物を見て、正直それまであまり関心がなかったのですが、思ったより大きく、確か限られた時代の限られた範囲で残っているといった説明だったように記憶していました。

    コラムによると「板状の石で造られた卒塔婆(そとうば)、板碑は日本の中世に特有な石造物。埼玉県を含む武蔵国で造立された板碑は「武蔵型板碑」と呼ばれている。埼玉県でこれまで確認された板碑は二万七〇〇〇基を超え、全国一位です」と説明があります。比企郡小川町下里の割谷(わりや)地区がその一大生産地とみられ、研究が進んでいるそうです。

    一方、東博の公式ホームページ、2007年に開かれた特別展「板碑―中世の供養塔―」の解説ですが、「板碑は、五輪塔(ごりんとう)・宝篋印塔(ほうきょういんとう)とともに中世に盛んに作られた供養塔で、中世の歴史や社会を研究する上で重要な資料の一つです。板碑は北海道から九州まで分布しますが、特に埼玉県を中心とした関東に多くみられます」とあります。
    埼玉県が出てきますが、数が一位とは断定していません。国立博物館としての姿勢ですかね。

    東博の解説によると、中世に全国的に作られた板碑は近世には廃れてしまう、その起源や消滅に関してはいろいろな意見があるようです。

    小川町の「下里・青山板碑製作遺跡」については同町のホームページ、こちらを

    板碑はどんなものか、東博の公式サイトの「画像検索」でたくさん見ることができます。こちら

    この画像検索、絵画、彫刻、歴史史料、磁器など東博所蔵品のデジタルアーカイブ(デジタル画像)で、見ごたえ十分です。

  • 2023.05.18

    英語の歌をさらに楽しむために

    「アメリカン・パイ」で英語歌詞に触れたので、英語の歌の続編を。本校は英語検定全員受検で、検定に備えた準備として英検週間(年2回)も設けています。今年度1学期の英検週間は中間考査が終わった翌週の5月29日から。
    生徒のみなさんにお説教するわけではありませんが、「英語ができると音楽(洋楽)聴くのも一段と楽しくなりますよ」という話にします。私自身の現在の英語への向き合い方の一つとして、自戒をこめて。

    「英詞を味わう 洋楽名曲クロニクル」(泉山真奈美、三省堂、2015年)
    「ロックの英詞を読む」(ピーター・バラカン、集英社インターナショナル、2003年)

    問1 次の文を日本語に訳しなさい
    I can’t get no satisfaction

    イギリスを代表するロックバンド The Rolling Stones(ローリング・ストーンズ)の代表作の一つで発表は1965年、タイトルは「Satisfaction」、日本語タイトルとしては「サティスファクション」とされます。そのままですね。「I can’t get no satisfaction」と繰り返し歌われます。

    さて、洋楽の翻訳が1万曲を超えるという泉山さんの著書から引くと、ある大学教授が「この曲は『俺は満足できないことはない』と歌っている」と解説した……
    「否定形+no(または他の否定語)」は否定の否定ではなく、否定の強調である、正しい英文に置き換えると「I can’t get any satisfaction」だが、「そこを二重否定を用いて否定の強調をしたところがストーンズらしい」と泉山さん。というのも、ストーンズが影響を受けたブルースやソウルミュージックなどでこの二重否定による否定の強調がよく出てくるのだそう。

    この大学教授のエピソード、都市伝説のようにも思えますが、もしかしたら漢文に詳しい方だったのかもしれませんね。では自分はかつてどうたったかと振り返ると、否定の強調を知識として知っていたかおぼつかない。ただ、ストーンズは不良性で売っていたミュージシャンなので、「満足」するはずがない、「満足できない」が当然、と理解していました。 いや「can’t」が「can」に聞こえていたかも。いよいよヒアリングとして情けないですね。

    問2 「spirit」に注意して以下を日本語に訳しなさい。
    So I called up the Captain
    “Please bring me my wine”
    He said, “We haven’t had that spirit here since 1969

    アメリカを代表するロックバンド、Eagles(イーグルス)の代表曲の一つ「Hotel California」の歌詞の一部。こちらも曲の日本語タイトルは「ホテル・カリフォルニア」、そのまんま。
    イギリス出身、ラジオ番組の案内役などで知られるピーター・バラカンさんはこの曲の解説の前段で「単純な「カリフォルニア賛歌」のように勘違いしている人もかなりいるようですが、歌詞の内容はまったく逆です。70年代カリフォルニアの、特に音楽業界や芸能界に象徴される退廃した世情に対する批判が込められている」。

    泉山さんは「社会の行き場のない閉塞感を、ホテル・カリフォルニアという架空の建物に足を踏み入れた男を代弁者に仕立てて語らせた曲」と説明しています。「英語圏の人ですら一聴してすぐには意味を汲み取れない歌詞はかなり難解である」と泉山さんが書いてくれているので、1977年の発表時からずっと聞き続けていて,全容を把握しきれない私も安心するのですが、それでも、この「問2」の歌詞は初めからひどく印象に残っています。

    歌詞全体でなくここだけ取り出して読めば、比較的わかりやすいですよね。そこでポイントは「spirit」(もちろんこんな親切な設問はないでしょうが)、バラカンさん、泉山さんの説明にある、この曲全体のとらえ方の中で「spirit」をどう訳すかということですね。「ダブル・ミーニング」という言葉をこの歌で覚えました。

    ◆泉山さんの解説

    ――主人公がワインを頼もうとすると、従業員(Captain)は素っ気なくこういうのだ。「1969年以来、当ホテルではそのようなspiritは扱っていません」と。ここを深読みするなら、もう「1969年当時のような精神はこの国には残っていません」。1969年という時代にアメリカの多くの若者たちが抱いていた熱い思いや、ヒッピー文化を築きあげんとして唱えたLove&Peaceの精神がすっかり冷え切ってしまっていたのだ。

    ◆バラカンさんの解説
    ――「wine」はアルコール、酒と考えてかまいません。その後のnineで韻を踏むためwineにしたのでしょう。spiritはそのwineを受けた「(蒸留)酒」の意味と、69年を最後に失われてしまったspirit、つまりヒッピーの「精神」のダブルミーニングです

    蛇足ながら、辞書的にはspiritは精神、霊、気分などでの例文が多く、「アルコール度の高い酒」といった意味は後の方に出てきます。ただバラカンさんが指摘するように「wine」効いていますよね。「ワインはないのか」という要求に対して従業員がありませんというのは全く普通。ただwineがないとは言わない。「spirit」はないと。

    そして「1969年からない」、1969年から禁酒法があったわけではないし、一般的にホテルにお酒がない、在庫がないというのは現実的ではない、1969年という年が重要、そこから「精神」という意味合いが出てくると解釈している。

    一つの単語について一つの訳をあてるのが普通で、学校で習う英語(試験問題)は原則そうですよね。ところが一つの言葉に二つの意味を持たせる手法で、「比喩的表現、ダブル・ミーニングの巧みさなど、今あらためて聴いてみてもうならされます」とバラカンさん。

    この2冊ですが、実は「アメリカン・パイ」について詳しく調べようとした時、久しぶりに手にとりました。残念ながらどちらにも取り上げられていませんでした。いずれもかなりの数の曲があげられ、私の知らない曲も多く、正直なところ、すべて読んでいません。今でも時々昔のロックを聴き、新しい発見があり、「そういえば」と参照する時に開きます。「辞書」のように使っている本です。

    「ポップミュージックで社会科」(細見和之、みすず書房、2005年)

    紹介した2冊のように英語の歌の歌詞を追うのではなく(もちろん翻訳が前提ですが)、外国の歌が日本に入ってきてどう歌われてきたか、それがどう原曲と異なっているのか、また、歌われた背景が隠れてしまっている例があることを教えてくれます。子牛が市場に連れていかれる「ドナドナ」、森山良子さんの歌で知られる「思い出のグリーングラス」など、ショッキング、驚きでした。あえて詳しく書きません。

    本校の英検への取り組み、英検週間についてはこちらをどうぞ(昨年度の様子です)

  • 2023.05.17

    アメリカの「パイ」

    韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が訪問先のアメリカでの晩餐会で「アメリカン・パイ」を歌ったというニュースについてこのブログに書きました(5月2日)。ちょっと消化不良のところがあり、ずっとひっかかっていました。そこで、まずは先日の大型連休中に実家のレコードラックからその「アメリカン・パイ」のレコードを「発掘」してきました。

    というのも、この曲は1971年発表、その時代を反映して社会批判が盛り込まれている楽曲と思い込んでいました。アメリカのベトナム戦争への反戦運動が高まっていた時期でもあります。そんな曲だとしたら尹大統領は歌わないだろうと。そこで当時のレコードに何らかのヒントがあるのではと探したわけです。

    レコードの片面に4~5分くらいの曲1曲しか収まらない「シングルレコード」なので、曲の解説はあまりに素っ気ない。作者・歌手のドン・マクリーンについて「素晴らしい新人の登場です」「詳しい資料がないので、経歴その他は現在の所不明です」って、そんなのでいいの、という感じ。

    そして「モノの大きさから評価すれば、充分、ディラン、ジェームス・テイラー、ドノヴァンetcに匹敵出来る逸材です」。ここでいう「ディラン」はボブ・ディランのことでしょうから、かなり社会性のある歌をつくる新人、ととらえられていたのかもしれません(レコード会社がかなり無理した解説のようにも読めますが)

    「アメリカン・パイ」の歌詞については、ネット上でいろいろな方が和訳してくれていますので、ぜひ検索してみてください。比喩や著名なロック曲からの引用などがいろいろあるようですが、直接的な社会批判はなさそうです。

    そしてこのレコードのジャケット、表紙写真です。おそらくドン・マクリーン本人でしょうが(説明はありません)、親指を突き立てた手がアップで写っています。その親指にはアメリカの国旗を模したペイントが施されています。

    /余談ですが、このレコード500円となっています。50年前ですよ。9分弱の曲とはいえたった1曲でこの価格です。現在、ダウンロードして購入する1曲の価格、さらには定額聴き放題の価格からすると、とんでもなく高価だったんですね。(レコードには付箋は貼れないですね)
    /

    「アメリカン・パイ」でアメリカ国旗ってあまりにストレートですよね、そしてこの親指を突き立てる形は「thumbs up」(サムズアップ)と呼ばれ、「いいぞ、よし」と賛成・満足などを表すジェスチャー・サインとされています。そうなると、このレコードジャケットは、社会批判どころか「アメリカ賛歌?」、歌も「アメリカ いいね」
    (このサインは英語圏では肯定的に使われるが、中東などでは侮蔑の表現とされるとの説明もありましたが、そこまでの深読みはする必要はない?)

    というか親指をたてるこのサイン、SNSなどでおなじみの、あれです。ちゃんとした背景があるのですね。

    さて、ではなんでタイトルに「pie パイ」なのか

    辞書的に「パイ」は 肉や果物などを小麦粉の生地に入れて焼いたもの、「米国の主婦が誇りとする料理で、特に apple pie はデザートとして人気がある」といった記述も。これでは素気ない。アメリカの食に関する本から少し手がかりを見つけました。

    「食べるアメリカ人」(加藤裕子、大修館書店、2003年)
    生活文化ジャーナリストが食を通してアメリカを観察した本ですが、筆者の加藤さんは、自分にとってのおいしいアメリカ料理のイメージとして、「甘く煮たリンゴがとろけそうなアップルパイ」をあげています。

    アップルパイはヨーロッパから新大陸に伝わったものながら、イギリスから(移民が)持ってきたリンゴの種はアメリカで様々な品種となり、アップルパイも多様なバリエーションのレシピが考案された、と説明してくれています。

    「アメリカは食べる アメリカ食文化の謎をめぐる旅」(東理夫、作品社、2015年)
    東さんはミュージシャンでアメリカの音楽の歴史に詳しいのはもちろんですが、ミステリーの評論も多く、またアメリカの料理・食についての著作も多い方です。東さんは「アメリカは、移民たちの各自の食の文化を、アメリカの食文化に仕立て上げるしかなかった、それがアメリカ食の宿命だった」と言います。アップルパイもその一つと言えるのでしょう。

    さらに東さんは、マーク・トウェイン(『トム・ソーヤーの冒険』の作者)が1870年代後半にヨーロッパ旅行をした時の様子をまとめた「ヨーロッパ放浪記」の中で、ヨーロッパのさまざまな美食をよそに、(トウェインが)アメリカに戻ったら本当に食べたいものをリストアップしている、と紹介し、その中に「アップルパイ、クリームを添えて」があり、「マーク・トウェインは、アメリカのごく平凡な、誰もが好きなアメリカ料理を恋しがっているのだ」と続けます。

    「エクスプレスEゲイト英和辞典」(2007年、初版第2刷)では「apple pie アップルパイ」の項で「米国では開拓時代から伝統的なデザート、as American as apple pie アップルパイのようにきわめてアメリカ的な、という表現もある」と説明しています。アメリカを代表する料理の一つということから、このような表現が生まれたのでしょう。

    そうなると、この歌「アメリカン・パイ」の「パイ」はアップルパイのことでしょう。(アップル)パイ=アメリカなのだから、アメリカそのもの描いた歌、といった意味が込められているのでしょう。また、(アップル)パイにはたくさんの種類があり、家庭ごとの味があり千差万別、多様なアメリカの姿をパイという言葉で伝えようとしたのかもしれませんね。

    「英語イメージ辞典」(赤祖父哲二編、1986年初版)では「pie」は比喩として「(as)easy as pie」「とても容易」、「pie in the sky」(絵に描いた餅=あてのない口約束)という決まり文句も紹介しています。ちょっと、軽い否定的なニュアンスも感じられます。歌にそんな意味合いも含めているとしたら……ちょっと考えすぎですかね。

    (この辞典について編者は「日英両語の比喩表現辞典」とその特徴を説明しています)

  • 2023.05.16

    ハードボイルド作家 原寮さん

    作家の原寮さんが亡くなり、新聞各紙で報じられました(5月11日毎日新聞朝刊など)

    毎日の訃報記事によると1988年「そして夜は甦(よみがえ)る」でデビュー、翌年2作目の長編「私が殺した少女」で直木賞を受賞。ファンがまとめたネットサイト、ブログなどをみると、デビュー2作目で直木賞というのも珍しく、その後、直木賞でミステリの受賞が増えていった、とのこと。直木賞は人気作家への大きな一歩であることが多いのですが、その後発表した長編はわずか4作(デビュー作含めて長編5編)。本棚をさぐると何冊か出てきました。

    ほぼ作品発表直後に読んでいるので手元にあるのはすべて単行本。文庫本も出ているようです。ほとんどが2段組で「……少女」は270ページほど。最近こんなミステリの大作はなかなかお目にかかれない。私も今ではひるんでしまいそうです。

    長編、短編含め発表した小説は私立探偵が主人公。その私立探偵は東京・西新宿に事務所を構える、「沢崎との苗字のみで下の名前は最後まで出てこない」、そうそう、そうでした。

    朝日新聞の訃報記事には「米作家レイモンド・チャンドラーの影響を受けた作風で日本のハードボイルド小説界に新風を巻き起こした」とあります。確かに原さんは、作品出版社の公式サイトでのインタビューでは、何度もチャンドラーに言及しています。

    チャンドラー、ハードボイルド小説ということで、何冊かは読みましたが、日本で言うところの推理小説・ミステリ、あるいは探偵小説のファンと自称するからには、当然読まなければならない、読んでおかなければならない作家、作品という強迫観念、義務感、通過儀礼……何しろ棚から見つけた「湖中の女」の発表が1943年、「プレイバック」が1958年(読んだのはいずれも1990年)、描かれる時代が古く舞台も遠い国の話で身近に感じられず、また、「ハードボイルド、男の生き方」みたいなことにはあまり関心がなかったので、チャンドラー作品には正直、強い印象は受けませんでした。
    チャンドラーの「Farewell, My Lovely」(1940年)の最初の邦訳時のタイトルは「さらば愛しき女よ」(ハヤカワ・ミステリ文庫)。訳者の清水俊二さんは数多く推理小説の翻訳をてがけています。村上春樹さんが訳して「さよなら、愛しい人」(早川書房)。本がきれいなままなので、たぶん読んでいない。やはりチャンドラーは遠かったか……

    では、朝日が書くところの、日本のハードボイルド小説界はどうなのか。ハードボイルド小説の主人公がみな探偵なわけではありませんが、チャンドラー作品の探偵はフィリップ・マーロウ。国内の名探偵としては「明智小五郎」(江戸川乱歩)、「金田一耕助」(横溝正史)から「コナン」(青山剛昌)までたくさんいるわけですが、現実の日本の社会で「名探偵」が活躍することはなかなか想像しにくいので、リアリティ(現実味)を求めるのか、あるいは真逆で非現実的だからおもしろい、と読むのか、探偵小説の好き嫌いは分かれるとことでしょう。

    さらに、タフな主人公が一つの指標となるハードボイルド小説は、小説のジャンルとしての定義付けは難しいとも思います。ただ、探偵ものとしては、逢坂剛作品に登場する岡坂神策のシリーズ(「十字路に立つ女」など)、東直己の「ススキノ探偵シリーズ」(「探偵はバーにいる」など)はなかなか読みごたえがあり、おもしろかったです。

    直木賞作家である逢坂さんはこの探偵岡坂が主人公のシリーズにとどまらずスペインや欧州を舞台に近現代史の謎に迫る壮大な作品群や、不気味な犯人と公安警察との闘いを描く「百舌シリーズ」、悪徳警官の「禿鷹シリーズ」、刑事迷コンビがドタバタを繰り広げる「御茶ノ水警察」もの、さらには時代小説も「重蔵始末シリーズ」、火付盗賊改・長谷川平蔵を主人公にした作品など実に幅広く多彩で、何を選んでもまず「はずれ」はありません。

    ミステリ、探偵小説、ハードボイルド、警察小説などなど、いろいろなネーミング、分け方があるでしょうし、「分類そのものには意味がない、作家の好き嫌いで読む本を選ぶ」もありでしょう。そもそも、こういった「人が殺される、事件に巻き込まれる」的な小説は嫌い、もあるでしょう。小説なので好き嫌いがあってもっともです。

    歴史の本ばっかり、ではなく、エンターテインメントもちょこちょこ読んできました、ということで紹介させていただきました。

    チャンドラー作品を読んだころ、海外のミステリー、冒険小説はよく読んでいました。「深夜プラス1」(ギャビン・ライアル)もそんな1冊。ハードボイルド小説とされるのはどうかはわかりませんが、冒険小説としては名作とされています。このままの店名で冒険小説や海外のミステリなどの専門書店(と言っていいでしょう)がかつて東京・飯田橋駅前にあり、よく足を運びました。新刊本だけでなくこれといった作家の古い作品もきちんと揃えていたからです。

  • 2023.05.15

    「三方ヶ原の戦い」その3

    しつこくてすいません。NHK大河ドラマ、14日の放送では松本・家康は浜松城から出陣の際、戦いは兵の数ではない、と檄を飛ばしていましたね(自分に言い聞かせていたのかも)。本棚で別の本をさがしていたら、またまた家康、戦国合戦関連の本が視野に入ってしまいました。「そうそう、これがあった」と。

    まず、タイトルがずばり「徳川家康」。武家社会研究の笠谷和比古さんの著作で、歴史人物伝としては定評のある「ミネルヴァ日本評伝選」の一つなので、家康研究のスタンダートとも言えそうです。

    笠谷さんは、武田信玄の軍が浜松城を素通りしたことについて、「侵攻する行く手にある城は必ず落としてから進む、少なくとも攻城軍を差し向けて包囲し城内兵力を封じ込めるというのが戦いの常道」なので、素通りするというのは侮辱的な行為であり、武田側の挑発行為であることは疑いなかった、武田のおびき出し作戦とわかっていながら家康が出陣したのは「これを空しく見送るとあっては武将として末代までの恥辱として、あえて打って出ることを決意し」と書いています。

    「三方ヶ原の戦い」の見方についてすでに紹介した本郷和人さん、磯田道史さんたちより笠谷さんはちょっと先輩で国際日本文化研究センターの名誉教授(磯田さんは同センターの現役の教授です)。この「三方ヶ原の戦い」については手堅い分析と言えそうです。(というか本郷さん、磯田さんのとこで紹介した「これまでの説」がまさにこういった内容でした)

    「三方ヶ原の戦い」についてさらに書くならもっと異なった説でないとおもしろくない? と考えていたら、ありました。

    「お金の流れで読み解く徳川家康」( 大村大次郎、2023年)

    家康の経済力(お金)は信長、秀吉を上回っていて、それが天下人家康をつくった、という切り口です。経済力に着目すること自体はそんなに驚くべきことではないでしょう。先に紹介した本郷和人さんも軍事力を支えるのは経済力と明確に書いていますし。

    ただ、筆者の大村さんは、武田信玄の領国・甲斐(山梨県)信濃(長野県)は経済的に豊かとはいえず、信玄が甲斐を出て大軍で西を目指したがかなり無理をした。西に進めばいやおうなしに織田信長軍と戦わなければなりません(信玄も天下を取るために京都を目指したという説に対して信玄はそこまでは考えていなかったという説もあるようですが、ここでは立ち入りません)。

    その織田軍との決戦を前にして浜松城を包囲しても城を落とす(家康に降参させる)にはそれなりの時間がかかるだろうし、兵隊の食料なども相当量必要になる、兵站(軍の後方支援)に不安がある、武田軍には浜松城を相手にするだけの経済的な余裕がなかった、と書いています。攻める余裕がなかった、攻めたくても攻められなかったというのです。
    史料の裏付けが書かれていないところが気がかりではありますが、私にとっては「新説」でした。

    「戦国15大合戦の真相 武将たちはどう戦ったか」(鈴木眞哉、平凡社新書)

    本の書き込みをみると2003年に読んでいて、恥ずかしながら内容はほとんど覚えていなかったのですが、鈴木さんはいわゆる「定説」に遠慮なく物言う方なので、今回読み直してみると、私の期待に応えてくれました。

    「この合戦(三方ヶ原の戦い)も徳川家の歴史のなかでは大変重要視されているので、江戸時代の多くの軍記などが扱っているが、負け戦さを勝ち戦さというわけにもいかない。そのため、ずいぶん苦労して、あれこれ格好をつけたりしているようなところがある」ので、軍記物では家康の決断で出陣したという話になる。

    ところが「史料をよく眺めてゆくと、待てよ……といった記述にぶつかる」、武田軍が浜松城の近くを通過しようとするのを見物にいった家康側の兵が武田方に石を投げるなどした、武田側も投げ返すなどしているうちに、本格的な戦いになった、家康はそんな部下たちをいさめよう、引き上げさせようとやむを得ず出陣した、そこから本格的な戦いに発展した、家康は戦いに巻き込まれた、そんなことが書かれている史料がいくつかあるとのこと。

    つまり決断して出撃したわけではなく、だから戦いの準備も十分でなかった、加えて兵の数でももともと武田に劣るのだから家康軍が戦いに勝つ見込みはほとんどなかった、というわけです。

    もちろん、この鈴木さんが引いている史料についても吟味しなくてはならないわけですが、江戸時代になると、家康は幕府を作った創業者ですから、家康は負けたにしても偉かった、すごかったと、家康を称えなければならなかった、と。歴史史料に向き合う時参考になる例ですね。

    このように「三方ヶ原の戦い」でもいろいろな見方があります。NHKの大河ドラマでこの後も家康の生涯が描かれいくわけですが、私自身が前半のハイライトと勝手に考えているのが、家康の妻・築山殿と息子信康が死に追いやられる事件。これにもいろいろな説があり、可能ならばまた取り上げますが、ドラマでは家康と築山殿が仲睦まじく描かれているだけに、この事件がどう描かれるのか注目しています。

    あとは「関ケ原の戦い」、こちらは笠谷さんの研究がこれまでほぼ定説とされてきたのですが、近年、新たな研究が出てきて、結構盛り上がっています。こちらも大河ドラマの展開にあわせて、ぜひ。まだだいぶ先ですかね。

  • 2023.05.13

    やっぱり本屋さん

    朝日新聞のロングインタビュー(10日付)、ジュンク堂書店の福嶋聡さんの書店の役割についての話に感銘を受けました。

    著作権のことがあるので(朝日新聞のデジタル版では有料記事です)、あまり引用できませんし、書店の役割について多岐にわたって示唆に富んだ話なので、とても簡単にまとめられませんが、特に印象深かった点を。

    売れる本ばかり売っていては、「社会の閉塞に風穴をあけるような新しい本を発見することはできない」、「今ある社会の欲望や格差の増幅器にしかならない」と言い、多くの本を置ける大型書店は、社会の「変革器」であるべきと話しています。

    ネットでの書籍の購入については、ピンポイントで検索するので「世界が狭くなる」、それに対して書店、本屋では「知らなかったこと、予想もしなかったこと、嫌いなことが入ってくる。迷い込む体験ができる」ととらえています。

    この部分は、新聞での情報収集とインターネットでの情報収集はどう異なるのかという説明と共通していると感じました。インターネットは求める情報がわかっている時にそれを探すのには便利(ピンポイントでの検索)、新聞は一覧性という強みで、ページをめくりながら見出しを追うだけでも多様な情報に接することができる、やはり「知らなかったこと、予想もしなかったこと、そして嫌いなこと」も入ってくるわけです。

    新聞記者時代、学校にお邪魔して新聞について話をするとき、ネット情報と新聞を読むことの違いとして、インターネットは好きなものばかり食べる食事、新聞はいろいろな「おかず」のある幕の内弁当、定食、と喩えたりしました。好きなものばかり食べる、偏食はよくないですよ、と言いたいわけです。

    私自身も新聞などで紹介されていたり広告をみてこの本、と決めた時は、やはりネットで注文はしてしまいます。とはいえ、できるだけリアルで、書店に足を運ぶようにしてはきました。この記事、福嶋さんの話を読んで、その思いを強くしています。

    ジュンク堂書店さんについては……

    昭和の終わりの時期に京都で記者をしていた際、学生の街、個性的な書店・古書店がたくさんあった京都に大型書店のジュンク堂が出店するということで、当時の社長さんにインタビューしました(ホームページを拝見すると1988年、昭和63年に京都店開業、とあります)。
    その後、ジュンク堂が東京にも大型店を出し、店での本の並べ方・見せ方、棚のつくり方が独特で、またお客がゆっくりと本を探し、内容を確認できるよう店内にお客さんが自由に座れるイスを並べるといった試みなどが話題にもなり、足を運びました(今でももちろん出かけていますが)。
    ジュンク堂書店さんの公式ホームページはこちら

    「那覇の市場で古本屋 ひょっこり始めた〈ウララ〉の日々」(宇田智子、 ボーダーインク)

    このジュンク堂書店に勤めていて退職、沖縄・那覇の公設市場に隣接する場所に小さな古本屋を開いた筆者が、店を開くに至ったいきさつや沖縄の人たちとの交流などを語ります。購入記録は2013年8月、もちろん沖縄に出かけた際、立ち寄らせていただきました。

    ごくプライベートなことで

    本の街・神保町に出かけた時に立ち寄るようにしているのは東京堂書店。店員さんの目利きというのでしょうか、思わぬ本との出会いが本当に多いお店です。
    東京堂書店さんの公式ホームページはこちら

    もう1店、鉄道愛好家(鉄ちゃん)の“聖地”「書泉グランデ」。ホームページをみたら「趣味人専用」とありました。
    書泉グランデさんの公式ホームページはこちら

  • 2023.05.12

    「三方ヶ原の戦い」その2

    本郷和人さんが著作「天下人の軍事革新」でNHK大河ドラマで今まさにとりあげられている「三方ヶ原の戦い」についてどうみているかに触れましたが(11日付けブログ)、日本史の著作で本郷さんにひけをとらないヒット作を連発している磯田道史さんが「三方ヶ原の戦い」をどうみているかも紹介します。

    「徳川家康 弱者の戦略」(文春文庫)

    磯田さんは、三方ヶ原の戦いに先立ち、家康と武田信玄本隊がぶつかった「一言坂の戦い」から説き起こします。「このとき家康が狙ったのは、ヒット・エンド・ラン(もしくはアウェイ)、一撃を加えて素早く逃げる戦法でした。私はこの家康の戦略的判断は正しかったと思います。しかし、ヒット・エンド・ラン戦術は完全にはうまくいきませんでした」と評価します。

    その2か月後に起きたのが「三方ヶ原の戦い」。磯田さんは、この合戦について詳細を伝える一次史料(同時期の手紙など)はほとんど残っておらず、細部は二次的な史料である日記・軍記も参考に再構成するしかない、と断ったうえで、家康、信玄、さらに信長の応援部隊の兵の数を検討します。家康は、信長の「浜松城を出るな(籠城しろ)、援軍が着くまで野戦はするな」という指示に従わずに浜松城を出た、と続けます。

    この出撃に反対する家臣も多かったのに家康は「敵に背戸(裏庭)をみすみす通られたら沽券にかかわる」と叫んで出撃したと、後に家臣によって書かれた物語の内容を紹介。さらに「戦えない武将は信を失い、人が離れる」という戦国時代の気風があり、遠州(遠江、今の静岡県)が武田軍に蹂躙されているのを黙ってみていては遠州の統治はかなわないと、家康は考え、「一言坂の戦いでヒット・エンド・ランはある程度は成功していた、今度もできるという思いが家康にあった」と推測しています。

    そして磯田さんは「三方ヶ原の戦い」を以下のように総括します

    戦闘ではぼろ負けしたが、その割には、家康側は死活的なダメージは負わなかった。重要なのは、家康が戦う姿勢を見せたこと。戦うべきときに戦わないと、求心力が失われ、家臣たちの離反が始まるが、それが起きなかった。
    三方ヶ原の戦いは家康にとって生涯最大の危機だったが、大敗直後からすぐに善後策を実行している。このあたりに、のちの天下人、家康の真骨頂をみることができる。

    本のタイトルにある、家康の弱者の戦略ですね

    三方ヶ原の戦いに触れた本を紹介しましたが、もちろんHNKのドラマを宣伝するつもりはありません。ただ、研究者の難しい専門書、論文でなくても、気軽に手にとることができる新書でも歴史的事件の解釈には結構な違いがあり、筆者の個性もうかがえるということです。

    そしてやはり、ドラマも一段とおもしろくなりますよ。(もっとも、こういった本を読んでドラマをみて「うんちく」を傾けると、一緒にドラマを観る方にいやがられるかもしれませんが)

    筆者の磯田道史さんはテレビの歴史番組などでもおなじみ、本郷和人さん同様、わかりやすい歴史解説で日本史に興味・関心を持つ人を増やしていることは間違いないと思います。

    磯田さんの著作から

    本郷さんの著作と同様、かなり読んでいるので、一部を、やはりネット購入の履歴から

    ◆「武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 」(新潮新書、 2003年)
    本の紹介に、「国史研究史上、初めての発見! 「金沢藩士猪山家文書」という武家文書に、精巧な「家計簿」が完全な姿で遺されていた」などとあります。磯田さんがご自分で貴重な史料を見つけられた、それを幸運だったと冷ややかに受け止める人もいるかもしれませんが、磯田さんの一連の著作を読むと、史料に対するこだわりは半端ではなく、こまめに、いろいろなところに足を運んでいることがわかります。だからこそ「お宝」に遭遇できたのでしょう。映画化されました。こういった素材が映画になるのもすごい。

    ◆「日本史の内幕 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで」 (中公新書、 2017年)
    ◆「日本史を暴く 戦国の怪物から幕末の闇まで」 (中公新書 、2022年)
    「日本史エッセイ」との紹介文もあるようですが、一つひとつのエピソードが読みやすい長さでまとめられいます。「武士の家計簿」のところで触れたように、きちんと裏付けになる、あるいはならない史料を示して書かれているところはさすがです。

    ◆『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』 (NHK出版新書、 2017年)
    ◆『「司馬さん」を語る 菜の花忌シンポジウム』 (文春文庫、 2023年)
    司馬遼太郎さんの一連の時代、歴史小説については、その歴史解釈が「司馬史観」などとも呼ばれます。司馬さんの作品は亡くなられた後、現在でも幅広く読まれており、司馬さんは国民的作家とも言われ、また、その「司馬史観」で日本史を理解する人が多いと心配する歴史研究者もいます。では、磯田さんはどうなのか。
    「菜の花忌」は司馬さんの命日をこう呼びます。その名前をとって毎年のように、司馬さんゆかりの作家や研究者が司馬作品をとりあげたシンポジウムを開催していて、磯田さんも何度も登壇しています。そこでの発言も、磯田さんが司馬作品をどのようにとらえていたか、参考になります。

  • 2023.05.11

    「三方ヶ原の戦い」その1

    NHK大河ドラマ「どうする家康」は7日の放送で「三方ヶ原の戦い」が始まるところを描いていました。本郷和人さんの「天下人の軍事革新」(祥伝社新書)でこの「三方ヶ原の戦い」はどう描かれているか。なかなか興味深いのです。

    武田信玄の軍勢が迫ってくるなか、家康は浜松城で籠城しようとします。ところが信玄は浜松城を素通りしていく。家康は屈辱を覚えて怒りにまかせて城から出撃した、といった見方があります。また、信玄と戦わなかったら、それまで家康に協力していた周辺の領主たちが「家康は頼りにならない」と離れていってしまうことを危惧し、戦いに挑んだ、などとも言われてきました。7日の放送でもだいたいそのように描かれていました。

    これに対して本郷説はこうです。

    金ヶ崎の戦いで織田信長軍の背後から浅井長政軍が突然襲い掛かった時、信長は防戦など考えずに一目散に逃げた(これも大河ドラマで描かれていました)。軍隊にとって、背後はそれだけ無防備で、そこを突かれることは大きなリスク、との前提で、背後を攻めるチャンスが生まれると、戦国武将の本能として動いてしまう、家康も信玄が浜松城を素通りして背中を見せた時、「これなら勝てる」「今こそ勝機」と城を出たのではないか、と自説を展開します。

    そして「それこそ信玄の策でした。あえて背中を見せることで、家康を城の外へおびき出し、野戦に持ち込もうとした」と続けます。信玄も戦国武将ですから、戦国武将の本能は当然わかっていた。「三方ヶ原の戦い」の結果は14日の放送で詳しく触れられるでしょうが、歴史的事実なので「ネタばれ」にはなりません。家康は完敗します。信玄が一枚上手だったということですね。

    本郷さんはこの著作に限らず、新書というスタイルの著作でも、日本史研究の多数派に対してどんどん自説をぶつけます。

    例えば「長篠の戦い」。信長・家康連合軍が武田勝頼を破った合戦は信長・家康連合軍が圧倒的な数の鉄砲を使って武田の騎馬軍団を破ったといわれてきましたが、鉄砲隊を3グループに分けて入れ替わり休みなく撃ち続けたという説は最近では否定的な見方が多く、その鉄砲の数は実際どのくらいかだったについても意見が分かれています。

    この戦いについて本郷さんは、織田・家康連合軍は馬防柵、空堀、土塁で陣地を築いた。攻撃側(武田側)からすれば城攻めをするようなもので、攻撃は困難を極める。この、平地を要塞化する「野戦築城」はその後、戦国大名の戦いの主流になっていく。「鉄砲という武器を有効活用するために行った野戦築城にこそ、信長の天才性がある」と評価します。

    また、「現在、学会の主流は信長は特別な戦国大名ではないとの評価だが、私(本郷)は、信長が特別でなければ天下統一はない、と反論する」とも。そして信長の「特別」の一つとして、「信長は居城を次々に移した。武田信玄は躑躅(つづじ)ケ﨑館のまま。多くの戦国大名は領地を広げても本拠地は変えていない。それでは軍事面、特に兵站面から全国支配・戦力は難しいでしょう。私(本郷)が本気で全国統一を考えていた戦国大名は信長ただ一人だったと考える所以(ゆえん)」と続けます。

    さて、大河ドラマでこの後、「長篠の戦い」はどう描かれるのか。岡田准一・信長はどう「特別」になっていくのか、あるいはならないのか?

    本郷さんの著作から

    たくさん読んでいて網羅できないので、ネット購入の履歴で追えるものを。いずれにしても、東京大教授ですが文章は大変読みやすいです。だからこそ新書等で大人気なのでしょうけど(研究書は別ですよ)。ブックレビューなどを読むと「軽い」と揶揄する向きもあるようですが。

    <対談本がいくつか>
    ◆「日本史のミカタ」 (祥伝社新書)
    国際日本文化研究センター所長の井上章一さんとの対談。井上さんの日本史ものがおもしろいし、学会の常識? に遠慮なく物言う方なので、この2人が揃えば……といったところ。

    ◆「戦国武将の精神分析」 (宝島社新書)
    脳科学者の中野信子さんとの対談。 別の著作で本郷さんは、中野さんの話は大変勉強になった、と書いています。

    ◆「日本史の定説を疑う」 (宝島社新書)
    作家で日本史についての著作も多い井沢元彦さんとの対談

    <視点がユニーク>
    ◆「壬申の乱と関ヶ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか」 (祥伝社新書)
    確かに同じ場所で時を隔てて大きな合戦があった。その着想がいいですね。

    <読み比べ>
    ◆「承久の乱 日本史のターニングポイント」 (文春新書)
    大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のタイミングで、ほぼ同時期に出版されたのが
    ◆「承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱」 (坂井孝一、中公新書)
    鎌倉幕府に対する後鳥羽上皇の姿勢・考え方について二人の意見がかなり異なる点など、読み比べにはもってこい。

    <歴史学者の本音を吐露?>
    ◆「歴史学者という病 」(講談社現代新書)
    歴史研究者としての自分の歩みを振り返ります。上で紹介した著作とは毛色が異なります。学会の現状への懸念・反発や学校での日本史教育についても発言しています。

    <新書だけでなく>
    ◆「信長「歴史的人間」とは何か」(トランスビュー 、2019年)
    もちろん信長に関する著作はいくつかあるわけですが、単行本として1冊。

  • 2023.05.10

    「天下人」2題

    「天下人の軍事革新」(本郷和人、祥伝社新書)

    「天下人たちの文化戦略 科学の眼でみる桃山文化」(北野信彦、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

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    NHK大河ドラマの主人公が徳川家康ということで家康や戦国時代に関する本が書店にたくさんならんでいます。同時代にいわゆる「天下人」と呼ばれるのが織田信長、豊臣秀吉、そして家康なわけですが、「天下人」をタイトルに織り込んだ近刊2作が対照的でいろいろと考えさせられます。

    「軍事革新」の本郷さんは専門の鎌倉時代にとどまらず戦国時代に関する著作も多く、最近では、日本史研究で軍事面の研究が忌避される傾向にあったことに疑問を投げかけています。
    ここでも、合戦の物語などに出てくる兵士数については大名領国の経済力(米の収穫量や交易での利益など)からその数が適切かどうか分析、長期間の戦争に必要な兵站(兵士の食料など)も計算し、やはりこの3人の天下人がずば抜けていたと説きます。

    軍事力=兵士の数であり、それを動かす強制力、すなわち権力の発動が必要。また兵士を育成、保持する経済力も求められる。領地を広げていくなかで、それらを蓄え、組織も整備していった。

    それを意識して行ったのが信長、秀吉、家康――と明快で、「三人の天下人は武田信玄や上杉謙信らとは異次元の存在」と言い切ります(信玄や謙信を好きな方、すいません)。

    この天下人が武力・戦力だけでなく文化戦略にも秀でていて、「文化」で他の大名らを圧倒したというのが北野さんの著作。

    彼らが優れた芸術家を取り立て、あるいはスポンサーになったという点は従来から知られたところではありますが、ここでは、彼らが積極的に海外から物資や最先端と考えられた科学技術を取り込み、その政権の中で生かしていったことを「文化戦略」と位置付けています。

    北野さんは文化財の保存・修復の専門家で、例えば鉄砲玉の素材の分析からその素材を海外に求めていたこと、城や御殿を飾る「漆」や「金」の調達・技術導入にも東南アジアなどとの交易が関わっていた研究成果が紹介されていきます。

    もちろん、そういう海外との交易を可能にするのは天下人たちの軍事力・経済力(例えば交易のための港の確保や交易船の安全運航の確保など)で、文化戦略だけを切り離すことはできないわけですが、それにしても彼らが「文化」の力を理解していたからこそ、とは言えるのでしょう。

    本郷さんも「天下人となった後、軍事力と政治力、法律だけで支配すると政権は緊張感に包まれ、不安定化をもたらす。文化がなければ社会はあらあらしくなり、価値観を共有できない」と書いています。

    軍事力によって戦国時代を終わらせた天下人の役割は否定できませんし、文化だけで平和が維持できるというのはあまりに楽天的、ということは理解しますが、現代になぞらえても、「ソフトパワー(文化)」が「ハードパワー(軍事力、政治力)」の補完にとどまってしまうのは、ちょっと残念ですね。

    本郷さんのこの著作については、後日さらに。

  • 2023.05.09

    今日は何の日<9日> ガリレオ裁判

    出勤時に聞いているNHKラジオ番組で「きょうは何の日」というコーナーがあり、その日に過去、どんな出来事があったかを紹介してくれます。5月9日の放送では1983年のこの日、ローマ法王がガリレオに対する宗教裁判が誤りだったことを認め、謝罪した、とありました。

    科学と宗教との関係は大変難しいテーマですが、そのものすばりのタイトル「科学者はなぜ神を信じるのか」(三田一郎)という本が結構読まれているようです。私が読んだ版によると2018年6月初版、22年2月11刷となっています。宗教団体が絡むような本ではなく、科学書として定評のある「BLUE BACKS(ブルーバックス)」(講談社)の一冊で、シリーズのラインナップにはない分野で話題になりました(筆者自身が「ブルーバックスとしてはやや異色の趣向」と書いています)。

    ここではもちろん「科学者」の一人としてガリレオ(1564~1642)もとりあげられています。開発初期の望遠鏡で天体観測を行い、惑星・衛星の動きの観察などから地球が太陽の周囲を公転していると考えた方が合理的だとする論文(地動説)を発表したわけですが、地動説は聖書の記述と矛盾するといって批判する神学者が多数おり1633年、カトリック教会の異端審問(裁判)でガリレオは自身の著作を禁書とする処分を受け入れ、終身刑が言い渡されました(実際の投獄は免れたとのこと)。

    このガリレオ裁判について1979年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が誤りであったことを認め、真実を調査する委員会が設置され、裁判から350年後の1983年5月9日、法王がバチカンで開かれた集まりで謝罪しました。

    「科学者はなぜ神を信じるのか」の著者、三田一郎さんは素粒子物理学を専門とする博士でカトリック教会の助祭(教会の位階の一つ)でもあります。

    この謝罪について三田さんは同書で「この謝罪がなければ多くの科学者が教会を離れていったでしょう。それは私も同じです。科学に捧げてきた人生が、「異端」とされてしまうからです」と評価しています。

    「万物の創造主である神はなぜ宇宙をこのように創ったのか、それを知るには「数学」という言葉で書かれた「もう一つの聖書」を読まなければならない――ガリレオはそう考えていました」「コペルニクスやガリレオの発見は教会が説く神の教えに疑問符を投げかけはしましたが、彼ら自身は、神の存在を微塵も疑っていませんでした」。そんなガリレオが異端であってはいけない、というわけです。

    三田さんは同書の「はじめに」でこう書いています。
    「科学者のなかには、神の存在を信じている人が少なくありません。これはとても不思議なことです。神を否定するかのような研究をしている人たちがなぜ、神を信じることができるのでしょうか? この素朴な疑問について考えることが、本書のテーマです」
    そして、神との関わりが深い宇宙論の進歩に貢献してきたコペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルク、ディラック、ホーキングといった科学者たちが科学と神の関係をどのように考えていたかを綴っています。宇宙論の「歴史」を学ぶにもいい本です。

    「このように神という視点を持って科学を眺めることで、そもそも科学とは何かという問いについても、何らかの答えが見えてくるのではないかと思っています」と三田さん。
    私にはまだまだ答えは見えませんが、大変勉強になった1冊でした。