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  • 2024.03.08

    京都も占領されていた ②

    京都占領期のゆかりの地巡り、と書いたら不謹慎でしょうか。進駐軍の将校や兵士の宿舎などを紹介しました。では、彼らはどこで仕事をしたのか、迎える側の日本の役人は、というところに続きます。

    進駐軍を受け入れるのはまずは自治体、京都府であり京都市なわけですが、占領軍とその進駐先の地方行政機関とのあいだをつなぎ連絡をとる終戦連絡事務京都委員会は現在の京都府庁内に置かれ、さらには軍政部がこの建物の中に入り、府の行政を監督、監視したそうです。

    この京都府庁の建物ですが、京都府のウエブサイトによると
    「旧本館は明治37年(1904)12月20日に竣工しました。昭和46年まで京都府庁の本館として、また、現在も執務室として使用されており、創建時の姿をとどめる現役の官公庁建物としては日本最古のものです」

    とあります。

    『古都の占領』ではこう紹介されています。
    「京都府庁旧本館は現在、重要文化財に指定されている美麗な建物である。中庭をかこんで部屋が並ぶ様式で二階の部屋数は約二〇、その半分を超える部屋が接収されていたことになる」

    私が京都で仕事をしていた時、教育委員会だったかが入っていて、建物に出入りしたことはあります。くどいようですが、こんな「歴史」は全く知りませんでした。
    京都府庁旧本館。玄関には車寄せが設けられています

    /京都府庁旧本館正面
    /正面玄関を入ったところ
    /中庭をかこんで玄関とは反対側の外観
    /2階の廊下。赤じゅうたんが敷かれていました
    /正面玄関から2階にあがる階段
    /玄関脇の建物の歴史を紹介する掲示。占領軍に使われていたことは書かれていませんでした

    京都府のウエブサイト「京都府庁旧本館」の案内はこちらから

    余談ではありますが
    この建物、占領軍はともかくとして後に京都府の庁舎として使われたわけで、府の役人のみなさんはこういう環境下で日々仕事をするのはどんな気分だったのだろうかと、いろいろと想像してしまいます。

    もちろん耐震の問題やIT設備対応などを考えると、さすがに今ここを役所としてフル活用するわけにはいかないでしょうが。ただ、建物そのものをきちんと保存していることは素晴らしいですよね。

  • 2024.03.07

    京都も占領されていた ①

    2024年の初めからしばらく(しつこく)京都のことを書きました。そのきっかけは、知らなかった京都という点で驚きがたくさんあった本『京都 未完の産業都市のゆくえ』(有賀健、新潮選書)との出会いでした。その内容を紹介しながら、「そういえば知らなかったという点ではこれもあったな」と思い出した別の一冊を読み返しました。そして先日、京の街を歩く機会があり、その本に出てくる場所を改めて訪ねてみました。

    『古都の占領 生活史からみる京都1945-1952』(西川祐子、平凡社、2017年)

    「占領」だけだと何のこと、ですかね、「1945-1952」が必要でしょう。

    「アジア・太平洋戦争後、ポツダム宣言の受諾により日本列島は米軍を主力とする連合国軍の占領下に置かれた。占領期を一九四五年夏のポツダム宣言受諾と九月二日のミズーリ号艦上における降伏文書調印から五二年四月二八日のサンフランシスコ条約発効までとするなら、約七年の歳月である」

    本の副題「1945-1952」はこの7年間をさします。京都も連合国軍の占領下にあったわけです。戦後の占領と聞くと首都東京にマッカーサー率いる連合国軍がやってきたことはよく知られていて、国内の主な都市にも連合国軍が進駐したことは知識としてはあったのですが、京都もそうだったとは恥ずかしながら京都で仕事をしていたころ、考えたことはありませんでした。

    改めてページをめくりなおしてみます。

    1945年9月25日に占領軍が京都駅前広場に姿を見せ占領が始まります。挿絵をみるとかつての京都駅ビルが写っています。烏丸口です、もちろん現在のあのすごい駅ビルからは想像できない光景です。

    「進駐した第六軍第一軍団の司令部は四条烏丸の大建ビル、現在のCOCON KARASUMAに設置された」
    「七〇年後の現在、建築家隈研吾による改修を経て京都のもっともファッショナブルなビルのひとつとなっている」

    おお、ここでも隈研吾さん。施設のウエブサイトにビルの変遷が紹介されています。進駐軍に関しては特段の記述はないようです。

    ホテルも植物園も

    「占領軍のクルーガー司令官は最初、東山にあった都ホテル(現・ウェスティン都ホテル京都)に滞在したが、やがて烏丸丸太町の交差点北西にある大丸社長宅、通称下村ハウスまたは大丸ヴィラが司令官宿舎となった」

    格式からいっても司令官はトップクラスのホテルだったここか。では将校やその家族はどこで暮らしたのか、ということです。

    「占領軍の将校家族用の宿舎は植物園に建設され、植物園が京都における「アメリカ村」といった空間になる」
    「京都駅から植物園までひきのばされた南北の動線1を、占領軍の行政ラインと呼ぶことができるであろう。じっさい住民たちは、烏丸通にはいつもジープが走っていた、と覚えている」

    「えーっ、植物園」ですよね。現在の京都府立植物園ですね。京都府立植物園のウエブサイト「京都府立植物園の沿革」には以下のようにあります。

    「戦後は、昭和21年(1946)から12年間連合軍に接収されました。このとき多くの樹木が伐採されるなど苦難の時代が続きましたが、昭和36年(1961)4月、憩いの場、教養の場としてその姿を一新し、再び公開しました」

    進駐軍司令部の置かれた、現在の「COCON KARASUMA」のウエブサイトはこちらから

    京都府立植物園のウエブサイト「京都府立植物園の沿革」はこちらから

    大丸ヴィラは京都市登録有形文化財に登録され、「史跡」あるいは京都の代表的な建築として紹介されています。
    こちらから(上京区のウエブサイトから)

    大丸ヴィラの建物写真を撮ろうとしたのですが高い塀と高い門があって歩道からは屋根くらいしか見えません。ネットで検索してみると、時々一般公開されていて建築関係のウエブサイトなどで建物や室内の写真などが多数紹介されています。区のウエブサイトでの紹介文には占領軍関連の記述はありません。

    すぐ近くには京都府庁、京都府警察本部があり、かつては毎日のようにこの建物の前を通っていたのですが、気にもしなかったし、ましてや占領軍うんぬんなど、まったく知りませんでした。

  • 2024.03.05

    卒業証書授与式がありました<5日>

    令和5年度卒業生の「卒業証書授与式」が5日、本校大講堂で行われました。本校37期生の新しい門出を祝いました。

    会場の都合で、ご来校いただいた保護者のみなさまには体育館で式の中継を視聴していただくという形をとりました。式後には各クラスに分かれ、卒業生・保護者と担任らがともに写真に収まったりして、本校最後の一日を過ごしていました。

    式辞では、AI(人工知能)によって社会が大きく変わろうとする中で、AIにとって代わられない価値は何か、私たち人間ができることは何かを考え続けてほしいと話し、また、卒業生が本校で過ごしたこの3年間にウクライナや中東での戦禍で多くの人が犠牲になっていることを忘れず、他人事と思わず、これからも平和を求め続ける努力をみなで続けようと呼びかけました。

    式辞のほか、中川進理事長のごあいさつ、在校生代表の送辞、卒業生代表の答辞を学校ウエブサイトのニュース欄で紹介しています。
    こちらをどうぞ

  • 2024.03.04

    途中でやめていいか ーー読書法③

    青山南さんのエッセイに出てきた「犬の耳」の話から福田和也さん、梅棹忠夫さんの著作に寄り道してしまいましたが、青山さんのエッセイにはほかにも「同感、共感」がいくつかありました。「犬の耳」ができているところから引用します。

    「ぼくの場合、本を読むのを途中で決意してやめるにはかなりの勇気がいる。読んでいるうちになんだかおもしろくなくなってきて、読みつづけるのが時間の無駄づかいのようにおもえてきても、決意して読むのをやめることがなかなかできない」

    「もちろん、読むのを途中でやめた本なら、いくらでもある。(略)でも、それらは、読むのをやめた! と断固決意したうえで読むのをやめた本ではなくて、なんだか読む気がしなくなったなあ、と曖昧な気持ちでいるうちに、なんとなくずるずる読まなくなったという本だ」

    わかります、わかります。そして

    「本は最後まで読むもんだ、と決めたのはだれだ? いや、待てよ、そんな決まり、あったっけ? (略)小さい頃、本ひとつ最後まできちんと読めないようでは、おまえ、なにもできませんよ、と母親あたりから注意でもされただけの話ではないのか」
    「本を最後まで読むということも、じつは、本をめぐるしつけのひとつにすぎないのかもしれない」

    ここの「母親」を「教師」「先生」に代えられるかもしれません、学校での読書の勧めの中で無意識に最後まで読むことを求めているかもしれません。

    私もなかなか途中で読むのをやめることができなかったのですが、ジャーナリストの立花隆さんが自分の読書歴、読書方法について語っているのを読んだとき、勇気づけられました。

    少し読みだして面白くない、役に立ちそうもないと思ったらすぐに読むのをやめていい、そんな本を読むのは時間のムダ、と明快に言い切っていました。
    あるテーマで取材をしようと決めた時、神田・神保町の書店でその分野に関する本をそれこそ棚ごとすべて購入してしまうという立花さんであり、資料としての本読みの側面が強いので、必ずしも私のようなただの本好きとはレベルが違うのですが。

    次々と読みたい本が現れてくるのに今読んでいる本がなかなか先に進まない、たぶん、今一つその本に入りきれないからだろうと頭では理解しているのですが、時々、この立花さんの叱咤を思い出しています。何しろ、限られた人生の中で読書に費やせる時間は限られていますからね。

    最後に青山さんの本から本棚の話し。本好きは本棚の話も好きです、たぶん。

    「本棚の本が一望のうちにながめられるうちはいい。本棚の本は、とくに本好きの本棚の本となると、かぎりなくふえていく。本は増殖する、と本好きはみな本気で信じている。勝手にふえていく、と思っているふしもある」

    もちろん生物ではないので本は増殖しません。気持ちはわかります、自己弁護として。

    そして、本棚に収めきれなくなると床に本を積み始める。そうなると、どこにどんな本があるかわからなくなるので、だいたいの地図を書いておく、という翻訳家の話を紹介した後で

    「ぼくの場合、地図はない。ぼんやりとした記憶と勘だけが頼りだ。本棚の奥深くから、とんでもない本が顔をだして、わお、と大喜びすることもある。じぶんの本棚は、そう、発掘の喜びをもたらしてくれる遺跡のようなものでもある」

    うーん、私はここまでには至っていないはず・・・

  • 2024.03.01

    リズムを崩さない? ーー読書法②

    本を読んでいて気になったところのページの隅っこを折ること、折った状態(形)を英語で「犬の耳」ということを紹介しました。私自身も読書のたびに「犬の耳」をせっせと“作って”いるわけけですが、いつごろからそうしているのか。さすがにはっきりとした記憶はありませんが、「なるほど、これもありか」と「犬の耳」の後押しになった1冊を書棚から探し出しました。

    『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』(福田和也、PHP研究所、2001年)

    文芸評論などで数多くの著作がある福田さん(慶応大学教授)ですが、この本では、資料としての本をどう探しどう読むか、効果的な情報整理方法、さらには文章術まで、まあ、ノウハウ本です。

    「私は本を読むと、不細工かもしれませんが、メモを取ろうと思ったところ、あるいは引用しようと思ったところのページの上部を折っていきます。折るだけで、メモは取らない。そして、読了すると、今度は折ったところだけを、もう一度読み直す」
    「それで、もう一度読んで大事だと思ったところは、今度は下のところで折っていくのです」

    福田さんはこの後に、読み終わったら読み返し、必要ならメモをとると書いています。ではなぜまず「折る」のか。

    「読みながら、メモを取る人がいますが、私はあまり勧めません」
    「メモを取りながらだと、読む速度が落ちます」
    「読むことと、書くことは、どうしても生理的なシステムが違うので、読むことを中断して書いていると、集中力が途絶えてしまう」

    線を引いたり付箋を貼ったりすることとメモをとることとはかなり作業内容は異なりますが、やはり「読む」がいったん止まる、読むリズムが崩れる、と言えるでしょう。もちろん、ページを折る作業もいったんは読むことを止めるのですが、鉛筆やマーカーを手にとったり、付箋を取り出したりといった作業よりは読むリズムにあっているでしょう。ページをめくるようなものですから。

    それならば、読み方、書き方のノウハウ本としての元祖というかロングセラーにはどう書いてあるのかと気になり、探し出しました。

    『知的生産の技術』(梅棹忠夫、岩波新書、1969年初版・1980年第31刷)

    大阪にある国立民族学博物館の開設に尽力し初代館長でもあった筆者の代表作の一つで、ノウハウ本などとくくってしまうと叱られそうなくらい、岩波新書の中でも超ロングセラーとして読まれ続けてきました。もう本はすっかり黄ばんでいます。

    「本は、一気によんだほうがいい」
    「むかしからいわれている読書技術のひとつに、ノートをとれ、ということがある。(略)しかし、わたしはそういうやりかたには賛成できない。(略)いちいちそんなことをしていたら、よむほうがなかなかすすまない」

    うんうん、そうですよね。ところが、です。

    「もっとも、よんでいるうちに、ここはたいせつなところだとか、かきぬいておきたいなどとおもう個所にゆきあうことがすくなくない。そういうときには、これもむかしからいわれていることのひとつだが、その個所に、心おぼえの傍線をひくほうがよい」
    「線のほかに、欄外にちょっとしたメモや、見だし、感想などをかきいれるのもいいだろう」

    そして、読み終わった後に、「知的生産の技術」としての読書、読書を何かの役にたてようというつもりなら、読書ノートをつくるべきだと自説を展開します。

    結局は読む人が一番なじむ方法、というありきたりの結論になってしまいそうです。ただ、本を読むのが好きな人はだいたいこういった本の読み方論みたいな話も好きだと思うのですが、いかがでしょうか。

  • 2024.02.29

    犬の耳 ーー 読書法①

    本を読んでいて、気になるところのページの隅っこを折るのを dog-ear(犬の耳)と言うのだそうです。私自身も同じようにするので、外国でもこのような習慣があると知って驚きでした。なんで犬の耳かって? 想像してみてください。ページの隅っこを折ると、ページ全体と折ったところを合わせてその形が犬の耳のように見えるからだそう、なるほど。

    『本は眺めたり触ったりが楽しい』(青山南、ちくま文庫、2024年)

    この本で教わりました。翻訳家、エッセイストとして知られる青山さん、新聞の書籍広告でタイトルに魅かれて購入しました。もともとは1997年に単行本で刊行されこのほど文庫化されたとのこと。読書や本にまつわるエッセイをまとめたものです。

    「犬の耳」についてはこのように書かれています。

    「小説家の佐藤正午が、小説を読んでいて気に入った一行や気にかかる文句にであうとページの隅っこをつい折ってしまう、と書いていた。(略)じつは、ぼくにもその癖がある」

    「ページの隅っこを折るのを、英語ではたしか、「犬の耳」といったなあ、とおもいだして、あらためて辞書をひいてみた。あったあった、dog-earあるいは dog’s-ear。名詞としてだけではなく、動詞としてもつかわれるようだ。そして、dog-eared とか dog’s-earedというかたちで、形容詞にもなる。こんなことばもできているくらいなのだから、ページの隅っこを折るのは、まあ、わりあい世界中でみんながやっていることなんだろう」

    英語にあったはず、と思い出すところがさすがに翻訳家ということですね。ただ、読者が意図的に折ったかどうかではなく、自然に折れてしまった状態も含めているようです。

    こちらは共感する人も多いのでは。

    「受験勉強のときには参考書に赤鉛筆でたくさん線を引いた。これは覚えなくては、これも覚えなくては、とつぎつぎ線を引いていくうちにページはまっかっかになり、ほんとうに覚えなくてはいけないものはどれなのかがわからなくなってしまった」

    あるある、ですよね。今どきは赤鉛筆より蛍光ペンでしょうが。青山さんは続けます。

    「参考書にはこんなふうにどんどん線を引いていたぼくだが、しかし、参考書でない本には線を引くということがなかなかできなかった」

    として、自分でその理由を考察しています。

    本を読んでいて気になるところに線を引く、あるいは付箋を貼るといったことは、私自身日常のことではあります。とはいうものの、資料的に本を読む場合で、小説などではまずそのような作業はしません。

    /折って、折って、折ってます。本が「厚く」なってしまうのが欠点?
    /付箋も使っています。資料として必要なところだけ読む本です。付箋そのものがヨレヨレになりがちなのが欠点?
  • 2024.02.27

    続・屋根と庇(ひさし) 東野高校建築論 ⑤

    隈研吾さんの著書に触発され、本校の教室などの建物の屋根のでっぱりや庇のことを考えていたら、そういえば、ここではどう書かれているのだろうと気になった著作を思い出しました。

    『陰翳礼賛』(谷崎潤一郎、角川ソフィア文庫、2014年初版、2023年19版)

    表題作の『陰翳礼賛(いんえいらいさん)』などの短編が収められています。谷崎が『陰翳礼賛』を書いたのは1933年、その後文庫も含めていくつかの本が出ていますが、井上章一さんが解説を書いているということで角川ソフィア文庫版を選びました。

    裏表紙の解説にはこうあります。

    「日本に西洋文明の波が押し寄せる中、谷崎は陰翳によって生かされる美しさこそ「日本の美」であると説いた。建築を学ぶ者のバイブルとして世界中で読み継がれる表題作(陰翳礼賛のこと)」

    建築を学ぶ者のバイブルかどうかはともかく、日本の伝統的な建築や京都の町家などを語る時によく引用される作品であることはまちがいありません。

    「私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内されるごとに、つくづく日本建築の有り難みを感じる」

    こんな一節があります。谷崎は快適な厠=トイレの条件として「ある程度の薄暗さ」をあげるのです。この厠トイレはほんの一例ですが、谷崎はこの小編で、西洋の建築と比較して日本の伝統的な建築では意図的に「陰翳(旧漢字)=陰影」つまり影が作り出され、その影、薄暗さの中で日本の美意識が形作られていった、こんな見方を披露しています。

    こんなくだりもあります。

    「私は建築のことについては全く門外漢であるが、西洋の寺院のゴシック建築というものは屋根が高く高く尖って、その先が天に沖(ちゅう)せんとしているところに美観が存するのだという。これに反して、われわれの国の伽藍では建物の上にまず大きな甍を伏せて、その庇が作り出す深い広い陰の中へ全体の構図を取り込んでしまう」

    「寺院のみならず、宮殿でも、庶民の住宅でも、外から見て最も眼立つものは、ある場合には瓦葺き、ある場合には茅葺きの大きな屋根と、その庇の下にただよう濃い闇である」

    「日本の屋根を傘とすれば、西洋のそれは帽子でしかない」

    「横なぐりの風雨を防ぐためには庇を深くする必要があったであろうし、日本人とて暗い部屋よりは明るい部屋を便利としたに違いないが、是非なくああなったのであろう」

    「が、美というものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った」

    谷崎は、日本だって明るい部屋の方がいいのだが、特徴ある気候への対処として庇を深くした、その結果、陰翳が生まれてそこに美を発見した、としているので、隈さんの解説と直接結びつくわけではありませんが、建築の特徴が外形的なものにとどまらず、文化にも影響を及ぼすというところが、建築を学ぶ人たちをひきつけたのでしょう。

    もちろん学校の教室に、谷崎がいうところの日本の伝統的な陰翳を求める理由はなく(むしろ明るい方が勉強にはふさわしいでしょう)、本校の建物のひとつ一つの設計で「陰翳」が意識されたことはおそらくはなかったでしょう。でも、そんなことまで考えさせられる奥の深い魅力あるキャンパス、建物群だということを知っていただけたら。

    こんな見方もあるのだということが今後、校内を巡る際の参考になれば嬉しいです。

    /本校では2021年、「雨の日に不便」という生徒の要望に応えて教室などの入り口に庇を新設しました
    /それまでの教室入口。扉は木製でした
    /
    /

    寺院でも宮殿でも最も目立つのが大きな屋根、と谷崎。京都・知恩院の三門(写真左)、京都御所(右)

  • 2024.02.26

    屋根と庇(ひさし) 東野高校建築論 ④

    建築の専門家、五十嵐太郎さん(東北大学教授)に本校を評していただいた話題(「東野高校建築論」①~③)を書いてきましたが、その前に法隆寺と聖徳太子のところでとりあげた隈研吾さんの著書に、本校の建築に関連して「これだ」というところがあったことを思い出したので、「東野高校建築論」の付けたしをします。

    『日本の建築』(隈研吾、岩波新書、2023年)

    「西欧において屋根は壁面や柱から、外側に飛び出さない。古代ギリシャ以来、ヨーロッパ建築の本流を形成してきた正統的な古典主義建築(クラシシズム)においてだけではなく、民家においても庇は壁から外に飛び出すことは少ない。飛び出すことは構造的にも経済的にも不利であり、東アジアに比べて雨が圧倒的に少ない西欧のドライな気候においては、柱や壁を雨から守る必要がなかった。西欧では結果として、壁の二次元的な構成とプロポーションの追究が進化していった。一方雨が多く、夏の日差しが強い東アジアでは、屋根も庇も飛び出して、柱、壁、開口部を守らなければならない」

    本校の教室などほとんど建物には日本の家屋のような瓦屋根がのっています。それなのに、屋根は壁からほとんど飛び出しておらず、また庇もありません。正直、雨や雪の時などに不便に感じるのがしばしばでした。このくだりをよんで、なるほどと合点がいったのです。

    本校を設計したクリストファー・アレグザンダーはヨーロッパやアメリカで学びカリフォルニアの大学で教えていた方です。なるほど、特にカリフォルニアは雨が少ないことがよく知られているので、アレグザンダーには屋根や庇がピントこなかったのか、などとかねてから思ってはいたのですが、隈さんが指摘するように、屋根は外に飛び出さないなどが欧米の建築の一貫した特徴ならば、斬新なデザインをしたアレグザンダーでも、そこから抜け出すことはなかった、というのは言いすぎでしょうか。

    実はこの屋根や庇について隈さんが書かれているところに、思わぬ人物の名前が出てきて驚きました。フランク・ロイド・ライト(1867~1959)です。隈さんの紹介を引用します。

    「二〇世紀のモダニズム建築の巨匠の一人に称せられた、超大物である。二〇世紀のアメリカを代表する建築家であり、帝国ホテルの二代目本館(一九二三)の設計者として、日本にも大きな足跡を残した」

    1893年のシカゴ万博の日本館がライトの作品に大きな影響を与えたそうで

    「庇が大きく飛び出し、重たい壁ではなく軽やかな木製建具によって内外をつなげたユニークな建築は、庇の出のない、内外が切断された箱のような建物しか見たことがなかった二十代後半のライトに大きなショックを与えた。その後突然、ライトの建築に深い庇がつき始め、開口部が大きくなっていった。すなわち日本風になっていったのである」

    「若きライトは日本の庇に出会って、庇にめざめた。庇の下のめいっぱい大きな開口部を追究し始めたのである。(略)建築の歴史における大きな転換が、ライトから始まった」


    ライトによる帝国ホテル(二代目本館)は1976年、正面ロビー部分が博物館明治村(愛知県犬山市)に移築されました(写真)。ただ隈さんは「ライトは日本から建築を学んだということを語りたがらなかった」「帝国ホテルでも、ライトは意識的にその日本性を隠蔽した。(略)日本人にとって帝国ホテルは「異国」のものとしか見えなかった」と書いています。
    博物館明治村の公式ウエブサイトはこちらから

    明治村はさすがにちょっと遠い、でもすぐ近くでフランク・ロイド・ライト設計の建物を見ることができます。都内・池袋にある「自由学園明日館(みょうにちかん)」です。
    こちらを

  • 2024.02.21

    ポストモダンでキッチュ 東野高校建築論 ③

    さて、五十嵐太郎さん(東北大学教授)が本校見学で来校、校舎建築などを評する際にポストモダンとあわせて使った用語「キッチュ」です。ドイツ語ですが国語辞典でも採録されています。

    「俗悪な<まがいもの/ようす>。俗悪なものをうまく生かした芸術やファッション。また、そのようす」(『三省堂国語辞典 第7版』)

    ①俗悪なこと。悪趣味。
    ②本来の目的からはなれた使い方(・とりあわせ)をすること。
    ③一般常識を疑ったり反体制的なスタイルであったりで、かっこいいこと。
    (『現代新国語辞典 第六版』(三省堂、2019年)

    少し詳しい説明はこちら

    ①まがいもの。悪趣味で俗悪なもの
    ②(①から転じて)悪趣味で俗悪になりそうなところを逆に、個性や魅力として感じさせる。また、そのもの。
    <語の発祥>①が本来の意味。ブルジョア黄金時代のミュンヘンで、百貨店で売られるような悪趣味な工芸品を指すことばとして用いられた。②は、大衆文化の発達とともに、美と醜の二極におさまらない、人間と物との関係を指す概念に変化した意味。大衆が消費社会の中で、他人との小さな差異を求めて行動する生活態度と結びついている。(『表現読解 国語辞典』ベネッセ、2018年初版第16刷)

    もともとは批判的な意味だったものがいい評価にも使われるようになった言葉のようです。建築史家の井上章一さんは本校開校直後に見学して評した文章のなかでこんなふうにも書いています。

    「日本人の目で見れば、ほんらいの倉の腰をいろどるべきなまこ壁が上部にあしらわれているところなど、ちょっとあきれてしまう。池にかかる橋なども、どうかと思わざるをえない。悪口ついでにあえて言ってしまえば、フジヤマ・ゲイシャ風を好む外人の日本趣味が感じられる。擬和風建築といったところだろうか」

    「建築家たちのプロ意識からすれば、この学園はゲテモノであろう」

    「ゲテモノ」は手厳しいですが、五十嵐さんが使った「キッチュ」もこういう意味合いなのか。

    実は、東北大学の方が見学を希望されているというオファーに五十嵐さんの名前が入っていて、聞き覚えがあったので調べました。『新宗教と巨大建築 増補新版』(青土社、2022年)の筆者で同年にこの本は読んでいました。どころか書棚探っていたら『新宗教と巨大建築』(講談社現代新書、2001年)もあって、こちらは読んだ日付は書きこまれてなかったのですが、あちこちにマーカーがひかれていました。五十嵐さんご自身の解説によると、新宗教と建築に関する研究は博士論文からの取り組みで、2022年の増補新版が3度目の書籍化なのだそうです。

    この本の内容は、あまり類似の研究がないこともあって大変興味深いのですが、さすがに学校建築や今回のテーマに直接参考になるところはありませんでした。それでもページをめくっていくと、こんな記述がありました。

    「ル・コルビュジエの作品はすぐれているというようなデザインの視点だけから見れば、天理教や大本教にしても、正統な建築史には入らないだろう。基本的にはキッチュなもの、大衆的な俗悪なデザインと考えられており、ネガティブな評価になる」

    「ポストモダンの建築論では、商業施設こそが、人と建築の新しいコミュニケーションの可能性を切り開くという反転を提示したが、今でもキッチュなものは、一段低く見られる。しかし、逆にゴシックもキッチュだったのではないのかという切り返しも可能だ」

    宗教施設の建築についての五十嵐さんの評価には立ち入りませんが、五十嵐さんのここでの「キッチュ」という言葉の使い方です。「俗悪」という言い換えもされており、辞書がまずあげる否定的なニュアンスではあります。一方で後段のゴシックもキッチュだったというあたりに、キッチュを全否定しているわけではなさそうにも読んだのですが、いかがでしょう。五十嵐さんは本校建築についてこう書いてくれていることですし、都合のいい解釈でしょうか。

    完成時はポストモダン・キッチュとみなされたが、40年が経ち、いつの建築かわからなくなったタイムレスな魅力を獲得

  • 2024.02.20

    ポストモダンでキッチュ 東野高校建築論 ②

    「完成時はポストモダン・キッチュとみなされた」と五十嵐太郎さん(東北大学教授)に評された本校ですが、「モダン」の後にくるのが「ポストモダン」。『建築思想図鑑』(学芸出版社、2023年第1版第3刷)には「ポスト・モダニズム」という項目がたてられています。

    「モダニズムを乗り越えるため、「小さな物語」を志向した運動の総称」
    「モダニズムを乗り越える新しい建築をつくるため、古典様式の引用や折衷、過度な装飾などが用いられた、20世紀後半の建築に見られる傾向」

    もちろん、本校の設計にあたったクリストファー・アレグザンダー自身が「このデザインはポストモダンだ」と言ったわけではなく、他の建築家や研究者らがその特徴をとらえてポストモダンの建築と評価したわけです、
    例えば、このブログで昨年の創立記念日(7月3日)にあわせて「本校はどう表現されてきたか」を書きました。そこで紹介した本の中にこれがありました。

    『ポストモダン建築巡礼』(磯達雄・文、宮沢洋・イラスト、日経アーキテクチュア編、2011年)

    この「巡礼=訪問」先に東野高校が選ばれたということは、すなわち本校が「ポストモダン建築」と見られているということでしょう。こんなくだりがありました。

    「小高い丘の上に位置するここ(旧食堂棟)からは、キャンパス全体が見渡せる。普通の学校なら、屏風のような校舎が視界を遮っているところだが、ここでは小さな家が立ち並ぶ集落のような光景が広がっている」

    五十嵐さんが言う「群としての建築の配置構成が絶妙。地形とも絡み、身体で楽しめる空間」とも重なります。

    これとは別に建築史家、国際日本文化研究センター所長の井上章一さんの 論考「しろうととしろうととの出会い」(「SPACE  MODULATOR  NO.68」(日本板硝子、1986年)収録)も紹介しました。井上さんは開校直後に本校を見学しています。

    「(東野高校の)建物の意匠は、歴史のなかで我々の脳裏にやきつけられているさまざまな形をくみあわせてつくられている。江戸の倉、なまこ壁、屋敷塀と門、いかにも田舎風の反り橋、イタリアの中世都市、教会、列柱のアーケード、等々である」

    井上さんは論考のなかでモダンとかポストモダンとかの用語は使っていないのですが、どうでしょう、先の『建築思想図鑑』の「ポスト・モダニズム」の説明、「古典様式の引用や折衷、過度な装飾などが用いられた、20世紀後半の建築に見られる傾向」の好例とも言えてしまいそうです。


    東野高校キャンパスを空撮。「小さな家が立ち並ぶ集落のような光景が広がっている」「群としての建築の配置構成が絶妙」と評されたのですが、いかがでしょう。

    「地形とも絡み、身体で楽しめる空間」と五十嵐さん、この光景でしょうか。「なまこ壁、反り橋、列柱のアーケード」と井上さん。